大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

朝鮮総督府庁舎(結局ズレて建ってしまった朝鮮総督府庁舎)


西欧列強を完膚なきまでに打ち負かす100年戦争の端緒とすべく建設された朝鮮総督府だったが…

景福宮の破壊と、朝鮮総督府の建設

大韓帝国の政府組織を韓国統監府に取り込み、改組・統合したため、韓国統監府は巨大な組織に膨れ上がりました。そこで、韓国統監府を改組し、朝鮮総督府としました。

基本的に、20世紀初頭の国家機関の名称は、だいたい、古代ローマ帝国の行政庁の名前に準じていました。

「統監府」という名称も、出所は古代ローマ帝国で、大韓帝国にあった統監府だったので、韓国統監府といいました。

大韓帝国大日本帝国保護国とするにあたって、古代ローマ帝国の行政庁と命名ルールの整合性をとるべく、大韓帝国大日本帝国の下位の組織に格下げする必要がありました。とはいえ、大韓帝国には大韓帝国のメンツがあるし、中国の清王朝から、いらぬ干渉を受けたくなかったので、むやみやたらな名前を使うわけにはいきませんでした。そこで、中国の冊封国であった時点の『朝鮮』に戻すことにしました。そして、統監府から、古代ローマ帝国における植民地の統治を行なう最高の権能を有する行政庁である総督府と名称を変更し、朝鮮総督府としまし た。

明治時代の日本がなぜ、古代ローマ帝国にこだわったのかというと、植民地を古代ローマ風にしたかったということにつきます。

19世紀の欧米の植民地は単なる収奪の対象にすぎませんが、古代ローマの植民地とは、そこに行けば、ローマと変わらない文明的な生活ができる場所でした。大日本帝国が、本来目指していたのは、朝鮮は収奪の対象ではなく、日本と変わらぬ文明的な生活ができることでした。

結論からいうと、宗主国たる大日本帝国自体が、古代ローマ帝国と比べると、話しにならないほど、社会的に成熟していない幼稚な新興国にすぎず、自国民である日本人に対しても平気で収奪や圧政を行なう国だったので、朝鮮統治も低レベルに終始しました。

この時代、朝鮮最大の問題は、いかにして産業を振興し、経済を活性化し、国を富ませるかということに尽きました。
これができなければ、ロシアからの借金返済はできません。

まず、手始めに、1915年、景福宮で朝鮮植民地化5周年を記念した朝鮮物産共進会(朝鮮内国博覧会)を開催し、一般民衆に景福宮を公開した後、その景福宮を近代化改修するという建前の下、朝鮮総督府を建設しました。

 

朝鮮総督府は、西欧列強を完膚なきまでに打ち負かす100年戦争の端緒とすべく、立派なものとする方針

朝鮮総督府庁舎は、1910年の韓国併合後、南山の北麓に建てた統監府庁舎を朝鮮総督府庁舎として使っていましたが、庁舎が手狭になったことに加え、植民地支配者としての優位性を誇示する建物がほしいという陸軍の意向もあり、景福宮勤政殿の前面に立派な新庁舎を建てることにした。

無論、大蔵省が首を縦に振るはずもない大盤振る舞いでした。ただ、天下無敵の現在の財務省(大蔵省)と異なり、戦前は、軍より立場は弱く、『天皇統帥権干犯の疑い、此れ、あり』と恫喝されれば、大蔵省は、屈服するしかない弱い立場でした。

そんなわけで、ぺんぺん草の生える荒涼とした朝鮮の首都に、贅を尽くした巨大な建築物を建設することとなりました。

ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデに設計を依頼しますが、1914年にデ・ラランデは神戸で急死したため、実際の設計や建設には関与できず、伊東一郎、国枝博などが後を引き継ぎます。


起工するも、第一次世界大戦が勃発し、庁舎建設どころのさわぎではなくなる

庁舎建設は1916年(大正5年)6月に始まりました。ところが、悪いタイミングで第一次世界大戦が勃発し、庁舎建設どころのさわぎではなくなります。

西欧諸国の日本差別を撤廃させることが最重要課題であった日本は、是が否でも、これにいち早く参加し、どさくさに紛れて西欧列強の一角を占める必要に迫られました。

こうなると、同じ陸軍内でも予算獲得競争が起こるので、迅速な施工が要求されてきます。

 

朝鮮王朝末期の漢城の地図。当時、朝鮮の技術的稚拙さにより、このような地図しかなかったと言われ、朝鮮人の大部分もそう思っていたが、これは朝鮮人民に紛れた間諜を欺くための謀略であった。ごく一部の人間のみ、この地図に仕込まれた虚偽の情報を知っていた。大日本帝国陸軍朝鮮総督府を建設するにあたって、参考になる地図はこれしかなかったから、測量からやり直さざるをえなかった。

 

起工しようにも京城の地図がデタラメ

朝鮮総督府庁舎の建設予定地は、景福宮の光化門付近と決定され、建物を建てる前に測量をはじめました。

ところで、いざ、庁舎を建設しようと測量をはじめてみると、漢城(現在のソウル)の地図がおかしい。
東西南北、ぴしっとまっすぐに整備されているように地図では描かれている漢城なのに、実測してみると、あちこち微妙に歪んでいる。
そういえば、漢城中に散在する宮廷施設の向きが地図では東西南北、ぴしっとまっすぐに整備されているように描かれているのに、実測してみると、これが見事に全部バラバラ。
景福宮まわりが一番厄介で、測量の基点をどこに定めたらいいかわからない有様。

乞食があふれかえる、ぺんぺん草の生える荒涼とした朝鮮の首都のド真中で、測量の基点が割り出せないとは、笑止千万にも程がある事態だったのでありました。

ほとほと困った日本陸軍は、、ソウルを取り囲む山という山の頂上に鉄の測量杭を打ち込んで測量するという、力業で対処しようとしました。

でも、失敗したわけです。
なぜなら、景福宮の基点は、景福宮からは見えない北漢山の白雲台だったからです。

何のために鉄抗を打っているのか、まさか、総督府を建てる場所と向きがわからなくて困っているとは思ってもみなかった一般の朝鮮人は、高句麗人ならだれでもよく知っている儀式、呪いの儀式のために鉄杭を打ったのだと理解し、鉄の測量杭のことを、「呪いの鉄杭」と言って嫌悪したのでした。

ま、設置した陸軍としては、別の意味で「呪いの鉄杭」だったので、この朝鮮人の考察は、当たらずとも遠からずでした。

 

大日本帝国が測量して作成した京城の地図。一見正確そうに見えるが、土木建設用の地図としては用をなさないほど間違っている。作成チームの一部は、この都市が微妙に歪んでいることに気づいたようであったが、測量誤差と結論づけた人が多かったようで、この当時のほとんどの地図には、街の微妙な歪みが反映されていない。ちなみに、鉄道は、地図もなしに、必要最低限の測量だけで作ったようで、出た所勝負、やっつけ仕事の所産であった。この当時の土木技術者の大胆さには驚かされる。

 

景福宮が歪んで建設されているなんて考えてもみなかった日本陸軍

景福宮は、土地区画も建物もまっすぐバランスよく調和しているので、当然、漢城の街と垂直平行がきちんと出ていると錯覚するわけですが、実際は、あえて、中途半端に、斜めに、いびつに歪んだ形に建設されています。

景福宮の中心にある勤政殿
周囲の街路どころか、景福宮全体に対しても、中途半端に、斜めに、いびつに歪んだ形に建っています。

景福宮正面の光化門前大通り(日帝時代は「大平通り」現在の「世宗大通り」)から景福宮は見通せないようになっているのですが、これも、景福宮のすべての建物が、バラバラに中途半端に斜めに建設されていることをわからなくする仕掛けだったのです。

朝鮮王朝初代王太祖が首都漢城景福宮を建設した際、微妙に歪ませたうえ、実際の地形と微妙に異なる地図を流布させ、後々自分を追い落として政権を奪取するであろう李芳遠(朝鮮王朝第3代王太宗)を困らせるようにしていたのです。
もっとも、李芳遠はこのことをよく理解しており、生涯景福宮には手をつけませんでした。
自分のよいように離宮を造営し、セレモニーが必要な時以外は、離宮に住み、景福宮には近づかなかったのでした。

しかも、念の入ったことに、首都漢城の地図は、だいたいは合っているけれど、ほとんどデタラメに描かれ、風水上の仕掛けを隠蔽しているという具合で、20世紀初頭ともなると、王族でも、そのようなことを知らない人多数という惨状でした。

というわけで、景福宮が微妙に歪んで建っているなんて、大日本帝国陸軍関係者の誰も知りませんでした。

 

どの向きに朝鮮総督府庁舎を建てるかで大揉めに揉める

ただ、朝鮮総督府庁舎の基礎工事に必要な測量をすれば、さすがに、そのズレには気づくのですが、そのズレが測量ミスなのか、計算ミスなのかがはっきりしない。

景福宮が結構デタラメに建っていることまではわかるのだけど、それは、単に朝鮮の建築技術水準が低いからと考えられていたため、まさか、景福宮全体が精緻かつ微妙に歪んで建っているなんて、想像もできなわけです。

その結果、どの向きに朝鮮総督府庁舎を建てるかで大揉めに揉めることになります。

景福宮と、この前面の光化門前の大通りとの関係を正確な実測図に作つてみたところが、まっすぐになっていると思ったが、実はずれており、しかも、光化門前の大通りの中心と、光化門の中心がわずかにずれており、さらに、光化門の中心線と角度が、景福宮の中心にある勤政殿の中心と角度とも微妙にずれていました。
さらに、光化門前の大通りと直角に交わっているはずの直線の道も、測量してみると、弓なりに曲がっていました。

基本的に平屋の景福宮と違って、高層建築である朝鮮総督府庁舎は遠くから見通せますから、わずかでも中心線がズレていたり、横を向いたりしているようではお行儀が悪い。

ならば、光化門前の大通りの正面に朝鮮総督府庁舎を置くと、光化門はズレて曲がって建っているし、勤政殿はとんでもないずれた位置にあるし、角度も派手に違っているから、お行儀が悪い。

 

結局ズレて建ってしまった朝鮮総督府庁舎。
本来、正面の太平通りの中央の真正面に朝鮮総督府庁舎の正面玄関が位置しなければならなかったが、正面玄関は太平通りの右端に寄ってしまった。
なぜそうなったかというと、勤政門の中心と朝鮮総督府庁舎の中心軸を合わせる必要があったが、そもそも景福宮の軸が太平通りの軸と3.5度ズレているため、つじつまが合わなくなったのである。
朝鮮総督府庁舎完成後、ドームから眺めて、景福宮の軸が地上からは見えなかった北漢山の白雲台を向いていることに気がついて、アーッと叫んでも、後の祭りだった。

 

天皇直轄だった陸軍の直営施行だったから混乱に拍車がかかる

これだけでも、大蔵省管轄の公共工事であったら、大蔵省の厳しい完成検査は絶対に通りません。
陸軍の直営工事だったからこれでも通ったようなものですが、少なくとも、大蔵省からは、「お前らはまともに建物を建てられないのか、なにが統帥権の干犯だ」と散々嫌味を言われるのは避けられません。

陸軍省は、大蔵省の上に鎮座する天皇直轄の役所ですから、大蔵省の厳しい完成検査を拒否することは可能ですが、かといって、形だけでも大蔵省の完成検査を受けないと、そのことが天皇に報告が上がります。

この頃は、大正天皇の健康状態が悪く、報告は摂政の宮(昭和天皇)が受け取ることになります。
ちなみに、乃木将軍から直々に軍人教育を受けた摂政の宮(昭和天皇)は、大正天皇とは違って、軍人とはどうあるべきか、厳しく躾けられていましたから、なにかと官僚的であり、腐敗の目立つこの時代の陸軍に対し、不信感を持っていました。
それゆえ、大蔵省の完成検査を拒否したなどという報告があろうものなら、『何か、大蔵省の完成検査を受けられない理由でもあるのか、答えよ』と言われるに決まっていますし、『実は、庁舎が歪んで建ってしまいました』などと答えれば、ただでさえ、陸軍に懐疑的な摂政の宮(昭和天皇)が、何を言い出すかわかりません。

ちなみに、天皇臨席で行われる御前会議は、『一事不再理』。
一度否決されたら、再審はありません。
すべて滞りなく、天皇から質問されることなく裁可される必要があったのです。
絶望的な状況とはこのことを言います。

 

工期短縮を図るも、工期は延びに延びて、予算オーバー

第一次世界大戦勃発の煽りを受けて、陸軍は、なるべくはやく完成させようとします。

大日本帝国陸軍も馬鹿ではないですから、激動の時代にあって、朝鮮総督府庁舎建設に10年もかける気はさらさらありませんでした。

資料に出てくる、「遅くとも大正13年には竣工したい」という話も、工期が延びに延びた末の話しだったわけです。

当初案では、全面花崗岩張りの白亜の殿堂であったのですが、工事の簡略化は避けられず、花崗岩張りは建物の外周だけにとどめ、花崗岩は、東大門外の昌信洞採石場より調達。建物が建設されていないうちから、時間のかかる外装材の加工を始めたのでした。

まだ基礎工事を始めていないうちから、市電を敷設し、荷物電車を走らせ、ピストン輸送を行います。

ちなみに、測量問題が解決しないうちから、外装に使う花崗岩を東大門外の昌信洞採石場から切り出すなど、大蔵省管轄の公共工事であったら絶対やってはいけません。
仮にやるとしたら、山ほど書類を書いて、恐ろしく厄介な模様替え申請を行い、大蔵省から許可をもらわなければならないところでした。

なぜ大蔵省の公共工事で、そういうなりふりかまわぬ突貫工事が許されないのかというと、誤差が積もり積もって、収拾がつかなくなるからです。それが許される韓国で、想像を絶するオカラ工事が横行し、建物が自然倒壊する事故が頻発した歴史をみればわかります。

朝鮮総督府庁舎で、なりふりかまわぬ突貫工事をやったのは、朝鮮人ならだれでも知っていることだったのですが、それで何とかなるという悪いお手本になってしまったため、その後の韓国、北朝鮮でオカラ工事が当たり前になるという恐しい結果を招いてしまいました。

当時の大蔵省の役人からすれば、『それみたことか』という大惨事です。

朝鮮総督府は、肝心の建物のクオリティーにまわすお金よりも、建設期間が延びたことで人件費がやたら膨張するという、建設業で絶対にやってはいけないパターンにはまってしまいました。

工期が延びた分、膨張した人件費を捻出するため、総督府庁舎の表から見えない部分のクオリティーを下げ、建設費抑制を図らざるをえませんでした。

さらに、大正天皇の健康状態が悪かったため、大正のうちに朝鮮総督府が完成させなければならないという状況に追い込まれ、なんとか、大正天皇崩御の2ヶ月前に滑り込みで竣工したというお粗末な結果でした。

大蔵省管轄の建築物であれば、最後に厳しい完成検査に合格しなければ、竣工が認められないのですが、朝鮮総督府庁舎は、大蔵省の厳しい完成検査を免れることのできる陸軍省管轄の建築物であったため、大正天皇崩御の2ヶ月前に滑り込みで竣工させることができたというお粗末さでした。

そして、朝鮮総督府庁舎は、大蔵省の厳しい完成検査だったら、絶対合格できないであろう不良施行を抱えた建築物になってしまったのでありました。

 

昌信洞採石場跡。
ここから産出された花崗岩は非常に良質で、朝鮮総督府庁舎だけではなく、京城駅(現存)、京城府庁舎(現存)、三越京城支店(現存)、第一銀行韓国総支店(現存)等にも使用された。
植民地時代は、初期が朝鮮総督府京城府、後期は京城府の管理だった。
第二次世界大戦後は米軍に接収され、軍政庁が管理したが、道路補修などに使う砕石を大量に必要としたため、ダイナマイト発破を行い、ド派手に採掘した。非常に良質な花崗岩を砂利にしてしまう米軍の荒っぽいやり方に、もったいないの声が挙がる一方、近隣住民は、爆音と粉じんに苦しめられた。
米軍が撤退した後は、ソウル市管理となり、再び良質な石材を産するようになった。1959年に設立された金剛採石土建に払い下げられ、採石が行われたが、1971年採石場跡地を分譲宅地として売り出した。その結果、崖の上下に住宅が密集する奇観が誕生したのだが、これはこれで防災の観点から問題となり、ソウル市が歴史公園化事業をすすめている。

 

あまりの大惨事に心労から寺内正毅心室肥大症を患ってしまう

この話は、当時、日本内地でも大いに話題となりまして、民芸運動家、民俗学者がこぞって、
「城郭にうかつに手を出すと、必ず痛い目に遭うからやめておけ」
漢城には、土地は腐るほど、どこにでもあるのだから、他の場所に壮大な建物を建てたらよい」
と言ったのでした。

