大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

朝鮮王という職業が超絶ブラックだったわけ

朝鮮王という職業が最初から超絶ブラックだったわけではない

中国が明王朝時代、朝鮮はとても豊かな国だった

中国が明王朝だった時代は、朝鮮はとても豊かな国でした。
国家が疲弊し、倒壊寸前だった室町時代後半の日本とは非常に対照的です。

明王朝の東北部(満洲)の守りを担った朝鮮族

そもそもがモンゴル族影響下で成立した王朝である明王朝明王朝モンゴル族の王朝という説もあるのだが、それを言うと中華人民共和国政府から罵倒されるのでやめよう)にとって、中国東北部満洲)が本拠地であった女真族満州族)がたいへん邪魔な存在でした。
もともと満洲に起源をもち、本拠地が朝鮮半島に移った高句麗人、後の朝鮮族は、女真族の南方にあって、女真族を挟み撃ちできることから、明王朝朝鮮族を優遇しました。

生真面目で細かい性格の朝鮮族のリーダー 李成桂

その中国東北部女真族満州族)を制圧・統治していたのが、朝鮮族李成桂であったというのが事の発端になります。
李成桂女真族を制圧していたのは、高麗王朝に対して武力攻撃を繰り返していて、うざかったからという理由ですが、とかく生真面目で細かい性格の人で、その生真面目さゆえ女真族を殲滅するのではなく、統治して徹底的に利用するということをしていたという背景がありました。

李成桂は、大雑把な性格の人の多かった高麗王朝と折り合いが非常に悪く、高麗王朝は李成桂を謀反の危険ありとして、何度も暗殺しようと画策しました。
中国から見れば、年がら年中、後継者争いで宮中の争いが絶えなかった高麗王朝は、役立たずのなにものでもなく、李成桂に死んでもらっては困るという事情がありました。

明王朝と交わされた高麗王朝打倒と冊封の密約

そこで、 明王朝は、李成桂中国東北部の権益を保証する代わり、高麗王朝を潰しても良いという密約を交わすこととなりました。
そのかわり、 朝鮮王朝が成ったあかつきには、明王朝の面子もあるので、冊封という形で属国関係となってくれということになりました。
これが中国と朝鮮王朝との冊封という関係の始まりでした。

磐石の明王朝−朝鮮王朝体制は、ペストと天然痘パンデミックで倒壊する

ともに貿易立国であった明王朝と朝鮮王朝の影響下、日本は安土桃山文化が花開く

ともに貿易立国であった明王朝と朝鮮王朝の相性は良く、日本史でいうところの徳川綱吉の時代まで、押しも押されもしない磐石の体制を構築していました。
日本では、安土桃山時代のド派手な文化が開花し、裕福だった朝鮮王朝は、壮大な景福宮を造営し、権勢を誇っていました。

江戸時代は鎖国の時代といわれますが、徳川綱吉の時代までは、安土桃山時代の残滓が濃厚に残っていて、日本は朱印船貿易を続行していました。
これも貿易立国であった明王朝と朝鮮王朝の影響によるものです。

ペストと天然痘パンデミックが状況を一変させる

ところが、徳川綱吉の時代、ともに貿易立国であった明王朝と朝鮮王朝は、中国奥地の風土病であったペストと天然痘を世界中にバラ撒いてしまうという事件を起こします。
影響で、明王朝、朝鮮王朝は大混乱に陥ります。
この混乱に乗じて、女真族は中国を制圧。
明王朝を打倒して、清王朝を打ち立てます。
日本は直ちに国境を閉鎖し、制限貿易(鎖国)へ移行し、国内でのパンデミックを防ぎきります。

かつて朝鮮王朝が支配していた女真族に中国が乗っ取られるという大逆転の結果、中国東北部の権益を奪われ、懲罰的な莫大な税を徴収され、朝鮮の国力は疲弊しました。

リストラ、現状維持一筋の経営改革しかできなかった朝鮮王朝

そこで、朝鮮王朝がとった策はリストラ。
保守をもって正義と為す後期の朝鮮王朝にとって、改革・革命は絶対悪。
ひたすら現状維持。

最終責任をとらされる国王は、結構、改革・革命を目指しているのですが、決まって事なかれ主義の重臣たちに、寄ってたかって邪魔されました。

そういう重臣達を権力で一掃しようとした光海君という結構まともな王様がいたんですが、精神を病んだと因縁をつけられて、済州島島流しになってしまいました。
朝鮮王朝の実態は、事なかれ主義の重臣たちに牛耳られた国家であったわけです。

当然王宮もリストラの嵐・・・王妃も六畳一間の長屋住まい

王は無論1名ですが、王妃は正室、側室合わせると十数人に及ぶことがあります。
景福宮が正宮であった時代は、王妃1人に家1軒ぐらいの割り当てだったようですが、国の財政が破綻するに及んで、景福宮を放棄。
隣にある小規模な昌徳宮を正宮としました。

昌徳宮に王宮が移ってからは、十数人の王妃は、6畳一間の長屋住まいとなってしまいました。
昌徳宮の後宮として使われていた建物は、現代人がみたら、ただの6畳一間の長屋です。

終身刑務所と化した後宮

ちなみに、王妃は、王以外の男と密通することを防ぐため、基本的に一生昌徳宮を出ることができません。
王妃の活動できた空間は、長屋と長屋の前の共同使用の狭い庭だけだったというのですから、プライバシーもへったくれもなく、面積的な面で言えば、刑務所より悪い。
ただでさえ狭い昌徳宮に閉じ込められて、長屋住まいというのですから、王妃もたいへんです。

