大韓民国観察記

韓国のどうでもいい重箱の隅をつつくブログ。

駱山

駱山。市街地の家々の軒先を上から見下ろすような奇景が駱山公園からの独特の絶景を特徴づけている。韓国といえども普通なら、個人のプライバシー云々が問題となり、一般家庭を至近距離で見下ろすような公園などありえない。が、この地の板子村の歴史が、それをOKにしている

 

駱山は下から見ると、普通の山である。
2000年までは、駱山公園は市民アパートだった。山の上までアパートの住棟が建ち並んでいた。市民アパートは駱山周辺の住環境及び衛生環境向上を目指して1960〜1970年代にかけて順次整備された。
市民アパート建設前は、駱山がソウル市有地であるにもかかわらず、大量の不法占拠民が勝手に住宅を建てており、不法占拠民追い出しを巡っては、韓国が傾くような大騒動があった

 

市民アパートの住棟。駱山のてっぺんまで住棟が建設されていた。
なにぶん韓国の高度経済成長前、国力は北朝鮮以下という悪条件で建設された建物であったため、耐震性もへったくれもない北朝鮮の住宅よりひどいといわれ、幽霊屋敷と揶揄されるような住宅であった。
ここに住めた人々は、朝鮮戦争後の混乱期において、紛う事なき勝ち組であった

 

駱山公園建設に向けて取り壊し中の市民アパート。駱山の市民アパートからの眺めは、非常によかったのである

 

駱山の概要

駱山は、ソウルの東大門から続く駱山公園を構成する低山で、漢陽都城の東西南北にある四山のうちで最も低い標高120m程度の山となっています。

「駱山公園」は、演劇やミュージカルの小劇場が集まる、ソウルの大学路(テハンノ)の小高い丘の上にある展望公園です。

大学路(テハンノ)の恵化駅が最寄り駅ですが、狭い路地が入り組む住宅街を抜けていく必要がある関係で、東大門から駱山城郭道をテクテク歩いていく行き方をする人が多いです。

2002年に開園した比較的新しい都市公園で、特に入場料は必要なく、24時間ライトアップされているうえ、夜間営業がメインの東大門市場に隣接していることもあり、早朝から深夜まで毎日多くの人が訪れます。

現在は、頂上近くまで宅地化が進み、現在、駱山と言っている部分は非常に狭くなっています。

ちなみに、朝鮮王朝時代には、王室で使用する牛乳をを生産するため、牛をここで育てたということから、「酪山」という別名もあります。

西の仁王山や北の北岳山は野生の虎がいて危険、南の南山はムダン(巫教)のお堂があって嫌な雰囲気というなかで、駱山は放牧地で安全、かつ、見晴らしも良かったため、朝鮮王朝時代は、景勝地としても知名度がありました。

そこで、李承晩大統領は駱山に邸宅を構えていました。

 

 

漢陽都城(漢陽城内:漢城)

風水における位置づけ

  • 左(東) 青龍
  • 右(西) 白虎
  • 南(下) 朱雀
  • 北(上) 玄武

「左 青龍」を担当する山であります。

これは景福宮の正殿である勤政殿から南を眺めたとき、左側に駱山があるということで、「左 青龍」というわけです。

この山は、駱駝(フタコブラクダ)の背中に似ているため駱山と呼ばれるようになりました。

青龍とは勇ましいですが、東に開けた漢陽城内(漢城)の地形にあって標高が低く、なだらかな丘のような山です。

山体自体は、北漢山、南山、仁王山と同じくらい大きい山で、朝鮮王朝時代、漢陽城内(漢城)を取り囲む4山の一つに数えられた山でした。

 

現在の駱山。
駱山自体は大学路から晶信洞までにかけての大きな山であるが、そのほとんどが宅地化されており、急傾斜の山肌に住宅がびっしり建ち並んでいる。
かろうじて、稜線が公園化されていて、これが駱山城郭道・駱山公園となっている。駱山公園の北部はカトリック大学の構内敷地に続いている

板子(掘っ立て小屋:バラック)村と駱山の深い関係

ところで、ソウルに住む年配の人に、漢陽都城の東西南北にある四山のうちの東の山は?と聞いても、駱山という答えが返ってこないことが多い。

「駱山?どこにあるの?」
と、意外と土地の人は知らなかったりする。
「大学路(テハンノ)にある山」
と言っても
「そんなところに山はあったっけ?」
ってな具合。
「大学路(テハンノ)の丘みたいなとこ」
と言ってはじめて
「ああ、あそこ、なんかあるね」
といった具合。

 

駱山の板子村。
市民アパート建設のため、強制撤去中。
なお、この時代、韓国には重機がなかったため、人力で解体している

山のてっぺんまで板子(掘っ立て小屋:バラック)村があった駱山

知名度が低い原因は、かつてソウル名物であった板子(掘っ立て小屋:バラック)村が最近まで山のてっぺんまであって、近づくのもはばかられる状態であったという事情がありました。

現在も駱山公園ギリギリまで迫っている住宅街が元板子村だったわけです。

現在、駱山公園ギリギリにある住宅は、自分の土地に住んでいるか、はたまた誰かの土地を不法占拠しているのかは定かではありません。

とりあえず、ソウル市有地ではない場所だったため、撤去対象にはなりませんでした。

 

李承晩大統領の失政がわかる写真。
李承晩大統領が政権をとる前の1945年、イーストマンコダックのカラーフィルムで撮影された日本敗戦直後の京城市内。
韓国の歴史教科書では、日本の植民地時代の京城は地獄であったと書かれているが、なかなかにして現代的な生活をしていたのである。
こういう教科書の記述と写真に矛盾が生じた背景には、李承晩大統領の時代より、日本の植民地時代の方が豊かであってはならない(まともであってはならない)という大韓民国の国是があったからである

 

それから10年後ぐらいのソウルの写真。
朝鮮戦争により、近代的なソウルの街並みは灰燼に帰した。
日本の植民地時代より明らかに貧しくなり、生活水準は甚だしく悪化した。
川は清渓川。カラーの写真は1960年ぐらいの写真で、李承晩政権末期の世情を反映している。

これでもよい方の写真であって、悪い方は、広州大団地の写真にもあるように、軍用テントで生活していた。
女性は、よく言えば専業主婦なのであるが、実態は自宅警備員。わずかに目を離した隙に泥棒に入られて、あるもの全部盗られるので、外に出掛ける自由はなく、どんなに貧しくても共働きなどできなかったのである。泥棒といっても隣近所の住人同士が隙あらば泥棒しあっているという救いようのない状態であったので、井戸端会議も決して和気あいあいとしたものではなく、近隣住民の性格や思想を把握し、不法行為をされないように牽制しあう場であった

 

この世の地獄、板子(掘っ立て小屋:バラック)村

板子の語源は、「板子一枚下は地獄」のことわざもあるように、板切れを意味します。

通常、韓屋は、断熱性と吸湿性を確保するため、土壁に韓紙を貼った家にしますが、不法占拠民の建てる板子村の住宅は、掘っ立て小屋は板を壁にしているため、冬寒く、夏暑く、湿気がこもって居住環境は劣悪になります。

なぜそんな住居にするかというと、不法占拠民同士の厳しい場所の取り合いがあるためです。
少しでも早く家を建てて、広い場所を占拠する必要があるからです。

高級住宅街から掃き溜めまで、様々なレベルがある

一口に板子(掘っ立て小屋:バラック)村といっても千差万別。

ホームレスとはいっても、年収1000万円水準の訳ありの高額所得者が集まる板子村であった江南の九龍村の場合、電気・ガス・水道が通っていて、駐車場には高級自家用車があり、家は水洗トイレで冷暖房完備というハイスペックな仕様でした。

九龍村の場合の問題点は、自立して生活できる水準の高収入な社会人が、なぜ社会から排斥され、長年ホームレスを続けなければならないのかという点に尽きました。

九龍村の住人が、九龍村のことを「タルトンネ(月の街):高級住宅街という意味もある」と自称していたのは、九龍村はひどいとはいえ、他の板子村とは格が違うのだよと言っていたわけです。

一方、かつてあった駱山の板子村の場合は、住人が本当に貧しかった。
家には断熱材がなく、柱と板で囲ったほんとうにみすぼらしい掘っ立て小屋で、屋根がトタン板だったらよいほうで、電気・ガス・水道はなく、トイレも良くて汲み取り、基本垂れ流しで悪臭源だったという惨状でした。

また、そのような貧民街では衛生環境の悪さから、無視できないほどに伝染病の蔓延し、迅速に撤去しないとその地域一帯の住人の生存そのものが脅かされる有様でした。

ソウルにおける占拠の遵法・不法の線引きライン

ソウル江北では、日本統治時代、日本人が所有していた土地が少なからずあり、敗戦で日本人が引き上げていった土地は、大韓民国成立後、国有地化されることはありませんでした。

・・・ということは、日本人が所有していた土地を不法占拠する人々を追い出すには、日本統治時代その土地を所有していた日本人が不動産明渡訴訟を起こす必要があり、それは事実上不可能なので、黙っておとなしくさえしていれば、いつまでも占拠を続けることができました。

また、再開発するにしても、基本的に日本統治時代その土地を所有していた日本人から土地の所有権を譲渡してもらわないと再開発できませんが、それは事実上不可能なので、ここらへんの土地所有の混乱が、現在のソウル江北の再開発を阻んできました。

大韓民国建国時の混乱期、日本人が所有していた土地を不法占拠した人々をみて、あいつらうまくやったなという具合で、韓国人の所有地の不法占拠やソウル市有地の不法占拠も横行しました。

ですが、韓国人の所有地の不法占拠や、ソウル市有地の不法占拠はアウトです。

不動産明渡訴訟を起こす人が韓国国内にいるからです。

 

李 承晩大統領私邸跡。梨花荘。(社団法人李承晩建国大統領記念事業会)
駱山にある。ソウル市記念物(文化財)第6号。一般公開していた時期もあるが、管理上の問題から一般公開をしていない時の方が多い。なんてったって、李 承晩大統領が大嫌いという韓国人がほとんどというなかにあって、建国の父とほめたたえるような博物館に嫌悪感を持つ人が少なくないという事情がやはりある。駱山にバラックが建ち並んでいた頃は、バラックの中に建つ異様に目立つ豪邸であった

李承晩大統領は、面倒な板子村問題は手をつけなかった

駱山の板子(掘っ立て小屋:バラック)村の場合、ソウル市有地の不法占拠だったので、一発アウトのケースに該当します。

ただ、数がものすごかった。

市民アパートを建設しようにも、駱山のソウル市有地にびっしりと建ち並んでいる不法占拠民のバラックを撤去しないと、市民アパートの建設すらおぼつかない有様でした。

江南や道峰山周辺の広大な未利用地は、ソウル市の市域拡大で生まれた経緯があって、駱山の板子(掘っ立て小屋:バラック)村が問題化した時代のソウル市は、人口密集地である江北と永登浦だけがソウル市でした。

こういう場合、たとえ韓国であっても、法律上は、基本的に1軒1軒、不動産明け渡し訴訟を行い、不法占拠民を強制排除していかなければいけませんが、なんせ数が膨大な上、ソウル市で当時蔓延していた結核、コレラ、赤痢、A型肝炎の感染源だったため、一刻も早く不法占拠民を排除する必要に迫られました。

李 承晩大統領は、駱山に私邸を構えていながら、隣近所に密集する板子村の問題は、面倒であったので全然手をつけておらず、ソウル市は、結核、コレラ、赤痢、A型肝炎などなどが蔓延する世界有数の不潔都市となってしまいました。

 

朴正煕大統領私邸。所有は陸英修記念事業会。ソウル市が管理委託を受けている。
駱山からすぐ、東大門市場東の新堂洞 62-43にある。2008年に登録文化財(第412号)に指定されている。これが、中国の毛沢東、北朝鮮の金日成を震え上がらせた歴史に名だたる強権的独裁者朴正煕の自宅である。
この質素さこそ、刮目すべきポイントである。毛沢東も金日成も暗殺者からの攻撃を防ぐ鉄壁の防御を誇る巨大な邸宅に住んでいたが、人の信頼を権力の基盤とする独裁者朴正煕にはその必要がなかったということである。金日成はこの物理的防御の薄さを弱点と捉え、何度も朴正煕の暗殺を試みたが、一度も成功しなかった。朴 正煕は最も信頼する部下の金 載圭の信用を失ったことで、金 載圭により暗殺されたという点は皮肉である。
この住宅は、日本植民地時代の東洋拓殖株式会社の子会社である朝鮮都市経営株式会社が1930〜40年代に奨忠洞と新堂洞一帯に建てた日本人向けの文化住宅の一つで、現存するのはこの1軒だけである。
朴正煕大統領が陸軍准将だった1958年5月から5・16クーデターを起こした1961年まで住んでいたところで、1962年10月に最高会議議長に就任した後、奨忠洞の官舎に移った。
1979年朴正煕大統領暗殺後、遺族は官舎を退居しなければならなくなり、この家に戻った。通用口の増設や増築などされていたが、2010年より、一般公開を前提とした博物館化工事が行われ、家は1960年の朴正煕在住の頃の状態に復元された。表札は現在も「朴正煕」となっている

朴正煕大統領が板子村問題に手をつけたが、モラルなき政府が立ちはだかった

5.16軍事クーデターで政権を掌握した朴 正煕大統領も、実は東大門市場の近所の新堂洞 62-43に家があります。

その家自体は、日本植民地時代の東洋拓殖株式会社の子会社である朝鮮都市経営株式会社が1930〜40年代に奨忠洞と新堂洞一帯に建てた日本人向けの文化住宅の一つでした。

今も表札が「朴正煕」となっているのですが、板子村が密集していた地域のド真ん中に住んでいたこともあって、手始めに、不潔都市問題の解消にあたります。

しかし、予算はない。

資材もない。

ダンプもない、ブルドーザーもない、クレーンもない。

社会正義の実現という崇高な理想に燃えた朴正煕大統領の前に立ちはだかったのは、国民を搾取の対象としてしかみていない政府であり、地方自治体でした。

ただ、朴正煕大統領には、韓国軍の兵士の人力と、対人兵器の銃や戦車があった。

そこで、軍事力を背景に、腐敗した政府組織を脅すという、後に『開発独裁』と名づけられる独裁政治を断行したのでした。

 

広州大団地の門。バスは、3台あったソウル市営バス270番の1台

国民を搾取の対象としてしかみていない行政の棄民政策『広州大団地』

この当時の韓国の常識では、国民は搾取の対象であり、役立たずの公有地の不法占拠民はどこかに追放したいというのが行政の本音でした。

とはいえ、法律上は棄民政策は違法です。

ここは北朝鮮ではなく、大韓民国なのですから、北朝鮮方式でやったら、駐留するアメリカ軍司令がアメリカ本国になにを言いつけるかわかったものではありませんでした。

アメリカが韓国に内政干渉しなくなったのは、経済発展が進んだ1990年代になってからのことで、1960年代は、アメリカが韓国の内政に口をはさみ、在韓米軍を使って韓国政府を脅すというのは毎度のことでした。

アメリカ政府が棄民政策に難癖をつけてきたときの言い逃れはできるようにしておきたい。

公有地の不法占拠民の広州大団地へ強制移住させるという線は特に変更はありませんでしたが、嘘でも詐欺でもなんでもいいので、公有地の不法占拠民の合意をとりつけるという縛りは設けることにしました。

ソウル市内の公有地の不法占拠民の移住団地候補として検討されたのは、現在のソウル市江南に接する農村で、東は現在の広州市中心部周辺から、河南市、西は光明市、安養市にかけてでした。

当時は国家予算が逼迫していて造成工事などするお金などなかったし、そもそも食糧難の解決すらできていない状況だったので、宅地造成より優良農地保全が優先されました。

もともと優良農地ではなく、南漢山山麓の造成工事がさほど必要のない寒村であった広州郡中央洞周辺に、ソウル市内の公有地の不法占拠民の移住団地候補の白羽の矢が立ったのでした。

そして、移住団地は『広州大団地』と命名されました。

広州大団地分譲計画のビラ。駱山一帯の板子(掘っ立て小屋:バラック)村に配布された。このビラを見る限り、ニュータウン造成が行われるようにみえる。しかし実際には荒地が広がっているだけで、造成工事など行われていなかった

ソウル市が駱山近辺の不法占拠民に提示した立ち退き条件は、詐欺だった

当時、ソウル市が不法占拠民に提示した契約条件は次のとおりです。

  • ソウル市は「自給自足都市」として、広州大団地を造成することになったので、住民を募集する
  • 一世帯当たり20坪、一坪当たり2000ウォンで広州大団地の土地を分譲する
  • 広州大団地入居後2年間は土地代の支払いを猶予する
  • 入居後3年後に土地代の支払い義務が発生するが、基本、分割償還すればよく、一括返済を求めない
  • 広州大団地分譲に係わる土地取得税、財産税、営業税、所得税は課税しない
  • 基本は住宅地の分譲であるが、工業用地への転用も可能で、工場を建てて人を雇用してもよい

結論からいうと、この分譲契約はまったくのデタラメでした。

ソウル市は「自給自足都市」として、広州大団地を造成すると約束していましたが、造成工事をする予算など最初からなかったので、造成工事はしませんでした。

政府だから安心、市役所だから信頼がおける・・・という最低限の常識は、この時代の韓国にはありませんでした(今もないという意見は多々あるが・・・)。

そして、この申請書には、「再びソウルに引っ越してこない」という誓約文があり、この申請書に署名したら最後、二度とソウルに戻ってくることはできませんでした。

破格の値段で自分の土地が持てるという嘘にまんまと騙された不法占拠民は、早速申請書を提出し、布団やら、屋根裏に保管していた食器やらを荷造りし、ソウル市が提供したトラックに乗って広州大団地へ出ていきました。

連れていかれた広州大団地はタダの荒地

さて、広州大団地に着いてみると、家も道路もない砂漠のような荒地でした。

周辺に商店や工場など明日からの生活を支える施設は何一つありませんでした。

放り出された不法占拠民は、念のため、移住にあたって、まとまったお金を用意するぐらいの用心はしていましたが、米や野菜を買う場所すらありませんでした。

もちろん、水道も電気もガスもあるわけがありませんでした。

場所がソウル飛行場横という軍事基地の隣という場所だったため、さすがの韓国軍にもかなりの迷惑が及び、朴 正煕大統領の直属でもあった韓国軍はなにもしないというわけにもいかず、軍用テントを不法占拠民に配布するようになりました。

ソウル市と地理的にあまりにも隔絶された土地であり、木を切ってくる山もないため、冬になるまでに暖房器具を調達することもかなわず、風だけやっと防ぐことのできるテントで、飢えた子供たちと働く場所もない住民が真昼からソウルから持ってきた布団にくるまってうずくまるしかない惨状が展開されました。

夏になればテントは容赦ない日差しに焼かれ、大発生した蚊に刺されまくる惨状が展開されました。

トイレといっても、地面に穴を掘って用を足すしかなく、かといって汚物汲み取りがあったわけではなかったので、すぐに汚物が四方に溢れ、広州大団地にはひどい悪臭が立ちこめていました。

また、ゴミ収集だってあったわけではなかったので、広州大団地はゴミだらけでした。

結局、広州大団地で伝染病が蔓延してしまい、収拾がつかなくなりました。

広州大団地の様子。電気はもとより、上下水道はなく、屎尿垂れ流しである。屎尿や汚水の流れる溝の横にキムチを漬けた瓶が置かれており、不衛生なことこのうえない。これで伝染病が蔓延しないほうがどうかしている

 

ソウルへの交通手段は準備しようにも準備できなかった

ソウルへの交通手段はないに等しく、ソウル市営バス270番がバス3台で運行されるだけでした。

これが食糧買出しの唯一の手段として機能しました。

そもそも、経済発展前の韓国においてバスは基本的に輸入車で貴重品。
日本とは国交断絶していた関係で、日本からバスを輸入するという手は使えません。
バスを増やしたくても増やせなかったのでした。

広州大団地がソウル江北と隔絶されていた最大の理由は、現在ロッテワールドがある蚕室あたりで漢江が分流し、永登浦にかけて大蛇行していた影響で、江北と江南を結ぶ橋がありませんでした。

ソウル市営バス270番はその千戸洞まではるばる山道を通って迂回して江北へ渡っていました。

生計に困った広州大団地の住人が、聖水あたりにあった工業団地に通勤するようになると、ソウル市営バス270番の輸送能力はあっというまにパンクしてしまいました。
あまりの惨状にバス3台増車し、ソウル市営バス270番は6台体制としましたがそれでも焼け石に水。