伊藤博文にすらそう言われたのに、エビデンス(根拠)がないと一蹴し、あえて景福宮を潰してまで朝鮮総督府庁舎を建てようとした大日本帝国陸軍だったので、メンツ丸潰れ。

メンツ丸潰れとは、どういうことか、具体的に言うと、陸軍省は、天皇直轄の役所なので、報告が、摂政の宮(昭和天皇)に上がって、雷が落ちるということを意味します。

朝鮮総督府庁舎の不手際は、寺内正毅あたりの陸軍の偉い人も知っていることで、これが原因とは必ずしも言えないものの、心労から寺内正毅心室肥大症を患ってしまいます。

とりあえず、寺内正毅あたりが大蔵省に圧力をかけて、朝鮮総督府庁舎の不手際をもみ消すことは確定事項だったのですが、一応、形だけでも大蔵省の完成検査は受けなければなりません。

その際、内々にではありますが、寺内正毅あたりの陸軍の偉い人が、大蔵省から、待ってましたとばかりに、散々嫌味を言われるのは避けられません。
この期に及んで寺内正毅だって、陸軍に懐疑的な摂政の宮(昭和天皇)に呼び出されたくはない。

じゃあ、少なくとも予算オーバーで撤去できなかった光化門はどういたしましょうか?と陸軍上層部が言い出しっぺの寺内正毅に指示を仰いだというのが、間の抜けた話ですが、当然のことながら、不機嫌に無視されて終わりとなりました。

朝鮮総督府庁舎の工事があまり進んでいないうちに、寺内正毅は亡くなるのですが、これが原因で、撤去されるはずだった光化門はしばらく朝鮮総督府前にズレた位置で鎮座し続けることとなり、最終的にあまりにもみっともなかったので景福宮の東に移設され、朝鮮戦争で焼失するまで残ることになりました。

 

朝鮮総督府庁舎(李完用が知っていたこと、高宗が知らなかったこと)

李完用が知っていたこと、高宗が知らなかったこと

法の下に平等である人間とは、白人男性だけであるということ

19世紀において、フランス革命において採択された「人権宣言」は、国際法といっても差し支えないものでありました。

『すべて人間は、法の下に平等であつて、信条、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない』

ただし、ここでいう『すべて人間』とは、白人男性ONLY。
女性はもちろん、有色人種男性も、ここでいう人間ではありませんでした。

ですから、有色人種の権利主張など、とんでもない話だったのです。
もちろん、東アジアの黄色人種は人に非ずという人種差別は世界の常識でした。

 

有色人種は、人に非ず(日本人も、朝鮮人も猿にすぎぬという19世紀の社会常識)

李完用が、高宗の命を受け、外交官として、3年間アメリカ合衆国に赴任して、まず受けた洗礼は、東アジアの黄色人種には白人同様の人権がないという現実でした。

朝鮮という民族が一人前の国家を持つためには、この問題と直面しなければいけません。

一足先に国を開いた日本は、何歩も先を歩んでいたけれども、いまだ人種差別の壁を超えるには至っておらず、李完用は、その道の険しさを痛感したのでした。

逆に、朝鮮の王宮を出たことのない高宗は、このことを、終生知ることはありませんでした。

 

「有色人種の人権は、絶対に認めない」という白人に無理にでも認めさせるには、実力(戦争)しかなかった

有色人種の人権を白人に認めさせるには、暴力しか手段はありませんでした。
なぜなら、大多数の欧米人は、有色人種の人権は、絶対に認めないと言っていたからでした。

ただ、日露戦争で日本が勝利した...という予想外の番狂わせで、西欧列強は、日本の実力を認めざるを得なくなりました。
西欧列強にとって厄介なロシアという覇権主義国家を封じ込めるには、日本を一人前扱いすることで、ロシアを挟み撃ちにするのが利にかなっていたからです。
また、これは日本にとって、予想外の成功体験でした。
となれば、西欧列強を武力で屈服させれば、日本人をまともに人間扱いしてもらえるようになるということでした。

この頃の寺内の頭の中にあったのは、以前のような立身出世よりも、いかにして、日本を西欧列強を完膚なきまでに打ち負かす軍事大国化するかということでした。

 

『日本軍部の暴走』の真相は、有色人種の人権を白人に認めさせるための100年戦争の側面があった

なぜ、この時代の日本が戦争に向かって暴走していったのか。

答えは、日本人の人権を白人に認めさせるには、暴力しか手段がなかったからです。

第二次世界大戦で、なぜ、負けるとわかっていても、しゃにむにアメリカと刺し違えようとしたのか。

また、李完用親日派朝鮮人が、日本人の暴走を横で見ていながら、なぜ、それを是としたのか。

イタリア・ドイツよりはるかにこっぴどくボコボコにされたのにも関わらず、あの気違いといわれたヒットラーですら自殺したというのに、いつまでも降伏しようとはしなかったのか。

零戦のようなとんでもない天才的な最新兵器を作って、アメリカの真珠湾の軍艦を全滅させたことを、アメリカは忘れてはいません。

現在、『当時の日本人は馬鹿だったから、アメリカに勝てると思ってた』という話がまことしやかに語られていますが、これは日本の常識、アメリカの非常識。
アメリカはそのような話は信じていません。

実は日本との戦争に余裕で勝ったわけではないアメリカは、危うく日本に刺し違えられそうになり、原爆を投下して、辛くも国家存亡の危機を免れたに過ぎません。
アメリカは太平洋戦争で、莫大な軍事費を費やし、人的被害を被った挙句、ソ連の領土拡大を招いただけに終わりました。
言ってみれば、日本に勝ってソ連に負けた太平洋戦争の再発防止はアメリカの国家的命題であり、徹底的に考えなければなりませんでした。

なんてったって、戦艦大和を沈めるための作戦にかかった費用は、現在の貨幣価値に換算して20億円にものぼるというのですから。
じゃあ、もっと規模の大きな硫黄島作戦にかかった費用は・・・沖縄戦にかかった費用は・・・なんて考えていったら恐ろしいことになります。

もし、日本が本土決戦に持ち込んだら、いくらアメリカといえども、武器弾薬が尽きる前に、お金が尽きて、国家存亡の危機となることは避けられなかったのです。

最終的に、

あらゆる『差別』が日本から徹底的に根絶されない限り、日本は、再びアメリカを攻撃することになるだろう

これがアメリカの結論でした。

 

日本国憲法14条「法の下の平等」規定は、二度と日米開戦に至らないため、アメリカが日本に課した強力な仕掛けだった

第二次世界対戦後の日本国憲法で、一切の差別が厳格に禁止されたのは、アメリカが、二度と日本に戦争を起こす大義名分を与えないための仕掛けでした。

日本国憲法14条の「法の下の平等」規定は、人種差別、女性差別を禁止するにとどまりません。
外国人、障害者、高齢者、アメリカの一部州を含むキリスト教国ではその存在自体が死刑の対象となりうる性的少数者ですら、すべて、健康な日本人男性同様の生活を送る権利を有するといった具合に、制定された1946年当時の常識からすれば、異常かつ非常識なまでに厳格な規程でした。
事実、21世紀になっても、社会制度の不備により、日本国憲法14条は守られているとは言い難いほどです。

しかし、この憲法14条は、憲法9条の軍隊保有禁止規定よりも、アメリカにとって、はるかに重要な規定だったのです。

日本をソ連からの侵略の強固な防波堤とするためには、アメリカには、日本から人種・性別等に関わる差別を、永久に、徹底的に根絶する必要があったのでした。また、江戸時代から日本に残る封建的な社会構造も徹底的に破壊したのでした。

実は、こんなところにも、ロシアの東アジア侵略政策が関わってきているのでした。

 

寺内正毅の手掛けた事業のほとんどが大日本帝国陸軍に関するものであったため、現存するものはほとんどない。
しかし、その例外中の例外にして、最高傑作が、昌徳宮の復元である。
これが最高傑作という理由は、韓国の文化財復元のお手本になっているからである。日本人による復元であるにもかかわらず、誰がどこからどう見ても、日本臭さが一切ない。
寺内は、日本的なものが昌徳宮に入ることを一切許さず、完璧な朝鮮様式の復元に、釘の1本、屋根瓦の1つに至まで徹底的に、水も漏らさぬ完璧さでこだわったのである。特に、朝鮮に残る伝統技術の使用を絶対とし、日本からの技術移入は一切認めなかった。
その寺内をして、この昌徳宮の完成度について、不満があったという。焼失しなかった仁政殿で使われている青瓦を使いたかったが、製法が失われており、復元家屋の瓦の色が青くできなかったのが誠に残念とのことであった。
無論、日本の技術で青い瓦を焼くことは可能だったが、寺内は、仁政殿で使われている青瓦の製法が朝鮮に残っていない以上、日本製の青い瓦を使うことを許さなかったのである。昌徳宮が韓国最高の文化財と評される所以である。これでやめときゃよかったのに、朝鮮総督府庁舎建設なんてことにこだわるもんだから、『愚将寺内』という評価が決定的となってしまうのである。

 

朝鮮総督府庁舎 (朝鮮王朝瓦解の真相と、後を引き継いだ朝鮮総督府の困難を極めた主要3事業)

 

朝鮮瓦解の黒幕ロシア・・・日本と韓国だけを見ていたら、朝鮮瓦解の真相はわからない

韓国併合条約が朝鮮総督府を生んだ

1910年(明治43年)8月22日に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で韓国統監府寺内正毅統監と大韓帝国李完用首相により調印され、同月29日に裁可公布により発効されました。

そして、朝鮮総督府は、1910年(明治43年)の韓国併合によって大日本帝国領となった朝鮮を統治するため、韓国統監府と、大韓帝国の行政府を合体させ、同年8月29日に設置された官庁です。

細かいことになりますが、朝鮮総督府は8月29日に発足したものの、本格的な行政事務開始までには1年ぐらいかかりました。というのも、朝鮮王朝は、日清戦争清王朝が弱体化した隙を突いて、中国から独立して、大韓帝国(中身は朝鮮王朝そのもの)を発足させたばかりで、韓国統監府と大韓帝国の行政機関を合体させるうえで混乱があったためです。

肇慶壇(ちょぎょんだん)。ここは、一般に公開されていないため、韓国人もあまり知らない高宗関連の史跡である。
朝鮮王朝の王の祖先、元寇の時代に生きた李安社は、衰退した全州李氏の再興を誓い、全州の山で、派手に祭祀を行った。そこに、李安社は、始祖廟を建てたらしい。
その場所について、朝鮮王朝第21代王英祖が調査を行った形跡があるが、わからず、第26代王高宗もその場所について調査した。その結果、始祖廟跡と思われる場所を突き止めたとしており、現在その場所に、高宗が建設した始祖廟(李翰:イ・ハン)の墓、肇慶壇がある。
斜面上部の円墳が李安社の作った始祖廟跡と考えられている場所で、中央の四角形の建築物が、高宗が建設した始祖廟である。
始祖廟脇の建物の中には、「大韓肇慶壇」の碑がある。「大韓」と石碑にあるだけに、間違いなく高宗の作で、まだ新しい。
場所は、全州の名所、慶基殿の真北にある山で、KTXが通るようになって新しく建設された全州駅に程近い、全州市中心部の全北大学医科大学の裏、全州室内バドミントンコートの横にある。

肇慶壇から見える範囲は風致地区として広範囲に山林や農地が保全されており、パッと見た感じ、農村地帯の趣きで、全州市中心部だとは思えない不思議な場所である。

 

朝鮮王朝第26代王高宗は善王か?

第26代王高宗は、第21代王英祖の取りまとめた朝鮮王家の歴史を整理し、消失した朝鮮王家の陵墓の調査、復元を進めました。
高宗の復元した建築物は多く、現存する景福宮勤政殿などの壮大な建築物にとどまらず、徳寿宮、慶基殿、肇慶壇といった数々の大規模な建築物も、この時、再建されました。

それゆえ、現在でも、高宗は善王として誉れ高い王です

『ちょっと待て、本当に高宗は善王か?』
と韓国で言うと、全方向から罵倒されます。

韓国の伝統的保守紙、朝鮮日報が「本当に高宗は善王か?」という特集を組んでひどい目に遭っているので、これは間違いないようです。

高宗の事業に必要な莫大な経費はどうやって調達したのか・・・朝鮮日報が指摘したのは、この1点です。

この1点は、大日本帝国朝鮮侵略史を覆すほどの大問題を孕んでおり、これは、韓国では触れてはいけないタブーなのです。

何がいけないのかというと、

高宗は事業に必要な莫大な経費を、よりによって、ロシア帝国から借りた。

ということ。

これが韓国史上の最大タブー。
国家そのものを転覆させたという点で、済州4.3事件、光州事件を超えるタブーなのであります。

 

善王高宗が、なぜ朝鮮王朝を瓦解させたのか(ロシアへの借金とロシアの貸し剥がし

当時の朝鮮に高宗の事業で必要な費用を賄うだけの国力はありませんでした。

高宗は、なんと、お金を貸してくれると朝鮮に友好的な態度をとっていたロシアから莫大な借金をしたというのでした。

ロシアの東アジア侵略計画を知っていた大日本帝国からすれば、『アホかおまえら』という状況だったのでした。

ロシアがホイホイと朝鮮にお金を貸したのは、借金のカタに、朝鮮を潰す下準備でありました。
時期をみて朝鮮王朝に借金の一括返済を迫り、貸しはがしを行えば、合法的に朝鮮領土と朝鮮国民を没収できるという手筈でした。

これがうまくいくと、ロシアは戦争をせずに、大日本帝国包囲が完成することとなり、次は大日本帝国を落とすだけになります。

 

李安社の行った祭祀について、第21代王英祖は調査を行ったが、わからず、これを記念する霊廟、慶基殿を全州中心部に建設した。
これが高宗の時代はかなり荒れていた状況であったので、これを高宗は修復した。
霊廟という性質の施設であるから、肇慶壇と構造がよく似ており、高句麗様式の神道が設置されている。
なお、神道は基本的に人間が通ってはいけない場所なのだが、なぜか
神道を通らなければ入れないようなこんな入り口の階段が作られている。階段は神道脇に作らなければいけない。

 

霊廟の神道脇には、鉄の水盤が並べられている。本来はここに水が満たされていなければいけない。ボウフラ対策で、水がないことが多いが。
正面の霊廟ひさしには、斜め下を向く亀が張り付けてある。これは何かと言うと、慶基殿南東方向正面に見える昇岩山が火山であり、八卦の火の卦と重なる。従って、この建物は火の卦が強く、火災になりやすいとされる。そこで、神道脇には、鉄の水盤を並べ、南方向の火の卦を弱め、さらに、斜め下を向く亀を貼り付け、昇岩山を水の卦に転換して、建物の火の卦を弱めているのである。
日帝時代、慶基殿は小学校になっていた。日本の小学校でも、校舎建設が間に合わず、寺子屋の習慣が江戸時代にあったことから、お寺や神社の建物を小学校に使ってしのいだ例は多い。
ただ、高句麗には、寺子屋の習慣がなかったから、王族の霊廟を小学校にする日本人の無知さ加減に全州の両班は唖然としたという歴史がある。

 

高宗の頭の中には、日本征伐のことしかなかった

しかし、このとき、高宗の認識では、中国を凌ぐ大国ロシアを利用する絶好のチャンスと捉えていました。

うまくロシアに取り入れば、実力ではとても勝ち目のない目障りな日本を自ら手を汚すことなく、速やかに排除できると考えたのでした。

しかし、それにしても、ロシアの朝鮮に対する態度は、実に素っ気ないようにも思えました。

なぜ、ロシアは、朝鮮に対して素っ気ないのか。

それは、ロシアが朝鮮を奪ろうとしていたからなのですが、それを、高宗は、ロシアは日本をいたずらに恐れており、覇気に欠け、情けないと都合よく考えました。
そこで高宗は、ロシアに日本征伐の確約を要求を突きつけ、覚悟を問うたのでした。

ロシアからすると、目が点になるほどの、実にありえないはなしでした。
日本がどうこう言う前に、朝鮮がなくなるということがわかっているの?

