大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

仏教の一派として7世紀には中国に到達してしまったキリスト教(大陸の宗教事情)

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バベルの塔Google
学術的には史実性が疑わしい建築物の筆頭であるバベルの塔であるが、イラクに行けば、バベルの塔が実在するのを目にすることができる。
バクダットから南方へ70kmほど行ったところにあるバビロン遺跡の中にある。
なお、未来の黙示録の世界では、ここが、ドバイのような巨大で美しい世界の政治、経済、金融、商業の中心都市なのだという。
黙示録の世界においても、バベルの塔は重要なランドマークである。

バベルの塔はあくまで礼拝施設、メソポタミア最古のジグラッドであって、後世のヨーロッパ人が考えたような巨大建築ではない。
「バベル」とは、ユダヤ人のつけた蔑称であって、もともとの名はシュメール語で、エ・テメン・アン・キ「天と地の基礎となる建物」という意味である。
現存するバベルの塔・・・とはいってもあくまで遺跡で、四角形の基礎部分が残っているだけではある。
底面約91メートル×約91メートル、高さは推定で約91メートル。
7層建てであり、各層が七曜を表し、1階が土星、2階が木星、3階が火星、4階が太陽、5階が金星、6階が水星、7階が月であった。
頂上には神殿(至聖所)があり、剣を持ち、天を威嚇する像が建てられていた。
ノアのひ孫、世界最初の国家シュメールの初代専制君主ニムロデが中心となって建設を開始し、言語の混乱により工事が中断していたものを、紀元前7世紀末にナボポラッサル王が再建に着手し、紀元前6世紀前半にその長男、ネブカドネザル2世王が完成させた。

 

中国では、仏教伝来とキリスト教伝来は、ほぼ同時期に起こったため、キリスト教をことさら邪教扱いする動機に欠けていた

プロテスタントでは景教を異端と位置づけているため、7世紀唐王朝キリスト教中国宣教はなかったことになっている

景教キリスト教とすることについては、プロテスタントにとても強い反対意見があります。

カトリックローマ教皇ですら反キリストと言い切る排他的な信者の多いプロテスタントが、非常にカトリックとよく似た神学体系を持つ景教キリスト教とは認めないのも無理のないことです。

従って、現行の正史では、16世紀のカトリックによる宣教をもって、東アジアにキリスト教が宣教されたということになっています。

しかし、もともと、アジアの西方、中東地域で生まれたキリスト教が、なぜ、わざわざ遠回りの、ヨーロッパまわりで伝来しなければならなかったのかという疑問は、拭いきれません。

 

景教とは?

景教とは、俗にネストリウス派と称されていますが、現在のアッシリア東方教会のことで、431年のエペソ公会議で異端認定され、カトリック教会から破門されたものの、1553年にローマ教皇庁が破門の誤りを認め、アッシリア東方教会の一部は、カトリック教会に戻っています(名義上は、カルデア典礼カトリック教会)。

 

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カトリック ローマ教皇フランシスコとアッシリア東方教会総主教カトリコスとの会談。
双方に教義、神学的には大差ないが、未だに分裂しているのは、対立が約500年程度にも及んだので、再び統合することは不可能なほど典礼の形態は異なってしまったためである。カトリックアッシリア東方教会も、聖書講解(礼拝説教)より、典礼を重視する教派なので、典礼の方式が異なってしまうと、神学や聖書解釈がいかに同じであろうと、統合できない。アッシリア東方教会の着衣が黒色を基調とするのは、ほとんど同じデザインの白衣を聖衣として用いるゾロアスター教との区別のためといわれている。(カトリック教会)

 

破門の原因は?イエスの神性と人性は、合計すると100%になるか否か

『イエスは、100%神であり、100%人である』というのが、カトリックの神学のキモですが、そうすると、神と人とを合計すると200%になってしまうではないかと、ネストリウス派が言い出し、破門騒動の口火が切られたのでした。

ネストリウス派は、イエスは、神であり、人であるにしても、合計は100%でなければ数学的におかしいと言ったわけです。

神学の議論の場に数学を持ち出してしまったのですから、収拾がつきません。

ネストリウス派は、『神であるイエスは、人として降誕した』という前後関係を設けるならば、合計は100%で問題なかろうと言ったわけですが、これはカトリックが承服しませんでした。

カトリックは『イエスは、100%神であり、100%人である』ということにこだわるわけです。

で、ネストリウス派を破門することにしたわけです。

 