ソウル市の政治家は、10万人も人が集まれば、なんとかやっていくだろうと無責任なことを言って、家も道路もない砂漠のような荒地にソウルの不法占拠民を身の回りの荷物一つで不法占拠民を次から次へと放り出していきました。

広州大団地の様子。スパイを派遣して広州大団地の惨状を取材した北朝鮮政府は、韓国はもう終わりだと自信を深めた。北朝鮮の優位性をアピールするため、世界中に広州大団地の惨状を伝えた。そして、西側諸国は、こぞって韓国から手を引く決断をしはじめた。アメリカもその例外ではなかったのである

悪徳不動産屋が、広州大団地の土地不正転売で荒稼ぎしはじめる

さて、ここまでみてきたソウル市役所の詐欺は、導入部にすぎません。

目ざといソウルの不動産屋が、不法占拠民をでっちあげ、土地投機・転売を目的に土地を取得した定着者(専売有住者)が相次ぎ、大量に安く広州大団地の割り当てをソウル市から受けると、これを高値で転売しはじめるようになりました。

工業団地が造成されるとか、市場が開設されるなど根拠のない売り文句で土地を高値でソウル市内の生活困窮者に転売し始めました。

ソウル市の不法占拠民追放政策はなかなかひどいものでありましたが、広州大団地の土地転売で大儲けをした不動産屋の所業は悪魔の所業といっていいでしょう。

これがなかなか濡れ手に粟のいい商売で、悪徳不動屋は暴利をむさぼりました。

いけいけどんどんで、広州大団地の土地は悪徳不動産屋によって買い占められ、悪徳不動産屋によって買い占められた土地は、広州大団地の全面積の30%に達しました。

もちろん、高値で不動産屋から広州大団地の土地を買った人も、もれなく軍用テントの住人となり、二度とソウルに戻ってくることはできなくなりました。

ソウルでは、現在も不動産屋というと、詐欺師かペテン師並の扱いで、他の人からどう言われようと自分はお金を儲けるからね・・・という金の亡者がなる職業と考えられていて、社会的信用は甚だ低いのですが、これは未だに広州大団地の土地不正転売事件の記憶がソウル市民に強烈に残っているせいです。

 

軍用テントの生活をいつまでも続けているわけにはいかないと、バラックの建設が始まっている。結局、広州大団地は住民の自助努力により生活基盤が整備されていった

ソウル市役所は、京畿道庁に広州大団地問題を丸投げした

さて、この世の地獄、広州大団地に追放された不法占拠民には、入居後3年すると、土地代の支払いの督促がはじまりました。

ソウル市は、悪徳不動産屋が土地買い占め・転売で大儲けする様子を苦々しくみていました。

非常に面倒なことになったので、広州大団地がソウル市外にあることを理由に、広州大団地関連の業務を、ソウル市は京畿道庁にろくな引き継ぎもせず丸投げしてしてしまいました。

広州大団地事業の詳細をよく知らない京畿道庁は、悪徳不動産屋の土地不正転売に鉄槌を下すべく、坪当たりの土地取得価格を一律8000~1万ウォンに大幅引き上げするとともに、土地代金は問答無用で一括返済とし、それまで不要としていた土地取得税・財産税・営業税・所得税などの課税を一方的に通告。

これに応じない者には、土地所有権の没収と財産差し押さえの強制執行を行うと通告しました。

もちろん、住民のほとんどは、ソウル市と合法的に契約書を交わして広州大団地に入植した住人であり、この京畿道庁の強制執行には、根拠法令も裁判所の判決もなく、さらに3年前に住民とソウル市が締結した分譲契約に違反していました。

これではただの詐欺・強盗です。

 

広州大団地暴動

住民は遵法闘争で対抗するが、ソウル市は一貫して不法行為を続けた

ソウル市の不法行為に反発した住人は「払い下げ価格是正対策委員会」を設立し、ソウル市の分譲契約の一方的な不利益改変の撤回と、未造成地へ身の回りの荷物一つで放逐したソウル市の不実対応に対する損害賠償として、課税延期等各種救済措置、職場斡旋などを要求しました。

ところが、ソウル市庁は、広州大団地入植事業は京畿道庁の管轄なので、ソウル市は関係ないと交渉を拒否。
京畿道庁は、広州大団地の分譲契約は住民とソウル市が締結したものであり、京畿道庁の知ったことではないと一蹴。

これに怒った住民は、実力行使に打って出ることになり、警察機動隊と衝突を繰り返し、ソウル市の出張所や官用車、警察車両に放火、派出所を破壊するなどしました。

李 承晩大統領の時代ならば、ここで大統領が軍隊を出動して鎮圧するところですが、朴 正煕大統領は、軍隊の出動を拒否。

ソウル市に事態の収拾を命じました。

慌てたソウル市長(梁 鐸植)が住民代表と会談することになり、移住民の要求を無条件に受け入れることを約束し、敗北を認めたことで、暴動は終息しました。

この事件によって、住民と警察の双方に100名余りの負傷者がでたほか、住民23名が傷害罪、器物損壊罪の現行犯で逮捕されました。

広州大団地暴動。この写真から、ソウル市営バス270番が広州大団地から鐘路5街にある広蔵市場まで走っていたことがわかる

ソウル市役所と住民が和解後に悪徳不動産屋の土地不正転売が再燃

それで事態が収拾するほど韓国は甘くない。

悪徳不動産屋は、広州大団地住民とソウル市との間で交わした覚書を盾に、広州大団地の住民を戸別訪問して、土地代を代わりに払うので譲ってもらえないかと話を持ちかけます。

広州大団地の初期住民には、土地代を払うあてなどなかった人も多かったので、悪徳不動産屋の話しに乗ります。

すると、悪徳不動産屋は工業団地が造成されるとか、市場が開設されるなど根拠のない売り文句で、安く仕入れた広州大団地の土地を高値で転売し始めました。

高値で不動産屋から広州大団地の土地を買った人は、もれなく軍用テントの住人となり、二度とソウルに戻ってくることはできなくなることが延々とくりかえされました。

悪徳不動産屋は濡れ手に粟の暴利をむさぼり、焼け太っていきました。

 

現在の広州大団地。住民の自助努力によって生活基盤が整備されていったことから、軍用テントが建ち並んでた頃の区画割がそのまま残っている

広州大団地事件が制御不能なヘルゲート(地獄の門が開いた状態)化する

韓国の新聞では、「地獄の門が開いた(ヘルゲート)」という言葉が頻出しますが、社会秩序の底が抜けて、手がつけられなくなった状態を指します。

まさに、ソウル市役所が詐欺・強盗を働き、道徳や倫理のへったくれもない守銭奴の不動産屋が、ソウル市を叩き出されてテント暮らしをする貧民を喰い散らかす惨状となってしまいました。

挙句の果てに、1970年代になると、広州大団地の住民の過半数が不動産屋の違法転売による住人という、どうしようもない状況になってしまいました。

 

現在の広州大団地。クモの巣のようになっている電線や、壁に無造作につけられたガスメーターに、住民の自助努力によって生活基盤が整備されていった様子を物語っている。軍用テントが建ち並んでた頃の区画割がそのまま残っているため、道路は狭い

広州大団地事件は北朝鮮の格好の宣伝材料となる

「地獄の門が開いた(ヘルゲート)」状態で泥沼化した韓国の様子を拍手喝采で見ていたのが、他ならぬ金 日成であり、北朝鮮政府でした。

この惨状を知った北朝鮮は、早速スパイを送り込み、広州大団地の惨状を詳細に取材し、米国傀儡の韓国国民の惨状という大々的見出しで、以下のような報道を世界中に発信しました。

  • 韓国政府の大量虐殺(李承晩時代の虐殺を日付をごまかして報道)
  • ソウル市役所の詐欺・強盗(広州大団地事件)
  • 悪徳不動産屋の違法転売(広州大団地事件)
  • 相次ぐ住民の暴動(広州大団地事件を誇張して報道)

北朝鮮がなんぼひどいといっても、ここまでの惨状ではなかったわけで、北朝鮮は自国の様子を嘘偽りなく報道したところで、韓国と比べれば、地上の楽園といっても過言ではない状況でした。

広州大団地の惨状が世界中に流出したことで、これを支援するアメリカともども国際的信用を一気に失い、韓国に投資しようなどという国家はなくなってしまいました。

朝鮮半島南部出身の在日朝鮮人の多くが、北朝鮮に帰還するという禍根を残す事態を招く

また、この情報は、北朝鮮を通じて日本にももたらされ、日本の人権運動の核心的組織でもあった日本社会党を大いに刺激することとなりました。

北朝鮮が進める在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業を支援する日本社会党は、在日朝鮮人を韓国に帰還などさせたら終わりだということで、積極的に北朝鮮への帰還を支援していくことになりました。

その結果、北朝鮮が進める在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業の支援に拍車がかかることにもなりました。

朝鮮半島南部出身の在日朝鮮人の多くが、北朝鮮に帰還するという事態を招き、現在に多くの禍根を残す結果となりました。

 

現在の広州大団地。生活物資の供給を支える商店も、住民の自助努力によって整備されていった。軍用テントが建ち並んでた頃の区画割がそのまま残っているため、道路は狭い

惨状の打開には日本との国交回復という禁じ手しかなかった

「貧すれば鈍する(ひんすればどんする)」ということわざが日本にはあります。

生活や暮らしが貧しくなると、精神的な余裕がなくなり、知恵や頭の働きまでもが鈍って馬鹿になり、品性に欠けた行為をするようになるという意味のことわざです。

貧すれば鈍し、鈍すれば貧する・・・貧しくなると国民は馬鹿になり、国民は馬鹿になるとさらに貧しくなる・・・のデフレスパイラル状態に陥ってしまいます。

広州大団地の違法転売で焼け太った不動産屋の多くが、儲けの噂を聞きつけて、にわかにあちこちから親族がわいて出てきて「オレにも分け前をよこせ」と争い事が頻発する事態となり、一方、配偶者・子息が放蕩、散財に走ることとなり、「悪銭身につかず」のことわざを実践し、かえって貧しくなる結果となっていきました。

徹底した規制強化・厳罰化で正すべし・・・という論理はあります。
ただ、それが正解なら、些細な失敗が原因で死刑・終身刑になる究極の規制強化・厳罰化を実施している北朝鮮は、とっくの昔に地上の楽園を実現しているでしょう。

社会道徳の荒廃は、国民全体の生活を豊かにすると同時に、姑息な横領の道を断つ二正面作戦によってしか正すことはできません。

とはいえ、

  • 国際的信用ゼロ
  • 韓国に投資する国家ゼロ
  • 正直、アメリカも韓国から手をひきたい

こんな状況で韓国国民全体の生活を豊かにすることはできるのでしょうか?

八方塞がりの韓国に、たった1つだけ状況を打開する禁じ手がありました。

日本との国交回復です。

日本と国交回復し、戦時賠償金を元手に一発逆転を図る。

当時の韓国国民の圧倒的多数意見は、日本との国交回復は絶対悪であって、韓国の社会道徳が荒廃して、地獄と化しても、日本と国交を結ぶことは絶対にあってはならないというものでありました。

国会も日本との国交回復を圧倒的多数で否決する勢いでした。

真の豊かさを知らぬ者に、経済成長の重要性をいくら説いても無駄だ、豊かさを強制しなければ、社会の変革は不可能だと朴正煕大統領は自著で述べています。

そういう朴正煕大統領の下に、暴力をもって韓国国民に豊かさを強制する革命を決行すべしという意見をもった過激な青年将校、車 智澈、尹 必鏞、李 厚洛(後の金 大中事件の首謀者)らが集結します。

朴 正煕大統領は、賛同する青年将校らを使い、軍事力と警察力、そして、KCIA(中央情報部)の取り締まりをもって韓国国民の反対意見を徹底的に封殺し、日本との国交回復、経済支援の獲得を強行します。

こうして得た莫大な種銭をもとに、韓国国内の生産設備への投資を行い、爆発的な経済発展を遂げます。

 

広州大団地の位置関係。盆唐新都市の北の端に位置する。
城南市内ではあるが、高速道路が集中していたり、ソウル地下鉄8号線(ピンク)が真ん中を走っていたりするのは、広州大団地事件でのソウル市長との和解内容によるものである。
韓国鉄道公社盆唐線(黄色)は、どちらもソウルの板子村解消問題に端を発する広州大団地問題と、ソウル地下鉄3号線開浦住公団地経由問題の早期解決を図るために政府直営で建設された路線であるため、双方を最短距離で結ぶ線形となっている。
盆唐新都市建設に伴い、盆唐線は延伸されたが、板子村解消問題に端を発する和解内容の都合上、城南市以北で駅が非常に多く設置されることになり、運転速度低下が著しく、ソウルまでかなり時間を要するため、急行鉄道建設の機運が高まり、新盆唐線(ぶどう色:赤)が建設された

日本との国交回復後、広州大団地の産業基盤が整備されはじめる

広州大団地は現在も存在しますが、広州大団地の名前は、広州大団地事件直後より使用されなくなりました。

広州大団地事件後すぐに、広州大団地一帯は城南市に昇格し、地名の変更が相次いで行われ、韓国の地図から広州大団地の名は消滅しました。

その名前の由来であった京畿道広州郡中央洞は、広州大団地事件の直後の1973年の城南市設置により、京畿道城南市となり、2分割され、 寿井区と中院区となりました。
なお、元の地名、中央洞は、城南市中院区中央洞が引き継いでいますが、広州大団地の南の外れの狭い地域に設定されています。
また、寿井区と中院区の区割自体が、広州大団地の痕跡を隠すように設定されています。

とはいえ、Googlemapの衛生写真をみてみると、広州大団地のあった区画は細い路地と狭隘な家屋が密集し、一目でわかります。

現在、韓国政府は広州大団地のあった区画の再開発を鋭意進めており、広州大団地の痕跡の解消をすすめています。

現時点でもかなりの区画が近代的な高層団地に変貌しています。

日本との国交回復後、広州大団地にも工場と上下水道が整備され、ソウルと広州大団地を結ぶ交通が整備され始めました。
現在、巨大な工業団地である板橋テクノバレーが城南市にありますが、これは、広州大団地事後整備事業で整備されたものです。

 

現在の広州大団地。今となっては、広州大団地事件の和解内容で整備された交通インフラ(高速道路・鉄道)が高水準に整っており、ソウル市と盆唐新都市の間にあるという好立地条件から、地価が爆騰している。そのままでは、固定資産税が爆騰し、支払えなくなる問題が多発しており、再開発が急ピッチで進んでいる。特に、軍用テント時代の区画割のままでは土地利用率が低いため、高層化して土地利用率を向上させ、高騰した固定資産税に対処する方向で再開発がすすんでいる

広州大団地に高速道路が乗り入れる

ソウル市は広州大団地住民のための交通対策として、ソウル江北地区と広州大団地をショートカットする蚕室大橋と松坡大路を建設。

また、京釜高速道路を広州大団地に可能な限り寄せるルートで建設し、広州大団地住民が概ね15分程度で江南副都心中心部へ、概ね30分程度でソウル江北地区へ行けるように道路整備を行いました。

京釜高速道路を建設する際は、高速道路建設技術が未成熟であったため、大胆な経路設定ができず、課題を残す結果となりましたが、後にソウル外郭循環路と第2京仁高速道路が広州大団地に牡丹駅付近で乗り入れることになりました。
これにより、広州大団地住民がソウル市内と遜色ない概ね60分程度で金浦国際空港、仁川国際空港に行けるようになりました。

 

旧広州大団地の南に隣接する盆唐新都市。面積的には、旧広州大団地の3倍程度であるが、人口は50万人を超え、ソウル首都圏の人口の多くの部分を占めている。特筆すべきは、日本の多摩ニュータウンを大幅に凌駕する居住環境を実現したところである。広州大団地での大失敗のリベンジを果たしたと言えなくもない。ただし、盆唐新都市が良好な居住環境を実現したことと引き換えに、地価が非常に高騰し、賃貸住居の家賃は東京の都心並と、とんでもないことになっている

広州大団地の鉄道整備

ソウル江北地区と広州大団地をつなぐ電車路線の要望もあり、広州大団地事件当時ソウル市長だった梁鐸植市長の策定した1期地下鉄路線網(代案1)には、当初5号線が今のように江東区に行くのではなく、現在の5号線千戸駅から馬川支線方向に5号線を延伸させ、現在の牡丹駅近くを終点とする計画が盛り込まれた。
ソウル市長が交代し、具滋春市長になってからは、広州大団地鉄道は、ソウル地下鉄6号線に計画変更され、蚕室から松坡大路地下を南下し、牡丹から広州大団地に入っていくルートに変更されました。

1988年には、良才駅から先の建設が予算枯渇が原因で延伸できなくなっていたソウル地下鉄3号線の延伸案として、広州大団地事後整備関連の予算を充てることが計画され、現在の韓国鉄道公社盆唐線のルートを南下し、牡丹から広州大団地に入っていくルートが検討されました。

しかし、ソウル地下鉄3号線計画自体が別の板子村整理問題が絡む開浦洞経由問題で紛糾したため、立ち消えとなってしまいました。

迅速な鉄道整備が喫緊の課題であったことから、最終的に、没案となったソウル地下鉄3号線の延伸案を国が整備することとなり、韓国鉄道公社盆唐線建設をもって決着しました。

旧広州大団地の南に隣接する盆唐新都市。分譲がはじまったのは1990年代で、旧広州大団地がバラックで埋め尽くされている最中に、いきなりこんなものを建設するという無茶振りであった。この無茶振りが、韓国の高度経済成長、漢江の奇跡の真骨頂であるが、建物の耐久性まで構っている余裕はなかったようで、盆唐新都市分譲初期の建物の多くが老朽化問題に直面している。盆唐新都市分譲初期の建物については、国の再開発事業(再建築事業)において、ことごとくタワマン化させ、容積率向上分で建設費用を償還する計画である。無茶振りが韓国の伝統芸になりつつある今日このごろである

広州大団地の名前は消え、盆唐新都市に飲み込まれる

また、別のソウル板子村整理問題が絡む盆唐新都市整備事業が広州大団地と同じ城南市で実施されましたが、盆唐新都市整備事業は韓国が経済発展の頂点にあった1990年代に入ってから事業化された後発の事業のため、予算規模が広州大団地とは数万倍、数十万倍のレベルで異なり、完成した街並みも日本の多摩ニュータウンの居住環境を大幅に超越するレベルとなりました。

広州大団地事件は、現在も新都市整備事業関係者のタブーであって、日本の多摩ニュータウンの居住環境以上の達成が韓国の新都市整備事業の必達ノルマとなっています。

この影響で、城南市の人口は爆発的に増加し、城南市市制施行から10年を経ずに50万人を突破したことから韓国鉄道公社盆唐線の輸送力が急速に逼迫することになり、広州大団地の人員輸送に特化した地下鉄バイパス線建設が必要となり、ソウル地下鉄8号線を旧ソウル地下鉄6号線のルートで広州大団地事後整備事業として建設することになりました。

そして、ソウル地下鉄8号線の山城駅から牡丹駅が広州大団地内に建設されることになりました。

現在、広州大団地は、盆唐新都市に飲み込まれ「老朽計画都市整備及び支援に関する特別法(老朽都市特別法)」の対象地域として、鋭意再開発が進んでいます。

ソウル地下鉄8号線の経路が、当初ソウルの東南端の蚕室が起点で、松坡区と城南市で完結するという異様な経路となっていたことが、広州大団地鉄道整備の名残りです。

ソウル地下鉄としては異例のピンクがラインカラーであったこと、ソウル地下鉄3号線全線開通前のソウル地下鉄6号線や7号線よりはるかに早い時期に完成したこと、電車や駅設備がソウル地下鉄の他の路線と比較してかなり高水準に整備され、ツルピカに整備されたことの背景には、積もり積もった広州大団地問題があり、広州大団地の発展的解消に向け、再開発を実施することを見据えた鉄道整備を行う必要があったためでした。

 

仁王山

景福宮からみた仁王山。温暖化の影響で、厳冬期、朝の気温が-20℃を下回ることは珍しくなったが、景福宮の池は凍る。左が仁王山の主峰、チマパウィ(スカート岩)。南北方向には幅広くなだらかだが、東西方向には薄く急峻になっている

 

大韓民国指定国宝第216号仁王霽色圖 鄭敾作

 

漢陽都城(漢陽城内:漢城)
仁王山は景福宮の西にある岩山である。山体の大きさからいって、南山や、北岳山と同じくらいの山だが、大きく深い山のような雰囲気がある。これは、傾斜が急峻であり、宅地化が進まなかったことに原因がある。もっとも、日本統治期に、南山のスラムを撤去し、日本人街を造成する過程で、南山山麓に多数居住していたムダン(霊媒師)を、野生の虎が棲んでいると噂されていて、もともと住環境が悪かった仁王山山麓に強制移住させた関係で、仁王山山麓の住環境がさらに甚だしく悪化したという理由もある