いや、高宗はわかっていなかった。

わかっていなかったからこそ、ロシアの判断ミスを誘う大暴投をやってのけたのでありました。

 

朝鮮王朝第26代王高宗。朝鮮の本名は李㷩(イヒ)。日清戦争清王朝が弱体化した隙を突いて独立。大韓帝国となった後、高宗光武太皇帝を名乗るが、間もなく韓国併合が起こり、徳寿宮李太王(とくじゅきゅう りたいおう)という日本名に改名する。
この他に、幼名があったり、字(あざな)があったり、号があったりして、生前から、歴代の朝鮮王の中でも名前がやたら多い人であった。
死後は、これとは別に名前がつくため、すごいことになっている。名前が多いということは偉いという価値観が朝鮮にはあったため、そうなった。
大韓帝国皇帝になってから、皇帝服として、ドイツの軍服などを試したようではあるが、実は高宗は、顔が相当大きな人で、頭の小さいヨーロッパ人向けの小さな兜が頭の上にちょこんと乗っかって無様であったうえ、太鼓腹を隠すことができず、まったく似合わなかったため、最終的に、日本式の大礼服に落ち着いた。大礼服だと、勲章をいっぱい付けられる点も高宗の好みだった。
この写真は、最も広く流布しているもので、日本の大蔵省造幣局製作の勲章がいっぱいついているという点で、高宗本人は大のお気に入りだったが、韓国的には問題があるらしい。
大礼服がお気に入りだったので、当時、日本に協力的であったように考えた人も多かったが、全然そんなことはなく、日本がいかに馬鹿で無知であるか、朝鮮がいかに偉大で優れた国家であるかを盛んに吹聴していた。すぐに余計なことをして、朝鮮を国家存亡の危機に陥れるという致命的な問題点はさておき、国の指導者はこのくらいの図々しさがないと、やっていけないという典型である。
日本が朝鮮総督府建設で悪戦苦闘しているのを横目で見ながら、後継者の純宗が寺内正毅と通じているのを知っていたから、景福宮の秘密について純宗に明かすことなく亡くなっている。
韓国の保守紙、朝鮮日報は、高宗を「国際情勢に疎かった人物」、「何かあれば外国公使館への避難・亡命説が出回る国家指導者」と評価している。

 

大番狂わせの日露戦争開戦・・・実は、打つ手がなかった日本だったが

実は、この状況で、日本が朝鮮のロシア領化を打破する方法は皆無でありました。

ロシアが黙って粛々と朝鮮王朝に借金の一括返済を迫り、貸しはがしを行えば、誰からも文句を言われず、合法的に朝鮮領土と朝鮮国民を没収することができるはずでした。

しかし、日本征伐は決定事項、最初からやることになっていたロシアは、勝ち急ぐ気持ちが先に立ち、ロシア皇帝にお伺いを立てるまでもなく、当然のこととして、日本征伐を朝鮮に確約しました。

しかしこれが、実は、『つい、うっかり』というやつで、万策尽きてピンチだった日本に、開戦の口実を与えることとなりました。

それで、大番狂わせの日露戦争が勃発しました。

東洋の金欠の素寒貧であった大日本帝国は、『窮鼠猫を噛む』の勢いで、大国ロシアに勝ってしまいました。

ロシアは今も昔も、準備不足か、兵站の枯渇で負けるというのが典型的な負けパターンだったわけですが、このときはその両方が起こってしまった。
ただ、当時は、ロシアの負けパターンなど誰も知らなかったから、世界中が驚いたわけです。

さて、ここで、ロシアは、朝鮮王朝に借金の一括返済を迫り、大日本帝国との間で発生した莫大な戦費の回収を行おうとします。
払えなければ、合法的に朝鮮領土と朝鮮国民を没収という手筈でした。

ロシアは日本との戦争に勝てなかったのですから、安全パイを切ってくるのは当然のことですな。

 

李完用
この人が日本人の間でほとんど知られていないのは、乙巳五賊、丁未七賊、庚戌国賊と言われ、韓国政府によって公式にも『親日反民族行為者』に認定され、現在も一族は財産没収の対象となっているほどに韓国のタブーだから、公式の歴史からは排除されているためである。
ただし、韓国が軍事政権だった当時、特に朴正煕大統領は、大韓民国を自立した国家にするためには優秀な李完用一族の能力は必要不可欠であるとして、政権中枢に抜擢し、韓国の急速な経済大国化に大きな功績を残すこととなった。
だが、金泳三政権以降の韓国民主化により、逆に国賊として、国を追われることになってしまった。
ソウル近郊の盆唐出身で、1883年に科挙に合格して出仕するようになった秀才。
入庁後4年目にして、アメリカ合衆国に派遣。
朝鮮開国後10年足らずで、英語を学ぶ機会などまともにない状態であったが、李完用は流暢な英語を操り、3年間のアメリカ合衆国勤務を経験した後、帰朝。朝鮮が著しく世界情勢から遅れていることを痛感し、旧来の王政に復古することを主張する大院君と対立する。
当初、親露派として行動する。これは帝政ロシアを単に欧米列強と捉えていただけのことで、ロシアの朝鮮侵略の意図は察知していなかった。朝鮮を欧米列強に伍する先進国にするにはロシアと組むのが良いと考えていた。
しかし、朝鮮を搾取対象としてしか見ていないロシア公使ウェーベルと大喧嘩となった後は、親米派として行動するようになる。

ロシアからの借金踏み倒しを図る大韓帝国代表、李完用

ところで、そんな朝鮮にも頭のキレる秀才がおり、ロシアからの借金を踏み倒さないと、エラいことになると気付くわけです。

もし、ロシア領土になってしまえば、ロシアは、東方の黄色人種を搾取・絶滅すべき対象として捉えていますから、一度ロシアに占領されれば、お金や資源にとどまらず、命までもっていかれる危険性があります。

しかし、時すでに遅し。

朝鮮独立の維持は、どうあがいても不可能というところにきてしまいました。

この状況下では、朝鮮民族をいかに残していくかの一点に絞って可能性を追求するしかありませんでした。

日露戦争に勝った大日本帝国の領土になれば、いくらロシアでも、借金の返済を朝鮮に迫ることが、事実上できなくなります。

どうせ、大日本帝国は、大国ロシアに勝ったとはいえ、所詮、金欠の素寒貧。
明治政府のような身の丈に合わない無理を続ければ、いずれ、国が傾くか、自爆するかに決まっているので、その隙を突いて朝鮮は再独立すれば、それでよしと考えたのでした。

その秀才達が、いわゆる、親日派と言われる人達であり、そのリーダーが、李完用であったということになります。
そこで、韓国併合条約の調印が行われ、朝鮮は、大日本帝国の領土となったわけです。

 

この期に及んで、日露戦争が起こした大番狂わせを理解していなかった高宗が、ロシアを怒らせ、大韓皇帝をクビになる(純宗即位)

もっとも、すんなり、韓国併合条約の調印となったわけではありませんでした。

というのも、朝鮮瓦解問題を引き起こした張本人の大韓帝国皇帝高宗は、非常に頭が固く、この期に及んで大日本帝国日露戦争勝利を認めておらず、ロシアに日露戦争講和条約であるポーツマス条約破棄を求めたからでした。

オランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に、ロシアが独断でオブザーバーとして朝鮮を招待しました。
ロシアとしては、そこで、日本の韓国併合阻止に向けた話し合いがなされれば万々歳といったところでした。

ところが、高宗が送った代表は、李完用のような秀才ではなく、李完用と対立する反日運動家達で、国際法には詳しくなく、どうすれば国際舞台で外交交渉を行うことができるか、知識を持ち合わせていませんでした。

この人達は、高宗同様、大日本帝国日露戦争勝利を認めておらず、単純に、ロシアに対し、日露戦争講和条約であるポーツマス条約破棄を求めました。

朝鮮特使が破棄したかったのは、大日本帝国大韓帝国保護国とする規程なのですが、これを破棄するとなれば、ポーツマス条約全体に影響が及ぶので、そうなると、ロシアとしては、辛くももぎ取った日露戦争の戦時賠償無効化の話も吹っ飛ぶという問題がありました。

朝鮮の借金は、大日本帝国が主張する日露戦争の戦時賠償と比べればたいしたことなく、李完用の借金踏み倒し計画が仮に発動したとしても、ポーツマス条約を無効とされるよりはロシアにとってましでした。

そこで、朝鮮を招待したはずのロシアが、メンツを潰されたと突然手のひらを返し、会議議長を務めるロシア帝国主席代表ネリドフ伯爵は朝鮮代表との面会を拒絶。
特使3人の会議出席を拒絶しました。

このことは、逆に朝鮮半島の日本による管轄権が国際的に認められる場を作った結果になりました。

大韓帝国皇帝高宗は、この無礼千万な暴挙の責任をとらされる形で、退位させられ、大韓帝国皇帝の位は、高宗の息子の純宗に移譲させられました。

 

親日派売国奴といわれる李完用・・・であるが、明治政府の高評価とは裏腹に、日本には敵対的であった

李完用は、大日本帝国に対して友好的な人であったかというと、むしろ、敵対的でした。

生涯、日本語を学ぶどころか、一切、話そうとすらしなかったそうです。では、日本に来たときどうしていたのかというと、英語をあえて使っていたそうです。

李完用は、当初は親露派で、大日本帝国と敵対し、朝鮮民族の存続を模索していましたが、占領地から収奪することしか考えないロシアに併合されるのは悪手だと認識したため、日本に擦り寄ることにしただけという割り切りがありました。

金欠の素寒貧であった日本の財政を見抜いており、対ロシアに関して言えば、日本に時間さえ稼いでもらえば、朝鮮の失地回復の勝機はあると考えていたようです。

李完用は、韓国統監府の寺内正毅を、終生、敵としか認識しておらず、単に、金欠の素寒貧であった日本の財政に明るかった頭の良い人であったというわけです。
ただ、このことが、李完用大日本帝国から非常に高く評価された理由でもあったのでありました。

それは、韓国統監府に原因がありました。

もともと、日露戦争敗戦時の保険だった寺内正毅は、今や、韓国統監府の独裁者。
韓国統監府の職員で、寺内正毅に逆らう人はいませんでした。
Yesマンで周囲を固め、天皇直轄組織の長であることを理由に、大日本帝国政府の言うことを聞かない厄介者。
しかも、金欠の素寒貧であった日本の財政なんて完全無視。

この事態に、大日本帝国政府は相当困っていました。

いろいろ思案した挙句、朝鮮の親日派リーダー格の李完用を、寺内正毅より格上の華族にヘッドハントし、旧徳川御三家と同格の侯爵にまで格上げし、朝鮮王族に命令できる地位はもちろん、大正天皇に直接謁見し、意見できる地位を与えました。

李完用ら朝鮮親日派を、寺内正毅の御目付役に任命し、天皇に韓国統監府の暴走ぶりを随時報告する役割を与えたということになります。
もちろん、李完用だけでは足りないと考えた大日本帝国は、朝鮮親日派を軒並み寺内より高い地位につけ、寺内正毅の暴走対策の徹底を図りました。

ちなみに、李完用ら朝鮮親日派と敵対し、諸悪の根源といわれた寺内正毅は、実は大韓帝国2代皇帝純宗と性格的にウマがあい、個人的に仲がよいという裏事情がありました。
大日本帝国政府は知らなかったのですが、内緒で個人的にいろいろ純宗に便宜を図り、日本内地に向けては、朝鮮王族が永遠に続くよう宮内省に圧力をかけて取り計らっていたというのですから、さすがは陰謀の天才であります。

せっかくの李完用も、朝鮮に帰ってみれば、誰も邪魔することのできない純宗-寺内ラインがあって、身動きがとれなかったというのですから、何のために日本で高い地位についたのかわからないという状態にありました。

なお、純宗-寺内ラインのせいで、宙ぶらりんにされてしまった李完用は、大日本帝国で異例の出世を遂げたことから、朝鮮人からは、徹底して裏切り者として認識されていたようです。

生涯、自宅焼き討ちや、暗殺未遂が絶えず、1926年(大正15年)に亡くなり全羅北道益山郡朗山面に埋葬されました。
現在、韓国政府によって親日反民族行為者に認定されており、墓も撤去されています。

 

朝鮮総督府の一番大事なお仕事は、朝鮮王朝がロシア相手に作った借金の返済

大日本帝国本体は、いままで何度も述べてきたように、軍艦1隻建造すると、国家財政が傾くほどお金がない。
なのに、日露戦争をやったがために、今や更なる金欠の素寒貧。
どうやって、朝鮮のロシア絡みの莫大な借金を大日本帝国が肩代わりするのでしょうか。

寺内正毅の理論では、たかがロシアからの借金なら踏み潰したらよかろうということでしたが、国際政治はそう甘くない。

借金は借金。

軍事力を背景に脅して借金の返済期限を延ばすことはできても、大日本帝国には通貨としての日本円の信用問題がありますから、そう簡単に徳政令を出して、帳消しにすることはできないのです。

誰がお金を稼ぐの?

日本人?

そんなのやめてくれよ、朝鮮の借金は朝鮮人が返せや・・・ということになり、朝鮮の借金返済が韓国統監府や朝鮮総督府の最優先課題となりました。

そこで、朝鮮総督府が行ったのが、以下の3本柱で、産業を振興し、朝鮮の借金返済をすすめるということでした。

 

高宗が住んだ時期が長かった徳寿宮。
特に、閔妃暗殺事件(乙未事変)後、景福宮から逃走してロシア大使館に保護してもらって以降は、ずっと徳寿宮に居ついている。それで、日本名が「徳寿宮李太王」となった。
元は慶運宮と言っていたが、景福宮再建と同時期に、廃墟となっていたものを再建している。国家の産業振興など後回しで、こんなことばかりやっていたから、ロシアへの借金が嵩み、朝鮮王朝が瓦解する原因となった。
日韓併合後に、西洋式の石造殿を増設している。これはたいへん有用な建物で、歴史遺物となることなく、現在も現役施設として利用されている。
1911年から1922年は李王世子李垠の宿舎、高宗死去後の1933年以降は、徳寿宮美術館として利用された。
第二次世界大戦後にはアメリカ軍に接収され、石造殿は朝鮮半島の占領統治を協議する米ソ共同委員会の会場となった。
1955年からは国立博物館として利用されている。

 

石造殿建設時、日本は、朝鮮総督府庁舎をどのように建てても、お行儀悪く歪んで建ってしまう問題に悪戦苦闘していた。
高宗は黙っていたが、日本が馬鹿で無知であることを後世に残したくてウズウズしていたらしい。
そこで、景福宮同様、斜めに建設されている徳寿宮に増設される石造殿を使って、こっそり、朝鮮総督府庁舎をどのように建てればよいか、正解を示していた。
徳寿宮の中和殿を景福宮勤政殿に見立て、北西方向、「乾」の卦の方角に朝鮮総督府庁舎を建設するのが正解であった。
というのも、「乾」の卦は、天を表し、権威・権力を示す。
建物の向きはどの向きでもいいことを示すため、石造殿は、あえて中和殿の軸からずらしている。
現在、旧大統領府の青瓦台が、景福宮勤政殿の北西方向に、勤政殿と違う向きで建っているのは、ここに大統領府を建設した李承晩は、この景福宮の秘密を知っていたからであった。



1.身分解放・戸籍再編成

非生産人口(特権階級、両班、無戸籍)が国民の60〜70%以上なのを何とかする

韓国統監府は朝鮮の借金返済を目的に、1909年、近代的戸籍制度がなかった朝鮮に、2006年まで何度か改正されつつも使用された戸籍制度を導入しました。

なお、1948年の大韓民国成立後、『本貫』『身分』の戸籍記載は復活しましたが(2006年撤廃)、日本統治時代は、『本貫』『身分』の戸籍記載は禁止されました。

ちなみに、旧戸籍では、『両班』と記載のある者は、就労の義務と、納税の義務が免除されていました。
その結果、『両班』以外の民衆に就労の義務と、納税の義務が集中し、『両班』以外の民衆の平均寿命が極端に短くなり、婚姻も難しくなっていったのに対し、『両班』の平均寿命は伸びる一方、子孫も大いに繁栄していきました。

朝鮮王朝400年の歴史の間に、そのツケは積もり積もって、韓末期には、人口の60〜70%が『両班』という歪な人口構成となっており、戸籍のある人口の60〜70%が非生産人口というとんでもないことになっていました。

朝鮮の借金返済のためには、まず、戸籍非登載者をあぶり出して、朝鮮の全人口を把握したうえで、この、非生産人口を生産人口に転換しなければいけませんでした。
そこで、身分制度撤廃を行ない、『両班』に就労の義務と、納税の義務を課すこととなりました。

 

非差別民開放は、朝鮮人全員に納税の義務を課すことを徹底するための施策

なお、非差別民であった奴卑、白丁の開放を行ったのは、『両班』に課す就労の義務と、納税の義務を徹底し、反論の余地を与えないためのものでした。
そのため、奴卑、白丁の開放に反対する者には警察権力を用いた制裁を課す非常に厳しいものとなりました。

当然のことながら、就労の義務と、納税の義務を課されることになった特権階級、『両班』の反発はすさまじく、朝鮮各地で激しい暴動が起こりましたが、警察権力を用いて即座に鎮圧されました。

これに対し、事情を知っていた李完用親日派は、沈黙していたため、後の大韓民国建国後、糾弾される原因となりました。

 

『名無し』で、戸籍に載らなかった人も多かったが、これも非生産人口だった

旧戸籍では、身分の高い者が複数の本名を持つ反面、身分の低い人、特に女性を中心に『名なし』が非常に多く、『両班』であっても、女性の場合、『名なし』が多く存在しました。
この人々は、法的には存在しない人々のため、徴税の対象ではありませんでした。

そこで、朝鮮総督府は、朝鮮人は全員、男女、子供の区別なく、姓名を名乗ることを強制しました。

 

朝鮮名そのものが『本貫』『身分』を現す厄介な問題があり、名前を日本式に改めない限り、身分差別の完全撤廃は不可能だった

朝鮮の姓名には、必ず『本貫』『身分』がついてまわり、名前を見るだけで、『本貫』『身分』が判明します。

実は、現在の韓国人の名前でも、『本貫』や『身分』にまつわる漢字が普通に使われており、見る人が見れば、だいたいのところで、『本貫』や『身分』はもとより、非差別民かどうかを見分けることができます。

朝鮮総督府は徴税の徹底を図るうえで、これを非常に問題視し、名前を日本式に改めない限り、身分差別の完全撤廃は不可能という結論に至りました。
そこで行われたのが創氏改名というものになります。

