大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

京義線

f:id:sirius-B:20191125093554p:plain

日本が敷設した京義線

欧亜連絡鉄道の幹線として計画された

そもそも、日本が敷設した京義本線は、京城(けいじょう)から新義州(しんぎしゅう)を結ぶ朝鮮半島北部の幹線で、新義州から中国の安東(あんとう)(現在の丹東)を経て、南満州鉄道に接続していました。

その南満州鉄道は、満州国営鉄道を介し、シベリア鉄道に繋がっており、ベルリンまで11日かけて走破する国際列車が走っていました。

 

この頃は開城が大韓民国の所属であったようで、汶山(汶山里汶山邑)では京義線は分断していなかった

実際に欧亜連絡の主力だったのは、アメリカのシアトル経由だったが

が、実際のところ、日本に対する軍事上の理由で、日本人にはソ連が容易に通過ビザを発給しなかったことから、シベリア鉄道ルートはほとんど使われず、アメリカのシアトル経由でヨーロッパに行く人が圧倒的に多かったといわれています。

アメリカのシアトル経由でベルリンに行く場合、アメリカのシアトルを経由して、アメリカ大陸横断鉄道でニューヨークに行き、大西洋を横断するルートで約1ヵ月の旅程。

 

京義線が分断されたのは1948年の朝鮮戦争

京義線が現在のような分断された形になったのが1948年の朝鮮戦争後からで、京義線北緯38度線を境に南北に分断されてしまいました。

厳密に言うと、1948年当時、現在北朝鮮にある高麗王朝の首都、開城は38度線より南にありました。
長らく大韓民国領土であった関係で、分断後しばらくは、京義線は開城へ行く路線として機能していました。
李承晩大統領時代、李承晩大統領の失策により、開城は北朝鮮に奪われました。

開城を北朝鮮に奪われてからは、京義線は目的地を失い、当時なにもなかった汶山の駅舎も何もない単式ホームが終着駅となり、ローカル線状態となりました。

現在は、汶山駅周辺に大規模な住宅団地が造成された関係で、汶山駅は3面6線、地上4階建の立派な駅舎を擁するようになり、ソウルから首都圏電鉄が頻繁に発着する駅となりました。

長らくローカル線として放置された韓国側の京義線でありましたが、軍事境界線のそばにマンモス団地が造成された関係で、坡州市内を並行して走る地下鉄3号線(Korail一山線)の混雑が尋常ならざるものとなる一方、KTXの車両基地軍事境界線付近の高陽市に整備され、途中京義線の線路を回送線として使用することになったことから、京義線は再整備され、現在首都圏電鉄化され、毎時5分間隔で、長大編成の電車が中央線と直通運転しています。

軍事境界線のすぐ横にマンモス団地とか、KTXの幸信車輌基地があるっていうんですから、北朝鮮も韓国になめられたものです。

 

開城が北朝鮮に奪われた後、京義線は特に何もなかった汶山(汶山里汶山邑)で分断され、車止めが設置された。分断直後の京義線は、みればわかるとおり、軌間こそ国際標準軌1435mmなのであるが、簡易線で、当然スピードは出せないし、重量のある列車が走ることもできない。

 

京義線の末端が何もないのでは困るので、折り返し駅として汶山駅が設置された。汶山駅ができた頃は、近くにDMZ(非武装緩衝地帯)ができた関係で、政府の移住政策があり、住民の移住が進み、一旦は過疎化が進んだ。汶山駅は島式ホーム1本のローカル駅で、米国製ディーゼル機関車が引っ張る3両程度の客車列車が2時間に1本程度の運行であった。ただ、重量のある米国製ディーゼル機関車を入線させるだけでも相当な線路の改良が必要だったようで、ここに来る列車が長距離列車でなくなっただけで、本数的には戦前より増えたということではある。そのおかげもあって、汶山の人口は再び増加に転じた。この駅舎は1998年の水害で流失。

 

現在の汶山。1996年坡州市市政施行とともに、坡州市の一部となる。駅の所在地が坡州市汶山邑から、坡州市文山邑となり、地名から汶山の文字が消失(戦前の地籍調査の際、漢字表記を間違えていたらしい)。これを受けて2014年、文山駅に改称。DMZ(非武装緩衝地帯)に接しているというのに、容赦なく都市化が進んでいる。

 

現在は、電化され、首都圏電鉄京義・中央線の駅となり、龍山経由中央線方面にはほぼ10〜15分間隔、ソウル駅方面へは30〜1時間間隔で列車が発着する。混雑が激しく、市外バスでは規模的に代替不可能であるため、坡州市からも、京義線増発の要望は強い。しかし、近隣のKTX幸信車両基地と線路を共用している関係上、線路容量が逼迫しており、これ以上の増発が不可能となっている。幸信車両基地回送線新設計画の話はあるが、ソウルの地価が爆騰している関係で頓挫している。

 

満鉄初代総裁、後藤新平が嘆くほど輸送密度は低かったが、国際規格で作られていた

もともと日本の敷設した京義本線は、京釜本線ともども、日本内地の鉄道と比較してもかなり輸送密度の低い路線であり、将来性を考え、国際標準軌(1435mm)で最高速度150kmを想定していたとはいえ、ほとんどの区間で単線であり、3~4両程度の客車が1日数本走る程度の簡易規格の路線でした。

その様子をみた満鉄初代総裁、後藤新平が、こういうことなら、輸送密度の高い内地の鉄道こそ国際標準軌(1435mm)で作っておくべきだったと言ったのですが、時すでに遅し。
日本の鉄道は、今も、軽便鉄道規格の1067mmを使用しています。

線路は軽便鉄道規格のまま。
車体は国際標準軌同様の広幅車を使っているため、ほんの少し速度違反をしただけでもカーブでひっくり返るのが日本の鉄道。
JR西日本の尼崎脱線事故はこうして起きています。

 

北朝鮮側では、欧亜連絡鉄道の機能を維持してはいたが、ボロだった・・・

さて、北朝鮮側では開城から新義州までを結ぶ路線として運行が行われ、平壌 - 北京を結ぶK27/28次列車のルートとなるなど、国際幹線の機能を維持しました。
とはいえ、ほとんどの区間で単線であり、3~4両程度の客車が1日数本走る程度の簡易規格の路線を維持しただけなんです。
しかも、維持したとはいっても、相当いい加減だったようで、最高速度60km/hどころか、制限速度20km/hがかかる区間が相当あると。

なお、北朝鮮では平壌以北を平義線、平壌以南を平釜線(京釜線のソウル - 釜山間も含む)と呼んでいます。

f:id:sirius-B:20191125093636j:plain

北朝鮮側の京義線は、重量級の韓国の列車を走らせると線路が壊れる

2000年6月14日に行われた南北首脳会談で、北朝鮮と韓国が分断路線の再連結に合意しました。
再連結工事は2002年9月18日に着工され、2007年5月17日に試運転が行われ、現在では、京義線は全線復旧しています。

ただし、韓国のATS(自動閉塞機)付きの重い列車が走れる区間は開城までで、そこから先は、線路が壊れるので、ATSなしの軽い北朝鮮の列車か、中国の旧型客車でないと走れないということらしいです。

せっかく全線復旧した京義線も、北の将軍様のきまぐれにより、わずか1年で運行休止となりました。