 

景福宮の西にある岩山、仁王山

急峻な仁王山

仁王山は景福宮の西にある岩山です。

ソウル特別市 鍾路区と西大門区にまたがる標高338.2mの山で、南山や北岳山と大差なく、標高こそピクニック気分で登れる低山なのですが、上部は岩壁登攀となってしまうため、明るい昼間はよいのですが、夜景写真を撮ろうということで、日没後に入山する場合、それなりの登山装備はあったほうがよく、滑落や墜落には注意する必要があります。

基本的に、南北稜線は比較的なだらかですが、東西は非常に急峻に切れ落ちていて、屏風のような山体となっています。

仁王山へのアクセスポイントは、非常に急峻な山のため限られており、古くからのアクセスポイントは、城壁伝いに上がっていくルートであり、社稷壇の裏側の、社稷トンネル上の住宅地に漢陽都城の城壁の入り口があって、そこから登っていくルートがメインルートとなっています。

中腹までは比較的なだらかなのですが、仁王山虎岩あたりから岩稜の世界となり、場所によっては、人の歩く幅ぐらいしか稜線がなく、左右が急峻に切れ落ちている箇所もあります。

ソウル市は可能な限り城壁を整備しようとしているようですが、もともと仁王山のすべての部分に城壁があったわけではなく、痩せ尾根となっている岩稜の部分については、岩稜自体が城壁のかわりとなっていました。

 

虎岩から上部は岩稜の世界となる。電柱があるのは、軍の施設が稜線に沿ってあるため。ミサイル基地がある北岳山と異なり、痩せ尾根となっていて、東西縦走が物理的に難しい仁王山では監視所がある程度ではある

 

大岩壁の仁王山東壁(要ザイル)

登攀の難しそうな大岩壁、チマパウィ(スカート岩という意味)が主峰となっており、山屋のココロをくすぐるなかなかの岩山で、実際、ローケーションの良さから山岳パーティーがロッククライミングの装備を持って仁王山に入ることがよくあります。

チマパウィを直登する東壁に限らず、西側のキチャパウィ周辺など、魅力的な岩峰も数多く、ソウルのド真ん中にある低山ながら、本格的な山行の装備が必要な山となっています。

特に急峻な東壁には長らく登山道がなかったのですが、水聲洞渓谷からチマパウィを巻いてチマパウィ直下のコルに至る登山道が整備され、通仁市場方面から仁王山に登るルート(通称薬水ルート)が今はあります。

ちなみに、仁王山は北岳山より3.8m低く、漢陽都城を構成する4山の中では2番目の山となっています。
それゆえ、健脚ならば、約1時間程度で頂上まで登頂できます。
ちなみに、3番目は南山で、仁王山より67m低くなっています。

 

社稷壇からみた仁王山。左のピークが虎岩。真ん中の大岩壁となっているピークがチマパウィ(スカート岩)。チマパウィ直下が水聲洞渓谷。チマパウィ直下の水聲洞渓谷最上部にソウル都心ではめずらしい清廉な岩清水(薬水)がわいており、飲用可能である

 

仁王山はソウルの写真撮影地としても有名であるが

中腹の仁王山虎岩あたりが、ソウルの写真撮影地としても有名で、Nソウルタワーが頂上にある南山がもっとも綺麗に見える位置にあるため、ここで撮られた写真が最もソウルらしい写真として有名です。

旅行案内書にあるソウルの夜景写真は大抵ここから撮影されています。

ただ、ソウル都心は人口が多く、そこで活動している人々から発生する水蒸気量がもともと多いため、霞んでいる日が結構多く、カメラで写真を撮ってもしっかり南山のコントラストがでるくらい空気が澄んだ日はほとんどなくて、11月から12月ぐらいまでが若干多いかなというくらいです。

ソウルの風景写真に冬が多いのは、そのような事情があるためです。

1〜2月の厳冬期に入ってしまうと空気が凍ってしまうため、空気中の氷粒に光が乱反射して真っ白になってしまい、これはこれで美しくはあるのですが、写真撮影に向くかどうかというと、微妙なところです。

チマパウィ頂上となる仁王山の頂上だと、標高が高すぎるのと、場所的に北岳山と同程度北寄りになるので、江北の高層ビル群が小さく写りすぎてしまい、ソウルの大都会感がなくなってしまいます。

もっとも、あくまで写真撮影にこだわった場合のはなしであって、空気が澄んだ日の仁王山の頂上からの絶景はソウル随一だと思います。

 

景福宮からは見えないが、仁王山の西のピークであるキチャパウィ。チマパウィから痩せ尾根を伝って行く。後方は北漢山


古くからの景勝地であった水聲洞渓谷であるが

仁王山には、水聲洞渓谷という景勝地があります。
景福宮のすぐ西というロケーションの良さから、両班が頻繁に訪れており、水墨画の画題としても盛んに取り上げられています。

有名なのは、鄭敾の水墨画集、壮洞八景帳に収められた水聲洞で、石橋の麒麟橋をはじめ、木一本まで非常に詳細に描写し、士人(ソンビ)たちが風流を楽しむ姿も絵に盛り込まれています。
この絵の士人達が風流を楽しんだ石橋の麒麟橋も現存しており、朝鮮王朝時代の景勝地を現在もたどることが物理的には可能です。

ただ、この水聲洞渓谷。

パラダイスプールが開設され、娯楽施設に改修された社稷壇のすぐ裏手だったことも災いし、1970年代の朴正煕政権下、燃やして然るべき悪の倉庫のような李朝史の筆頭として挙げられ、当時深刻であったソウル市内のスラム解消のためソウル市内各所に建設されていた市営住宅の建設地の一つに指定され、1971年に宅地造成され、玉仁示範アパートが建設されました。

日本統治期以降、この周辺にムダン(霊媒師)が住み着いて、雰囲気が極端に悪化してしまったことも、水聲洞渓谷が開発されてしまった大きな理由でもありました。

ちなみに、サムスン総帥である李健熙のコレクション(サムスン文化財団リウム美術館所蔵)に鄭敾の水墨画集、壮洞八景帳があり、その中でも水聲洞は非常に有名だったことから、これはさすがにやりすぎだったという批判の声があがるようになり、ソウルは2008年2月から玉仁示範アパートを撤去し、1060億ウォンをかけて水城洞渓谷復元事業を施行することにしました。

とはいえ、原型をとどめないほどに宅地造成されてしまっていたため、鄭敾作の水墨画「水聲洞」を参考に、朝鮮王朝期の地面や岩盤を特定。

宅地造成された際の盛土を除去し、松の木等を植樹し、景観を復元すると同時に、セメントが塗られ、転落防止の手すりが設置されていた麒麟橋は、朝鮮王朝時代の状態に戻すため、セメントは斫りされ、手すりも撤去されました。

水聲洞渓谷はかつての姿を復元しましたが、景福宮から水聲洞渓谷に至る部分は、そのままなので、水聲洞渓谷は通仁市場から歩いてすぐのところにありますが、ごくありふれた住宅街の路地を抜けていくことになります。

 

復元後の水聲洞渓谷

 

鄭敾の水墨画集、壮洞八景帳に収録された水聲洞

 

取り壊し中の玉仁示範アパート。水聲洞渓谷は、団地の中のドブ川のようになってしまっていた。日本でも文部省唱歌「春の小川」で渋谷川(厳密には渋谷川の支流の河骨川で代々木八幡の繁華街に歌碑がある)のように、現在は渋谷のスクランブル交差点となっていて、経済成長で消滅した清流は枚挙のいとまがない。ただ、日本の場合、日本特有の風土病でもある清流に棲む寄生虫の日本住血吸虫根絶が絶対必要であった問題があって、経済成長で消滅した清流を復元した例はほとんどない

 

「仁王山」か「仁旺山」か
日本統治期、仁王山の漢字表記「仁王山」を「仁旺山」に変更したという通説があります。

そんなことを誰が言っているかというと、ソウル市で、公式発表によると、「仁王山」の『王』という字の前に日本を象徴する日を入れて、天皇を意味する「日王」に変えたとしています。

が、これには韓国の考古学界が、デタラメ言うなということで、大反発しております。
その根拠は仁王山にあるお寺の名前、仁旺寺にあって、仁旺寺の名前は朝鮮総督府によって改名させられたことはなく、昔から仁旺寺だったというものです。

ただ、この仁旺寺も、初代朝鮮国王李成桂(太祖)により建立されて以来、廃寺・復興を繰り返しており、現在は「仁王寺」となっているので、わけがわからないといわれております。

実のところ、朝鮮王朝時代、仁王山の漢字表記は、「仁王山」と「仁旺山」の両方あって、私文書、公文書ともども、「仁王山」「仁旺山」両方の表記が何の法則性もなく残っています。

ハングルでは、どちらも「인왕산」だったから、漢字の読み書きができる人が少なかった朝鮮王朝期において、大部分の人にとって、どちらでもよかったらしい。
朝鮮王朝の最も公的な記録である承政院日記(政務日誌に相当する文書)によれば、「仁旺山」の表記が102回も出てきており、「仁旺山」表記が正しいらしいということもわかっていますが、「仁王山」表記も少なからずあって、どっちが正しいかは判定不能というところが最も正しいという結論になっています

少なくともソウル市が主張する「仁旺山」が朝鮮総督府の創作物であるというのは、明らかに間違いであろうという説が有力となっています。

 

仁旺山仁旺寺。現在は仁王山仁王寺となっている。
仁旺寺は初代朝鮮王李成桂(太祖)が景福宮を守護する目的で建立した。
世宗の代に「仁旺寺」と名付けられ、仁旺寺のある山も「仁旺山」となった。
第10代国王李㦕(燕山君)の時代には「寺から宮が見える」ということで廃寺となり、燕山君廃位後復元された。
復元後も豊臣秀吉の朝鮮出兵時、焼失している。
1910年頃、禅岩精舎が建てられたことを皮切りに、5つの宗派の11の庵が建てられ、1942年にそれらを統合して「仁王寺」となった。
特筆すべきは、朝鮮総督府により、境内に南山山頂にあった国師堂が移設され、現在もそのままになっていることである。
国師堂が移設された理由は、朝鮮神宮の上に国師堂があるのはよくないという理由であったが、なぜ国師堂があるのはよくないのかというと、国師堂は巫教(ムダン)の総本山であり、国師堂に仕えるムダン(霊媒師)が多数南山で霊媒をしていたからである。
日本国内から呼び寄せた神社の神職の助言に従い、当時まだ野性の虎が棲んでいると噂されていた仁王山の仁旺寺に国師堂を移設し、南山にいたムダン(霊媒師)を仁王山に追放し、朝鮮王朝で甚だしく社会問題化していた巫教(ムダン)の弱体化を図ったのである。
現在もこの悪影響が仁王山には残っていて、仁王山にはムダン(霊媒師)が多数住んでいて、仁王山に陰鬱な雰囲気が漂う原因になっている

 

仁王山と虎

風水の虎

風水では、

  • 左(東) 青龍
  • 右(西) 白虎
  • 南(下) 朱雀
  • 北(上) 玄武

といわれ、仁王山は、「右 白虎」を担当する山であります。

これは景福宮の正殿である勤政殿から南を眺めたとき、右側に仁王山があるということで、「右 白虎」というわけであります。

アムールトラ。1868年(明治元年)まで、仁王山には野性のアムールトラが生息していた

 

実際に仁王山は野性のアムールトラの生息地だった

虎について、風水だけの話ならばよかったのですが、実際に仁王山にアムール虎の生息が複数確認されていました。
日本には有史以来虎がいたことはありませんが、朝鮮半島は、そもそもアムール虎の生息地でした。

「仁王山を知らない虎はいない」ということわざが韓国にありますが、単に風水上のことわざというよりは、実際に虎がいたということで、とても有名な山でした。

仁王山において、最後に虎の生息が確認されたのが1868年といいますから、日本でいうと明治元年まで、仁王山に虎がいたことになります。
1868年、北岳山に追い込んで捕獲した5匹を最後に、漢陽城内における虎の捕獲記録は途絶えています。

ちなみに、アムールヒョウも1962年まで韓国の山岳に生息しており、最後の個体は1962年に慶尚南道陜川郡で捕獲され、1975年に動物園で死亡しています。

北岳山の学舎で知られる高麗大学校の紋章が虎なのは有名ですが、創設者が生きていた時代にはまだソウルのド真ん中に虎がいたことになります。

 

アムールヒョウ。豹とはいえ、アムールヒョウは体格が大きいため、見た目が虎そのものである。江戸時代までの日本では、虎と豹の区別があいまいで、どちらも虎と認識されていた。エサが競合するため、アムールトラと競合関係にある。
通常、虎の方が強く、豹は虎の陰でコソコソと活動する傾向がある。そのため、アムールトラ根絶後の朝鮮半島にあっても生きながらえ、野性の個体は1962年まで確認されている。

 

実際、漢陽城内(漢城)を縄張りとするアムールトラによる獣害が絶えなかった

トラの縄張りの広さは、獲物の多さや環境によって大きく異なりますが、一般的にメスで5キロメートル四方、オスはその数倍となる約30キロメートル四方に及びます。

仁王山に虎がいたとすると、北は北漢山から、南は南山までが縄張りとなるため、都心全体がトラの縄張りに入ってしまいます。

実際、朝鮮王朝期、漢陽城内では、民家はもちろんのこと、王宮においても虎やヒョウによる獣害が跡を絶たなかったといいます。
なお、単独行動で知られる虎ですが、オスは自分の縄張りの中に複数のメスを抱え込む傾向があります。

従って、1匹オスがいれば、数匹のメスがいる可能性があり、1匹捕獲したら終わりというわけにはいきません。
その、げに恐ろしきアムール虎ですが、豊臣秀吉の時代の朝鮮出兵の時、日本の武将による朝鮮侵略を撹乱させたという歴史があります。

 

高麗大学校(KOREA UNIVERSITY)の紋章。ガチのアムール虎である。本当にソウルに野性のアムールトラがいた時代を知っている人が作った紋章なので、メチャクチャ格好良い。
ちなみに、英語圏の人々がこの紋章を見た場合、あまりの格好の良さに、韓国の最高学府、ソウル大(SEOUL UNIVERSITY)と誤認することが結構ある。

 

日本の朝鮮侵略を撹乱させたアムールトラ

豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役:壬辰倭乱・丁酉再乱)

朝鮮出兵の発端は、豊臣秀吉が中国の明への侵攻を目論んだ時、秀吉は朝鮮に対して、協力を求めたわけですが、これを拒否されため、報復として秀吉は、文禄元年(1592)に朝鮮に派兵しました。

そこで、豊臣秀吉の子飼いの武将といわれる加藤清正を筆頭に日本の武将が続々と朝鮮へ渡りました。

当初、朝鮮の武官らは、ポルトガルのもたらした鉄砲などの新兵器が日本にあることを知らず、長年続いた戦国時代の影響で戦い慣れした日本の武将を過小評価していたようで、日本の武将など恐るるには足らずと考えたようです。

また、元々は騎馬民族であった朝鮮人ですが、この時代には馬を使った戦闘は行っておらず、馬に乗って駆け回っていたのはむしろ日本の武将であったといいます。

この状況に乗じ、加藤清正、小西幸長、黒田長政らは電撃戦を仕掛け、朝鮮半島を縦断し、加藤清正に至っては満洲にまで達します。

明治維新の時もそうですが、対日本戦における朝鮮の負けパターンというのは、日本の技術革新を知らずに戦ってやられるというパターンになっています。

 

碧蹄館趾。これは、朝鮮出兵の時に碧蹄館の戦いで破壊された碧蹄館ではなく、その後3km東方に移転し再建された碧蹄館である。移転した理由は、移転前の碧蹄館は難攻不落どころか、防御に全く不適だったからというものである。隣接して高陽郡庁が設置され、碧蹄は1960年頃までたいへん栄えていた。ソウル地下鉄3号線の終点となる予定の大きな街であったが、1980年代の一山新都市開発の影響を受けて、ソウル地下鉄3号線建設は中止となり、現在は衰退している

朝鮮王宣祖の国外逃亡も重なって、朝鮮南部は日本領になりかけた

朝鮮王朝がもともと日本にやられるような弱い王朝だったのかというと、そういうわけではありませんでした。

ただ、時期的に、朝鮮王朝ダメ王ランキングトップ3(第10代 燕山君、第14代 宣祖、第16代 仁祖)に名を連ねる破壊的なまでのダメ王、李鈞(宣祖)が統治していた時代であったという点が朝鮮にとって実に不運でした。
また、この時代は、破壊的なまでのダメ王が連続した時代でもあって、傾いた国を建て直そうとした名君(光海君)をクーデターで潰すということまでやっています。

豊臣秀吉の朝鮮出兵は、1年前から確たる情報があり、予知できたものでしたが、格下の日本が朝鮮に攻めてくることはありえない、攻める度胸すらない相手に対策を練るなど朝鮮のメンツが潰れるとして、李鈞(宣祖)は日本の侵略対策をあえて拒絶するという暴挙に出ました。

さらに、本当に日本による侵略が発生したとの一報を受けると、直ちに明国(中国)に逃亡してしまい、明国(中国)に軍事支援を要請するという体たらくでした。
明王朝は漢族の王朝で、朝鮮と厳しく敵対した満州族(女真)の王朝の清王朝と異なり、朝鮮に対して比較的友好的でしたから、国を捨てて逃げてきた李鈞(宣祖)を受け入れる度量がありました。

とはいえ、明王朝も朝鮮国内に明国の本陣である碧蹄館等を有する都合上、日本から奪還する必要性に迫られ、明国は、李如松を大将に据え朝鮮に出兵し、碧蹄館奪還を図ります。

碧蹄館は、ソウルと板門店を直線で結んだ線の中間点の山中にあり、桶狭間に似た難攻不落の地にありました。

ただ、このとき碧蹄館の戦いに出陣した日本側の武将は、桶狭間の戦いの経験者であり、碧蹄館の攻略は得意中の得意だったことが明国にとって不運でした。

明国にとって著しく不運だったのは、桶狭間の戦い同様、碧蹄館の戦いも豪雨の中での戦いとなり、明国の頼みとする大砲・鉄砲などが一切使用できませんでした。
明国の戦い方は、大平原で大砲・鉄砲を連射し、物量で圧倒する戦い方で、槍や刀の装備が日本の武将と比較して著しく貧弱でした。

豪雨の中では火薬や火縄が濡れて大砲・鉄砲が使えないのですから、槍や刀を使った接近戦を得意とする日本の武将と、豪雨の中では戦えるわけがありません。
雨が止んだ直後に、谷間に細長く延びた大将の本隊を騎馬隊が横っ腹から一点突破で揉み錐のように奇襲し、短時間で分断する桶狭間戦法が見事的中し、明国軍は大混乱となり、壊走することとなりました。

あわてた明国は、これ以上の日本による侵攻をくい止めるため、国を捨てて逃げてきた無能な李鈞(宣祖)を無視して直接豊臣秀吉と話をつけ、停戦の合意形勢を図りました。

実は、経済的にそこそこ豊かであった安土桃山時代の日本を冊封関係に取り込みたいという明国(中国)側の思惑もあり、李鈞(宣祖)に無断で、済州道、慶尚道、全羅道、忠清道の日本への割譲を認めるかわり、今までどおり冊封による統治を認めろと要求してきました。

豊臣秀吉としては、一旦は朝鮮四道の割譲を既成事実化した後、実力で冊封関係を破棄する腹づもりでありました。

 

現在は土台のみが残る遺跡のようになっているが、碧蹄館は、1950年の朝鮮戦争まで老朽化による損壊は多々見られるものの、健在だった。この碧蹄館を破壊したのは金日成である。北朝鮮は中国の同盟国とはいうものの、金日成は明国・清国の本陣であった碧蹄館の歴史的価値を認めていなかった。有り体にいえば、金日成はそれだけ中国が大嫌いだったのである

実は朝鮮は虎害、豹害がものすごく、日本同様の統治が無理な状況だった

ところで、16世紀の朝鮮の山には、朝鮮王朝が対応しきれないほど、アムール虎やアムールヒョウが多数生息していました。

これが明国が直接朝鮮半島の領有をしない大きな理由でもありました。

日本の武将たちも噂として、大陸に、極めて恐ろしい獰猛な野獣である虎がいることは聞いて知ってはいましたが、侵攻直後から早速日本の武将の陣地が虎の襲撃を受けています。