なぜカトリックが『100%神、100%人』にこだわるかというと

当時、カトリック教会の内部では、初期キリスト教の流れであるユダヤ神学と、ヨーロッパのギリシャ哲学の合体という問題に悩んでいました。

特に聖書の「使徒の働き(使徒行伝)」8章に出てくるサマリヤ人、魔術師シモンの扱いに苦労していました。

彼は、ペテロら使徒に、奇跡を起こす能力を目的に、大金で使徒権の分与を願い出るなど問題行動を起こしていましたが、終生クリスチャンを自称し、教会にまとわりつき、ついには、キリスト教神学とギリシャ哲学を合体させたグノーシス主義を生み出したとカトリックの教会伝承では伝えられています。

魔術師シモンは、教会内において、人気を得るため、当時信徒がなかなか理解できなかった、イエスの『100%神、100%人』という性質を否定すると同時に、霊の清さは、肉体の汚れの影響を受けないということを主張し、『知恵の神学(グノーシス)』を主張しました。
その結果、乱交獣交、酒池肉林、快楽主義によって、どれほど肉体を汚しても、霊は一切汚されることはなく、天国に行くことになんら支障は生じないという考え方を教会の中に蔓延させました。

このせいで、初代教会に快楽主義に賛成する人、反対する人が生まれ、ギリシャ人には伝統の快楽主義を、ユダヤ人には、旧約聖書の律法厳守こそが救済の道だという、イエスの述べ伝えた神学を逸脱した教理を蔓延させることになりました。

新約聖書の後半の大部分は、こうした教会内の分裂に対する使徒パウロによる反駁が中心となっています。
このへんの事情がわかっていないと、新約聖書は特に後半部分の理解がたいへん難しく、読んでも意味がまったくわからないということになってしまうのですが。

ネストリウス派の本拠地であるペルシャには、ゾロアスター教というものがあり、ペルシャの教会でも、快楽は絶対悪とする極度の禁欲主義が一般的でした。

これが、極度の禁欲を悪とするカトリック(実際に、カトリックは、現在も飲酒喫煙はOKで、夫婦間の合理的理由のないセックス拒絶は犯罪)の教皇の逆鱗に触れたということが、むしろ、破門の原因のようです。

そもそも、現代のイランでも、ゾロアスター教の影響が強く残っており、現代イランの宗教といえばイスラムシーア派ですが、イスラムシーア派といえば、スンニ派が武力制裁を加えるほどに問題視する徹底した超絶禁欲主義で、歌舞音曲が理由で死刑判決が出るほど、快楽は絶対悪です。

アメリカ風を吹かして、快楽主義に走ったという理由でイランのパーレビ国王は失脚し、極めて厳格な禁欲主義を欲した民衆により、イスラム革命が起こったくらいです。

 

ネストリウス派アッシリア東方教会)が破門されたのは、十二使徒のひとり、トマスの作った教会という偏見があったからか?

ともかく、当時の微妙かつ不毛な神学論争の結果、カトリックより破門されたのがきっかけで、ネストリウス派アッシリア東方教会として独立し、ペルシャ帝国での宣教活動を進めることになりました。

ところで、アッシリア東方教会を作ったのは誰なのかということになりますが、これは、十二使徒のひとり、トマスになります。

エルサレムから、世界の中心、ローマを経て、当時知られていた世界の西の端、タルシシュ(スペイン)に伝道したのがパウロで、聖書の使徒行伝にも記述があるので、広く知られています。

一方、エルサレムから、当時ローマで知られていた世界の東の端、インドに伝道したのがトマスです。
彼は、インド東部のカルカッタ地方を宣教中に、原住民に殺され、殉教したといわれています。

トマスの東方宣教の信憑性が低い最大の理由は、専門的な宗教指導者教育を受けた使徒パウロとは異なり、そのような教育を受けていないガリラヤの一漁師が、インドのカルカッタまでキリスト教伝道できるだろうか?との疑問があるからです。

確かに、ペルシャには、ユダヤ人の一大コミュニティーがあり、トマスは最初、ペルシャユダヤ人コミュニティーにイエスの福音を伝道したと考えられます。
そこで、なにがしかの変化が起こったことは想像できます。

しかし、彼の伝道旅行は、文献に乏しく、肝心のトマス行伝が、1世紀特有の虚飾に満ちた大仰な文体であったことから、新約聖書の候補に挙がったものの落選し、多くの教会では、トマスの東方宣教は疑問が多く、なかったとすべきとしています。

トマスといえば、 十二使徒のひとりで、デドモ(双子)というあだ名のあるトマスのことですが、十字架の磔刑後、イエスが弟子達に会いに来たとき、たまたまいなかったため、ほかの弟子たちがイエスは復活したという言葉を信用しませんでした。

「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言ったという故事から、特に、パウロによって作られた西方教会における心証が非常に悪く、『疑いのトマス』という別名があるくらいです。