後に、創氏改名は朝鮮の民族的文化を破壊するものと理解されるようになり、大韓民国後速やかに、名前は朝鮮式に戻されました。
ただ、名前は朝鮮式に戻したら戻したで、身分差別は再燃し、差別は朝鮮の民族的文化なのかという議論が巻き起こることになりました。

ちなみに、朝鮮総督府創氏改名を行ったのは、後付けで、朝鮮の皇民化を図る目的だったとか理由付けされましたが、実態のところは、朝鮮名を破壊しなければ、朝鮮の社会に緻密に組み込まれた身分制度を破壊し、徴税の徹底を図る方法がなかった・・・というか、他に方法が思い浮かばなかったからという情けない理由でした。

 

1945年、イーストマン・コダックから発売されたカラーフィルムで撮影された写真。
朝鮮総督府の圧政下で、悲惨な境遇にあったと韓国の歴史教科書で説明される京城(けいじょう)の様子。
写真に写る人々の服装が、日帝時代を舞台にした韓国ドラマの韓国人の服装とかなり違う。男性も女性も上下白色の韓服を着ていたし、女性は、毛髪が飛び散るのを不潔だといってものすごく嫌う人が多く、多くの女性は白布を姉さんかぶりにしていた。そして、洋服がかなり普及しており、洋服を着ている人が過半数である。
閑散とした田園風景が広がる朝鮮王朝の首都漢城とは隔世の感がある活気である。
とはいえ、この写真の時期は、朝鮮瓦解から、まだ30年程しか経っていない。ものすごいスピードの経済発展である。
このような無理な経済発展をすれば、社会の歪みは、いかほどのものであろうか。
むしろ、朝鮮人は、日々驚くほどのスピードで発展する経済に翻弄され、朝鮮の民族的アイデンティティーが急速に失われつつある問題に対峙しなければならなかった。

 

2.教育文化政策

総督府の方針を朝鮮人に伝えようにも、文字がわからない、数字がわからない、計算ができないでは話しにならない

身分解放政策の施行時、朝鮮総督府は思い知ったのですが、当時の朝鮮人民の7〜8割が、公用文字である漢字が読めない。
ハングルは、1948年まで公用文字ではありませんから、これも読めない人多数。
さらに、算術に至っては、壊滅的有様で、日常生活のお金の勘定すらおぼつかない人が多数。
そんな状況で、朝鮮の借金返済などという高等な話は無理。

 

個人の財産所有という概念すら、ほとんどの朝鮮人は知らず、1から教えなければならなかった

まず、個人の財産所有という概念から、国民全体に1から教えていかなければならないという絶望的状況でした。

日本なら、当然、こういうことは学校で教えることになっています。
ならば、朝鮮でも・・・ということになり、日本内地に準じた学校教育制度の整備は喫緊の課題となったのでありました。

 

朝鮮の学門とは、『両班』のみが享受できる特権で、読み書き、算術など実学は非常に軽視されていた

しかし、当時、学問は『両班』のみが享受できる特権のひとつ。
しかも、朝鮮では、読み書き、算術など実学は非常に軽視されており、朝鮮の学問は、理念的、概念的側面が非常に重視されていました。

論語に始まり、論語に終わるという感じ。

当然のことながら、働き手を失うことになった両親、特権を失うことになった特権階級、『両班』の反発はすさまじく、朝鮮各地で激しい暴動が起こりました。

しかし、朝鮮総督府は警察権力を用いて各家庭の子供を引きずり出し、学校に集め、教科書、文房具を与え、教育を強制しました。

 

大きい声ではいえないが、朝鮮総督府の学校運営は上手だった

たいへん荒っぽい政策でしたが、朝鮮総督府の運営する学校は、教育の目的がはっきりしていたので、教育の目的が曖昧な現在の日本の学校と違って非常にうまく機能しており、子供にとっては、学校が虐待の場ではなく、子供の知的好奇心を満たす場として機能し、評価する声は、大きな声では言えないけれど実は大きかったのでありました。

そこで未だに、韓国にはこの時代の残滓が残っています。

滅多に抜かれない伝家の宝刀としてではありますが、学校の先生には日本と比べて強い社会権力があり、警察権力を用いて各家庭の子供を引きずり出し、学校に集め、教科書、文房具を与え、逆らう親を警察権力を用いて処罰することが可能となっています。

また、『科挙』の伝統と、学校教育制度がうまく合体し、激烈な大学受験というものが生み出されました。

修能テストに遅れそうになった子供を警察がパトカーや白バイで試験会場まで送迎するのは、韓国の12月の風物詩ですが、これは決して警察の厚意ではなく、日帝時代以来の伝統である教育の強制執行が形を変えて現在も残っているものです。

 

1945年、イーストマン・コダックから発売されたカラーフィルムで撮影された写真。
朝鮮総督府の圧政下で、悲惨な境遇にあったと韓国の歴史教科書で説明される京城(けいじょう)の様子。
乗合バスは、よいエンジンがなかった関係で、発明されていなかったが、人間は考えるもので、エンジンがなければ馬に引かせればいいじゃないといった具合で、1馬力の乗合馬車が結構たくさん走っていた。

21世紀の現在と比較してはいけないが、それにしても、朝鮮王朝末期とはうってかわって、なかなかにして現代的で文明的な生活をしている。
しかし、この写真が撮影された5年後、大韓民国が独立した後、ここに写っている建物も乗り物も全て破壊され、見渡す限りの焼け野原となる。
電灯を使っていた人々がロウソクを使うようになり、水道を使っていた人々が井戸で水をくむようになるのである。
大韓民国が独立して、人々の生活が中世に逆戻りしたという歴史は、絶対に言ってはいけない韓国の現代史であった。朴正煕政権中期に、日帝時代の経済水準を追い越し、この表現に対する規制は緩和されたが、教科書などの表現に若干の残滓が残っている。

3.地籍調査

所得税ではなく、固定資産税(地租)主体の税制だったので、地籍調査は不可欠だった

地籍調査については、大正期に入ってからになりますが、朝鮮全土で地籍調査が行われました。
当時の税金の徴税は、所得税によるものが少なく、固定資産税(地租)によるものが大部分を占めていました。
そこで、土地の所有、面積、地価の決定がどうしても必要だったのでした。

明治以前の日本でも、年貢の算定基準となる検地は必ず行われてきました。ですから、朝鮮でも、まず地籍調査が行われなければいけませんでした。

ただ、地籍調査の開始が遅れた理由は、現在の人工衛星写真に匹敵する極めて正確な地図である伊能図が存在する日本列島と違って、韓末期の朝鮮に正確な地図が存在せず、地籍調査の基準となる地図の整備をまず行わなければならなかったことによります。

 

この時作成された地籍図の精度の悪さが、現在の韓国で土地問題を引き起こしている

この時作成された地図は、時間がないなか、大急ぎで作成したものだけに、伊能図にははるかに及ばず、誤差が5〜10メートル程度存在し、1cm単位の精度が要求される地籍図の原図としては、かなりあてにならないものでありました。

この誤差故に、朝鮮総督府は地籍調査を行わなかったと主張する歴史学者が多数います。
しかし、固定資産税を徴税するには、徴税の根拠となる土地の場所と面積と生産力の決定が必要であり、地籍調査なしでは、ロシアへの借金返済などという大きな仕事などできるわけがありません。

高宗は、それをやらずにお金をロシアに借りて、朝鮮王朝を瓦解させたのであります。

現在、韓国で、土地の境界確定に非常に難渋するのも、この時の誤差が大きい地図が現在も使われており、あてにならないものであることが大きいです。
ラニメーターが使えないので、地籍図から、土地の面積を概算するということすらできません。

 

土地所有の概念を知らない朝鮮人相手の地籍調査は困難の連続

また、地籍調査が開始されてからも、地籍調査は困難を極めます。

まず、朝鮮人の大部分が、土地の所有とはなにかを知らなかったことが大きな問題となりました。

基本的に山林など、所有が明確でない土地や、朝鮮王家など高い地位の特権階級が奴卑に耕作させていたりする土地が数多くありました。
現状耕作していたり、占有していたりする人のいない土地は、国有化し、朝鮮総督府が管理することとなりました。

朝鮮王朝だった時の所有権どおりに所有権を確定してしまうと、生産人口に土地が行き渡らないという問題がでてきます。

そこで、地籍調査といっても、現状耕作していたり、占有していたりする土地を片っ端から登録していく作業となりました。

そこは、大日本帝国国内の話しですから、それが日本人であっても、日本企業であっても扱いは同じで、朝鮮半島に土地所有ができました。
地籍調査を悪用し、高額納税を大義名分に朝鮮人から土地を巻き上げ、高額で転売して荒稼ぎする悪徳業者も少なからずいました。

多大な混乱はあり、あくまで、当座しのぎの策ではありましたが、これが事実上、朝鮮版農地改革となりました。

これが農村の大幅な所得向上、生活向上に大きな効果があった反面、日本でGHQ版農地改革が後々多大な禍根を残したように、現在の韓国でも朝鮮版農地改革が多大な禍根を残しています。

 

この時の場当たり的対応が、土地強奪が横行する現代韓国の社会を醸成してしまった

他人の土地でも、強奪すれば、いずれ、いつかある地籍調査の時、自分の土地になるというのは、この時の経験から発生した韓国人の常識。
身分の低い人、非差別民ほど得をしたので、韓国人社会の底辺の人ほど、土地は強奪した者勝ちという考えが徹底しているという具合。

ちなみに、日帝時代やった地籍調査レベルの大規模な強制地籍調査は、韓国の現行憲法上不可能といわれておりますが、韓国人はみんな、日帝時代やった大規模な強制地籍調査は、またいつかあると、まるで宗教のように、堅く信じています。

ゆえに、他人の土地の強奪は、ソウルでもあるあるで、梨泰院の公道はみ出し違法建築で有名になりましたが、特に田舎では頻発傾向にあり、生活防衛上不可欠な基礎知識です。

他人の土地に勝手に家を建てる、他人の土地を勝手に造成するなどよくある話で、相手がある話ならば、喧嘩・乱闘になるので、あっても控えめとは言われておりますが、市有地、国有地、面道、市道が相手となったら、役所もすぐには気付かないということで、容赦ない。
勝手に潰すなどやった者勝ちの状態。

韓国の裁判所は、個人、地方自治体入り乱れて起こされる土地所有権訴訟でパンク状態。

田舎では土地問題が、治安悪化の最大の原因ともなっています。

 

朝鮮総督府庁舎 (景福宮の秘密:北漢山との関係性)


景福宮の秘密。細かく挙げればきりがないが、一言で言うと、景福宮後方の北岳山のさらに後方にある北漢山の最高峰、白雲台を基準に一直線に建物が並んでいるということである。このことに、大日本帝国陸軍が気付かなかったのは、景福宮の位置からは、北漢山の白雲台が見えなかったからである。
ちなみに、朝鮮総督府庁舎が完成して、ドームから眺めれば、北岳山の後方に隠れていた北漢山の白雲台が見えるようになったのであるが、その時、大日本帝国陸軍は、景福宮の基点が北漢山の白雲台であることに気付いたのである。しかし、時すでに遅し。

 

景福宮の設計図。
景福宮周辺にある最も高い山である北漢山白雲台と光化門を結ぶ軸を基線とし、基線が強い気脈である『艮(山)』『坤(地)』と一致する地点で、かつ、北岳山に隠れて北漢山白雲台が見えない地に景福宮が建設された。
首都、漢陽は、景福宮の基線とは無関係な、北岳山を基点とする災難の軸『坎(水)』『離(火)』を基線として造営されているが、北岳山は火山であり、水の卦と対立し、漢江は火の卦と対立するため、災害の軸は無効化されるようになっている。
このようなややこしい設計となっているのは、高句麗の伝統的な宗教観に則った解釈によると、悪鬼・悪霊を迷わせるためである。
仮に悪鬼・悪霊が、漢陽に攻め込んできたとしても、必ず災難の軸に沿って襲ってくるはずで、漢陽からは北岳山に隠れて北漢山白雲台が見えないため、悪鬼・悪霊が惑わされることになる。

中国からの特使が、景福宮を訪れるとき、あえて西方からの山越えルートを使ったのは、『兌(友好を意味する「沢」)』の卦の方角から近づくよう配慮したからであり、信心深い高句麗の民に悪鬼・悪霊の化身と認定されないための策であった。

日本軍が、漢城に攻め込んで来たとき、南方から災難の軸に沿って侵攻してしまったのは非常にまずかった。風水を篤く信じる当時の朝鮮人民に、自らを悪鬼・悪霊の化身と名乗るに等しかったからである。

そして、朝鮮総督府建設をめぐって、光化門周辺で混乱したのも非常にまずかった。
悪鬼・悪霊の化身だから迷ったのだと朝鮮人民に思われることになったからである。
『艮(山)』『坤(地)』の良い気脈の軸と、『坎(水)』『離(火)』の災難の軸の交点は、光化門外に設定され、景福宮にはこの交点がないため、悪鬼・悪霊の化身が景福宮を見ただけでは、この仕掛けがわからない設計であった。

 

悪鬼・悪霊の化身を惑わせ、光化門外に追い出すために、景福宮は、斜めに建設されているし、斜めでなければいけないのである。

最近の韓国人も、景福宮は、斜めに建設されていることを、意外に知らないので、垂直な景福宮の地図が結構普通にある。

 

朝鮮総督府は、北岳山を基点とする災難の軸『坎(水)』『離(火)』に沿って建設されてしまい、この建物ができたことで、『艮(山)』『坤(地)』の良い気脈の軸と、『坎(水)』『離(火)』の災難の軸の交点となってしまったため、風水上、悪鬼・悪霊の集まる場所となった。こんなところに、こんなふうに莫大な予算を投下して、こんな建物を建設してしまったというのは、最悪という表現以外思いつかない。風水を篤く信じる朝鮮王朝時代の朝鮮人民に対し、朝鮮総督府が悪鬼・悪霊の最前線陣地であると宣伝しているのに等しかったからである。

 

景福宮は、悪鬼、悪霊の化身と初代朝鮮王太祖(李成桂)が恐れた実の息子、李芳遠(太宗)を失脚させ排除するために建設された、呪術的仕掛けが細部にわたって施された壮大な風水上の仕掛けなのであるが、うかつに引っかかり、とんでもない大損害を被ってしまったがために、自ら悪鬼、悪霊の化身であることを証明してみせてしまった大日本帝国陸軍

 

景福宮・・・韓国人にとってもなかなか手強い史跡

門外不出であった景福宮の秘密・・・とはいっても、旧王族で、朝鮮王朝の内部事情を知る李承晩大統領が、朝鮮王家当主、李垠の即位を阻止する目的で、これでもかというぐらい、事細かに暴露してしまったので、現在は門外不出でもなんでもないのですが、韓国人にとっても、景福宮が一筋縄ではいかない、なかなか厄介な存在であることがわかっていただければ幸いです。

また、李承晩大統領以前の朝鮮総督府が、そこのところの事情を知らず、そんな景福宮に、うかつに手を出したのですから、とんでもない大損害を被ったのは当然の結果でした。

 

この位置からだと、景福宮の設計がよくわかる。背後の最も高い山、北漢山白雲台を向いていることがわかる。
景福宮北漢山白雲台の間の距離は、直線距離で7Kmほど離れているが、地形の関係で直行できないので、片道だけで、1日を要する。
ソウルの街は、北岳山に向かって建設されているので、ソウルの街に対して斜めを向いているのである。
朝鮮総督府を建設した時代は、ライト兄弟が飛行機を発明する前。高層建築も周囲に全くなかったから、大日本帝国陸軍は、このことに気付かなかった。


高麗の首都が北に偏っているわけ

ソウルが朝鮮の首都となったのは、日本の室町時代のことで、それまでは、現在北朝鮮にある小都市、開城が長らく首都でした。

というのも、朝鮮の前の王朝、高麗は、別名、後高句麗とも呼ばれ、朝鮮半島の北部から満洲を拠点とする高句麗王朝が支配していたためです。

高句麗王朝は、北部に対する影響力は強いのですが、南部に対する影響力は弱い王朝でした。
その関係で、朝鮮は北部が経済的に豊かであり、南部は貧困地帯でした。

この影響から、朝鮮半島北部に高句麗王朝の首都が定められるのが、成り行き上自然で、朝鮮半島中部の現在のソウルの地が首都に定められるということは、高句麗人的には、かなりイレギュラーなことでした。

 

北漢山白雲台。大日本帝国陸軍は、朝鮮総督府庁舎建設後、漢城の基点が、漢城からはるか遠くの北漢山白雲台にあることに気づき、ここに天測点の位置を示す鉄杭を設置した。北漢山白雲台は、もともと、登頂困難なツルツルの1枚岩の岩峰だったので、ヒマラヤ登山もかくやといった規模の鉄製のボルトや鎖などを多数設置し、岩を削って足場を作って登攀した。それほど、朝鮮総督府庁舎がお行儀悪く歪んで建ってしまったことは、大日本帝国陸軍のメンツに関わる一大事だったのである。これを見ていた朝鮮人が、日本人が朝鮮の首都に呪いをもたらす呪符として、北漢山白雲台に鉄杭を打ったと噂しあった。これが、今日有名な『呪いの鉄杭(쇠말뚝)』である。現在は、『呪いの鉄杭(쇠말뚝)』は抜かれ、代わりに、韓国の国旗が設置されている。