最初は戦闘後に亡くなった兵士の遺体に虎や豹が群がるようになり、次第に遺体を量産してまわる加藤清正の軍に虎や豹がまとわりつき、加藤清正の軍が虎の群れを引き連れて歩き回る状態となりました。

アムール虎やアムールヒョウの本拠地である白頭山周辺の明と朝鮮の国境付近にまで至ると、加藤清正の軍にまとわりつく虎やヒョウも増えていき、しまいには馬や家臣が襲われるようになってしまいました。

大きな虎が2日連続で襲ってきたことから、加藤清正はこれに怒って火縄銃を虎に向かって発砲したといいます。
これが加藤清正の虎退治の顛末です。

 

江戸時代に描かれた加藤清正の虎退治の錦絵。「佐藤正清」とあるのは、江戸時代、加藤清正の武勇を伝えることは違法だったため、名前を改変したためである。バレバレの仮名を使うところに江戸時代のおおらかさがみてとれる。虎退治に使われた加藤清正の十文字三日月槍もしっかり描かれている

加藤清正本人公認の肖像画。実は、理知的で、端正な顔立ちの人である。だが、虎退治のイメージが先行し、後年、筋肉バカというか、脳筋MAXの錦絵のような猛将像で有名になった。歴史の捏造という物語が加藤清正の虎退治の物語に付け加わる。第二次世界大戦後、修身の教科書に筋肉バカ&脳筋MAXの虎退治の錦絵があるのがGHQの目に止まり、日本の馬鹿げた非合理的な精神主義が蔓延した軍国主義の原因を作ったのは、こんなデタラメな教育をしたからではないかということで危険視され、加藤清正の虎退治の話はタブーとなった。加藤清正の虎退治の歴史はなかったことにされた

 

豊臣秀吉の時代の武器で虎と戦うのは相当無理があった

現代でも、体重の重いアムールトラを仕留めるには、ハイパワーな猟銃で吹っ飛ばさないと確実には倒せません。

虎は、坂道を転がってくるピアノより重いですから、ピアノをバラバラに吹っ飛ばす威力のある猟銃でないと虎の脚は止まらず、拳銃ではもちろん無理で、対人用のM16やAK47などのアサルトルライフルを連射したとしても厳しい。

また、虎は待ち伏せ型の狩りを行う肉食獣で、あのトラ柄は、森林の風景に溶け込む効果があります。
音を立てず獲物が通りそうな場所に潜伏し、獲物が偶然通りかかった瞬間、至近距離から突然襲いかかってきます。

銃は基本的に、安全な遠方から狙って撃てる敵でないと攻撃できないという特性があるため、虎のような待ち伏せ型の攻撃パターンを最も不得手とします。
発射までに時間がかかり、射程距離の短い単発の火縄銃では、虎の最初の待ち伏せ攻撃を防ぐことは不可能です。

朝鮮出兵当時の日本の武士は、接近戦対策のため、槍を主使って戦っており、叩く、突くを主体とした槍術の達人が槍を構えている状態ならば、虎の待ち伏せ攻撃はかわせるかもしれません。
加藤清正が、火縄銃で虎を仕留められたというのは、加藤清正の馬や家臣が襲われた後、執拗に追撃し、逃げ回る虎を追い詰めて仕留めたわけで、最初の虎の待ち伏せ攻撃はかわしきれておらず、死者がでています。

 

加藤清正が仕留めた2体の虎の頭骨。現物。防腐処理済み。徳川美術館所蔵。なにごともなければ、タダの古い虎の頭骨だったのだが、GHQによる歴史改変の経緯があるため、加藤清正の虎退治の物的証拠であるこの頭骨に俄然秘宝としての価値がつくことになった

加藤清正の虎退治の錦絵で有名になった十文字三日月槍現物。東京国立博物館所蔵。欠けた片鎌は打ち直して修復してある。これも、GHQによる歴史改変の経緯があるため、加藤清正の虎退治の物的証拠であるこの槍に、俄然秘宝としての価値がつくことになった

 

日本で朝鮮の虎に国一国以上の価値がついたことから事態は急変

ところで、朝鮮征討の便りとして、加藤清正が虎の皮や骨を豊臣秀吉に送ったところ、豊臣秀吉が加藤清正の勇猛果敢さをベタ褒めし、この知らせを受けた亀井茲矩なども鉄砲で虎を狩って続々と虎の皮や骨を豊臣秀吉に送りました。

亀井茲矩の退治した虎などは、後陽成天皇の叡覧に供され、茲矩の勇猛果敢さが天皇からベタ褒めされたとあって、豊臣秀吉は調子に乗って朝鮮に出陣していた諸将に「虎御用」と称して、虎狩りを命令しました。

戦国時代の武将にとって、勇猛果敢さが客観的証拠をもって証明されることは、一世一代の大武勲であり、国一国以上の価値がつきました。
これが虎退治で達成されるとなれば、危険度外視、採算度外視で取り組んでも収支があうわけで、日本の武将は、朝鮮征討そっちのけで虎退治に精をだしたとの記録があります。

他に 黒田長政、 菅正利、 林直利、 島津義弘、 鍋島直茂の虎退治は有名です。

 

虎退治は朝鮮にとっても多大なメリットがあったから、甚だ厄介であった

そもそも朝鮮では、虎だけでなく、アムールヒョウなど大型肉食動物がそこらじゅうにウジャウジャいたがゆえに、朝鮮では、虎やヒョウに日本で評価されたほどの希少価値などありませんでした。

虎やヒョウの生息数が減れば、農地開発も容易になり、街道の交通も容易になり、国力が増すことはわかっています。
ですから、本来ならば、多大な公費を支出しても朝鮮王は虎退治をする必要があったわけです。
しかし、多大な人的犠牲がでることも覚悟しなければいけませんし、国家財政を大幅に圧迫するがゆえに、虎やヒョウの駆除には容易に手がだせませんでした。

その厄介極まりない虎狩りを日本の武将は嬉々としてやってくれていたわけで、朝鮮としても日本の武将が虎やヒョウの駆除をやってくれることに大きなメリットがありました。
ただし、あまり日本の武将をのさばらせておくと、間違いなく国を盗られる可能性があるわけで、反撃しないわけにもいきません。
ここが、朝鮮が悩ましく思っていた部分でした。

明国が提示した朝鮮四道割譲案は、国を捨てて真っ先に逃亡した李鈞(宣祖)の大失態を勘案すれば妥当な話で、朝鮮半島に、ある程度、虎がいなくなるまで日本の好きにさせて、その間に明国軍の軍備を整え、用済みになれば、大軍勢をもって日本を玄界灘に追い落とせばよいというのが明国皇帝の思惑でもありました。

 

李舜臣将軍の肖像画。光化門大通りの銅像は脳筋MAXの傾向があるが、この人も本当は理知的で、端正な顔立ちの人であった。ちなみに、同時代を生きた宣祖や元均の肖像画は失われている。元均に至っては、現在では韓国人から「元均の名を聞くだけで怒りがこみあげる」というぐらいの国賊として評価が定着しているので、肖像画が失われても気に留める人はだれもいなかったのであろう

実際は虎が理由で、政治的駆け引きの中で浮きまくっていた李舜臣将軍

ところで、朝鮮側の英雄である李舜臣将軍ですが、今日の高評価とは裏腹に、存命時の評価は低かったことがわかっています。

李舜臣将軍は、戦いの才能にあふれている反面、愛国心が強すぎ、あまりに不器用で一途であるが故に、一旦日本軍を前にすると、国王の『待て』という命令が基本的に聞けなかったことにあります。

国王の李鈞(宣祖)が李舜臣将軍を警戒していた理由はここにあって、国政という一筋縄ではいかない世界においては、このような李舜臣将軍の性格は致命傷であって、李舜臣将軍を野放しにするわけにはいきませんでした。

そういった政治的駆け引きを鋭く察知し、うまく立ち回ることを約束し、一方で李舜臣などいないほうがよいなどと讒言し、口先だけで国王に取り入ろうとする愚将が雨後の筍のごとく朝鮮国内に発生することになりました。

結果的に、李鈞(宣祖)は、口先だけで国王に取り入ろうとする愚将を重用することにします。

基本的に、李鈞(宣祖)という人は、自分が朝鮮で最も有能でなければならないと考えていた人ですが、朝鮮一有能となるためには努力をする・・・のではなく、自分より有能な人間を排除すれば、自分は朝鮮一有能になれるという考え方をする人でした。
排除の仕方は、追い出すとか、パワハラするとか、いろいろありますが、国王になってからは、もっぱら処刑するという方向に走りました。

現代でも、自分より優秀な部下は不要と言って、パワハラした挙句、潰す上司は数多ありますし、韓国にも李承晩大統領とか、北朝鮮の首領さまとか枚挙の暇はありませんが、・・・こういう輩が会社や国を潰します。
李鈞(宣祖)もその例に漏れず、豊臣秀吉の朝鮮出兵という緊急事態の真っ只中に、朝鮮を滅亡の縁に叩き込むこととなりました。

うまく立ち回ることを約束した元均ら愚将のしたいようにさせることに決め、有能な李舜臣は、有能であるが故に危険視し、反逆罪で処刑するという判断をしてしまいます(後に撤回)。

 

有能な李舜臣将軍を処刑して自分が朝鮮一の賢者になろうと図った李鈞(宣祖)の末路

元均のような口だけ一人前の生半可な愚将が、戦国乱世で鍛え抜かれた百戦錬磨の日本の武将とまともに戦えるかというと、そうではなかった。

讒言の愚将、元均は、李舜臣を失脚させ、三道水軍統制使となって朝鮮水軍全軍の指揮権を握ったのですが、巨済島海戦(漆川梁海戦)で、藤堂高虎ら率いる日本水軍に強襲され、朝鮮水軍を全滅させ、大敗。

元均の生死を確認可能な人間がいなかったため、元均は行方不明という最悪な結果になっています。

宣祖は、元均らが、もう少しまともに戦えるとふんでいたようですが、本当に口先だけで何もできない愚将ぶりに慌てたのは李鈞(宣祖)の方でした。
それが李舜臣処刑前だったことから、李鈞(宣祖)は李舜臣の処刑を撤回し、李舜臣を三道水軍統制使に復帰させています。

ちなみに、李鈞(宣祖)は自分から李舜臣の処刑を撤回するという謙遜さはまったく持ち合わせてはおらず、元均ら朝鮮水軍全滅の報を受けても、李舜臣の処刑の断行にこだわったのですが、さすがにそれはヤバいと思った少しは能のある若手改革派の重臣達(東人派)が、このときばかりは李鈞(宣祖)を、クーデターをちらつかせ脅迫しつつ、なだめすかす形で李舜臣の処刑を撤回させています。

 

李鈞(宣祖)の死後大問題となった李舜臣将軍の処遇

結果的に、李舜臣将軍は元均らが壊滅させて戦闘不能となった水軍の残存兵力を再編成し、著しい戦力不足は承知の上で日本の武将たちと戦闘を繰り広げ、日本の武将を朝鮮から追放することに成功します。

その李舜臣将軍の戦い方に、李鈞(宣祖)はいちいち難癖をつけたようです。
なお、ひどかったのは王様だけの話ではなく、重臣たちも揃いも揃って最低でした。

李舜臣らが日本の武将と最後の戦闘を繰り広げている最中、長老保守派(西人派)が朝鮮の危機を救った若手改革派の重臣達(東人派)を失脚させるという暴挙に出ており、李舜臣は味方であるはずの朝鮮からも命を狙われる存在となってしまいました。

朝鮮王朝ダメ王ランキングトップ3に名を連ねる破壊的なまでのダメ王、李鈞の廟号が宣祖(「祖」は特別な功績があった君主に贈られる)であったという不条理からもわかるのですが、宣祖周囲の重臣たちは基本的に長老保守派(西人派)が固めており、揃いも揃ってゴマすりのイエスマンばかりで、李鈞(宣祖)を希代の名君と讃える一方、李舜臣将軍が日本の武将達に勝って漢城に凱旋したとしても、即刻反逆罪で逮捕処刑されかねなかったこの時代の朝鮮王朝のどうしようもない腐敗体質がみてとれます。

結局、李舜臣将軍は、朝鮮出兵最後の露梁海戦において、日本の武将と刺し違えて戦死し(あまりの激戦のため、誰と刺し違えたかは不明)、体面を取り繕う李鈞(宣祖)より形ばかりの勲功を与えられ、宣武1等公臣とされました。

朝鮮武官の最高栄誉である宣武1等公臣が形ばかりという理由は、李舜臣をハメた讒言の愚将元均も同時に宣武1等公臣と顕彰されたからです。

李舜臣に対する李鈞(宣祖)評価は、侮辱の域を出なかったということで、宣祖の死後、著しく問題化します。

宣祖の死後、200年経った1793年、朝鮮中興の祖と知られる名君、李祘(正祖)により、李舜臣に朝鮮最高の栄誉である正一品議政府領議政(内閣総理大臣職:大韓帝国職名)を追尊され、遺族は厚遇されることになります。

 

李舜臣将軍は、戦前の大日本帝国では非常に高く評価されていた

現在、李舜臣将軍といえば抗日運動のシンボルですが、これは日本統治下に中国の上海で活動していた大韓民国臨時政府が抗日の先駆者として、彼の伝記を『独立新聞』に載せるなど盛んに喧伝した経緯によります。

また、大日本帝国陸軍の所管する朝鮮総督府も、李舜臣将軍を完全に拒絶していましたから、朝鮮人達もそういうものだと思ってみていました。

しかし、大蔵省を中心とする日本の行政機関は、国家財政は軍艦一隻作れば傾く脆弱さにもかかわらず、朝鮮を植民地として抱え込むのは100年早いと考えており、親日的政権を擁立するなりして、さっさと朝鮮を再独立させたいと考えていました。

軍艦を一隻でも多くつくってもらいたい大日本帝国海軍においても、早期の朝鮮再独立には賛成の立場で、戦史研究についても、朝鮮は比較的公平に扱われ、結局のところ、李舜臣を最も客観的に再評価したのが大日本帝国海軍の佐藤鉄太郎を中心とした戦史研究だったといわれます。

明治に入ってから本格的に普及した装甲艦を、中世の時点で亀甲船という形で発明し、同時に海戦技術を一変させたという点で、李舜臣の戦績が極めて高く評価されることとなりました。

日本敗戦後、大日本帝国の陸軍基地は軒並み撤去されるか、米軍基地化されていますが、大日本帝国海軍鎮海警備府は、そのまま大韓民国鎮海海軍基地になっています。

海軍は、陸軍と違い、朝鮮との関係を比較的良好に保っていた経緯によります。

 

大韓民国鎮海海軍基地。現在も大日本帝国海軍鎮海警備府の建物がそのまま使用されている。韓国海軍は、大日本帝国海軍鎮海警備府の朝鮮人将兵によって設立された。戦後の機雷掃海の任務があり、大日本帝国海軍鎮海警備府を解体することなく看板を掛け替えてできた組織のため、日本式用語の使用が陸軍・空軍に比べて圧倒的に多く、日本の海上自衛隊以上に大日本帝国海軍の雰囲気を強く残しているといわれる。そのため、大日本帝国海軍となにが違うのかと韓国陸軍や韓国空軍から当てこすられることがよくある。韓国人が旭日旗に過敏に反応する背景には、韓国陸軍や韓国空軍との対立という韓国国内の兵役事情をかなり反映している

日本の武将による虎退治の顛末

ところで、16世紀の日本では、虎の頭蓋骨は漢方薬の「虎骨(ここつ)」として極めて高値で取引されており、煎じて消炎・鎮痛剤として用いられていました。

虎の骨や皮が次々と大坂城に送られてくる状況に、調子に乗った豊臣秀吉は、島津義弘、吉川広家に対し、虎の頭、肉、腸などを塩漬けにして送るように命令しました。
その理由は、高齢だった秀吉の養生のためです。
虎肉が健康に良いと考え、秀吉は口にしたらしいです。

とはいえ、肉食獣特有の強烈なアンモニア臭のある虎肉の消費は遅々として進まぬ一方、送られてきた塩漬の虎肉で大坂城が溢れかえるようになり、さすがに朝鮮征討はどうなったんだということで豊臣秀吉が怒りだし、虎狩りを禁止する事態に至りました。

虎狩り禁止の頃には、日本の武将達は、朝鮮征討なんてバカらしくてやってられなくなってきていました。

なんせ、虎も豹もウジャウジャいる朝鮮半島に領地を持ちたいと思う武将など誰もなく、朝鮮出兵の間不在となった領国の経営をそろそろ何とかしなければならなくなってきたため、日本に帰ろうかという雰囲気になってきていました。

朝鮮出兵末期には、李舜臣率いる朝鮮水軍が奮戦し、郭再祐など義兵も活躍、更に碧蹄館の戦いで日本の武将に煮え湯を飲まされ、復讐に燃える明提督の李如松らの来援などで朝鮮側も退勢を挽回。

いろいろあって、豊臣秀吉が死去したことがきっかけで朝鮮出兵は終焉したということになります。

実際のところ、朝鮮出兵に参加した武将たちは、虎退治によって莫大な利益を得ており、撤退しても何ら損することはなかった状態にあったため、朝鮮出兵の言い出しっぺの豊臣秀吉が死去したということもあり、機を見て日本に帰ってきたというのが本当のところです。

 

朝鮮出兵における各武将の行路図。朝鮮出兵初期こそ加藤清正と小西幸長が中国国境まで到達しているが、朝鮮出兵後半では、朝鮮半島南部を行き来している。これは、明国との協定上、朝鮮半島南部は日本領となったため、領国経営の基盤整備をする必要があり、日本の武将は朝鮮半島北部への攻撃をひとまず放棄したためである。
李舜臣将軍による朝鮮半島奪還は、李舜臣将軍の独断によるところ大で、明国皇帝と豊臣秀吉との協定を無視した停戦協定違反であった。李舜臣将軍が停戦協定違反をした最大の理由は、朝鮮の文化的中心地が朝鮮半島南端の晋州にあり、ここを日本に奪られると、朝鮮の文化的独自性が損なわれ、ゆくゆくは中国に併合される恐れがあるためであった。李鈞(宣祖)はそういう肝心なことすらわからないダメ王だった。
李舜臣将軍の独断による停戦協定違反により、明国皇帝の面子と信用を損なったわけで、間に挟まった李鈞(宣祖)は針のムシロであった。これが李鈞(宣祖)が最後まで李舜臣将軍を侮辱しようとした理由である。
李舜臣将軍は朝鮮半島を奪還できたからよかったものの、もし奪還に失敗していたら、国賊元均どころのさわぎではなかったであろう。李舜臣本人はそのことをよく理解しており、負けるくらいなら刺し違えてでも死んだ方がましという判断があったと思われる。
義兵の郭再祐はもちろん、復讐に燃える明提督の李如松も、停戦協定違反は重々承知しており、李舜臣と同じ覚悟であったであろう。
日本の戦国の兵法に、「死兵との戦いを避けよ」との格言があるが、李舜臣、郭再祐、李如松は、勝つか、刺し違えて死ぬかしか選択肢のなかった死兵だったが故に、日本側に莫大な犠牲者が発生したという側面がある。
なお李舜臣の停戦協定違反の件は、朝鮮出兵終結後間もなく明国が滅亡したことで、うやむやになった

 

加藤清正の虎退治で有名な十文字三日月槍の顛末

加藤清正が虎を仕留める際、十文字三日月槍で突き殺したとの伝承があり、江戸時代には、江戸幕府の禁令を破ってまで、数多く清正が槍で虎を突き倒す姿の錦絵が作成されています。

十文字三日月槍は現在、東京国立博物館が所蔵していますが、片刃が折られています。
虎を突いた際にもう一方の刃を噛み折られたという伝説があります。

虎の生態が明らかな現在では、それはいくらなんでもおかしいでしょとなるのですが、16世紀、実際の虎なんて見たこともない日本人にとって、虎はそのぐらい極めて恐ろしい獰猛な化け物であるという認識であったことが伺えます。

江戸時代の錦絵の虎は、トラとヒョウが一緒くたであり、化け物じみたなりをしています。

この槍は、加藤清正の娘の瑤林院(八十姫)が徳川頼宣に輿入れする際に持参し、紀州徳川家に伝来したため、現在も東京国立博物館に残っているというわけです。
また、清正がこのとき仕留めたという虎の頭蓋骨は、どういうわけか現存していて、徳川美術館に所蔵されています。

 

北岳山(白岳山)

北岳山(プガクサン)。景福宮のすぐ後ろにある特徴的な岩山。昔は白岳山という別名のとおり白い岩峰だったのだが、今は鬱蒼と木が茂っていて、黒い山になってしまった。そうなったのも、1968年1月21日に起こった北朝鮮軍特殊部隊による青瓦台襲撃未遂事件で、北朝鮮軍特殊部隊の侵入ルートとなったのがきっかけで、侵入の妨害を目的に植林が進んだせいでもある