王妃の順位は、王の子供が生まれる、生まれないの問題で大きく変動します。
上のほうが当然、同じ長屋住まいでも、住む部屋も若干広くて、環境が良くて、女官がたくさんつくので、わがままができるということになります。

筆頭の王妃である正室であっても立場は安定ではなく、側室に下剋上されることも頻繁に起こりました。
そこで、王が他の王妃の所に行かないように悪い噂を流したり、他の王妃の料理に毒を仕込んだりといったようなことが比較的頻繁に起こりました。
かなり盛大に王妃同士の足の引っ張り合いが起こっていたようです。
昌徳宮に行けばわかりますが、たかだか25mくらいの長屋に、障子一枚で隔てられた王妃の部屋が十数個並んでいます。

後宮とは、セクハラ・パワハラモラハラ三昧の監禁生活

王との夜の営みの様子だって、他の王妃に筒抜けという恐ろしさ。
イッた時にどんな声をあげたかなんて、翌日の朝には全ての王妃に知られるわけです。
そこでそういうパワハラ三昧、モラハラ三昧の監禁生活を送るっていうのですから、まともな神経の持ち主であれば、気が狂ってしまいます。

実際、王妃が精神病にかかる例は朝鮮王朝も後期になると非常に多かったのです。
しかし、王宮を出るには、死刑に相当する『廃妃』という処分を王から受けないと、王宮の外に出ることができません。

あまりにも精神病が横行したので、朝鮮末期にもなると、『廃妃』という処分がかなり柔軟に運用され、本当に死刑になった『廃妃』はほとんどなく、王に暴行して怪我させたのでなければ、実家に送り返しておわりということになりました。

王宮の台所は小さな旅館の厨房並みの八畳一間

そんな陰謀渦巻く王宮の中での唯一の娯楽、食の責任者が水剌尚宮ですから、その責務たるや非常に重いものでありました。

王様の食事は特に「水剌(スラ)」といい、食膳は「水剌床(スラサン)」、王様のために料理を作る場所を「水剌間(スラッカン)」と言いました。

景福宮が正宮であった時代は塀で囲まれたかなり広い区画が割り当てられ、調理場も王、大君、君、王妃など1人に1軒の建物が割り当てられていました。
それが、全員の調理場が、八畳一間ぐらいのスペースにまとめられました。
小さな旅館の料理場というイメージでしょうか。

聞くも涙、語るも涙のリストラ物語ですね。
そんな貧弱な設備で王宮全体の食事を賄うのですから、必然的に勤務環境は超絶ブラック。

朝鮮王のブラックな執務環境は食事に最もよく現れる

王食事は1日4回。王妃もこれに準じます。
王は太陽を象徴するので、日の出前に起床する義務がありました。

① 初朝食(チョジュバン):早朝、起きてすぐにお粥の膳を食べる。
② 朝水刺(アチムスラ):午前10時の朝食。12品のフルコース十二楪飯床を食べる。
③ 点心(チョムシム):正午過ぎに菓子、餅などを軽く食べる。(昼食の位置づけ)
④ 夕水刺(ソクスラ):夕方5時に12品のフルコース十二楪飯床を食べる。(朝とは異なるメニュー)

 

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十二楪飯床。 写真は、ややハズレっぽいメニュー。
王様の食事では、全部の料理がテーブルの上に載っているわけではない。
まず、肉か魚かどちらを食べたいか気味尚宮(毒見役)に伝え、配膳開始となる。
肉ならば赤飯、わかめスープ。
魚なら、白飯、干鱈汁がでてきて食事開始となる。
肉と言うと、準備はできているものの、配膳されないため食べられない料理が発生する。
魚の場合も同様。
陰陽五行に反する食べあわせは、いくら王様がしたいと言っても許可されない。
どっちを選ぶかで、アタリ、ハズレはあったが、王は事前にメニューを知ることができなかった。
アタリの料理の筆頭として王がことさら喜んだのが、水剌尚宮が王の目の前で料理する鍋(神仙炉:シンソルロ)と、宮廷料理では例外的に味の濃くて辛いユッケジャンだったといわれる。

 

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アタリの料理の筆頭として王がことさら喜んだ神仙炉(シンソルロ)。ただし、運動不足になりやすい王の日常食として出すものであったため、塩分控え目、味も控え目、カロリー控え目、量も少な目であった。

朝鮮王の日課も基本的に土日なし、自由時間基本的になし

王は、午前中に政務、午後に重臣会議、合間の時間に儒学の聴講といった日課をこなし、夕食後は王宮内に住む両親や親戚に挨拶回りをする日課があったので、自由時間がとれるのは午後10時以降と、メチャクチャハードな日課をこなしていました。
ちなみに、朝鮮王朝は、キリスト教国ではなかったので、土日祝日も休みはありません。
超絶ブラックな環境として知られる現在の韓国軍兵士だって、平日の夜と日曜日は自由時間があります。
このハードワークが原因で過労死する朝鮮王が跡を絶ちませんでした。

朝鮮王朝後期の朝鮮王後継争いとは、王位を押し付け合うまるでPTA役員選挙

そんなたいへんな朝鮮王になろうという人はなかなかなくて、王の後継者選びとなると、全州李氏のあいだで、まるでPTA役員選挙のように、厄介事の押し付けあいになることも稀ではなかったそうです。
王と目が合うと後継者にさせられるので、極力目を合わせないようにするといった感じです。