白雲台までの登山道は、一般に開放され、現存する。

 

『呪いの鉄杭(쇠말뚝)』。日本が設置したもの。日本は測量地点の不変性を重視して石製、コンクリート製、金属製の測量杭を岩など動かないものに設置することが多いが、韓国では、金属製の測量杭に対する忌避感が非常に強い。測量杭は、目印になる山の稜線に設置されることが多いのだが、この鉄杭が気の流れを断つのだという。そのため、測量杭は、基本、樹脂製、または木製で、土に打ち込むことが多く、道路に打ち付ける場合は、気の流れに対する影響の少ない小さな金属製の鋲を使う。

 

韓国で普及している樹脂製の境界杭。日本で一般的な石製、コンクリート製、金属製の境界杭は、トラブルのもととなるので、使われない。

 

韓国では非常に多い木の測量杭。同じ形で樹脂製のものもある。土地の境界杭に使われていることが多い。引っ張ればすぽっと簡単に抜けるが、抜いたり折ったりしたら、ムチャクチャ怒られる。というのも、1筆分設置するのに測量費込みで、50万円ぐらいかかるためである。

韓国で、金属製の測量用標識を使うことがないわけではないが、使ってもこんな小さなものに限られる。これは、測量鋲。道路の一部が私有地の場合、境界線を示すために使われる。

 

中国からの渡来人で、国司としてはじまった朝鮮王家

朝鮮王家研究の大家としては、初代朝鮮王太祖李成桂)、第21代朝鮮王英祖、第26代国王(初代大韓帝国皇帝)高宗の3名が挙げられます。

太祖李成桂)は、元寇の際、全羅道全州を出た朝鮮王家が朝鮮国王となるまでの歴史を取りまとめました。

英祖は、遡って調査できる限りの朝鮮王家の歴史を取りまとめ、朝鮮王家は日本の飛鳥時代後期から奈良時代前期にまで遡ることができることを明らかにしました。

高宗は、英祖の取りまとめた朝鮮王家の歴史を整理し、消失した朝鮮王家の陵墓の調査、復元を進めました。

韓国人の大好きな世宗大王はというと、朝鮮王家研究については、ほとんどなにもやっていません。

第21代朝鮮王、英祖の朝鮮王朝研究によると、朝鮮王家の人間として遡ることの可能な限界は、李翰(イ・ハン)という人で、8世紀(日本だと飛鳥時代後期から奈良時代初期)に中国から渡来し、全州に定住した後、統一新羅王朝より、司空職(日本でいうと、いわゆる国司職)に任命されたのだそうです。

それゆえ、李翰の子孫は、特別に、全州李氏といいます。

全州李氏の主な役割は、百済王朝の復活の阻止であり、統一新羅末期の混乱で、一時、後百済が復活してしまいましたが、高麗建国にあたって、後百済征討に著しい功績があり、高麗王朝になると、その功績が認められ、朝鮮王家は、おもに司空職(日本でいうと、いわゆる国司職)に任命され、全州を治めてはいましたが、高麗の要職を登りつめていくことになりました。

百済王族と関係が深かった当時の日本の大和朝廷にとって、この全州李氏は、かなり都合の悪い存在でもありました。
ただ、現在は、日本の天皇家とかなり血縁関係の濃い親戚なので、非常に因縁めいたものがあります。

 

朝鮮建国以前の朝鮮王家のキーパーソン、李安社(穆祖大王)

これ以降の朝鮮王朝研究は、初代朝鮮王太祖李成桂)がとりまとめています。

12世紀後半、政治的腐敗が甚だしかった高麗王朝の影響で、朝鮮王家は衰退しつつありました。

高麗将軍職にまで出世していた李安社は、全州李氏の再興を誓い、全州の山で、派手に祭祀を行いました。

その場所について、英祖が調査を行った形跡がありますが、わからず、これを記念する霊廟、慶基殿英祖は建設し、現在も慶基殿(きょんぎじょん)は全州市の中心部に残っています。
高宗もその場所について調査していますが、ここだと思われる場所を突き止めたとしており、現在その場所に、高宗が建設した肇慶壇(ちょぎょんだん)があります。

李安社の時代、元寇が起こりました。
高麗はひとたまりもなく元軍に制圧されました。
もともと、渡来人の家系であった全州李氏の棟梁であった李安社には、高句麗に対する忠誠心は薄く、元による侵攻を朝鮮の革命のチャンスと捉え、元に寝返り、現在の北朝鮮の元山周辺を拠点に、千戸職(ダルガ)として、満洲族の武力制圧を任されました。

この事件があるため、多くの朝鮮人は、朝鮮王家が、実は大嫌いで、何度も暴動を起こし、最終的に、豊臣秀吉の軍勢が攻めてきたどさくさに紛れて、景福宮を略奪・放火しています。

李安社は、満洲族の武力制圧に成功し、朝鮮北部から満洲にかけて自治州を経営。
これが、朝鮮王朝建国の基礎となります。

この功績から、現在、李安社は、穆祖大王(もくそだいおう)と呼ばれています。

 

李安社の満洲族制圧が、後の朝鮮国難を招く

李安社という人、朝鮮王族中興の祖であると同時に、朝鮮国難の原因を作った人でもありました。

後に、朝鮮王朝は、中国清王朝満洲族の王朝)からフルボッコにされ、乞食の国にさせられましたが、李安社以来、満洲族にとって、朝鮮族は先祖の怨念を晴らすべき敵であり、朝鮮族は、絶やさず、永遠に苦しめなければならないとされてきたからです。

もっとも、今から100年前、日本が明治の頃は、満洲族の天下でしたが、現在の中国を治めているのは漢族です。

いまや満洲族は弾圧の対象。
特に最近の習近平体制下では、ウイグル族チベット族どころの騒ぎではなく、満洲族を名乗ること自体が生命の危険に直結するほどの事態となってしまっています。

漢族にとって、満洲族は、明王朝を倒して国を乗っ取った、先祖の怨念を晴らすべき敵であり、満洲族は、絶やさず、永遠に苦しめなければならないとされているためです。

中国大陸の東の方では、そんなことを、大昔から現在に至まで続けているのです。
桑原桑原。

 

李安社の子孫、李子春が高麗に擦り寄ったことが発端で歴史が変わった

ありがちなことですが、満洲族全州李氏との関係は最悪であったがために、李安社の子孫、李子春(桓祖大王:かんそだいおう)は、望郷の思いを捨てきれず、高麗王朝に擦り寄ります。

しかし、この頃の高麗王は、浮世離れした、そうとうおめでたい人で、満洲族統治権李子春から奪うために、李子春に謀反の疑いをかけ、暗殺しようとします。

 

李成桂(太祖)の御真。御真とは、公式の王の肖像画のこと。この御真は、全州の慶基殿に展示されている。現在の全州李氏にこんな感じの顔の人は結構たくさんいるし、なにより、気難しく、癇癪持ちで、小難しい性格の雰囲気がよく現れている。

朝鮮王朝建国の立役者、李成桂(クソ親父)と李芳遠(暴れん坊)登場

ところが、李子春の子に、相当な曲者がいました。
李成桂(太祖)という男と、その5男で、手のつけられない暴れん坊で知られる李芳遠(太宗)と呼ばれる人物です。

特に、この後世間を騒がせる李芳遠(太宗)は、ただの暴れん坊ではなく、相当頭の切れる人物であったがため、手のつけようもなかったというわけです。

李成桂(太祖)は、日頃から、李芳遠(太宗)を、実の息子であるにも関わらず、悪鬼・悪霊の化身で危ない奴だから隙あらば殺したいと考えている、現在の日本であったら、警察に速攻で逮捕されかねない危険な毒親であったのでありました。

李芳遠(太宗)が悪鬼・悪霊の化身であると考えた根拠は、文武両道に優れ、父親である李成桂(太祖)より多くの人に好かれる好青年であったことが許せなかったということでありました。

李成桂(太祖)は、迷信深く、自分より優れた者の存在を全否定して排除する、非常に気難しい性格の人でした。

この時は、李芳遠(太宗)を高麗王に特攻させて、闇に葬る絶好のチャンスだったので、李成桂(太祖)は、李芳遠(太宗)に『高麗王を倒そう』とけしかけました。

 

鄭道伝(チョン・ドジョン)と伝えられる絵。李成桂(太祖)のブレーンであり、朝鮮建国と、李成桂(太祖)即位の実務を担った。これ以外に、景福宮建設の実務も担っており、『景福宮』の命名者は鄭道伝である。

 

高麗王朝を倒したのは李芳遠(太宗)だったが・・・クソ親父の成果横取りが原因で誕生することになったソウルと景福宮

李成桂(太祖)は、李芳遠(太宗)が高麗王を襲うことは容易に想像できたのですが、その行動はあまりに素早く、李成桂(太祖)ですら出し抜かれるくらい素早かったわけですから、高麗の首都、開城にいた高麗王にとって、李芳遠(太宗)の襲撃は、まさに、寝耳に水。
李成桂(太祖)は、李芳遠(太宗)の後を追うだけで精一杯でした。

まさか、李芳遠(太宗)が王宮を急襲するなどとは思ってもいなかった高麗王は、突然現れた李芳遠(太宗)に反撃する余裕もなく、王宮を逃走。
李成桂(太祖)の期待に反し、李芳遠(太宗)は討ち取られることもなく、高麗王族を次々と抹殺していきます。

李芳遠(太宗)が高麗王族を皆殺しにしている間に、李成桂(太祖)は、李芳遠(太宗)を助けもせず、1392年に開城の王宮で、新高麗王となったことを宣言しました。
この成果横取りに怒った李芳遠(太宗)は、高麗王族を抹殺後、引き返して、開城の王宮を急襲。

高麗王が何で李芳遠(太宗)を殺さなかったのか激怒しつつも、じゃあ、自分が実力で李芳遠(太宗)を殺せるかといわれれば、それは絶対に無理なので、李成桂(太祖)は開城の高麗王宮を逃走。

国王が逃走・・・では格好がつかなかったため、遷都を宣言。
開城のすぐ南に、よく知られた風水のよい地があったので、李成桂(太祖)はここを首都と宣言し、漢陽と名づけました。
これがソウルのはじまりです。

こういう経緯で建設されることになった新首都の王宮(景福宮)が、ただの王宮であるはずがないのです。
すでに、悪鬼、悪霊の化身だと李成桂(太祖)から決めつけられていた李芳遠(太宗)を新王宮から徹底的に排除するための呪術的仕掛け、とことん悪鬼、悪霊の攻撃から身を守るための、ありとあらゆる風水上の仕掛けが施されていました。

一方、李芳遠(太宗)は、開城の旧王宮を押さえ、新高麗王を名乗ってみせたのですが、無意味でした。
だれも相手にしなかったのです。
クソ親父の、李成桂(太祖)が1枚上手だったのです。

高麗は、中国(明王朝)の冊封国家だったので、王族を皆殺しにしても、中国が新王を承認しなければ、とってかわって新王にはなれないのです。
それが嫌なら、李芳遠(太宗)は、中国と戦争するしかなかったのです。
李芳遠(太宗)といえども、中国と戦争する余力はなかったので、現状では、中国が任命した王を殺した中国の反逆者に過ぎません。

李成桂(太祖)が逃げ回って李芳遠(太宗)を引きつけている間に、李成桂(太祖)のブレーンだった儒学者鄭道伝(チョン・ドジョン)に動いてもらい、手続的に非常に難しい新王の承認を中国に依頼していました。鄭道伝のシナリオでは、中国に対する天下の反逆者、李芳遠(太宗)から、王権を守ったので、李成桂(太祖)を新国王に任命してほしいというものでした。

さらに、李芳遠(太宗)がいずれ李成桂(太祖)の命を狙うのは目にみえていたので、鄭道伝の入れ知恵で、高麗を廃し、李成桂を太祖とする新王朝、朝鮮を建国し、中国に承認してもらえば、冊封制度上のルールで、李芳遠(太宗)李成桂(太祖)に手を出せなくなるので、新王朝、朝鮮を建国することになりました。
そして、鄭道伝に必要な事務を進めてもらい、中国からの国家承認を得た後、朝鮮国王に李成桂(太祖)を据えてもらい、新王朝を建てることに成功していたのでした。

その後、李芳遠(太宗)が、開城の旧王宮を押さえ、一人、新高麗王を名乗ったところで、時すでに遅し、世間知らずが何を言うやらという状態でした。

ちなみに、鄭道伝は、第一王子の乱で、李芳遠(太宗)に殺されています。
鄭道伝自身、李成桂(太祖)より優れた為政者でありましたが、自分より優れた者の存在を全否定して排除する李成桂(太祖)から命を狙われる危険が常にあったため、李芳遠(太宗)を殺して、李成桂(太祖)に気に入られる必要がありました。
そこで、常に李芳遠(太宗)を高麗王族殺害の件で天下の反逆者呼ばわりし、中国から李芳遠(太宗)処刑の勅令が発せられるよう画策しておりました。
李芳遠(太宗)にとって、鄭道伝は非常に危険な人物で、殺さなければ、自分の命が確実に危なくなる人物でした。

 

李芳遠(太宗)と現在考えられている絵。公式な王の肖像画である「御真」ではない。
なぜか、李芳遠(太宗)に関する御真がない。どこかにあるのかもしれないけれど、見たことがない。ちなみに、朝鮮王朝時代の考え方では、朝鮮建国時のしくじりから、何度も中国に対する反逆罪を犯した李芳遠(太宗)を、建前上、賞揚することはできず、不当に軽く扱ったきらいがある。
現在の全州李氏の人々にも共通するのであるが、胃腸が弱いという遺伝があり、普段から、膨満感と腹痛に悩まされている人が多い。それが、全州李氏の人々に共通する癇癪持ちな性格の原因ともなっているのであるが、韓国人なのに、トウガラシの入ったキムチが食べられないという人も多く、全州李氏の家の家庭料理は、日本人も驚くほど、薄味で淡白な傾向がある。これは、現在韓国で賞味できる宮廷料理が、がっかりするほど薄味で味気ないこととも関係がある。この胃腸が弱いということは、王朝実録に書かれており、ほぼすべての朝鮮王についていえる。
その分、歴代の朝鮮王は、気難しい表情の、細面の肖像が多いという結果になっているのであるが、この李芳遠(太宗)像は、その真逆である。
よって、この肖像画の信憑性はあまりないのではないかとも考えられる。
しかし、李芳遠(太宗)の王となってからの顕著な業績を鑑みると、多くの人から好かれる性格であり、頼りにされる性格であったことから、このような肖像が描かれたのではないかとも想像できる。

 

結局、特に李成桂(太祖)と争わなくとも、王権は勝手に李芳遠(太宗)に転がり込んだ

鄭道伝李芳遠(太宗)追撃の策として、李芳遠(太宗)の王位継承権剥奪がありました。

実は、李芳遠(太宗)は、高麗王族殺害の件で中国に対する反逆者ではありましたが、父親の李成桂(太祖)が新王朝の国王となったことから、ややこしいことに、王位継承権が発生してしまい、下手に殺害すれば、中国に対する反逆者となるという状況になっていました。

そこで、鄭道伝の画策で、李芳遠(太宗)よりはるかに年の若い8男の李芳碩に李成桂(太祖)家督を譲れば、李芳遠(太宗)の王位継承権は消滅し、李芳遠(太宗)をたやすく処刑できるようになります。
これを察知した李芳遠(太宗)は、8男の李芳碩を殺し、王位継承権を確保した後、非常に危険な鄭道伝を殺したのでした。

ただし、王の世継ぎを殺したというのは、いくら王子であっても、中国に対する反逆罪に問われるので、タダでは済みません。
それゆえ、中国にまで報告が入る一大事(第一王子の乱という扱い)となってしまい、王宮は上や下への大騒ぎとなりました。

李芳遠(太宗)は責任を取ることが要求されたので、王位辞退を宣言して責任を取らざるをえず、李成桂(太祖)は高麗王朝乗っ取りの前科もあったので、更なる平和的仲裁策を中国から求められます。
そこで、不本意ながら、李芳遠(太宗)より年長で、あまり文武の才のない李芳果(定宗)李成桂(太祖)は王位を譲位し、李成桂(太祖)は国王を引責辞任しました。

王位継承権は李芳遠(太宗)に残ったことで、李芳遠(太宗)の命が担保され、李成桂(太祖)は国王を引責辞任したということで、李芳遠(太宗)の命を狙うことのできる人がいなくなりました。

これで一件落着かと思われたのですが、李芳果(定宗)が、弟の李芳幹から殺されそうになるという殺人未遂事件が発生しました。
あれだけ大騒ぎになっていたのに、李芳幹は、中国の冊封制度を全然学習していなかったのでした。
この事件も、中国にまで報告が入る一大事(第二王子の乱という扱い)となってしまい、王宮は上や下への大騒ぎとなりました。
この時は、李芳果(定宗)が、李芳遠(太宗)に命じて李芳幹を無礼打ちにするという建前(実際は李芳遠(太宗)李芳果(定宗)を救援した)で事を収めます。