北岳山の概要

北岳山(プガクサン)一帯は国家遺産庁から大韓民国の名勝に指定された名勝地でもあります。

北岳山(白岳山)は、南の南山(木覓山)、東の駱山、西の仁王山とともに漢陽都城(漢城)の東西南北を取り囲む4山の一つです。

2008年の南大門放火事件後、漢陽都城にまつわる名称を、ことごとく通称使用をやめ、正式名称を使用することになっていますが、北岳山の使用をやめ、白岳山とすることはありませんでした。
というのも、北岳山の意味は、「首都の後山」という意味があり、北岳山を白岳山と呼ぶようにすると、ソウルの首都性が消滅するという問題があったからでした。

 

18世紀の絵画。白岳山。独特の山容が絵画の題材になることが多かった。白く輝くようなハゲ山だったのだが、この白さは、北岳山が花崗岩の岩峰だったことによるものであり、水墨画にはうってつけだった

 

意外に北岳山を知らない韓国人が多かったりする

ちなみに、韓国人に北岳山を指差して、あの山は何ですか?と質問すると、北岳山と正解する人は比較的少なく、北漢山と答える人が多いです。

これは、北岳山が北漢山塊の南端に位置する岩峰であり、北漢山の一部と認識している人が多いためです。

朝鮮の首都の基山が北漢山であることは、韓国人なら皆知っています。

ところが、この北漢山がどの峰を指しているのかということについては、朝鮮王朝期を通じて長年国家機密だった経緯があり、いまだに人によって見解がバラバラという背景があります。
これは、異民族による領土侵犯が恒常的に存在した朝鮮半島の歴史と深い関係があります。
領土侵犯してきた異民族が首都に手を加えようとしたとき、街の景観的調和が破壊され、侵略政権のメンツが丸潰れになるような仕掛けになっていたという具合です。

歴史上、異民族が領土侵犯してくる例が数えるほどしかなかった日本の場合は、山をピークごとに細かく命名することが普通ですが、異民族による領土侵犯が恒常的に存在した朝鮮半島では、侵略者を困らせるために土地の名前をあえてぼかしておくということがよくありました。

ちなみに、現在の韓国の地名は、日本統治期に日本人技師により命名されたものが多数あり、韓国の山も地図上ではピークごとに細かく命名されています。
それはあくまで、地図上のことであって、韓国人の認識する山は、非常に大雑把となります。
とはいっても、短い日本統治期にできたことは限られていて、辺境に行けば行くほど、山はあるけど、その山に名前がないというケースが頻繁にあります。

 

大韓帝国期の北岳山。樹木がまばらで、白く輝く山であった

 

風水上、重要な山

ともあれ、北岳山は景福宮の真後ろにある山で、風水学的に重要な山であることは間違いなく、雄大な峰が、大統領府と景福宮の背景を構成し、壮観を形成しています。

ちなみに、漢陽都城城門の中で最も認知度が低い粛靖門(北大門)もこの山中にあります。

本来の風水に従えば、火山である北岳山の南は火気がいっぱいあり、その影響を受けるところに宮殿を建てれば火災が絶えないはずなのですが、光化門前に沖縄のシーサーによく似た火獣のヘテ像を置き、ヘテ像より北側の景福宮に火気なしとしました。

 

1895年の景福宮の前に設置されたヘテ像。ヘテ自体は火気を司る火獣なのだが、周囲の火気を喰らう獣でもあるため、消防・防火の象徴でもある。というわけで、ソウル消防災難本部のマスコットキャラクターにもなっている。日本統治期には道路拡張のため撤去されていたが、北岳山と対を成す景福宮を構成する重要な像であるため、元の位置に復元されている。日本統治期にヘテ像が撤去されたのは、朝鮮総督府庁舎の軸線が測量ミスのためヘテ像の方向から盛大にズレてしまい、非常にみっともなかったので、この不始末を隠蔽するためヘテ像を撤去し、朝鮮総督府庁舎前の道路を必要以上に拡張してごまかしたためといわれる

 

命名にも一癖ある北岳山

北岳山(プガクサン)のもう一つの名前、白岳山(ペガクサン)は朝鮮王朝以前の北岳山の名前でした。
白岳の意味は、山を見てのとおり、白い花崗岩の露岩が多く、白く輝いて見えるからでした。
朝鮮の首都をこの地に定めるにあたり、古来からのしきたりに従って、南の木覓山(モッカクサン)を南山(ナムサン)と改称したことから、これに対応する北の白岳山を北岳山に改称しました。
旧名の白岳山(ペガクサン)を、韓国語上では、「ペ」を「プ」に変えるだけで北岳山(プガクサン)になります。

 



朝鮮の首都、漢陽都城(漢城)の基山を偽装するための山、北岳山

北山ではなく北岳山となっている理由は諸説ありますが、そのなかでも有力なもののひとつに、朝鮮の首都、漢陽都城(漢城)の基山を偽装する必要があったからという話があります。

ちなみに、朝鮮の首都、漢陽都城(漢城)の基山は、漢陽都城の北に見える北岳山ではなく、北漢山の白雲台となっています。
漢陽都城からは基山の北漢山の白雲台は見えません。
基山を偽装する必要があったのは、朝鮮王朝の初代王である李成桂(太祖)と、李成桂(太祖)の5男、李芳遠(太宗)との確執が尋常ではなかったという経緯からのようです。

李芳遠(太宗)を悪鬼の化身といってはばからなかった李成桂(太祖)が、李芳遠(太宗)陥れる風水上の仕掛けを漢陽都城(漢城)のあちこちに仕掛けられていたといわれています。

風水上の仕掛けとは、

  • 都城の街路の区画に対して、王宮である景福宮が微妙に歪んで造営されていた
  • 王宮の歪みが地上からはわからないように、巧妙に建物が配置されていた

この位置からだと、景福宮の設計がよくわかる。背後の最も高い山、北漢山白雲台を向いていることがわかる。
ソウルの街は、北岳山に向かって建設されているので、景福宮はソウルの街に対して斜めを向いているのである。
朝鮮総督府を建設した時代は、ライト兄弟が飛行機を発明する前。高層建築も周囲に全くなかったから、大日本帝国陸軍は、このことに気付かなかった。
そこで、朝鮮総督府庁舎は、お行儀悪く結局ズレて建ってしまった。
本来、正面の太平通りの中央の真正面に朝鮮総督府庁舎の正面玄関が位置しなければならなかったが、正面玄関は太平通りの右端に寄ってしまった。
なぜそうなったかというと、景福宮の中心軸にある勤政門の中心と朝鮮総督府庁舎の中心軸を合わせようとしたが、そもそも景福宮の軸が太平通りの軸と3.5度ズレているため、つじつまが合わなくなったのである。
朝鮮総督府庁舎完成後、ドームから眺めて、景福宮の軸が地上からは見えなかった北漢山の白雲台を向いていることに気がついて、アーッと叫んでも、後の祭りだった

 

王宮の歪みが計画的であった証拠として、王宮の歪みの軸線上に離宮や普信閣(鐘閣)が配置されているとか、偏執的なこだわりがみられます。

李芳遠(太宗)は、風水上の仕掛けの中心であった景福宮には極力手をつけず、注意深く、仕掛けにひっかかることを回避しています。

しかし、それから400年後、日本が朝鮮を植民地化した際、景福宮に朝鮮総督府庁舎を建設することにこだわった結果、この風水上の仕掛けにみごと引っかかってしまいました。
測量の基準点を見出すことができなくなったことから、どこからみても寸足らずな朝鮮総督府庁舎になってしまい、大日本帝国の面子を汚したと、批判の絶えない失敗建築となってしまいました。

 

 

青瓦台襲撃未遂事件で北朝鮮軍特殊部隊の侵入ルートとなった北岳山

本来の風水上では、王宮からみて災難の軸上に存在する北岳山ですが、急峻な岩峰であったことから、長らく天然の要害と考えられていました。
大統領府である景武台(後の青瓦台)が北岳山直下に建設されたのも、北岳山を天然の要害と考えた結果でした。
ところが、1968年1月21日に起こった北朝鮮軍特殊部隊による青瓦台襲撃未遂事件の際、北岳山一帯は、侵入ルートとして利用されてしまいました。

そこで、青瓦台襲撃未遂事件以降、一般人の立ち入りが長らく規制されることとなりました。

現在も、この時の交戦でついた弾痕のついた岩や木が各所に残っています。

2007年の北岳山の一般開放以後も、しばらくは入山口の案内所で身分確認手続きを必要としていましたが、2019年4月5日以降は身分確認手続きが省略され、現在は軍事施設区画を除けば普通の山のように入山することができます。

とはいえ、大統領府のすぐ後の山であるため、北岳山の開放状況は大統領府の使用状況と、それに伴う警備体制と密接に関係しています。

軍政一致を表明し、韓国軍司令部に大統領執務室を移した尹錫悦大統領の時期は、北岳山の開放が一気に進みましたが、軍政分離を表明する李在明政府以後は、大統領府を再び使用する関係で、北岳山登山路の一部も出入りが制限されています。

 

漢陽都城(漢陽城内:漢城)

 

山全体が軍事要塞化されている北岳山

北岳山は国の重要施設に近い関係で山全体が軍事要塞化されています。
北岳山を防衛するのは、首都防衛司令部第1警備団で、山全域にわたって各所に首都防衛司令部第1警備団と その他所属部隊の駐屯地、各種監視・検知装備、バンカーなど防御施設が設置されています。

特に、航空機迎撃用パトリオットPAC-2、弾道ミサイル迎撃用パトリオットPAC-3が北岳山全域に配備されており、ソウルが軍事攻撃を受けた場合、直ちに発射されます。
実は、北岳山は遊歩道を除くすべての場所が軍事保護区域であり、フェンスと鉄条網が隙間なく設置され、無断進入が禁止されています。

北岳山ハイキングでは、登山道各所には規制区域侵入を警戒する警備兵が配置され、道がわからなくなれば教えてもらえるほどなので、故意にフェンスと鉄条網を突破しない限り、道を間違えることはないといわれていおります。

 

建設中の北岳スカイウェイ。度重なる北朝鮮軍特殊部隊による首都侵攻未遂事件で北岳山が侵入ルートになった最大の要因は、ハゲ山で、侵入が容易だったからであった

 

北岳山の観光道路北岳スカイウェイ

軍事的性格を帯びた北岳山の観光道路北岳スカイウェイ

北岳山の観光道路として、北岳スカイウェイがあります。
一般人の入山規制のあった時期から、北岳スカイウェイだけは一般に開放されており、一般人が北岳山に登る唯一の方法として北岳スカイウェイは親しまれてきました。

あまり語られることのない歴史ですが、北岳スカイウェイは、度重なる北朝鮮軍特殊部隊による首都侵攻未遂事件を受け、首都圏防衛強化を主な目的とし、北岳山の軍事要塞化を目的に建設されました。

北岳山各所に建設された軍事拠点の物資搬入路としても機能しており、北岳スカイウェイを走ると、軍事基地の入り口を多数目撃することになります。

北岳スカイウェイ開通前の北岳山は、登山路を徒歩で登るしかなく、大量の建設資材、大量の兵站構築資材、対空ミサイルやミサイル発射台などの大型兵器等の搬入は不可能でした。

大統領府周辺を守備する部隊を強力に展開維持するためには、部隊の補給路が整備されなければならないため、北岳山の中腹を結ぶ舗装道路の建設が急務だったのでした。

 

建設中の北岳スカイウェイ。道路建設と並行して、ハゲ山だった北岳山に植林が実施された

北岳スカイウェイを軍事専用道路化することも検討されたようですが、あえて観光道路として建設されました。
この背景には、国民皆兵で、全国民に兵役が義務付けられている韓国の特殊事情があります。

1968年1月21日に起こった北朝鮮軍特殊部隊による青瓦台襲撃未遂事件の際に際立ったのですが、韓国軍による追討部隊の展開速度より北朝鮮軍特殊部隊の進撃速度がかなり早く、常に後手にまわってしまったのですが、民間人からの通報が非常に的確で、最終的には北岳山で潜伏中の北朝鮮軍特殊部隊を迎撃できたということがありました。

つまり、監視の目の数が圧倒的に多ければ、北朝鮮軍特殊部隊の侵攻は確実に防げると韓国政府が考えたのでした。

ちなみに、もともとソウル市には観光目的で北岳山を周遊するための環状道路を開設する計画がありました。

そこで、北岳スカイウェイはソウル市が計画していた観光用道路が開通したとして広報し、開通初期にはあえて有料道路として通行料を徴収しました。
もちろん有料道路化は軍事目的の秘匿が理由だったので、料金徴収実績はたいしてあがらず、北朝鮮軍特殊部隊による首都侵攻事件の発生がなくなった1976年に全面無料化しました。

 

北岳スカイウェイ鍾路区区間で唯一降車が許可されていた北岳八角亭。ここからは、あえて大統領府方向が見えにくいように設計されていた。そのかわり、北漢山や、北岳山の裏側、平倉洞方向がよく見え、その景観は見事である

 

鍾路区区間と城北区区間

北岳スカイウェイは、鍾路区内の区間と城北区内の区間に大きく二分されます。
鍾路区内の区間は、北岳山の軍事基地内に建設されており、道路沿いには森林が残されているため、道路からは森林の中を通っているように見えます。

そこで、北岳スカイウェイの鍾路区内の区間は、一般人の統制区域内への立ち入りを防止するため、当初自動車専用道路として運用され、建設目的の欺瞞を理由に建設された観光施設である北岳八角亭を除いた鍾路区区間は途中で自動車を停車することも禁止されました。
ちなみに、鍾路区区間で事故を起こすと、警察より圧倒的に早く軍隊の警備兵がやってくるというのは本当です。

城北区内の区間は、貞陵の敷地をかすめるように通っていますが、全般的に住宅地の中を走る生活道路となっており、生活道路的な風景となっています。
これは、軍事施設に隣接しているために警備がしやすいという理由で、城北区側の北岳山中の大使館路に国賓の接遇施設が設置された関係で、その周辺も高級住宅街の建設が早い時期から進行していたためでした。


国賓接遇施設だった場所として知られる三清閣。北岳山の粛靖門(北大門)の近くにある料亭。2001年より一般開放されている。現在は結婚式会場としての営業も多く、伝統芸能の公演、音楽、伝統工芸などの講習などが不定期で開催されることもある。東京の椿山荘とか八芳園とかと似ているかもしれない。庭園内を散策できるようになっており、施設内に複数の建物と複数のレストランがあり、基本韓定食を提供しているようだが、創作料理風の皿が混じることも。ただし、料金はそれなりにお高い

北岳スカイウェイと「頭文字D」

ところで、現在、北岳山を防衛する首都防衛司令部第1警備団を悩ますのは、北朝鮮軍特殊部隊ではなく、真夜中、北岳スカイウェイをドリフト走行するドリフト族。

韓国でも、「頭文字D」の榛名山のドリフト走行シーンがメチャクチャ流行ったのですが、北岳スカイウェイは本家榛名山に勝るとも劣らない攻め甲斐のある本格的山岳コースであったため、韓国全土で悪名を轟かせていたドリフト族が集結し、深夜から未明にかけて、北岳八角亭を占拠するようになりました。

そもそもカーブのきつさから、制限速度が時速30kmの北岳スカイウェイを、時速80km以上で爆走し、毎晩エンジンの爆音と、タイヤのスキール音が真夜中の北岳山に響いたそうです。

が、ここでの問題は、ここは本家榛名山とは違い、何もない山の中ではなく、林道に偽装されているものの、首都防衛司令部第1警備団の対空ミサイル基地のド真ん中であることに尽きます。

深夜から未明にかけては危険過ぎて軍用車両の通行に支障が生じる事態に韓国政府当局も頭を抱える事態となりました。
深刻な道路交通法違反ではあるけれども、軍事攻撃ではないので、国家保安法違反ではないという事態ゆえ、泣く子も黙る秘密警察である国家安全企画部の出番はなく、鍾路警察署が対処することになりました。

北岳スカイウェイにオービスを多数設置され、時刻によっては1km/hでもスピードオーバーすれば即赤切符という極端ともいえる徹底した取り締まりが行われた結果、現在は下火となっています。

 

現在の北岳スカイウェイ鍾路区区間。一見すればただの林道であるが、これが首都防衛司令部第1警備団の対空ミサイル基地のド真ん中なのである。

 

馬力過剰のじゃじゃ馬を乗りこなすことに喜びを見出すような傾向がある韓国人のココロに「頭文字D」のドリフト走行がブッ刺さった

しかし、それにしても、韓国での「頭文字D」の流行はすごかった。

韓国人の自動車の好みは、癖のない完璧さを求める傾向の強い日本人と比べると、馬力過剰のじゃじゃ馬を乗りこなすことに喜びを見出すような傾向があります。
この傾向は、韓国人がもともと騎馬民族だったことと関係があると思われるのですが、これがそのまま韓国車の味付けの違いにもつながってきます。

中国人が韓国車は怖いと言うくらいなのですから、馬力過剰のじゃじゃ馬というのは、韓国車に共通する特性だと思います。

「頭文字D」の主役、トヨタのAE86は、韓国車とは真逆で、非力ながらも癖のない完璧な操作感が持ち味の自動車。

本来ならば、韓国車のような馬力過剰のじゃじゃ馬と勝負をすれば、ぶっちぎられること間違いなしの車なのですが、峠道のような自動車としてのトータルバランスが求められるような場所でのドリフト走行になると、俄然強くなる。

どこまでもまっすぐな韓国の高速道路ならば、馬力過剰でじゃじゃ馬感が強烈なエンジン排気量は2500cc以上が当たり前な韓国車は最強です。

ところが、北岳スカイウェイを攻めると、これが雪道を走るようにぜんぜんうまく走れない。

バカ重い車重が原因で、遠心力に振り回され、エンジンぶん回してもトルク過剰が災いして、タイヤのグリップがついてこないからスピンしておわり。

榛名山をドリフト走行する「頭文字D」が、韓国の走り屋の心にブッ刺さったのは、当然の成り行きでした。

北岳スカイウェイでは、下火になったとはいえ、深夜から未明にかけて、散発的にドリフト族の特攻やゲリラ攻撃が相次いでおり、深夜から未明にかけての北岳スカイウェイの走行は極めて危険といわれています。

ちなみに、昼間は自動車運転学校のカーブ運転練習用コースとして北岳スカイウェイは人気が高いです。
これは、北岳山がソウルのド真ん中にあるせいで、アクセス性に優れているためです。

 

北岳八角亭。伝統建築物風に大幅に改築されているものの、現役である

 

北岳山とタルトンネ
表側の景福宮側は麓まで森が続いていますが、裏側は、中腹くらいまで開発が進んでおり、韓国の首都高速道路である内部循環路がトンネルで貫通していますし、アパートもたくさんあります。
早いうちから住宅地化が進んだ城北区側は、尾根のてっぺんまで住宅地化しています。
こういう山の上まで宅地化した急傾斜な住宅街を『月の街』タルトンネといいます。

韓国の伝統家屋では、男性部屋(ナムジャパン)と女性部屋(ヨジャパン)の間に居間があるのですが、居間は基本的に吹きさらしで、外と隔てる壁がなく、月明かりの下で食事をとるという行為が、辺境地域に行けば、伝統家屋が現役で使用されていた、それこそ1990年代まで、日常生活の一部となっていました。

韓国人の月に関するこだわりは、日本人以上のものがあり、家の縁側から、夜更けに月明かりに照らされた風景を眺めて風流を愛でる文化があります。

タルトンネは山の上にあり、月がよく見えるため、『月の街』と呼ばれたとの説が有力であります。

 

ガチな伝統韓屋はこんな感じ。男性部屋と女性部屋の間にある吹きさらしの空間が居間。田舎に行けば、朴正煕大統領の時代、1970年代まで電灯なんてなかったから、夜はロウソクやランプと、それより圧倒的に明るい月明かりが頼りだった。韓国人の月に関するこだわりは、日本人以上のものがある。
現代の住宅のように壁で囲ってしまうと、昼でも家の中は真っ暗になり、家が春から秋にかけて朝鮮半島で大量発生するムカデの巣になってしまうので、生活上支障が大きく、必要最低限の寝室以外は吹きさらしにしていた。だいたい男性部屋は大人の男性だけが寝起きする特別な場所だったため、小さいことが多かった。女性部屋は子供の寝起きする部屋も兼ねているため大きく、台所に隣接していることが多かった

 