あえて、ヨハネ福音書で、イエスがトマスの疑いを赦したことを特記したところをみると、使徒ヨハネが生きていた時代でも、トマスの心証が悪かった問題はあったのだろうと推測できます。
エス使徒達が、ローマ帝国の中枢のある西方へ宣教することに熱心であった時期、一人トマスが、その反対の東方を目指した理由がわかるような気がします。

アッシリア東方教会カトリックから破門された背景には、トマスの教会という偏見がなかったとも言いきれません。

カトリックと決別したアッシリア東方教会は、創設者トマスの後を追うように、東方宣教を開始し、すでにトマスが創設していた教会を取り込み、7世紀ごろには中央アジア・モンゴルへと宣教の軸足を移しました。

 

トマスが伝えた福音は、誕生間もない仏教に大打撃を与えるものの、人々は、ブッダの言葉とイエスの言葉を混同する

ちょうど、トマスがインドに福音を伝道した時期は、ブッダが仏教を起こした時期と重なります。

もともと仏教は、「日頃善行を積んで、幸福な生活を送りなさい」という現世利益の比重の大きな宗教でした。

しかし、トマスが伝道した福音は、またたくまにインドじゅうに広がり、インド各地に教会が誕生することとなりました。

仏教寺院では、仏教の教義がトマスが伝道した福音の教義にまるで歯が立たず、なかには、トマスが伝道した福音の教義をブッダの教えとする仏僧が現れる始末でした。

優れた教えを、新たなお経として、既存の教えに取り込んでいくという仏教のスタイルはこのとき確立されたといわれます。

新約聖書も、仏教のお経の一部『世尊布施論』として存在するのは、そういった経緯があったためです。

このような混乱が生じた原因は、初期のインド・キリスト教には、カトリック教会のような組織力がなかったためともいわれます。

ちょうどそのような時期に、アッシリア東方教会がインド宣教に現れ、仏教と混合しつつあったインド教会をアッシリア東方教会の教会として回収していくこととなります。

後に、カトリック教会は、宗教改革に伴う劣勢を挽回するため、中国宣教に至る東方宣教を行いますが、その実態は、仏教と混合しつつあった地域教会を回収して、教理の純粋化を図る流れでありました。
その過程で、禁欲的な教理の地域教会を数多く回収していくうちに、カトリック教会自体が、かなり禁欲的な性格に傾斜する原因ともなっていきました。

織田信長の時代のカトリック教会と、明治維新の頃のカトリック教会が、まったく別の教会であるかのごとく性格が異なるのは、これが理由だと思われます。

トマスを由来とする教会(東方宣教)の系譜。ペルシャ人の禁欲とユダヤ人の律法に彩られた禁欲的な東方宣教は、仏教の禁欲的教理に多大な影響を与えた。グノーシス派の快楽論に翻弄されたパウロを由来とする教会(西方宣教)の系譜とはだいぶ異なる。主流は、アッシリア東方教会となった後、16世紀にカトリックに帰還する流れである。傍系が生じた理由は、宗教改革によるもので、改革派系プロテスタント教会が生じている。『イエスは神であって人ではない』とする非カルケドン派教会も、宗教改革のドサクサで発生している。


景教』『景寺』の成立

中国へは、唐の太宗(第2代皇帝)の時代、ペルシア人司祭アラボンにより伝えられ、「光の信仰」という意味の『景教』と呼ばれました。

日本では飛鳥時代のことで、日本が仏教を本格的に受容する以前の話しです。
ペルシア人司祭アラボンは大秦寺を建立し、高宗(第3代皇帝)により「鎮国大法主」に封ぜられ、各地に景寺を建てるよう、詔勅が下されました。

 

仏教の大乗仏教化に多大な影響を与えた『景教

もともと仏教は、「日頃善行を積んで、幸福な生活を送りなさい」という現世利益の比重の大きな宗教でした。

これが、中国において、悪人救済の性格をもった大乗仏教に変化していくわけですが、中国に仏教と同時期に伝来した景教の影響は極めて大きかったとみることができます。

中国からみて、仏教は西方から伝来した新しい宗教であり、景教も仏教と同じ、西方から伝来した新しい宗教に過ぎませんでした。
中国にとって、景教は、仏教の一宗派に過ぎない位置づけであり、仏僧が景教を学ぶということは、ごく普通に行われていました。

聖書も、ありがたいお経の1つに過ぎなかったわけです。

中国に留学した仏僧、空海景教を学んだということは確認されています。

また、浄土真宗の開祖、親鸞聖人が、
『自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえる』
というキリスト教に非常によく似た教理に到達しえたのも、景教の影響ではなかったかと考えられています。

というのも、浄土真宗本願寺派の本山である西本願寺には、聖書の一部(マタイによる福音書の「山上の垂訓」を中心とした部分)の漢訳である『世尊布施論』が所蔵されているためです。