李芳遠(太宗)は、今度こそ、立ち回りでしくじりませんでした。
このことが効を奏します。
李芳果(定宗)は、自分は殺されるのは嫌だし、人殺しもしたくないと言って、王位を、より優れた王の器であるということで、李芳遠(太宗)に譲ってしまいます。

こうして、李芳遠(太宗)の下に、思わぬ形で王権が転がり込んできました。
これに衝撃を受けたのが、引退した李成桂(太祖)です。
これこそ李芳遠(太宗)が悪鬼・悪霊の化身の証、我、悪鬼・悪霊に敗れたりと、景福宮から逃げ出し、昌徳宮に篭もってしまいました。
それからというもの、李成桂(太祖)は、悪鬼、悪霊退散の祈祷にどっぷり浸かってしまい、二度と国政をすることはありませんでした。

 

李芳遠(太宗)を失脚させるため作られた罠に見事引っかかって、自から悪鬼、悪霊の化身であることを証明してみせた大日本帝国陸軍

朝鮮全土を手中に収めた李芳遠(太宗)は、景福宮が自らを悪鬼、悪霊の化身であると国民に広く知らしめ、失脚させるために作られた罠であることを熟知していました。
そこで、景福宮では、いかなる失敗も犯さないよう最大限注意し、鄭道伝が悪知恵の限りを尽くした風水の権化ともいえる景福宮には手をつけず、自分の気に入った離宮を建設し、普段は離宮に住みました。

ソウルの中心部に異様なほど離宮が多いのは、景福宮が一筋縄ではいかない面倒な建築物であった歴史があったからです。

そうとも知らず、この仕掛けに見事引っかかったのが、ここに朝鮮総督府庁舎を建設しようとした寺内正毅率いる大日本帝国陸軍だったというわけです。

 

朝鮮総督府庁舎(財政難の明治政府が避けたかった韓国併合)

朝鮮総督府庁舎建設の経緯

お金がないので、韓国併合はやりたくなかった明治政府

朝鮮総督府は、1910年(明治43年)の韓国併合によって大日本帝国領となった朝鮮を統治するため、設置されました。

当初、初代韓国統監伊藤博文とする韓国統監府が、南山山麓の日本人街に建設されていました。
というのも、当初、日本は朝鮮を併合するなどということは、できるだけ避けたい最悪の事態と考えていたからでした。

初代韓国統監伊藤博文は、初代内閣総理大臣をやっただけあって、日本の財政状況を知り尽くしていました。
明治時代の大日本帝国は、とても朝鮮を植民地経営するだけの国家予算がない貧乏国家であるということをよく理解していました。

 

朝鮮王朝時代の漢城(ソウル)南大門。現在、この場所は、ソウル駅前から市庁に向かう広い道路になっている。高層ビルがこれでもかというほど立ち並び、大量の自動車が行き交う見違えるような大都会となっているのであるが、100年ほど前は、のどかな農村風景が広がっていた。一独立国家の首都なのにである。

慶熙宮から景福宮を望む。朝鮮王朝時代の漢城(ソウル)の中心部。のどかな田園風景が広がっている。これが朝鮮最大の都市であり、首都だったというのだから、朝鮮王朝全体の経済力は、現在のソウル市の区役所単独の予算規模にも満たない。
この時代の大日本帝国の国家予算も慢性的にひどい赤字だったが、それにもまして、朝鮮王朝はどうしようもないほど貧乏であった。
これが平和な農村だったら、また別の評価もできようが、朝鮮の人々は、この限られた経済のなかで、既得権益を少しでも増やそうと、日々、内輪もめを繰り返していた。
経済力をパイに例えるなら、日々縮小してく小さい皿にのったパイのうち、自分の取り分を1mmでも増やそうと、不毛な争いを繰り返している感じであった。
パイを飛行場のようなとてつもない巨大なものに育て、その中の巨大な薄い一切れをもらおうという考えを持っている人は、この当時の朝鮮にはいなかった。
というのも、宗主国である中国清王朝満洲族)が、積年の恨み(朝鮮族満洲族には積年の因縁がある)から、長い年月をかけて、朝鮮の人々の心や考え方を腐らせたからであった。

 

鐘路。朝鮮の首都のメインストリートにしてこの有様であったため、朝鮮辺境に至っては、絶望的なまでの貧困状態であった。ちなみに、この写真は、日本が明治後期であった時代に撮られたものであり、日本では、山手線の電車が走り、地下鉄が建設され、現在の国会議事堂や迎賓館などが着々と完成しつつあった。ロシアがシベリア鉄道を着々と建設していた時代でもあり、こんな朝鮮に、継戦能力無限大のロシア軍がなだれ込んでくれば、ひとたまりもないのは誰が見てもわかる。このことから、国家の経済力とは、核兵器に勝る軍事的抑止力となりえることを教えてくれる。

 

ロシアの南侵計画が事態を複雑にした

ならば、なぜ、その最悪の選択、朝鮮を併合するようなことをやったのかというと、帝政ロシアの南侵計画を阻止するためでした。

ロシアにとって、過去のモンゴル帝国の侵略の記憶は拭い去り難く、シベリア地方に居住する複数の民族で構成される黄色人種は警戒すべき人種でした。
ロシアは、シベリア地方の黄色人種を搾取・絶滅すべき対象として捉えており、ロシア軍として徴兵されるのも、強制労働を課されるのも主にシベリア人で、ロシア西部に住む白色人種は、比較的徴兵や強制労働の対象とはなってこなかった経緯があります。

つまり、一度ロシアに占領されれば、お金や資源にとどまらず、命までもっていかれる危険性があるということなのです。

そのようななかで、シベリアの東で台頭してきた日本という脅威は、シベリア人達の希望となり、独立運動を助長する可能性があるため、なるべく早く除去し、国家の安泰を図る必要がロシアにはあったという具合です。

つまり、日本にとって、ロシア問題は、お金のコストパフォーマンスが良いか悪いかで論じることのできない問題だったわけです。

イギリスも、中国権益を狙って、極東に出没していましたが、軍艦を派遣してきた程度だったので、継戦能力はたかがしれています。
しかし、ロシアはシベリア鉄道を建設して、兵員や武器弾薬を大量輸送することを目論んでいます。
継戦能力は、無限大といっても差し支えありませんでした。

 

中国も朝鮮も、帝政ロシアの南侵計画阻止のあてにはならず

日本からみて、中国は対ロシアの第一次防衛線、朝鮮は、第二次防衛線と考えていました。

しかし、中国は、アヘン戦争以降の混乱で瀕死の状態。

朝鮮王の高宗の内政音痴、外交音痴は甚だしく、日本の嫌がらせをすれば、国民が皆、乞食のような生活を強いられていても、万事OKといったレベルの政治を行っていました。

こうなると、中国や朝鮮は、遠からず、ロシアの領土となるのは避けられなかったのですが、そうなると、日本が帝政ロシアに包囲される事態となります。

最悪、朝鮮のロシア併合だけは絶対に阻止しなければならないと、日本軍部は考えていたのでした。

 

一旦は日本が併合し、教育を施し、社会基盤を整備し、親日国に改造後、再独立させるのが当初の目論見

当時、朝鮮は、文字の表記に日本と同じ漢字を使用し、公用文書は、日本とまったく同じ。
発音のみ異なるという状況でした。

朝鮮語の発音も、津軽弁ウチナーグチ琉球語)と大差ないレベルで、アイヌ語ほどの差異はなかったため、一旦は日本が併合し、教育を施し、社会基盤を整備し、親日国に改造後、再独立させれば、愛国心も非常に強い人達なので、ロシアの侵略など跳ね返してくれるようになるだろうと、楽観的に考えていました。

 

伊藤博文
大日本帝国創設者にして頂点に君臨する男だったが、腰が低く、好感をもたれた。
温厚な性格も好感をもたれたが、怒ったときの眼光は、命のやりとりをする侍そのものであり、非常に怖かったという。
怒ることは滅多になかったが、伊藤博文の戦争嫌いは筋金入りで、高陞号事件で日清戦争の戦端を開いてしまった防護巡洋艦浪速艦長東郷平八郎を呼び出し、罵倒した話は有名である。
内政面で活躍することが多かったが、勝ち戦、負け戦ともに経験が豊富であり、いざ戦闘に参加すれば、なかなかに強かった。
いざとなると、頼れるのは伊藤しかいないということで、明治政府から重用された(面倒な仕事を押し付けられた)のである。


景福宮への韓国統監府建設にこだわるNo.2の寺内正毅と、国家予算を気にするNo.1の伊藤博文の対立点

韓国統監府No.1で元勲の筆頭格であった伊藤博文は、韓国統監府No.2の元陸軍大臣寺内正毅とは、どうしようもないほど反りがあわなかったというのは、持って生まれた性格の差が原因であったろうことは容易に想像がつきます。

どちらも、細かい性格で、内政を得意としたことが、より対立を深いものにしたと思われます。

伊藤博文は、とても朝鮮を植民地経営するだけの国家予算がない貧乏国家なので、独立採算で朝鮮はやるしかないとみており、いたずらに反日感情を煽るのは愚の骨頂と考えていました。

また、歴戦の武士であった伊藤博文は、蛤御門の変など、敗戦経験が豊富で、城郭にうかつに手を出すと、必ず痛い目に遭うことを経験から知っていました。

景福宮への韓国統監府建設にこだわっていたNo.2の寺内正毅に対し、壮大な韓国統監府が必要なら、漢城(現在のソウル)には、土地は腐るほど、どこにでもあるのだから、景福宮以外の場所に、壮大な建物を建てたらよいと主張していたようです。

また、朝鮮統治の本命である寺内正毅天皇の統制を邪魔に思っていた節があり、暴走が懸念されたことから、寺内の上にブレーキ役を置かないと取り返しのつかないことになると考えられ、伊藤が統監府のトップに据えられたのも、伊藤暗殺後、大蔵大臣の曾禰荒助が統監府のトップに据えられたのも、寺内のブレーキ役を期待されてのことでした。

 

伊藤博文は、朝鮮に赴任すると、早速女漁りを開始し、1年ほどで複数の妾を囲う勢いであった。この写真で、左から2番目が、正妻、伊藤梅子。伊藤博文朝鮮人女性から好かれた最大の理由は、当時日本人が持っていた朝鮮人を見下す考え方をまったく持っていなかったことにあった。朝鮮人の扮装をすることにも、まったく抵抗感をもっていなかった。伊藤梅子のメンタリティーは江戸時代の人で、大日本帝国の筆頭大名格の博文が側室を持つことに何ら疑問は持っていなかったようである。


下半身で天下国家を論ずる宰相、伊藤博文

明治時代といえば、朝鮮に関する情報は皆無に等しいという絶望的な状況下、国際政治を誤らないには、どうしたらよいか。
伊藤博文は、彼なりに考察した結果、自らの下半身以外、信用できるものはないとの結論に達し、朝鮮に赴任した早々から、女漁りを始めました。
「伊藤の女癖はなんとかならんか!」
明治天皇が言ったのは有名な話。

同類に、松方正義がおり、こちらは、明治天皇から子供の人数を聞かれ、多すぎて、即答できず、
「後日、詳細な調査の上、御報告申し上げます」
と言って、明治天皇をずっこけさせた前科があります。

朝鮮女は気性が激しいというのが専らの噂でしたが、人一倍人情家であった伊藤博文にとって、そんなもの屁でもありませんでした。
むしろ、日本人にはない、情の篤さに惚れたようです。
曰く、『朝鮮には優れた人や文化があり、これを生かさぬ手ははい』。
本質を見抜く眼力には驚かされますが、ただ単に、「朝鮮には美しくも情の篤い女がおり、これを生かさぬ手はない」と言ったまでという説もあります。

 

寺内正毅
危険ではあるが、嘘はつけない不器用な男である。
それゆえ、日露戦争敗戦時の備えとして、ブレーキ役の伊藤博文とセットで韓国統監府に送られた。『毒を以って毒を制す』の作戦である。
伊藤博文が暗殺され、ブレーキ役不在となった後、暴走を懸念した大日本帝国政府は、大蔵大臣の曾禰荒助をブレーキ役として送った。
しかし、日露戦争勝利のタイミングでこれを体よく追い出し、寺内正毅が韓国統監府のトップとなると、寺内の暴走が目に余るようになったのである。
大日本帝国政府の安全策が完全に裏目となり、寺内は韓国統監府の組織を拡大し、朝鮮総督府に改組した。さながら、『河豚が自らの毒で中毒死する』の惨状であった。
寺内総督時代の朝鮮総督府は、朝鮮の武力弾圧に邁進し、違法な弾圧、不当逮捕が目に余ったため、内地でも問題視する声が大きかった。
朝鮮総督府の暴走、すなわち軍部の暴走を放置すれば、大日本帝国はいずれ自爆死しかねないと危険視する意見が相次いだ(実際には、そのとおりになったのだが)。
ただ、寺内が陸軍大臣に居座りつづけ、内閣総理大臣の言うことを聞く必要のない立場であったため、引きずり下ろすのに大日本帝国政府は苦労した。
大日本帝国憲法下では、陸軍大臣より格下の役職であったが、名誉的には、はるかに上席であった内閣総理大臣職をあてがうことで、陸軍大臣から寺内正毅を引き剥がし、幕引きを図ったが、寺内総督時代の悪習は朝鮮総督府に残り続けた。
寺内内閣は失政が続き、最後は富山で米騒動が起こったが、寺内を軍から引き剥がすことに成功したので、結果オーライだった。
最終的に、朝鮮総督府は、大日本帝国憲法上合法であった三・一独立運動を徹底弾圧し、違法に関係者を次々と逮捕したことが、軍部の暴走として、大日本帝国政府内部から著しい非難を浴び、組織改革を迫られることとなった。


几帳面が取り柄だったが、短気で野心家なところが徹底的に嫌われた寺内正毅
伊藤博文の後任となった韓国統監府統監、寺内正毅は、明治人としては、ありえないほど生真面目かつ几帳面で、令和に生まれたならば、もっと生きやすかったであろうというような人。

制度構築や管理といった地味な行政事務に対して有能で、出世も早かったのですが、短気で人をよく叱ったため、特に、面子を潰されることを異様に嫌う明治時代の人々からの人望はまったくありませんでした。
その反動で、名誉欲が強く、事細かく厳しかったため、士官学校校長時代に付けられたあだ名は「掃除係」、「重箱楊枝」でした。

首相時代には、強引な政策が目立ち、最後は富山の米騒動を起こし、責任をとって辞任するという結末になったのですが、非立憲をもじって、「ビリケン宰相」と揶揄されました。
あまりに他人から嫌われることに辟易していた寺内自身は、この愛称を気に入っていたらしく、ビリケン像を3体も購入していたといわれています。

韓国併合を、豊臣秀吉が果たせなかった朝鮮征伐を今果たしたと御満悦で、「小早川 加藤 小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」という歌を詠んでみせました。
これは、寺内最大の失言でもあって、後に、伊藤博文暗殺の黒幕と噂されれる原因ともなりました。

 

暗殺直前の伊藤博文伊藤博文の写真を知っている我々ですら、この中の誰が伊藤博文であるか、当てるのが難しい(左から2番目の帽子をとって挨拶している腰の低いおじいさん)。この写真を撮った人も、写真中央の小柄な偉そうな人にカメラを向け、ピントをあわせていることから、伊藤がどんな人か知らなかったようだ。伊藤がどんな人か知らない安重根が、果たして、伊藤を撃てたのであろうか。

 

伊藤博文を暗殺したのは、朝鮮の独立運動家、安重根ではなく、寺内正毅が雇ったヒットマンだったという陰謀論

伊藤博文を暗殺したのは、朝鮮の独立運動家、安重根で、単独犯行であったというのは定説です。

伊藤博文を暗殺したのが安重根でないと、日韓双方困ったことになりますからね。

しかし、この事件の捜査があまりにずさんであったため、噂が噂を呼び、陰謀論まで飛び出すに至りました。

そもそも、朝鮮に伊藤博文の写真が流通していたわけではなく、安重根は伊藤がどんな人かは死刑執行に至っても知らなかったということでした。

満洲ハルビン駅で、安重根が銃を発砲したのは事実ですが、「顔が黄ばんだ白髭の背の低い老人」が伊藤博文だろうと考え、その人物に向けて4発を発砲し、人違いで失敗したとあっては一大事と考えて、「その後ろにいた人物の中で最も威厳のあった人物」にもさらに3発発砲したと言っています。

果たして、安重根の銃弾が、本当に伊藤博文に当たったのでしょうか?