これは、現代的なアレンジが加わった韓屋。こういう建物が現れるようになったのは、2010年以降で、伝統建築っぽいデザインではあるが、紛う事なき現代建築である。こういう韓屋が生まれた背景には、現代韓国人の生活の欧風化が日本以上に進んでしまい、もはやガチな伝統韓屋での生活に耐えられなくなったということがある。こういう家の食事は、基本トーストとコーヒーとベーコンエッグであって、キムチチゲでもテンジャンチゲでもないのである

 

スラムの住民が自虐ギャグとして、スラムを高級住宅街と称したことから「スラム=タルトンネ」の誤解が広がった

タルトンネというと、日本では、NHKが韓国のスラムとして紹介したことから、スラムいうイメージが強いですが、これは完全なミスリード。
本来の意味は決してそんなことはなく、高級住宅街のタルトンネが結構多いです。

まあ、ソウルのスラムの住民達が自分たちの街を「高級住宅街」と自虐的に揶揄したのを「スラム=タルトンネ」と誤解したのが原因ではないかなと思います。

予備知識のない日本人がいきなり韓国人の自虐的ギャグを聞いても、ギャグが理解できなくて真に受けるということはよくあります。

ごく最近まで、素直な表現が命取りになるような厳しい言論統制が長い間続いたため、韓国人同士の会話の中では、日本ならシャレにならないようなレベルのブラックで自虐的ギャグがものすごく多い。

ともあれ、韓国の特定地域の宅地不足が招いた結果がタルトンネであるというのは間違いではないですが、「スラム=タルトンネ」ではないです。

江南の開浦洞にある九龍村。日本では「タルトンネ」として知られ、報道されるスラム街である。ここにスラムが形成された最大の要因は、現在は背後の高層アパートになっているところに公営住宅があったからである。開浦洞の公営住宅は、もともと江北のスラムを一掃するためにつくられたものであったが、人気が殺到し、入居できない人々が公営住宅住宅の前にバラックを建て始めたことによる。起源こそ本来の意味での「タルトンネ」とは変わらないが、韓国で一般的なタルトンネは、2020年現在ではそれなりに発展し、普通の街に変貌し、かなりのタルトンネは高級住宅地化している

ソウルで最も知名度の高いタルトンネである開放村。現在もスラムのような雰囲気を残しているのは、これらの建物が朝鮮戦争直後の1955年頃に起こった開放村の奇跡(北朝鮮のクリスチャンの集団逃亡と米軍の救援活動)で建てられた建物で、開放村の奇跡を今に伝える目的で、あえて再開発していないからである。キリストが再臨する終末の艱難時代から、クリスチャンはこのようにして救済されるという伝道を目的として、この景観が保存されているため、ここの住人は宗教上の動機(清貧の教え)からこのようなオンボロの家に住んではいるものの、実際は基本的に裕福である

 

タルトンネはソウルより平地の少ない釜山で非常に発達している

タルトンネは、ソウルより平地の少ない釜山で非常に発達しています。

もともと釜山は、日本人が造成した街であり、基本的に日本人しか住んでおらず、タルトンネは存在していませんでした。

釜山北方にあった朝鮮人の街は、単に『街(トンネ)』と呼ばれていました。
現在の釜山広域市東莱(トンネ)区の語源です。

朝鮮戦争時、勘の鋭い韓国市民は『大丈夫、避難不要』という李承晩大統領の声明を信じず、我先に朝鮮半島南部に避難を開始しました。
当時、戦争に負けた日本人が放棄して日本内地に帰還した後に残った廃墟の街、釜山には、韓国人が徐々にではありましたが住み着いておりました。
釜山は、そもそも土地・建物の所有権は日本内地に帰還した日本人が持っていた場所ですから、釜山には所有権を主張できる者のいない土地や建物があふれていたわけです。

ここをめがけて、朝鮮戦争の避難民が殺到することになりました。
それこそ、早い者勝ちで釜山の土地や建物を占拠していった。
出遅れた人達は、その周辺の山の斜面を占拠していった。

元日本人が所有するものなら、いくら土地や建物を占拠しても、不法占拠にならなかった釜山の特殊性から、山の斜面のてっぺんまで朝鮮戦争の避難民が占拠していきました。
朝鮮戦争のドサクサに乗じて、自分の縄張りを主張すれば、大金を積まなくても、もれなく家持ち、土地持ちになれた、そんな釜山の特殊性が、タルトンネが形成される原因になっていきました。

そんな具合ですから、釜山駅前の市街地なんかは、全部、避難民が建てたタルトンネという具合です。

甘川文化村のように、タルトンネができた当時の建物が保存されている場所もありますが、釜山のタルトンネは、大抵、高層ビルや高層アパートが林立する団地に変貌しています。

高層ビルや高層アパートが林立したタルトンネは、さすがに平地の多いソウルでは目立ちませんが、釜山では、見回せばそこかしこにあり、釜山に来たなということを実感させてくれる街の風景です。

 

甘川文化村。釜山のタルトンネの代表格。観光地とするのが目的で、あえて再開発していない。釜山のタルトンネの大部分は、再開発が入っている

 

釜山駅前の草梁洞のタルトンネ。タルトンネとはいいつつも、タルトンネの本場、釜山の場合、スラム化することなく発展し、かなり市街化が進んでいることが多い。とはいうものの、所有権関係は手のつけようもないほどカオスである。中国人やロシア人が占拠しているエリアも存在する。ソウルではロシア人は結構めずらしいのであるが、釜山ではロシア人をよく見かける

 

タルトンネの最終形態。現代建設のHILLSTATEなど、既存のタルトンネが買収され、再開発され、高級団地に変貌している例が釜山では数多くみられる。ソウルでも釜山の成功例に倣って、スラム化してしまったタルトンネを一掃するという目的で再開発された団地がソウル市の周辺部の傾斜地で最近増えてきた

 

北岳山裏側の高級住宅街、平倉洞

北岳山の裏側、平倉洞は、比較的人気の高級住宅街であります。
そして、結構平坦に見える平倉洞は、実際に行ってみると傾斜が結構きつく、巨大なタルトンネであることがわかります。

平倉洞の壮観は、北岳山の観光道路である北岳スカイウェイからよくみえます。
昔は、北岳スカイウェイに路線バスが走っていたのですが、あまりに乗客が少なかったので、廃止となっています。

平倉洞が高い人気の高級住宅街である理由は、北岳山が、さらに北にあるソウルの基山である北漢山に尾根でつながっており、平倉洞を花崗岩の岩峰が取り囲むようになっていることから、風水を気にする人々からは、極めて気の強い場所として人気だからです。

ただ、平倉洞には「気負け」と呼ばれる都市伝説があり、平倉洞に引っ越して事業に失敗する、大病を患う、家庭不和が勃発するということもよくあるそうです。
住む人が風水学的に強い気に負けない強い運気を持っている人でないと、かえって不幸になるなどと、まことしやかにいわれています。

 

北岳山の裏側に広がる平倉洞。写真では写っていないが、平倉洞の地下には、首都高速道路の都心環状路である内部循環路が走っている

 

北岳山の東麓の高麗大学校周辺に赤線地帯が集中したわけ

韓国民謡で有名なアリラン峠も北岳山周辺にあります。

城北区の敦岩洞(トナムドン)と貞陵洞(チョンヌンドン)を結ぶ峠のことで、元々は付近にある朝鮮初代王の墓貞陵から名前をとった「貞陵峠」と呼ばれていましたが、1926年に映画監督の羅雲奎(ナ・ウンギュ)がこの地で映画『アリラン』を撮影・大ヒットさせたことで「アリラン峠」と呼ばれるようになりました。

ちなみに、貞陵峠以前は、彌阿洞に向かう峠であったことから、彌阿里峠とも呼ばれていました。

もともと、彌阿里という名前は、風雅な名前だったのでありますが、鐘路3街にあった赤線地帯を人里離れた場所で、かつ鐘路3街から容易に地下鉄で行ける場所に移設する際、この場所が選ばれ、韓国最大の赤線地帯(公娼街)『ミアリテキサス』として悪名を馳せることになりました。
『ミアリテキサス』の命名については諸説ありますが、さすがに、畏れ多くも、アリラン・テキサスとか、貞陵テキサスとかは言えず、無難な『ミアリテキサス』になったというのが本当のところです。

もっとも、現在では、北岳山寄りを貞陵峠・アリラン峠と呼んでおり、開運山寄りを彌阿里峠と呼ぶようになってきています。

そうなると、開運山にある名門、高麗大学が著しい風評被害を被るわけで、高麗大学が開運山の学舎とは言わず、北岳山の学舎と言い張るのにも、『ミアリテキサス』の話が絡んでくるわけです。

高麗大学は大韓帝国末期の1905年に李 容翊が設立した法律・経済専門学校を1921年より朝鮮独立運動家の金 性洙が引き継ぎ発展させてできた大学で、系列会社に京紡、東亜日報があります。
東亜日報というと、韓国の保守系3大紙、朝鮮日報、中央日報、東亜日報の一角を占め、まあ韓国政府に対する忖度のない新聞として有名ですから、高麗大学も韓国政府に対する忖度のない校風で有名な大学でした。

日本と違い、韓国で新聞の衰退を聞くことがないのは、テレビ局が秘密警察のエージェントとして政府のプロパガンダを担っているという側面を持っているのに対し、新聞社は韓国政府に対する忖度のない報道を売りに、強固な読者層を形成しているという特徴があるためです。

左派系反日紙で有名なハンギョレも、韓国政府の方針とは無関係にぶっ飛んだ反日報道をして強固な読者層を形成しているので、韓国政府に対する忖度のない報道という点では、右の新聞も左の新聞もおなじです。

李承晩政権の時を頂点として、韓国学生運動の中心地であったことから、韓国政府からは著しく煙たがられ、大学前に清凉里588、祭基洞342番地、大学の裏にミアリテキサスという具合に、大学を取り囲むように続々と大規模な赤線地帯が政府によって作られ、嫌がらせを受けています。

創設者の金 性洙が親日派売国奴だと糾弾されている問題も、韓国政府に対する忖度のない校風が原因といわれています。

現在、大学敷地内に、ソウル地下鉄6号線の高麗大駅がソウル市によって作られ、治安が良いとはいえない周辺地域を通らずに大学に出入りできるようになっています。

 

高麗大学。通称では高麗大と言われることが多いが、正式には『高麗大学』という。韓国では、単科大学を『大学』。総合大学を『大学』と言う。日本の場合『大学校』というと、文部省管轄外の職業訓練校になる関係上、翻訳が難しい。SamsungやSKがスポンサーとなっている名門大学である。ソウル市長で有名な李明博(保守系右派で知られる17代大統領でもある)、呉世勲(李明博氏の後継で、長年ソウル市長をつとめる)らを輩出しており、ソウル市庁内でも有力な学閥を形成している。系列会社に東亜日報があり、進歩系左派の韓国政府と正反対の保守系右派のソウル市と関係の深い大学であるため、韓国政府とはなにかと政治的に衝突することが多かった歴史がある

 

 

南山(木覓山)

ソウル市街地と南山。左端の縦の筋は蚕室のロッテワールドタワー。ソウルの新名所として知られているが、海外からの旅行者の間では南山の知名度の方が圧倒的に高く、ソウルのランドマークとして南山の方が格上である。南山は遠くから見ると綺麗だが、行ってみるとたいしたことないともいわれるが、その背景には、南山が大韓民国の闇の歴史を背負っているという側面がある

 

南山とNソウルタワー

現在のソウルのほぼ中心にある海抜270mの山で、ソウルの中心点は南山の頂上の近くにあります。

ソウルらしい写真を1枚挙げるとすれば、頂上にNソウルタワーが建つ南山と、その麓にビルが建ち並ぶ写真が挙げられるでしょう。

景福宮、昌徳宮の写る写真を挙げても、実は全州市に似たような場所があるので、ここぞソウルという感じがしませんし、江南の高層ビル群の写真を挙げても、シンガポールとかマレーシアにもこんな風景あるよね、というような感じの写真になるのです。

 

ソウルといったらこの風景だよね

 

頂上にNソウルタワーが建つ南山が見えたら、ソウルに来たんだと実感する

頂上にNソウルタワーが建つ南山・・・もうこれはソウルしかありません。

また、頂上にNソウルタワーが建つ南山は、北西の山がちな場所にある恩平区を除くソウル特別市のほとんどの地域で見ることができます。

京釜高速道路に乗ってソウルに入る場合、ソウル市(良才洞)に入って、牛民山を越えて頂上にNソウルタワーが建つ南山が見えると、盤浦インターがあって、高速道路は俄然都市高速っぽく変化し、高速バスや市外バスは目的地のバスターミナルに向かって三々五々、一般道に降りていきます。

KTXの場合は、永登浦駅を過ぎたあたりで、頂上にNソウルタワーが建つ南山が見えてきます。

韓国の人々は、だいたい頂上にNソウルタワーが建つ南山が見えてきた頃合いで、バスや列車を降りる準備をします。

なので、頂上にNソウルタワーが建つ南山が見えると、「ああ、ソウルに着いた」という感じなのです。

そういう意味では、地下をずっと走ってくる関係で、南山が見えない空港鉄道は、「あれ、ソウル?」といった感じで、今ひとつ味気ない感じがします。

 

KBSトランスミッションタワー(左)とNソウルタワー(右)

 

龍山区のマークにNソウルタワーのシルエットがある。Nソウルタワーは龍山区の住民の生活に馴染んだ龍山区のシンボルである。普段は閑古鳥が鳴いていて経営的には苦しいNソウルタワーから、しばしば改修計画が挙がるが、そのたびに、龍山区からNソウルタワーの外見が変わらないよう厳重なクレームがはいるそうな

 

Nソウルタワーの雑学

Nソウルタワーとは?

ところで、Nソウルタワー。

塔自体の高さは236.7mで、さほど高い塔ではありません。

近くに行ってみると、まあ、さほど大きな塔ではありません。

南山の海抜高度が243mあって、それとあわせると500m近くなるので、遠くからもよく見えるようになるのです。

もともとは、韓国初の集約電波塔であり、ソウル一帯にテレビ・FMラジオ放送を送出するアンテナとして、朴正煕政権の1971年に建設されました。

ちなみに、Nソウルタワーというのは通称で、正式名称は南山ソウルタワーです。

南山タワーと言う人がいますが、これは旧称です。

コロコロ正式名称が変わった関係でNソウルタワーという業界用語が一般の人にも広まった感じです。

Nソウルタワーの隣の鉄塔は、1987年に建設されたKBSトランスミッションタワーで、高さは113mです。

無茶して展望台を後付けしたNソウルタワーには荷重制限があるため、放送技術の発達により必要アンテナ数が増えてくると、Nソウルタワーにアンテナを増設できなかったので、隣にアンテナ増設用の集約電波塔を建てたものになります。

Nソウルタワー竣工時には、旧放送用鉄塔など南山頂上に鉄塔が林立していました。

首都圏の都市開発が江南方面に大きく拡大するようになると南山からでは電波が届かない地域が増えてきたため、ソウル市と果川市の境にある冠岳山に電波塔が設置されるようになり、南山から冠岳山に移設された送信所も数多くあります。

 

竣工当初のNソウルタワー。円柱部と鉄塔部の境に露天展望台が設置されているが、現在のNソウルタワーの形を特徴づけているガラス張りの展望台は設置されていない。韓国初の集約電波塔であり、周囲には集約前の旧電波塔が残っている

 

現在のNソウルタワー展望台。ガラス張りの展望台上部に、中継用パラボラアンテナが設置されているデッキがあるが、ここが竣工当初の露天展望台であった

今も何かと揉め事の種になるNソウルタワーの展望台

現在のNソウルタワーには展望台がありますが、ここからは青瓦台や、南山北麓の中央情報部(KCIA)庁舎、南麓の在韓米軍基地及び韓国軍司令部が丸見えになることから、朴正煕大統領は展望台設置に否定的であり、竣工当初は一般に開放された展望台がありませんでした。

とはいえ、まだソウルに高層ビルがなかった当時、ソウルの路地裏の隅々まで一望できたため、軍事上ここに展望台があったほうが何かと都合がよく、露天展望台は設置されていました。

全斗煥政権になって、Nソウルタワーが一般開放されるようになりましたが、この頃にはソウルにも高層ビルが林立するようになり、朴正煕大統領時代ほどの軍事的メリットは薄れてきていたのも事実です。

安全上問題だったため、露天展望台は閉鎖され、ガラス張りの展望台が増設されることになりました。
現在、露天展望台にはソウル各所に向けられた多数の中継用パラボラアンテナが設置されています。

Nソウルタワーの展望台が簡素でガランドウなのは、後付けの展望台なので荷重制限が厳しく、重いものを載せられないからなのでありました。

この殺風景さがNソウルタワーの経営不振を助長しているとよく槍玉に挙がるのですが、重いものを載せられないのだから、しょうがないのであります。

ちなみに、ここからは、軍事施設、諜報施設など、韓国の超重要施設が丸見えだったため、展望台は一般人には非公開でした。

1980年10月15日より展望台が一般人に開放されるようになりましたが、Nソウルタワーの立地が立地なだけに、Nソウルタワーの展望台が公開されるようになってからも、Nソウルタワーの展望台の写真撮影は厳しく禁止されていました。

展望台名物の双眼鏡ですが、なにせ、双眼鏡を使うと、Nソウルタワーから青瓦台の室内が丸見えという問題があって、青瓦台の方向に長らく双眼鏡がないということもありました。

尹錫悦大統領は、青瓦台の公園化、龍山の韓国軍司令部への大統領執務室移転ということをやっていますが、ここでも、Nソウルタワーから大統領執務室が覗かれるという問題が新たに発生し、大統領が激しい拒否反応を示したため、大統領執務室方向の双眼鏡を撤去するとかしないとかで揉めたことがあります。

もっとも、尹錫悦大統領は、双眼鏡撤去の話が進む前に戒厳令事件を起こして免職されています。

韓国軍司令部への統制を強めるため、大統領執務室を韓国軍司令部へ移転したというのに、韓国軍司令部が大統領の戒厳令を無視して、議会が戒厳令無効を議決するための時間稼ぎをしたという笑えない話ではありましたが。

ガランドウな展望台内部と、毎度政治的な問題を起こす双眼鏡。実はこれが韓国政治史が絡んでいる文化財的価値あふれる風景なのであるが、一般観光客には、なーんもないじゃん、ボロイ双眼鏡だなーで、実に不評。双眼鏡の撤去跡が写真右手にあるが、これはこれで激しい政治的葛藤の遺産だったりするのである

南山の旧称、木覓山(モッカクサン)について

漢陽都城と木覓山(モッカクサン)の関係

漢陽都城(漢城)ができる前、南山は、木覓山(モッカクサン)と呼ばれていました。

木覓は、高麗時代のこのあたりの地名で、高麗時代、このあたりにあった集落を木陽と言っていました。

李成桂(太祖)がこの地を朝鮮の首都と定めるにあたり、木陽を漢陽に改名し、首都の城郭を漢陽都城と言ったことから、首都の城郭内の地域を漢陽城内、漢城と呼んでいました。

 

漢城府(聖地十里)

漢陽都城には、西洋の城郭都市とは異なり、城郭周辺に漢城府、一般的には聖地十里と呼ばれる都の中央、普信閣を中心として直径40km程度の緩衝地帯が存在し、聖地十里も含めて漢城として扱われていました。

城内及び聖地十里への居住は許可制であり、誰もが首都に住むことができるわけではありませんでした。

聖地十里の規制は現在の韓国には存在しませんが、北朝鮮の首都平壌には存在し、平壌市内及び聖地十里への居住は許可制であり、誰もが首都に住むことができるわけではありません。

南山(木覓山)は、北の北岳山(白岳山)、東の駱山、西の仁王山とともに漢陽都城(漢城)の東西南北を取り囲む4山の一つです。

2008年の南大門放火事件後、漢陽都城にまつわる名称を、ことごとく通称使用をやめ、正式名称を使用することになっていますが、南山の使用をやめ、木覓山とすることはありませんでした。

というのも、南山の意味は、「首都の前山」という意味があり、南山を木覓山と呼ぶようにすると、ソウルの首都性が消滅するという問題があったからでした。

 

漢陽都城(漢陽城内:漢城)

ということは、朝鮮半島にソウル以外でも南山という山は存在するわけで、当然、北朝鮮の首都平壌の南側にある山も南山といいますし、高麗の首都開城の南側にある山も南山といいます。

街の南側にある山を南山と呼ぶのは首都の特権なので、あえて南山を木覓山と呼ばないということになります。

 

