大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

朝鮮王の居住空間

王様の居住空間

家具はありません。
トイレはありません。
押入れもありません。

ドーンと部屋があるだけ。
王様はその部屋の中央に座っているだけ。
必要なものはすべて女官が用意します。

 

では、日常生活はどうするの!?

女官がフル・サポートします。

朝起きたら、着替えを女官が持って来て、布団は女官が持っていってしまいます。
ウ●コを催したら、女官におまるを持ってきてもらいます。

 

専門外の女官にオーダーを出してはいけません

ちなみに、着替えを持って来る女官、布団を持って行く女官、おまるを持って来る女官。
すべて役職名が異なります。
また、布団を持って行く女官に、ウ●コ漏れそうなので大至急おまるを持ってきてと言ってもダメです。
きちんと伝令役の女官に『ウ●コが漏れそうであるので、可及的速やかにおまるを準備して欲しい』と伝えなければいけません。

 

王様は、ウ●コをするのも国事行為

伝令はしずしずと無礼のないように王の前を下がり、王の居る建物より100m程離れた医務官の詰所へおもむき、申請書を作成し、上司と医務官の決裁を受けた後、所定の手続きを経て(おまるは国家機密の扱いなので、手続きなしで王様のおまるを持ち出したら死刑)、おまるを持ち出し、王のところまで戻ってきます。

王様は、果して、無事ウ●コを我慢できるのでありましょうか。

ちなみに、排便後のウ●コは、当直の医務官のもとに届けられ、王様の●便を拝見し(みる、においをかぐ、性状を確認する)、王朝実録に記帳します。
その時間約30分とも1時間ともいわれています。

 

なんでそんなけったいなことをするのか

なぜこのようになってしまったのかというと、19世紀以前の保健衛生の常識が原因といわれています。

伝染病とは、悪魔・悪霊・怨霊、仮に、そういった霊的存在がなくても、悪い空気があれば、悪い空気によって引き起こされるというのが常識でした。
だからそうしたのです。

現在に至っても、韓国に限らず、日本でも、いざ伝染病が蔓延すれば、そういうことをブログなどで主張し、デマを拡散する人々が根強く残っていますから、この考え方が極めて強固に社会を支配していたということになります。

当時は、家具なんてものは家の空気を淀ませる原因だったので、あくまで庶民の道具。
しかも、庶民であっても、家具なんてものは必要最低限にとどめ、仮に寒風吹き荒ぶ真冬であっても、家の中は風通しを良くするのがあたりまえだったのです。
なかんずく、権力者には家具は不要だったのです。

病原体が存在しない病気であるがゆえに、扱いが非常に難しい成人病なるものにまで配慮がいくようになるのは20世紀後半。真冬に窓を明け放ったら、心筋梗塞で死ぬリスクが高まるなんて、誰も考えちゃいません。

トイレは特に、悪い空気の発生源。
だから、権力者のいる場所にはトイレがあってはいけなかったのであります。
水洗トイレなら衛生的で大丈夫だという発想はない。
なぜなら、トイレという存在自体が悪い空気の発生源という認識だったから。

 

朝鮮王族が、家具があって、トイレも押入れもある家に住むようになったわけ

親王(李 垠:イ ウン:1897年10月20日 - 1970年5月1日)は、家具があって、トイレも押入れもある家に住むようになりました。
これは、保健衛生の考え方が激変した結果です。

ルイ・パスツール(1822年12月27日 - 1895年9月28日)、ロベルト・コッホ(1843年12月11日 - 1910年5月27日)が、病原体(細菌、ウイルスなどが伝染病の原因となっていること)を突き止め、ワクチンや血清療法を開発しました。
これが保健衛生の考え方が激変した理由です。

 

実は天皇家でも、明治時代、生活スタイルが一変した

実は、こういった問題は、日本の天皇も例外ではないようです。
明治維新の際、天皇が江戸に行幸するに際して、いつでも戻ってこれるように、京都御所の清涼殿を住んでいた時のままにして、江戸城にやってきました。

それから数十年もしないうちに、ロベルト・コッホなんかが日本にやってきて、日本の医療、保健衛生は劇的に変化します。
権力者である天皇の生活スタイルは、基本長生きすることが目的なので、保健衛生の概念が素早く反映され、生活環境が一変した経緯があります。
そして、天皇京都御所の清涼殿に戻ることができなくなりました。

京都における天皇の形式上の寝所は京都御所の清涼殿ですが、現在の天皇は清涼殿で寝起きしません。
というより、21世紀の保健衛生等々の事情を勘案すると、できないといった方が適切でしょう。
現在は、京都大宮御所という建物が京都御所のはずれにあり、ここに天皇は滞在します。
ホテルのような内装の部屋です。

 

f:id:sirius-B:20191102034036j:plain
王様の食事のみならず、排便もこのような状況下で行われていたのだそう。
この場に来れるのは女官と宦官だけであった。
朝鮮王朝の宦官(内侍)は、明王朝との付き合いで消極的に設置した役職という側面が強かった。
宦官は、女性との結婚が強制され、後継ぎとして養子を迎えることが強制され、文化として定着することのないよう配慮された。

生殖能力のある女官は、すべて王の女とされ、未婚でなければいけなかった。
王様はこういった女官と片っ端から寝てもよかったが、実際にそれをやったのは少数で、むしろほとんど女官には王様の手がつかなかったらしい。

ここに居並ぶ女官1人1人には政治的影響力の強い後援組織が例外なくついており、手をつけたら最後、王様といえども後援組織からたかられ、骨までしゃぶられたという。
高麗時代は、それがあったゆえ、生殖能力のない宦官が寵愛されるということが起こったが、経国大典という王が従わなければならない法律のあった朝鮮王朝では違法であり、王といえども、宦官の重用は許されなかった。
女官に手を付ける場合は、背後の後援組織の利害関係を綿密に調査し、バランスよく手を付けていく必要があり、その調査に宦官が動員されたが、見込み違いで何度も朝鮮王朝が傾いたという記録がある。