この事件で発砲された銃弾は、少なくとも計13発で、安重根が所持していた拳銃ブローニングの装弾数の約2倍の弾が発射されていました。
残りの弾は、誰がどこから発射したのかは一切明らかにされず、安重根の単独犯行であったとして、処理されました。

こういう話は、娯楽が少なかった明治人の興味関心をそそることとなり、日本、朝鮮双方で、大きな噂となりました。

憶測が憶測を呼んで、伊藤博文が殺されて最も都合がよかった人物として、寺内正毅が疑われました。

天皇を殺すわけにはいかないが、元勲の伊藤博文がいなくなれば、事実上、天皇朝鮮総督府のパイプは切れるため、伊藤を殺せば、寺内のやりたい放題できるということになります。

実際、伊藤博文亡き後、寺内正毅朝鮮総督府でやりたい放題をやって、余計、内地の政府関係者から顰蹙を買っています。

ハルビン駅頭での伊藤博文暗殺事件の際、安重根が伊藤と誤認して、宮内大臣秘書官、森泰二郎を誤射した機を捉え、寺内の命を受けた警護兵らが、邪魔な伊藤を射殺したという陰謀論は、なかなか説得力があって、かつて何度も否定されましたが、現在、日本人研究者だけではなく、韓国人研究者からも広く支持されています。

 

寺内正毅騎馬像跡。現在は最高裁判所庁舎が後にあるが、太平洋戦争後は、最高裁判所庁舎の土地が米軍住宅で、こんな場所に寺内正毅騎馬像を再建するわけにはいかないということで、日本電報通信社(電通)が3体の裸婦像(平和の群像)を置いた。日本初の裸婦像であったため、猥褻物と酷評されることが多かったが、米軍は気にしなかった。

 

伊藤博文暗殺にまつわる陰謀論が、死後もついてまわった寺内正毅

大日本帝国の予算事情を考慮し、韓国併合に消極的であった伊藤博文が暗殺されたことで、1910年(明治43年)8月29日に「韓国併合ニ関スル条約」へ基づき、大日本帝国大韓帝国を併合し、統治下に置きました。

この日本による朝鮮半島の統治は、大日本帝国ポツダム宣言による無条件降伏後も行われ、国際法上は、1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が連合国軍への降伏文書に調印するまで続きました。

もっとも、降伏文書に調印後も、朝鮮人は連合国軍の信託統治を断固拒絶し、さりとて、朝鮮半島の後継国家が決まらないというゴタゴタのせいで、日本本土から大日本帝国が消滅してなお、大日本帝国の行政組織が朝鮮半島に残るというイレギュラーな事態が発生しています。

首相辞任後、韓国併合の功によって寺内正毅は、伯爵を授けられ、華族となりました。
そうでもしないと、また陸軍に戻って朝鮮総督府にちょっかいをだして、エラいことになるという懸念が大日本帝国政府にあったようです。
寺内正毅の没後、国会議事堂の近くに銅像が建てられましたが、これも、そうしなければ収まりがつかなかった節があります。
国会議事堂内の伊藤博文銅像は残されたものの、寺内正毅銅像は、太平洋戦争中に金属回収で溶解されてしまいました。

 

大韓帝国第二代皇帝純宗(朝鮮王朝最後の王)。
巫教(ムダン)の占いに狂った母の閔妃の政略により、清からの承認を受け、王世子(世継ぎ)として冊封された。巫教(ムダン)を王宮から排除しようとした高宗の父の大院君と、巫教(ムダン)の占いにますます傾倒する母の閔妃の権力闘争に巻き込まれ、毒殺を目的としたアヘン入りのコーヒーを飲まされたことで、一時意識不明の重態となった。一命はとりとめたものの、脳に重い障害が残り、歯はすべて抜け落ち、胃潰瘍と萎縮腎に生涯悩まされた。
父の高宗がハーグ特使事件を起こしたことで、高宗は引責退位することとなり、純宗が大韓帝国第二代皇帝となった。
幼い頃から家族には徹底的に恵まれなかったゆえ、精神的に極めて不安定であり、疑い深い性格でもあった。
その点、嘘はつけない不器用な男であった寺内正毅との相性はよく、毒殺未遂で知的障害を負っていたことも相まって、寺内が敵国人であることをあまり意識しなかった可能性がある。

実は朝鮮研究で学術的な功績があったアカデミックな寺内正毅

生前、ほぼすべての人から嫌われたといってもよい、問題のデパートのような寺内正毅ですが、どういうわけか、大韓帝国第二代皇帝純宗(朝鮮王朝最後の王)からは好かれ、信頼されたというのですから、世の中わかりません。

純宗は、非常に神経質で、癇癪持ちだったといわれますが、どう考えても明らかに朝鮮の敵で、諸悪の根源であった寺内正毅とウマが合ったというのですから、世の中難しいものです。

ともかく、寺内にとって唯一といっていいほどうまくいった人間関係が純宗との人間関係で、この一件があって、寺内は、急速に朝鮮研究に目を向けるようになります。

そして、散逸しつつあった朝鮮関係の書籍蒐集を趣味とするようになります。

几帳面に整理、保存し、私設図書館「寺内桜圃文庫」を設立するなど、韓末期、韓国の文化的遺産が逸散しなかった背景には、寺内正毅の朝鮮研究の功績があります。

寺内桜圃文庫の書籍は、戦後、山口県立大学に移され、一部は韓国の慶南大学校に移され、逸散することなく保存されています。

 

景福宮勤政殿。朝鮮王朝第26代国王高宗の作。今となっては立派な歴史的建造物だが、寺内正毅の時代は、できたばかりの新しい建物だった。
歴史建造物の復元というなら、なかなかの大作といえるが、問題は、高宗がここで、本気で、400年前と同様に政治をするため、建てたのである。
日本なら大正時代にさしかかっている時期で、現在の国会議事堂がそろそろ完成するという時期である。ここにずらっと官吏を並べて、チャングムの時代と何ら変わらぬセレモニーを執り行っていたのである。
宗主国である中国からは過分のお褒めにあずかったが、その背後には、
朝鮮が中国に先んじて近代化してもらっては困る中国の都合があった。

 

景福宮慶会楼。朝鮮王朝第26代国王高宗の作。今となっては立派な歴史的建造物だが、寺内正毅の時代は、できたばかりの新しい建物だった。
歴史建造物の復元というなら、なかなかの大作といえるが、問題は、高宗がここを本気で現役の迎賓館として使うため、建てたのである。
これとて、宗主国の中国の本音からすれば、笑止千万、時代錯誤も甚だしいものであったが、朝鮮が中国に先んじて近代化してもらっては困る中国の都合があったから、慶会楼で接遇を受けた中国からの使者は、朝鮮国王を褒めちぎった(これを、『褒め殺し』と言う)。

慶会楼と同時期に完成した日本の建築に、ベルサイユ宮殿もどきともいわれる現在の迎賓館(赤坂離宮)がある。これは当初大正天皇の宮殿として作られたものだったが、大正天皇昭和天皇共々使用をボイコットしたため、迎賓館として使われているのだが、明治政府が鹿鳴館を作ったことからもわかるが、外交接遇施設として使うとなると、このような施設でないと役割を果たすことができない。
慶会楼が、日本のベルサイユ宮殿もどきの迎賓館と同じことができるかといわれれば、まず、できないであろう。

 

朝鮮王朝第26代国王高宗。
朝鮮王朝の中で最も嫌われ、軽蔑されながらも、最長の在位期間を誇る第21代国王英祖の名誉回復に心血を注ぎ、英祖の成した朝鮮王朝研究の整理、保存をすすめ、荒廃した朝鮮王朝関係施設の修復・復元を進めた。
高宗がうまく景福宮を再建できたのは、英祖の研究を通じて、門外不出の景福宮の秘密に精通していたからであった。朝鮮王朝の価値観からいって、善政を行った王ということになる。

この頃の高宗は、自信満々で、ドヤ顔をしているが、朝鮮が中国なしでは生きていけない、より貧乏でみじめな国家となるよう、宗主国の中国からおだてられてられているのに気付かず、自分は正義に則って政治をしていると確信しきっている部分は確かにあった。
のどかな田園風景の広がる首都漢城を当たり前と思っていた高宗であるから、なかなかうまくやっていると錯覚したかもしれないが、現実の世界情勢からは甚だしくズレていたのである。


朝鮮国王、高宗の景福宮復元も、寺内正毅の気に入らなかった
ところで、景福宮は、日本が室町時代の1395年に竣工し、1553年の大火によって焼失するまで、約200年間は正宮として使用されました。

景福宮は、日本によって破壊されるのは、朝鮮併合後のことで、豊臣秀吉の時代、1592年の文禄の役において、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城の時には、既に荒れ果てていました。

というのも、文禄の役時、国王の宣祖が漢城から真っ先に逃亡しており、取り残された漢城民衆が暴動を起こし、景福宮を略奪、放火したためでした。

その後は離宮の昌徳宮が正殿に使用され、景福宮は約270年の間再建されませんでした。

時代が進んで、韓末期、朝鮮国王、高宗は、景福宮の復元に取り組んでおり、景福宮をある程度復元すると、今まで正宮として使用していた昌徳宮から景福宮に引越しました。

で、景福宮に引越した後、韓国併合後に高宗がハーグ特使事件を起こし、純宗に王権を移譲しなければならなくなりますが、その数年後に昌徳宮が火災で丸焼けになるという事件がありました。

かの寺内正毅をして、なんなんだこれはと、苦々しい思いで見ていました。
不満な点は以下の3点

    • なぜ景福宮を、時代の流れに逆行して、400年前とまったく同じに復元しようとするのか。景福宮を歴史公園にするなら別だが、現役の行政施設であるのだから、時代にあった最先端の形にすべきではないか。
    • なぜ、長らく正宮として実際に使われ、歴史的価値のある昌徳宮を火災で丸焼けになっても放置しておくのか。むしろ、歴史的価値のある昌徳宮こそ、焼失前の状態に完璧に修復すべきではないのか。
    • 仮に、景福宮の復元が、現状の政務をこなすうえで問題がないものならばよしとしよう。しかし、現役の行政施設として、機能上甚だ問題があり、そんな景福宮と丸焼けの昌徳宮に何の意味があるのか

なにかと問題が多かった寺内正毅でありましたが、腐っても優秀な官僚であったがゆえ、言っていることは、先進的な視点をもっており、至極まともでありました。
この頃の寺内は、純宗とうまくいっていたこともあり、かなり純宗に肩入れした考え方をするようにもなっていました。

また、寺内となにかとウマが合う純宗も、長らく正宮として実際に使われ、歴史的価値のある昌徳宮こそが、朝鮮の大事な王宮であり、昌徳宮でなければ李王家の祭祀が保たれないと主張しました。

そして、純宗は、昌徳宮内にある焼け残った民家風の小さな建物である楽善斎に留まったことから、寺内正毅は、早急に純宗の生活環境を復旧するため、景福宮の中途半端な復元家屋を昌徳宮に移設し、昌徳宮を焼失前の完璧な形に復元したうえで、景福宮跡地に近代的な朝鮮総督府を建設する計画を進めました。

晋州ビビンパプ

晋州ビビンパプ。これは、有名な全州ビビンパプではなく、あまり知られていない晋州ビビンパプの方。ユッケとナムルが載るビビンパプ。ねっとりとしたうまさが絶品。昔ながらの晋州ビビンパプの特徴が際立っている晋州中央市場の第一食堂のもの。器はステンレス。キムチ3品(うち1品は水キムチ)。スープという、韓国料理にはあるまじき品数の少なさ。ビビンパプ自体も、ユッケ、もやしナムル、大根の葉のナムルだけというシンプルな構成。

注意:晋州ビビンパプは、日本では、食品衛生法違反(食肉衛生基準違反)の恐れのある食品であり、日本国内での合法的な提供は非常に困難なため、韓国に行かないと食べることはできません。日本でも食べることができる全州ビビンパプと大きく異なる点です。

 

祭祀料理が起源といわれるビビンパプは、韓国料理の中でもかなり特殊

そもそもビビンパプとは?

韓国ビビンパプといえば、全州ビビンパプが有名です。
単語に分解して、意味をとると、
[地名]+[ビビム(辛い)]+[パプ(ご飯)]
となります。

全部くっつけて発音するとき、2音節目の[ビビム(辛い)]が「ビビン」に変化します。

それと、釜山人は、最後の「プ」の発音をわりとはっきり発音しますが、流行のソウル江南風の発音では省略します。

理由は、発音すると、イモっぽい(田舎臭い)から。
それで、「ビビンパ」というよく聞く名前になります。

ビビンパプの発生の経緯には諸説あるのですが、中に入っている具材が、先祖をまつる祭祀で使うものと同じであることから、祭祀終了後、神人共食の時間があるのですが、先祖に供えた供物を、コチュジャンをかけてつつきまぜて食べたのが起源ではなかったかといわれています。

ビビンパプの器としては、焼いた石製の器が有名ですが、これは比較的新しいもので、全州中央会館がソウル明洞で全州ビビンパプを販売するにあたって、ビビンパプが食事中冷えないようにするために開発したものだそうです。

全州中央会館は、石焼ビビンパプの本家として名高かったのですが、客の70%以上が外国人(韓国人からは石焼ビビンパプが邪道視されていた節がある)ということが仇となり、コロナ禍で閉業してしまいました。

実は、本場全州では、石製の器は邪道で、真鍮(ノックル)の器を使うのが正式。
これが、韓国で執り行われる祭祀で使われる器と同一なのです。

韓国の祭祀で銅合金が使用される理由は、韓国の正統的な伝統は、韓国人の祖である高句麗人の青銅文明をひきずっていることからきています。

韓国人が高句麗人である証拠は、国名に残っています。
高句麗 → 高麗 → KOREA
というわけで、韓国人は高句麗人の末裔なのです。

韓国で執り行われる祭祀の供物は、日本人から見れば、相当派手で、絢爛豪華なのですが、とりわけ、朝鮮王朝関係者の出身地であった全州の祭祀は、ド派手で大規模でした。

ここの祭祀飯が韓国全土に広まったのがビビンパプという料理なのではないかといわれています。

 

こちらは、有名な全州ビビンパプ。華やかさという点で、晋州ビビンパプとは大きな違いがある。全州ビビンパプも、韓国料理の中では、かなり料理の品数が少ない方であるが、この華やかさが万人受けし、韓国料理の代表格にのしあがっていった。本来、全州ビビンパプは、真鍮の器を使わなければならないという厳格なルールがある。しかし、石焼ビビンパプがすごく有名になってしまった結果、本場全州に行かないと、真鍮の器に盛られた本格全州ビビンパプがなかなか食べられない。そういう意味では、本格的な全州ビビンパプも、晋州ビビンパプ同様、なかなか食べられるものではない。

 

日本でもお馴染み、石焼きビビンパプ。韓国でもビビンパプといえば、このスタイルが一般的である。全州中央会館がソウル明洞で全州ビビンパプを販売するにあたって、ビビンパプが食事中冷えないようにするために開発したものだそうで、比較的新しいビビンパプである。ビビンパプの基本を熟知している全州中央会館が提供している分には何ら問題はなかったが、ビビンパプが存在しない地方の食堂で供される紛い物に、「とにかく石の器で焼けばビビンパプ」というレベルの結構ひどいものがあり、これが、韓国人の間での石焼きビビンパプの評価を著しく下げた。

 

韓国のどこにでもビビンパプがあるわけではない

祭祀飯がビビンパプの源流といわれるもう一つの理由に、朝鮮半島でも特徴的な祭祀文化を持つ全州と晋州に独特なビビンパプがあるからです。

晋州の晋州ビビンパプは、韓国の南方、伽耶国家連合(任那)の首都が起源の、韓国でもとりわけ異質な地方都市、晋州に行かないと、基本、食べることのできないビビンパプです。
晋州には、韓国の他の地域とはまったく異質で起源も謎な文化が多数あるのですが、晋州ビビンパプは、その最たるものです。
伽耶国家連合は、東アジアで最初の鉄器文明をもった国家で、現在の韓国人の祖、高句麗人が青銅器を使っていた時代に、鉄器を使っていました。
にもかかわらず、一切文献を後世に残さなかったことから、謎といわれるゆえんです。
ちなみに、晋州ビビンパプは、全州ビビンパプと異なり、真鍮の器を使う決まりはなく、普通のステンレス(鉄合金)の食器で供されます。


ちなみに、北朝鮮の海州にも独特なビビンパプがあります。
海州周辺は、朝鮮王朝の始祖、李成桂と関係が深く、第二次世界大戦終了まで、朝鮮の首都京城をしのぐ産業的、文化的中心地だった場所です。
北朝鮮の領土となったことで、絶望的なまでに衰退したため、今は知る人の少ない場所です。
海州は、ビビンパプより、冷麺の方が非常に有名で、これが海州ビビンパプの伝承途絶の大きな理由です。
海州冷麺には、水冷麺とビビン冷麺がありましたが、比較的近隣にある咸興と、細く弾力があって腰が強い麺の開発にしのぎを削っておりました。
平壌冷麺は、元々、どちらかというと腰のない太い蕎麦だったといいます。
現在、ソウルには、海州冷麺の専門店があります。
海州冷麺を食べたらわかるのですが、一般的な韓国冷麺が、実は海州冷麺そのものです。
話がズレました。

 

 

晋州中央市場の北側の一角にある第一食堂。客席は、店の外と、店の中と2階にある。最近は、韓国人の間でも晋州ビビンパプが知られるようになってきており、全州ビビンパプにインスパイアされた、華やかなインスパイア系晋州ビビンパプを提供する店が増えたが、ここで提供されるビビンパプは昔からの晋州ビビンパプの特徴をよく残している。

 