もともとは火山であった南山

南山はもともとが火山で、全体が非常に硬い花崗岩でできている山です。
地質的には非常に堅固なものの、地下鉄工事の際、非常に堅い地質が障害となりました。

ソウルの地下鉄建設の際、1号線が南大門-東大門間で施工された最大の理由がこの南山の地質で、南大門から江南に抜けるには京釜線に沿って地上を抜ける以外、建設工費を抑える方法がなかったからでした。

地下鉄4号線も一応地下を走っているものの、南山越えは区間は、京釜線横にトンネルを掘って京釜線と並んで通過しています。

地下鉄3号線と4号線も南山を貫通するルートが何度も計画されたのですが、結局南山を迂回した方が建設費抑制となるため、南山を迂回しています。

韓国経済がかなり発展した後建設された地下鉄6号線については、地下鉄3号線・4号線建設で経由を断念した梨泰院周辺をなんとかしようとしたのですが、梨泰院が花崗岩の一枚岩の上にできた街で、そこに地下鉄を建設しようというのですから、かなりの難工事となりました。

 

ソウルの地下鉄路線図。地下鉄が建設しやすい地質の江南地区は大阪のように縦横に地下鉄が走っているが、花崗岩の巨大な一枚岩があちこちにある江北地区は、岩盤を避けるように地下鉄が走っているため、絡まったスパゲティーのようになっている。南山はソウルの発展の阻害要因となっているのはこのことからもわかる

 

堅すぎる地盤がソウルの発展の阻害要因となった南山周辺

「首都の前山」であった頃の南山は、天然の要害でしたが、今日この山がソウルの発展の阻害要因となっていることは事実です。

日本統治時代、高宗がいたことから面倒が起こることの多かった漢陽都城(漢城)内部に陸軍が駐屯することは極力避けられ、南山の南側の龍山の開発が試みられました。

ただ、朝鮮総督府は、対ロシア、対ソ連政策から、じっくり腰を据えた都市開発よりも、一気呵成な高度経済成長が強く指向されたため、南山より続く堅すぎる地盤が仇となり、龍山はよくて鉄道工場と大日本帝国陸軍駐屯地の建設にとどまりました。

大韓民国が建国されてからも北朝鮮との経済発展競争への要請から、じっくり腰を据えた都市開発よりも、一気呵成な高度経済成長が強く指向されたため、南山より続く堅すぎる地盤が忌避され、江南の広大な漢江旧河道での都市開発が優先されました。

強烈な地震が頻発する日本なら、どうかと思う都市開発ですが、韓国はほとんど地震が起きず、起きても震度4程度で未曾有の大地震になるお国柄ですので、地盤は堅いより、施工が容易な、どちらかというと柔らかいほうがよいという価値観が存在します。

これが理由で、ソウルは、江北と江南の分断された2つの市街地からなる都市が形成されるに至りました。

 

南山は韓国人に嫌われる観光地

韓国政府は南山の観光開発を積極的にすすめているが

南山は、東の駱山と比べて標高があり、北の北岳山(白岳)、西の仁王山のように急峻でないため、ハイキングには絶好の山容の山です。

山中には、漢陽都城の城壁が残るため、城壁伝いのハイキングも魅力的です。

というわけで、南山韓屋村を開設するなど、韓国政府もソウル市も積極的に南山の観光開発を進めています。

が、南山は外国人の訪問がそこそこあるものの、閑散としているという印象を拭えません。

実際、南山の観光施設の経営は極めて厳しく、長続きしないことでも有名です。

これは、韓国人にとって忌避すべき場所であるため、韓国有数の観光地でありながら、常に閑散としているのです。

 

政府肝いりで観光地として整備されている南山

 

大韓民国までの南山の歴史

もともと南山の北面一帯は、朝鮮時代に首都を守る軍隊が武術を練習する「武道場」でした。

日本統治時代、大日本帝国陸軍は武道場の跡地に駐屯地を築き、それを「倭城臺」または「倭將臺」と呼びました。

朝鮮時代末期から景福宮に朝鮮総督府が新築されるまで、倭城台の周囲には韓国統監府、在朝鮮日本大使館の建物と韓国統監邸がありました。

また、清渓川南側から南山にかけては、中人以下の被差別民の居住地域で、韓末期にあっては、上下水道設備もなく、屎尿汚水垂れ流しの異臭を放つ藁葺きの掘っ立て小屋が立ち並ぶ荒廃ぶりで(冬季の保存食である古漬けキムチの強烈な発酵臭の影響も多々あった)、朝鮮側も扱いあぐねていたことから、朝鮮総督府はこの場所を日本人居留地に定め、再開発していきました。

現在は明洞となっている明治町はその中心地でした。

明治町から南山に入った場所には壮大な朝鮮神宮が建てられました。

歴史教科書で登場する「朝鮮人に年に2回ずつ神社参拝を強要していたところ」と象徴されるのがここです。

南山の頂上にあった国史堂が朝鮮神宮よりも高い位置にあるという理由で仁王山に強制移転されたりもしました。

 

韓国統監府

 

白凡広場と廃止された動物園、植物園

日本敗戦後、朝鮮神宮はさっさと壊され、ここに小規模ながら南山動植物園が開設されました。

日本統治期間中、朝鮮総督府が昌慶宮に小規模ながら動物園、植物園を開設したことによる意匠返しで、昌慶宮の動物園、植物園を朝鮮神宮に移設したものでした。

もっとも、朝鮮総督府が昌慶宮の一角に小規模ながら動物園、植物園を開設したのは、なにかとストレスを貯めがちであった純宗の慰安を目的としたもので、背景には、大日本帝国政府も知り得なかった帝国陸軍の問題提督、初代朝鮮総督寺内正毅と大韓帝国第2代皇帝(李坧)純宗との個人的な蜜月関係があったためでした。

1920年当時でいうところの、選りすぐりの珍獣・希少種を集めたものだったようで、純宗以外はこの動物園、植物園には立ち入りを禁止されていました。

そして、純宗死去後に一般に公開されたというものだったようです。

寺内正毅と純宗との個人的な蜜月関係は大日本帝国政府にすら秘密だったというのですから、当然、当時の韓国政府は知る由もなかったため、建国間もない韓国政府が意匠返しを画策したということになります。

現在は、白凡広場になっており、南山動植物園は撤去されていますが、これについても、ある筋の市民団体と一悶着あったようです。

 

南山動植物園

 

金九先生像

 

金九先生と白凡広場

ちなみに、白凡広場の白凡とは、抗日テロリストで有名な金九のことで、ここに、金九先生像があります。

金九先生像がここにあるのは、やはり朝鮮神宮跡地だからなのですが、ちなみに、金九は大韓民国建国期において、李承晩と共闘し、共産主義勢力との武力闘争を主導していたのですが、李承晩から共産主義への転向を疑われ、暗殺されています。

元々、東学農民革命の闘士であったことから、武力闘争に頼る傾向の目立つ金九でしたが、思想的には穏健派であり、21世紀の国家観を体現した部分がありました。

時代が金九の考え方についていけなかった部分が多々あり、今でも信奉者が多く、李承晩による金九暗殺がもとで、有志らによって、金九先生像が抗日運動の闘士として朝鮮神宮跡地に建てられたわけです。

韓国において、抗日運動の闘士ならば何でもいいかというと、そういうわけではなくて、金九についても、否定的な意見が多々あります。
この点が韓国の抗日運動史の非常に面倒くさいところです。
とにもかくにも、李承晩は金九先生像を快く思っていなかったようです。
そこで、金九先生像を撤去して大韓民国国会議事堂を建てようと画策しました。

ただ、これは失敗しました。

李承晩は1960年4.19のクーデターで失脚し、朝鮮神宮跡地への国会議事堂建設は白紙撤回され、現在に至っています。

 

金九は、民族主義を標榜する朝鮮独立運動家であったが、独立のためには手段を選ばないという過激派でもあった。
朝鮮独立運動家の多くがマルクス・レーニン主義を唱えたのに対し、金九は、彼らを徹底的に批判した。マルクス・レーニン主義者達が、民族を離れて労働者同士が団結し、社会主義を達成するということを標榜していたためである。
日本でも特に敗戦直後、『天皇制打倒・社会主義革命の達成』という大きなうねりが発生しており、GHQはマルクス・レーニン主義者達の活動を警察権力を使い、徹底的に弾圧したが、マルクス・レーニン主義のうねりは1980年前後までかなり強烈に継続した。
となると、
「日本が天皇制を打倒して、社会主義革命を達成したら、朝鮮と日本は一体になるのか?」
という疑問が生じる。朴憲永、呂運亨、金日成は揃いも揃って朝鮮と日本は一体になると言った。北朝鮮が日本人拉致を行った背景には、どうせいずれ朝鮮と日本は一体となるのだから、拉致したって問題なかろうという考え方が根底にあった。
これに対し、絶対にそんなことはあってはならないというのが金九の思想であった。
日本人、朝鮮人の立場の違いはあるが、金九という人は、現代日本人の民族観と非常に似通った考え方をした人だったのである。
徹底した反共主義者であった李承晩とは共に行動するほど相性はよかったが、日本敗戦により朝鮮独立が達成された後、李承晩との関係に亀裂が走った。
かねてよりマルクス・レーニン主義者達が、南北分断やむなしという雰囲気を醸成していたのに対し、金九は、南北分断などもってのほか、朝鮮は一つでなければならないと主張し、マルクス・レーニン主義者達と積極的に話し合いをもつようになった。
これが徹底した反共主義者であった李承晩には、転向・裏切りと映った。そこで、李承晩は直ちに金九を暗殺したのである。
ちなみに、元々、東学農民革命の闘士で、金九がテロを得意としたのも東学農民革命の闘士であった経歴が原因である。
東学は、儒教・仏教・道教の思想的合同を目指すものであったが、金九の思想は、東学(儒教・仏教・道教)と西学(キリスト教)の大合同を目指す東学の異端であったことから、プロテスタントのキリスト教徒となった。
金九は聖書研究よりも朝鮮の独立と平和統一を標榜する社会活動を重視する社会派系クリスチャンとして活動し、西学においてはエキュメニカル運動に邁進し、東学においては儒教・仏教・道教の合同に多くの労力を割いた。
金九は当初、東学に重点を置いていたが、朝鮮でキリスト教徒の勢力が拡大するにつれ、西学に重点を置くように変っていった。
彼の生涯のほとんどがプロテスタントであったのは、カトリック教徒であった李承晩との心理的葛藤によるところが大きく、思想的にはカトリックに傾倒していたようである。
李承晩により暗殺されたが、即死ではなかったので、臨終の床に緊急で司祭を呼び、病床洗礼を受けカトリックに改宗した後、病者の塗油の秘跡(サクラメント)を受けた

 

韓国人にとって『南山』は秘密警察を意味する隠語

南山庁舎と里門洞庁舎

朴正煕大統領の時代、南山北麓のちょうど明洞の奥の市街地からは目立たない場所に、中央情報部(KCIA)庁舎群が建設されました。

南山庁舎は反政府主義者や左翼犯罪者を摘発する国内情報部が置かれ、韓国国民からは非常に警戒されていました。

里門洞庁舎(城北区里門洞:首都圏電鉄1号線新里門駅そば)には外国や北朝鮮に関する情報収集を担当する対外情報部が置かれていました。

里門洞庁舎跡に景宗 が埋葬された義陵という陵墓がありますが、そこへ行こうとした場合、タクシー運転手に「義陵へお願いします」と言っても「へ?」と聞き返されるのがオチで、未だに「アンキブソク カセヨ(安企部側に行ってください)」と言うと通じることが多いです。

それだけ、ソウル市民にとって、安企部の悪名は拭い難いものであります。

南山庁舎と里門洞庁舎は独立して運営されており、それぞれの役割が分担されていました。

 

中央情報部(KCIA)南山庁舎。反政府主義者や左翼犯罪者を摘発する国内情報部が置かれた。これらの庁舎は、国家安全企画部に引き継がれた

 

中央情報部(KCIA)発足

中央情報部(KCIA)は、1961年、朴正煕が軍事クーデターにより尹 潽善(ユン ポソン)大統領より政権を奪った直後、大韓民国陸軍の諜報機関である陸軍防諜部隊のメンバーを中心として発足しました。

表向きの任務、現在も国家情報院に引き継がれている業務は、北朝鮮に対する諜報活動及び工作員の摘発でしたが、実質的には朴正煕政権下における反政府運動の取締りを行う秘密警察として辣腕を振るいました。

一局から九局まであり(四局は「四(サ)」が「死」につながるとして欠番)、正規の職員は3千人と言われています(職員数は国家機密)。

南山の北側正面と東側麓に五、六局があり、主にそこで取り調べが行われたことから、中央情報部(KCIA)のことを『南山(ナムサン)』と通称されていました。

これは、国情院の隠語『南山(ナムサン)』の起源です。

 

現役時代の国家安全企画部本館

 

 

中央情報部(KCIA)に狙われたら大統領でさえ殺される

中央情報部(KCIA)時代は、陸軍防諜部隊の雰囲気を強く持っており、少数精鋭でありましたが、一方でアメリカCIAとは職務上の協力関係があったことからアメリカCIAと密接な関係があったといわれます。
このことが、結果的に中央情報部(KCIA)解体のきっかけとなってしまいます。

中央情報部(KCIA)の秘密警察としての振る舞いは、年々エスカレートしていき、ついには、車智澈大統領府警護室長及び朴正煕大統領を、アメリカの意に沿わぬ危険人物として射殺するに及びました。

実は朴正煕大統領は、1980年代、左翼運動の勢いが強く、朝鮮の赤化活動拠点と化していた当時の日本と開戦することを目的に、核兵器開発を始めていたのですが、日本はアメリカ軍の重要兵站拠点であったことから、アメリカにとって韓国と日本との核戦争は絶対に回避させなければならないものでした。

しかし、いくら説得しても日本との開戦を主張する朴正煕大統領を殺害すべく、アメリカが職務上CIA工作員が浸透している中央情報部(KCIA)に対し、工作を行った結果が大統領暗殺だったといわれています。

 

『南山』は韓国人の思想を監視する

国民生活の隅々まで監視し、朴の独裁に反対する国民を摘発し、連行した被疑者に対する拷問を行い、殺害することもあったため、これは大東亜戦争期の大日本帝国特別高等警察(特高警察)に勝るとも劣らない秘密警察として国民から恐れられました。

通常、「南山に連れていかれる」ということは死を意味していました。

もっとも、すぐに殺されるなら何の問題もなくて、大日本帝国憲兵隊仕込みの拷問が待っていました。

「南山に連れて行かれるくらいなら自殺も賢明な選択だ」という言葉は、何の誇張でもありませんでした。

拷問の結果、五体満足で帰ってくることはまずなかったと言われています。

韓国のたいしてヒットしなかった映画『二重スパイ(이중간첩)』(日本でも公開された)で、国家安全企画部(安企部)の取り調べの様子がでてきます。

この映画が公開された2003年当時は、国家安全企画部から国家情報院と名前が変わったものの、まだまだ現在とは比較にならないほど統制が厳しかった時代で、まだ安企部取調シーンそのままの取調べが行われていたといわれます。

とても安心して見ていられなかった、不快感を催したというのがヒットしなかった理由とも言われています。

別の意見としては、思った以上に安企部にやられた経験のある人がいたことを映画製作スタッフが知らなかったのが興業失敗の原因だったという見方もあります。

この映画では、瑞草区庁舎へ移転が完了していて、取り壊されていなかった南山別館(国家安全企画部第5別館)が撮影に使われています。

 

中央情報部(KCIA)解体と国家安全企画部発足

全斗煥政権になって、中央情報部(KCIA)は、大統領射殺事件を起こした責任を問われ、解体され、国家安全企画部へと改組されました。

表向きはそういう理由でしたが、中央情報部(KCIA)を解体したのは、中央情報部(KCIA)にはアメリカCIA工作員が多数浸透していたためで、アメリカの内政干渉を排除する目的があったからといわれます。

このため、国家安全企画部はアメリカから独立した組織となる一方、実質的には規模が拡大され、職員数も増加しています。

国家安全企画部は、かつて散々逮捕し拷問し、何回も暗殺未遂事件まで起こした金大中が大統領に就任すると、真っ先に報復の対象となり、解体されています。

とはいえ、対北工作は金大中大統領時代以降も依然として必要とされていたため、名前を変えていますが、現在も国家情報院として、大幅に縮小されましたが、組織自体は維持され、江南の瑞草区に移転し、存続しています。

 

国家安全企画部庁舎一覧

国家安全企画部は、南山に広大な敷地を占め、南山に多数庁舎がありました。
国家安全企画部があった時代の建物は次の通りです。

  • 国家安全企画部本館(ソウルユースホステル)
  • 国家安全企画部第1別館(対空/盗聴/監聴担当) - 1996年爆破解体
  • 国家安全企画部捜査担当庁舎(TBS社屋) - 2016年解体
  • 国家安全企画部第6別館(別名「安企部地下バンカー」)調査室(拷問調査)/留置場(ソウル総合防災センター)
  • 国家安全企画部第6局 (学園査察:大学生の思想査察担当)(ソウル市バランス発展本部)-2017年撤去
  • 国家安全企画部行政担当庁舎(ソウル消防防災本部)
  • 国家安全企画部第5別館(捜査担当:拷問調査)(ソウル特別市役所南山別館) - 撤去検討中
  • 国家安全企画部警護員の宿泊施設(森林文学館)
  • 国家安全企画部長公館(文学の家 ソウル)
  • 国家安全企画部体育館(南山創作センター)
  • 国家安全企画部行政/監聴担当庁舎(大韓赤十字社屋)
  • KBS -National Unification Agency(KBS国家統一機関)(ソウルアニメーションセンター)
  • ソウル中部警察署楸子派出所 - 事実上の国家安全企画部の面会所
  • ソウル中部警察署 - 国家安全企画部の留置場は常に満杯だったため、容疑者は中部警察署留置場で捜査の順番待ちを行い、捜査の順番になると国家安全企画部に移送された
  • 世宗ホテル、アストリアホテル、中央情報部周辺のモーテル・・・基本的に国家安全企画部の運営する施設であり、外国人の宿泊先に指定されていた。盗聴や秘密捜査が行われている

国家安全企画部の建物は、現在も多くの建物が政府庁舎やソウル市庁舎として使用されており、容易に行くことができます。

 

 

金 鍾泌は常日頃から親日的発言の目立つ人で、通常ならば中央情報部(KCIA)に直ちに連行され拷問されるところであるが、実は中央情報部(KCIA)の創設者ということで、怖いものがない韓国の裏のフィクサーだった。無名の新興宗教であった統一教会を整備し、韓国中央情報部(KCIA)のエージェントに仕立て上げ、日本に送り込んだ実績もある。
金 鍾泌の親日的発言は、統一教会の日本浸透工作のカモフラージュであり、「大好きな日本」と題して日本で講演することもしばしばあったが、韓国国内でこれを字義通り受け取る人はいなかった。事情を知る韓国人からは、恐ろしいほどのふてぶてしさと受け取られた。
主義主張の強い人の多い韓国の政治家のなかにあって、韓国の政治家としては珍しい和を重視する調整型タイプの政治家であり、親日的発言をしても中央情報部(KCIA)に絶対に捕まらない人だったため、朴 正煕政権で日本に対しなにかやらかしたとき、尻拭いをするのはいつも金 鍾泌であった。
もっとも、金 鍾泌は朴正煕の兄の朴 相煕の娘婿で、朴 正煕大統領のいとこにあたり、血縁を大切にする朴 正煕大統領から弾圧される可能性は非常に低かった側面はある。
朴 正煕大統領の妻、陸 英修は、結婚の経緯がほぼほぼ略奪婚であったことから、朴 正煕の実家筋との折り合いが悪く、金 鍾泌は朴正煕の実家筋の筆頭格であったことから、金 鍾泌に対する陸 英修の失礼な態度が目立ったといわれる。

 

統一教会と中央情報部(KCIA)と韓国放送公社(KBS)

初代中央情報部長の金 鍾泌は、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)を韓国の政治的目的のために再組織し、統一教会を通じて国内外で政治工作を行いました。

統一教会は、韓国中央情報部(KCIA)のエージェントでした。

統一教会がいくら信者から金品を巻き上げ、家庭を破壊し、信者を路頭に迷わせ、組織的に不法行為をいくら重ねても、韓国政府はもちろんのこと、日本政府も摘発に消極的だった理由がこれです。

1966年、統一教会の米国の組織「韓国文化自由財団」は、中国、北朝鮮、北ベトナムなど共産主義国に対しそれぞれの言語で反共電波を流すことを目的とするラジオ放送局「自由アジア放送」(Radio of Free Asia, ROFA)をソウルに設立しました。

この縁で、KCIAは放送事業を強力に推進しました。

KBSの営業担当取締役は中央情報部長の金 鍾泌の直属の部下だったことから、韓国放送公社(KBS)の放送を中央情報部(KCIA)が行うこともありました。

KBS国家統一機関の対北放送である「希望のこだま放送」はまさにこれで、中央情報部(KCIA)庁舎から放送されていました。

つまり、統一教会と中央情報部(KCIA)と韓国放送公社(KBS)は癒着といってもよいほど強い関係で結びついており、統一教会がいくら信者から金品を巻き上げ、家庭を破壊し、信者を路頭に迷わせ、組織的に不法行為をいくら重ねても、韓国で報道されることがまったくなかったのはこのためです。

韓国政府の知られたくない秘密を知っている統一教会教祖文 鮮明が死去したことで、現在、韓国では、統一教会の解体が進んでいます。

 

普信閣(鐘閣)

普信閣。鐘閣という名でも知られる普信閣は、ソウル江北の旧市街、漢陽都城の中心にある建物。現在、ソウル市域は江南方向に広く広がっているため、北に偏っており、現在のソウルの中心というわけではないが、韓国の一般的認識ではソウルの中心にある建物と理解されている。ちなみに、この写真には、特に説明書きがあるわけではないが、ソウル特別市指定登録文化財第2号「首都圏高速電車水準点」標柱も写っている。復元物ではなく本物ということで、文化財的な価値としては、普信閣よりこちらの方が高い

「首都圏高速電車水準点」標柱。ソウルの中心に普信閣があることから、普信閣敷地内に設置された。南大門路拡張時、清渓川以北の郵政局路鐘閣交差点まで道路拡張され、普信閣をセットバックしたのであるが、「首都圏高速電車水準点」標柱が道路にかかったので、抜かれてここに移設されている

 

普信閣とは?