ビビンパプを頼むと、出てくるのはこれだけ。日本の一品料理の趣き。韓国料理としては非常に異質である。この異質さ、日本料理との類似性がこの料理の真の文化的価値である・・・と言うと、韓国の伽耶任那)研究家が怒るかな。晋州ビビンパプを知らない韓国人を連れていくと、この少ない品数が原因で、間違いなく店とトラブルになるので、韓国人と連れ立っていくときは、晋州ビビンパプを知っている韓国人に限られる。通常、韓国の食堂では1人客お断りの店も多いが、第一食堂では、1人客でも気兼ねなく食事できる。

 

こちらは、インスパイア系晋州ビビンパプ。別皿のナムルを放り込んで、まぜまぜすると、全州ビビンパプのようになる。インスパイア系晋州ビビンパプの登場で、晋州ビビンパプのねっとりとしたうまさが韓国人に広く知られるようになり、これはこれで、ビビンパプのニューウエーブとして、非常にコアなファンがいる。

 

今や幻ともいわれる晋州ビビンパ

今や幻ともいわれる晋州ビビンパプが有名でないのは、その特徴的なレシピが原因であるのはいうまでもありません。
晋州ビビンパプは、ビジュアル的には派手さはありません。
ご飯が見えないぐらい載せられたナムルと卵黄まで派手な全州ビビンパプと比べると、貧相と言いきっても間違いではありません。

実は、晋州ビビンパプ。
日本では違法な食品であるがゆえに、提供することが禁止されています。
違法である理由は、生の牛肉、それも名指しで禁止されているユッケを使用するから。
「ユッケビビンパプ」という名前でならば、ソウルの広蔵市場のユッケ店の一部で供されているので、例外的に、ソウルでも食べることは可能です。

 

正統的な晋州ビビンパプはあまりに貧相なので、ある程度豪華にアレンジして提供する店が多い

ご飯にユッケと緑豆モヤシのナムルを載せて出されるのが正式な晋州ビビンパプ。
一緒についてくるのはスープだけ。

ツキダシ、箸休めが5品、9品出てくるのが普通な韓国の料理屋にあって、これは、実にありえない。
食堂として、営業が成立しないので、現在、彩りとボリウム感を出すため、キャベツのナムル、大根ナムル、ワラビ、白菜ナムルなどが追加されて、比較的デラックスになっています。
夏にはカボチャのナムル、春、秋には、軽くゆでたわけぎとせり、冬には甘さが絶品であるほうれん草とネギが載せられることがあります。
ツキダシ、箸休めがまったくないのもアレなので、キムチぐらいは出してくれる食堂が一般的です。
とはいっても、かなり貧相なのではあるけれど。

そういう、異色の晋州ビビンパプであるのだけれど、1929年からお店で晋州ビビンパプを売り始めた老舗が存在します。
晋州中央市場の北端付近に、他のお店に紛れるように立地している第一食堂。
晋州中央市場には、ソウルの広蔵市場と違って、もともと食堂がありませんが、そのなかで唯一例外、市場メシが食べられる場所が第一食堂。
ここの晋州ビビンパプが元祖にして、現在でも、ダントツに貧相な外観をした晋州ビビンパプを供する店なのであります。
伝統に忠実だと言ってほしいと言われそうですが。

派手なデコレーションがないという晋州ビビンパプの伝統そのままに、ユッケやナムル一つ一つまで吟味された味は絶品です。

成人男子なら、あっというまに2人前を平らげることのできるおいしさです。
全州ビビンパプは、有名になったぶん、食べ飽きられた感がなきにしもあらず。
見た目は派手だったのですが、どうしても味に深みが感じられない、広く、浅くの印象。
これに対して、晋州ビビンパプは、かなり貧相な外観ながら、味の深さについては定評があり、熱狂的なファンを獲得しています。

 

仏教の一派として7世紀には中国に到達してしまったキリスト教(大陸の宗教事情)

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バベルの塔Google
学術的には史実性が疑わしい建築物の筆頭であるバベルの塔であるが、イラクに行けば、バベルの塔が実在するのを目にすることができる。
バクダットから南方へ70kmほど行ったところにあるバビロン遺跡の中にある。
なお、未来の黙示録の世界では、ここが、ドバイのような巨大で美しい世界の政治、経済、金融、商業の中心都市なのだという。
黙示録の世界においても、バベルの塔は重要なランドマークである。

バベルの塔はあくまで礼拝施設、メソポタミア最古のジグラッドであって、後世のヨーロッパ人が考えたような巨大建築ではない。
「バベル」とは、ユダヤ人のつけた蔑称であって、もともとの名はシュメール語で、エ・テメン・アン・キ「天と地の基礎となる建物」という意味である。
現存するバベルの塔・・・とはいってもあくまで遺跡で、四角形の基礎部分が残っているだけではある。
底面約91メートル×約91メートル、高さは推定で約91メートル。
7層建てであり、各層が七曜を表し、1階が土星、2階が木星、3階が火星、4階が太陽、5階が金星、6階が水星、7階が月であった。
頂上には神殿(至聖所)があり、剣を持ち、天を威嚇する像が建てられていた。
ノアのひ孫、世界最初の国家シュメールの初代専制君主ニムロデが中心となって建設を開始し、言語の混乱により工事が中断していたものを、紀元前7世紀末にナボポラッサル王が再建に着手し、紀元前6世紀前半にその長男、ネブカドネザル2世王が完成させた。

 

中国では、仏教伝来とキリスト教伝来は、ほぼ同時期に起こったため、キリスト教をことさら邪教扱いする動機に欠けていた

プロテスタントでは景教を異端と位置づけているため、7世紀唐王朝キリスト教中国宣教はなかったことになっている

景教キリスト教とすることについては、プロテスタントにとても強い反対意見があります。

カトリックローマ教皇ですら反キリストと言い切る排他的な信者の多いプロテスタントが、非常にカトリックとよく似た神学体系を持つ景教キリスト教とは認めないのも無理のないことです。

従って、現行の正史では、16世紀のカトリックによる宣教をもって、東アジアにキリスト教が宣教されたということになっています。

しかし、もともと、アジアの西方、中東地域で生まれたキリスト教が、なぜ、わざわざ遠回りの、ヨーロッパまわりで伝来しなければならなかったのかという疑問は、拭いきれません。

 

景教とは?

景教とは、俗にネストリウス派と称されていますが、現在のアッシリア東方教会のことで、431年のエペソ公会議で異端認定され、カトリック教会から破門されたものの、1553年にローマ教皇庁が破門の誤りを認め、アッシリア東方教会の一部は、カトリック教会に戻っています(名義上は、カルデア典礼カトリック教会)。

 

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カトリック ローマ教皇フランシスコとアッシリア東方教会総主教カトリコスとの会談。
双方に教義、神学的には大差ないが、未だに分裂しているのは、対立が約500年程度にも及んだので、再び統合することは不可能なほど典礼の形態は異なってしまったためである。カトリックアッシリア東方教会も、聖書講解(礼拝説教)より、典礼を重視する教派なので、典礼の方式が異なってしまうと、神学や聖書解釈がいかに同じであろうと、統合できない。アッシリア東方教会の着衣が黒色を基調とするのは、ほとんど同じデザインの白衣を聖衣として用いるゾロアスター教との区別のためといわれている。(カトリック教会)

 

破門の原因は?イエスの神性と人性は、合計すると100%になるか否か

『イエスは、100%神であり、100%人である』というのが、カトリックの神学のキモですが、そうすると、神と人とを合計すると200%になってしまうではないかと、ネストリウス派が言い出し、破門騒動の口火が切られたのでした。

ネストリウス派は、イエスは、神であり、人であるにしても、合計は100%でなければ数学的におかしいと言ったわけです。

神学の議論の場に数学を持ち出してしまったのですから、収拾がつきません。

ネストリウス派は、『神であるイエスは、人として降誕した』という前後関係を設けるならば、合計は100%で問題なかろうと言ったわけですが、これはカトリックが承服しませんでした。

カトリックは『イエスは、100%神であり、100%人である』ということにこだわるわけです。

で、ネストリウス派を破門することにしたわけです。

 

なぜカトリックが『100%神、100%人』にこだわるかというと

当時、カトリック教会の内部では、初期キリスト教の流れであるユダヤ神学と、ヨーロッパのギリシャ哲学の合体という問題に悩んでいました。

特に聖書の「使徒の働き(使徒行伝)」8章に出てくるサマリヤ人、魔術師シモンの扱いに苦労していました。

彼は、ペテロら使徒に、奇跡を起こす能力を目的に、大金で使徒権の分与を願い出るなど問題行動を起こしていましたが、終生クリスチャンを自称し、教会にまとわりつき、ついには、キリスト教神学とギリシャ哲学を合体させたグノーシス主義を生み出したとカトリックの教会伝承では伝えられています。

魔術師シモンは、教会内において、人気を得るため、当時信徒がなかなか理解できなかった、イエスの『100%神、100%人』という性質を否定すると同時に、霊の清さは、肉体の汚れの影響を受けないということを主張し、『知恵の神学(グノーシス)』を主張しました。
その結果、乱交獣交、酒池肉林、快楽主義によって、どれほど肉体を汚しても、霊は一切汚されることはなく、天国に行くことになんら支障は生じないという考え方を教会の中に蔓延させました。

このせいで、初代教会に快楽主義に賛成する人、反対する人が生まれ、ギリシャ人には伝統の快楽主義を、ユダヤ人には、旧約聖書の律法厳守こそが救済の道だという、イエスの述べ伝えた神学を逸脱した教理を蔓延させることになりました。

新約聖書の後半の大部分は、こうした教会内の分裂に対する使徒パウロによる反駁が中心となっています。
このへんの事情がわかっていないと、新約聖書は特に後半部分の理解がたいへん難しく、読んでも意味がまったくわからないということになってしまうのですが。

ネストリウス派の本拠地であるペルシャには、ゾロアスター教というものがあり、ペルシャの教会でも、快楽は絶対悪とする極度の禁欲主義が一般的でした。

これが、極度の禁欲を悪とするカトリック(実際に、カトリックは、現在も飲酒喫煙はOKで、夫婦間の合理的理由のないセックス拒絶は犯罪)の教皇の逆鱗に触れたということが、むしろ、破門の原因のようです。

そもそも、現代のイランでも、ゾロアスター教の影響が強く残っており、現代イランの宗教といえばイスラムシーア派ですが、イスラムシーア派といえば、スンニ派が武力制裁を加えるほどに問題視する徹底した超絶禁欲主義で、歌舞音曲が理由で死刑判決が出るほど、快楽は絶対悪です。

アメリカ風を吹かして、快楽主義に走ったという理由でイランのパーレビ国王は失脚し、極めて厳格な禁欲主義を欲した民衆により、イスラム革命が起こったくらいです。

 

ネストリウス派アッシリア東方教会)が破門されたのは、十二使徒のひとり、トマスの作った教会という偏見があったからか?

ともかく、当時の微妙かつ不毛な神学論争の結果、カトリックより破門されたのがきっかけで、ネストリウス派アッシリア東方教会として独立し、ペルシャ帝国での宣教活動を進めることになりました。

ところで、アッシリア東方教会を作ったのは誰なのかということになりますが、これは、十二使徒のひとり、トマスになります。

エルサレムから、世界の中心、ローマを経て、当時知られていた世界の西の端、タルシシュ(スペイン)に伝道したのがパウロで、聖書の使徒行伝にも記述があるので、広く知られています。

一方、エルサレムから、当時ローマで知られていた世界の東の端、インドに伝道したのがトマスです。
彼は、インド東部のカルカッタ地方を宣教中に、原住民に殺され、殉教したといわれています。

トマスの東方宣教の信憑性が低い最大の理由は、専門的な宗教指導者教育を受けた使徒パウロとは異なり、そのような教育を受けていないガリラヤの一漁師が、インドのカルカッタまでキリスト教伝道できるだろうか?との疑問があるからです。

確かに、ペルシャには、ユダヤ人の一大コミュニティーがあり、トマスは最初、ペルシャユダヤ人コミュニティーにイエスの福音を伝道したと考えられます。
そこで、なにがしかの変化が起こったことは想像できます。

しかし、彼の伝道旅行は、文献に乏しく、肝心のトマス行伝が、1世紀特有の虚飾に満ちた大仰な文体であったことから、新約聖書の候補に挙がったものの落選し、多くの教会では、トマスの東方宣教は疑問が多く、なかったとすべきとしています。

トマスといえば、 十二使徒のひとりで、デドモ(双子)というあだ名のあるトマスのことですが、十字架の磔刑後、イエスが弟子達に会いに来たとき、たまたまいなかったため、ほかの弟子たちがイエスは復活したという言葉を信用しませんでした。

「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言ったという故事から、特に、パウロによって作られた西方教会における心証が非常に悪く、『疑いのトマス』という別名があるくらいです。

あえて、ヨハネ福音書で、イエスがトマスの疑いを赦したことを特記したところをみると、使徒ヨハネが生きていた時代でも、トマスの心証が悪かった問題はあったのだろうと推測できます。
エス使徒達が、ローマ帝国の中枢のある西方へ宣教することに熱心であった時期、一人トマスが、その反対の東方を目指した理由がわかるような気がします。

アッシリア東方教会カトリックから破門された背景には、トマスの教会という偏見がなかったとも言いきれません。

カトリックと決別したアッシリア東方教会は、創設者トマスの後を追うように、東方宣教を開始し、すでにトマスが創設していた教会を取り込み、7世紀ごろには中央アジア・モンゴルへと宣教の軸足を移しました。

 

トマスが伝えた福音は、誕生間もない仏教に大打撃を与えるものの、人々は、ブッダの言葉とイエスの言葉を混同する

ちょうど、トマスがインドに福音を伝道した時期は、ブッダが仏教を起こした時期と重なります。

もともと仏教は、「日頃善行を積んで、幸福な生活を送りなさい」という現世利益の比重の大きな宗教でした。

しかし、トマスが伝道した福音は、またたくまにインドじゅうに広がり、インド各地に教会が誕生することとなりました。

仏教寺院では、仏教の教義がトマスが伝道した福音の教義にまるで歯が立たず、なかには、トマスが伝道した福音の教義をブッダの教えとする仏僧が現れる始末でした。

優れた教えを、新たなお経として、既存の教えに取り込んでいくという仏教のスタイルはこのとき確立されたといわれます。

新約聖書も、仏教のお経の一部『世尊布施論』として存在するのは、そういった経緯があったためです。

このような混乱が生じた原因は、初期のインド・キリスト教には、カトリック教会のような組織力がなかったためともいわれます。

ちょうどそのような時期に、アッシリア東方教会がインド宣教に現れ、仏教と混合しつつあったインド教会をアッシリア東方教会の教会として回収していくこととなります。

後に、カトリック教会は、宗教改革に伴う劣勢を挽回するため、中国宣教に至る東方宣教を行いますが、その実態は、仏教と混合しつつあった地域教会を回収して、教理の純粋化を図る流れでありました。
その過程で、禁欲的な教理の地域教会を数多く回収していくうちに、カトリック教会自体が、かなり禁欲的な性格に傾斜する原因ともなっていきました。

織田信長の時代のカトリック教会と、明治維新の頃のカトリック教会が、まったく別の教会であるかのごとく性格が異なるのは、これが理由だと思われます。

トマスを由来とする教会(東方宣教)の系譜。ペルシャ人の禁欲とユダヤ人の律法に彩られた禁欲的な東方宣教は、仏教の禁欲的教理に多大な影響を与えた。グノーシス派の快楽論に翻弄されたパウロを由来とする教会(西方宣教)の系譜とはだいぶ異なる。主流は、アッシリア東方教会となった後、16世紀にカトリックに帰還する流れである。傍系が生じた理由は、宗教改革によるもので、改革派系プロテスタント教会が生じている。『イエスは神であって人ではない』とする非カルケドン派教会も、宗教改革のドサクサで発生している。


景教』『景寺』の成立

中国へは、唐の太宗(第2代皇帝)の時代、ペルシア人司祭アラボンにより伝えられ、「光の信仰」という意味の『景教』と呼ばれました。

日本では飛鳥時代のことで、日本が仏教を本格的に受容する以前の話しです。
ペルシア人司祭アラボンは大秦寺を建立し、高宗(第3代皇帝)により「鎮国大法主」に封ぜられ、各地に景寺を建てるよう、詔勅が下されました。

 

仏教の大乗仏教化に多大な影響を与えた『景教

もともと仏教は、「日頃善行を積んで、幸福な生活を送りなさい」という現世利益の比重の大きな宗教でした。

これが、中国において、悪人救済の性格をもった大乗仏教に変化していくわけですが、中国に仏教と同時期に伝来した景教の影響は極めて大きかったとみることができます。

中国からみて、仏教は西方から伝来した新しい宗教であり、景教も仏教と同じ、西方から伝来した新しい宗教に過ぎませんでした。
中国にとって、景教は、仏教の一宗派に過ぎない位置づけであり、仏僧が景教を学ぶということは、ごく普通に行われていました。

聖書も、ありがたいお経の1つに過ぎなかったわけです。

中国に留学した仏僧、空海景教を学んだということは確認されています。

また、浄土真宗の開祖、親鸞聖人が、
『自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえる』
というキリスト教に非常によく似た教理に到達しえたのも、景教の影響ではなかったかと考えられています。

というのも、浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺には、聖書の一部(マタイによる福音書の「山上の垂訓」を中心とした部分)の漢訳である『世尊布施論』が所蔵されているためです。