普信閣とは、ソウルのド真ん中、ソウル特別市鍾路区鍾路54に位置する楼閣です。

ソウル特別市を象徴する代表的な施設としてしられています。
そもそも、普信閣のある鍾路という道の名前がこの楼閣に由来し、鍾路区という名前も普信閣に由来します。

 

朝鮮時代の漢陽都城(漢城)城内略図。東西南北4山と、東西南北4大門に囲まれた街である。
漢城には、王宮、別宮があちこちにある。五大王宮以外のほとんどは現存しない。
重要なのは東の宗廟と西の社稷壇である。宗廟は先祖に祭祀を行う場所で、社稷壇は土地の神(社神)と穀物の神(稷神)に祭祀を行う場所である。
普信閣は、東の宗廟と西の社稷壇の中間点付近に設置された。当初、場内の中心を流れる清渓川岸に設置されたが、鐘路が人々の往来の主流となるに従って、鐘路に移設された

普信閣の位置づけ

普信閣は、東大門、西大門、南大門、北大門とともに、漢陽都城の骨格を成す施設であり、命名には、朝鮮王朝の志向する思想が反映されています。
仁、義、禮、智、信が朝鮮王朝における統治理念そのものでもありました。

漢陽都城の主な門には五行の思想に応じて、儒教で最も重要視される徳目、すなわち五常を成す仁、義、禮、智、信に対応させて名前をつけました。

ところで、漢陽都城の大門は五常に1つ足りない東西南北の4つしかありません。
そうすると、なんとかして、足りない1つを補わなければいけません。
そこで編み出されたのが、都の中央に鐘閣を建てるというアイデアでした。
鐘閣も含めて仁、義、禮、智、信に対応させて名前をつけることになりました。

  • 仁(じん): 他人を思いやり、慈しむ心。優しさや愛情
  • 義(ぎ): 正しい行いをすること。道理にかなった行動、私利私欲にとらわれない正義感
  • 禮(れい): 礼儀作法。社会秩序を保ち、他者を敬う心と態度
  • 智(ち): 善悪を見極め、正しい判断を下す知恵。知識や理性
  • 信(しん): 信頼や誠実さ。約束を守り、嘘をつかないこと
     
  • 東大門(じん): 興仁之門
  • 西大門(ぎ): 敦義門
  • 南大門(陽門・水不足の際閉鎖):(れい): 崇禮門
  • 北大門(陰門・水不足の際開門):(ち): 粛靖門(靖国の意味を込めて智の代わりに靖を使った)
  • 都中央(しん): 普信閣 

 

普信閣前の鐘閣交差点。鐘路と郵政局路の交差点である。郵政局路は普信閣のすぐ南にある清渓川から先は南大門路と名前が変わる。普信閣は、特徴的な外観の鐘路タワーの前にある建物で、それほど大きな建物ではない

鐘路タワーは、もともとここにあった韓寶和信百貨店の建て替え工事によって誕生したビルである。旧韓寶和信百貨店建物の前面部、すなわちファサードだけ残し、ビル本体部を建て直す方式で地下5階地上18階の建物として建設されたが、建設中に資金繰りが悪化し、建設が中断。サムスン生命(旧東方生命)に売却された。サムソン総帥、李健熙の鶴の一声で、当時江北一の高さを誇る33階建てビルに変更することとなった。
サムソン総帥の指令は絶対であるが、すでに出来上がっていた下層部分の骨組の強度が、どうがんばっても33階建てを支えるには大幅に不足していたため、もう一度壊して建て直すべきとの意見が大勢を占めた。
しかし、サムソン総帥、李健熙は、建築費が膨大に膨れ上がり、サムソン本体の経営を揺るがしかねないことから建て直し案を拒絶。
進退極まった現場関係者は、ビルの外に3本の支柱を建て、この3本の支柱でビルの荷重を支えるよう設計変更した。ファサードもサムソン総帥の指令により、骨組みのみを残して撤去された。
33階はサムソン総帥の指令を守るための絶対の構造であり、下層部分の骨組の強度が大幅に不足して倒壊の危険があろうが絶対に造らなければならなかった。
どうあがいても下層部分の骨組の強度が大幅に不足していたため、33階までビルの躯体を伸ばすことができなかった。
とはいえ33階は絶対なので、33階部分だけをビル外側の3本の支柱のみに荷重がかかる構造とし、空中に浮いた格好で建設した。
ここに長年トップクラウドというレストランがあったが、サムソン直営というサムソン総帥訪問対策といってもよい、まずいボッタクリレストランとして名を馳せていたため、33階を訪れる人はまばらだった。李健熙の健康悪化で李健熙が鐘路タワー訪問がありえなくなった頃、トップクラウドは閉店し、33階は閉鎖された。
鐘路タワーは、世界的に名建築として誉れ高いが、事情を知っている韓国人建築家の間での評価は、韓国らしい財閥総帥の無茶振りと、困惑した現場の妥協のせめぎあいの結果と著しく低い。
1999年に竣工当時、国税庁が新庁舎建設のために鍾路タワーを3年間賃借して使用したことがある(建設費回収のため、サムソンが国税庁に貸した)。 このため、この建物を国税庁と呼ぶ人が結構いる

普信閣の歴史

普信閣は、朝鮮の都、漢陽都城の中心を示す建造物として誕生しました。

朝鮮太祖5年(1396)に京畿道広州府で作られた鐘を漢陽都城の中央を流れる清渓川青雲橋西鐘楼に設置したのが始まりです。

この時設置された初代の鐘は、半鐘のように小さかったようです。

太宗13年(1413年)には、2階鐘楼を新しく建て、位置を通雲橋そばに移しました。
鐘は初代のものを流用したようです。

そして世宗22年(1440)に既存の鐘楼を壊して、現在ある形の東西5間南北4間の大型の2階建ての建物に改められ、世宗7年(1458)に新たに大鐘を作って設置し完成をみることとなりました。

この大鐘の製作は、当時仏教研究で大成していた李裪(世宗)の兄、孝寧大君に依頼しました。

朝鮮王朝は、基本的な政策として、崇儒抑仏政策をとっていました。
儒教は哲学研究の側面も持っていますが、その実態は降霊術であり、哲学研究は降霊術の正当化にあります。
儒教もより本格的に、真面目にやればやるほど、様々な霊を降霊させて積極的にコンタクトをとろうとすることになります。
霊のお告げが原因で、儒学者が国政をひっかきまわすことが多く、甚だしくはクーデターを起こすなど国政混乱の原因となっていました。

孝寧大君は、無神論の原則に立つ仏教こそ国政の安定に不可欠であるという独自の宗教哲学をもっており、国政をひっかきまわすことが多い儒学者を鬱陶しく思っていた李裪(世宗)は、孝寧大君を元老として国政に参加させ、儒学者を牽制し、安定した国政を行っていました。

普信閣の大鐘の製作も、儒学者に対する牽制の意図をもって、孝寧大君に依頼したものになります。

ところで、時代が下って、宣祖25年(1592)、豊臣秀吉の朝鮮出兵(壬辰倭乱:文禄・慶長の役)の際、国王李鈞(宣祖)は早々に明国(中国)に敵前逃亡を計り、これに怒った民衆が暴動を起こした際、焼失し、孝寧大君の造った大鐘も紛失し、廃墟となってしまいました。
これを、光海君11年(1619)に、光海君が当時の朝鮮王朝の逼迫した財政状況を反映した形で、非常に簡素な形で鐘閣が再建されることとなりました。

同時に再建された宗廟はフルスペックでの再建であり、これが財政的にかなり無理だったようで、再建された普信閣は非常に簡素になったようです。

この時再建された鐘閣の鐘は、現在タプコル公園の所にあった圓覺寺の鐘です。

圓覺寺は、燕山君が宴会場建設のために潰した寺で、心ある重臣が、取り外された大鐘を崇礼門(南大門)に移して保管していたものを、光海君が鐘閣再建に際し、鐘閣に据えたものでした。

1985年まで3代目のこの鐘は使われていたのですが、3代目の鐘とはいえ、世宗時代の1465年製造の鐘で、造られてから500年以上にもなる韓国では稀に見る貴重な文化財ですから、鐘路交差点に吊るしてバスやトラックの排ガスを浴びせたり、頻繁にカンカン叩たりしたりして良いようなものではありませんでした。

そこで、本物は国立博物館へ収蔵され、複製品が鐘閣の鐘として使用されています

 

1900年頃の普信閣。両班の住宅が密集する中にあった小さな建物であった。とはいえ、光海君によって再建された歴史ある建物である。写真に両班ばかりが写っているのは、普信閣が両班の住宅が密集する中にあった立地の影響である。1970年の地下鉄1号線工事が始まり、世宗時代の礎石が発掘されるまで、普信閣とはこのような建物であるというのが一般認識であった

 

日本統治時代の普信閣。光海君によって再建されたオリジナルの普信閣である。朝鮮王朝期よりきれいに整備され、文化財として大切に扱われているところが意外である。この背景には、大日本帝国政府も知り得なかった帝国陸軍の問題提督、初代朝鮮総督寺内正毅と大韓帝国第2代皇帝(李坧)純宗との個人的な蜜月関係があった

 

2008年、南大門放火事件までは、正式名称の普信閣が使われることはまれで、鐘閣と言われることが一般的でした。
最寄りの地下鉄1号線の駅名が「鐘閣」なのはその名残りです。

そうなった原因として、朝鮮の庶民の識字率の低さ(普信閣という漢字が読めない)もおおいにあったのですが、光海君の再建した鐘閣があまりにも簡素でみすぼらしく、普信閣というにはおこがましかったという実態があったことも否定できませんでした。

南大門放火事件の際、テレビのアナウンサーが「南大門」と連呼したことが問題となったのがきっかけで、南大門には「崇禮門」というちゃんとした名前があるじゃないか、通称で呼ぶなということになり、南大門だけではなく鐘閣も、正式名称の普信閣が使われるようになりました。

ちなみに、光海君の再建した鐘閣ですが、市街地の中心にあったことから、何度か火災で焼失しかかるのですが、大韓民国建国まで持ちこたえました。
しかし、結局、朝鮮戦争で焼失してしまいました。
もともとが非常に簡素な鐘閣だったということもあり、1953年に鉄筋コンクリートで、若干光海君の再建した鐘閣より大きな鐘閣が再建されることになりました。

 

朝鮮戦争後、鉄筋コンクリートにより再建された普信閣。光海君の普信閣よりいくぶん大きな建物として再建された。まだ世宗時代の礎石は発見されておらず、普信閣とは本来小さな建物であるという認識であった。「普信閣」の扁額を揮毫したのは、李承晩大統領である。厳密に言うと、部下が「普信閣」の扁額の揮毫を李承晩大統領に依頼することができる人間関係にはなかったため、関係者が李承晩直筆の文書から「普信閣」の文字を切り貼りして扁額を作った。現在、この場所は道路拡張により、鐘閣交差点となっている

 

正月といえば普信閣

普信閣の除夜の鐘とBSのNHKの「ゆく年くる年」

普信閣では、ソウル市主催(普信閣内管理事務所)の普信閣常設打鐘行事が正午頃不定期(酷暑期・酷寒期は休止)で行われていますが、毎年12月31日になると、除夜の鐘が打たれます。
朝鮮王朝時代、普信閣で打たれた33回の鐘に由来し、除夜の鐘は33回打たれます。

韓国に除夜の鐘なんてあったんけ、と思うところなのでありますが、これは基本的に年越しイベントであって、韓国では無料で見ることのできるBSのNHKの「ゆく年くる年」の影響が色濃く反映されています。
NHKの「ゆく年くる年」の中継があってもよさそうなものですが、意外とないのは、KBSやMBCが協賛するイベントだからという背景もあるんじゃないでしょうか。

 

普信閣での年越しイベントの様子。ソウルの地元民からは、ものすごい人出だから行かない方がいいと忠告を受けることもしばしばある。人が集まるだけならさほどではないが、この時期のソウルの深夜の気温は-20℃ぐらい下がるのが普通であり、基本南方民族である日本人にはきつい。韓国人はわりと平気なようで、韓国人が北方民族であることを思い知らされる。
もっとも、韓国人といっても寒さに対する耐性は人それぞれであり、オンドルに這いつくばってヤモリと化して、冬は極力外出しない寒さに弱い韓国人もいるにはいる

 

韓国でNHKのBSの好感度が高いわけ

韓国ではNHKのBSが受信できます。
これは、日本国政府のプロパガンダ的な部分が背景にあるのですが、実はしっかり北朝鮮までNHKのBSの受信範囲となっています。

で、韓国人のNHK視聴率は高いです。
これには、韓国の公共放送は政府の検閲が存在するという事情が大きく影響しています。
韓国政府の都合の悪い内容の番組の放送は法令で禁止されています。

韓国の場合、バラエティー番組が低俗だからという理由で放送禁止になることはまずなくて、政治的な色彩を帯びた番組内容となると、途端に厳しい検閲が入ります。

バラエティーやドラマの検閲は緩く、軍事政権だった全斗煥時代からの伝統で、ポルノでさえなければ、低俗がOUTというルールはないようで、韓国の公共放送の低俗化は止まるところを知らないと識者は嘆いているほどです。
視聴者からの低俗番組に対するクレームはそれなりにあるようですが、政府の検閲の恐ろしさに比べればマシとのことで、さほど重要視されている感じではありません。

日本のテレビだと視聴者からのクレームが少なく鉄板とされる報道系の番組は、韓国だとかなり危ない。
報道内容がまずかったということで政治犯となり、刑務所送りになるテレビマンが跡を絶ちません。

そこで、トップニュースが大統領礼讃報道になるというのは、韓国ニュースの暗黙のお約束で、あんまり露骨に大統領礼讃をすると検閲にひっかかるので、それとわからないように大統領礼讃ネタで報道番組を開始する匙加減が韓国のテレビ局には求められています。

無論、視聴者には非常に不評で、そういう配慮が日本国の政権に対してすら一切ないNHKの報道が好感度をもたれる傾向があります。

全羅道や済州島出身の若い人で日本語ができる人が多いし、全羅道や済州島の出身者のNHKの視聴率は高いです。

 

除夜の鐘。ここにいる人々が着ている韓服は厳冬仕様。着用機会は少ないものの、こういう韓服は存在し、フォーマルなセレモニーではちょくちょく登場する

 

韓国の新年が、旧正月ではなく、1月1日、新暦の正月になったわけ

韓国の新年は、もともと旧正月に祝われておりましたが、韓国の旧正月は実家に帰って、祖父・祖母・両親のわがままにつきあう日であって、好き勝手に遊ぶ日ではありません。

旧正月は御老人方が先祖代々続く祭祀を盾に威張り散らかすのを我慢する日として、若い韓国人からは甚だ印象が悪い。

とはいえ、とはいえ、年少者にとって旧正月はお年玉が集まる日でもあって、ボイコットするわけにはいかない。
小学生(初等学生達)でも、祖父・祖母・両親、親戚一同に片っ端から頭を下げて営業に励めば、集まるお年玉は10万円(100万ウォン)を普通に超えてきます。
韓国人の子供達の旧正月は、日本人の子供達よりはるかにリッチな正月となるわけですが、年長者の理不尽・わがまま・暴言にひたすら耐える日でもあります。
お年玉をあげないケチな人のところには、旧正月といえども誰もこないのが韓国の旧正月風景であるのですけれども。

韓国に行くこともなく、日本で生まれ、日本で育った者にとって、旧正月はきついといわれます。
旧正月にお年玉なんてもらったことなんてないから、旧正月のありがたみなんて、経験したことがない。
とりあえず、メンツってものがあるので、親戚の若い衆にはお年玉を奮発することになるのですが、そうすると、来なくていいのに、毎年若い衆が律儀に挨拶にやって来て頭を下げていく。
日本なら若い衆に邪険に扱われるだけのジジイもババアも、韓国では、一応形だけでも敬ってくれるようになる。
そうやって、外国生まれ外国育ちの人間も、長幼の序にうるさい韓国の社会システムに自然と組み込まれていくことになります。

一方、1月1日、新暦の正月は、好き勝手に遊ぶ本当の意味でのうれしいお正月として祝われるようになってきています。
普信閣で、除夜の鐘が毎年12月31日に打たれる理由は、もうおわかりですね。
韓国人にとって真のお正月は、何かとやっかいな旧正月ではなく、1月1日、新暦の正月だからです。

カウントダウン花火。主に漢江で花火が打ち上げられるが、普信閣から見えるよう南山でも花火が上がる。最近では景福宮がライトアップされるようである



普信閣で開催される毎年の年越しイベント

普信閣では、毎年年越しイベントが実施され、12月31日になると、鍾路は歩行者天国となり、10~20万人の人々が普信閣前に集まります。

普信閣前の年越しイベントは、毎年KBS 1で生中継されていますが、1993年から2005年まではMBC年末歌謡祭でも中継されていました。

12月31日に普信閣へ行くには、混雑緩和のため、地下鉄1号線は鐘閣駅を無停車通過するため、1・3・5号線鍾路3街駅、5号線光化門駅、3号線安国駅、2号線乙支路入口駅から歩かなければいけません。

年越しイベントのクライマックスは、33人の韓国各界著名人が普信閣で除夜の鐘を撞きます。
そして、1月1日0:00とともに、漢江で一斉に花火が打ち上がり、ソウル市内に大音響が響きわたります。
ソウルの正月は未明には-20℃になることもあり、半端でなく寒いのですが、降り積もった雪を踏みしめながら聞く年越しの花火の爆音は、これがまた趣きがあってよいのであります。

街の酒場では、1月1日0:00とともに、一斉に「せーへー、ぽーん、まに、ぱどぅせよ」の声があがります。

韓国の良家の人間は、「新年」と「福」を強調するため、あえて、最初をゆっくり発音するのですが、今のところ一般的にはせっかちに「せへぽん、まに、ぱどぅせよ」とせっかちに言う人が多いです。
それでも昔より、良家の人間風に、最初をゆっくり発音する人が増えてきているように思います。

普信閣の除夜の鐘は、旧正月には打たれないので、普信閣の鐘撞きというと、韓国人が心の底から祝うおめでたい印象があります。
というわけで、最近は、3.1節(3月1日)、光復節(8月15日)にも韓国各界著名人が集まって、普信閣で鐘を撞きます。
大統領が任期開始日を知らせる鐘を撞くというのも、最近のことであります。

 

カウントダウンイベントは、除夜の鐘イベントがある普信閣が最大であるが、ロッテワールドでも実施されている。ロッテワールドタワーから打ち上がる花火がロッテワールド会場の名物である。個人的に街の飲み屋でカウントダウンパーティーをしている人も多く、ソウルの街に花火の爆音が響き渡ると、繁華街に「せーへー、ぽーん、まに、ぱどぅせよ」の声があがる

 

北朝鮮の平壌でも、国家の威信をかけて、カウントダウンイベントはやるらしい。
こうなると、韓国の新暦正月1月1日のカウントダウン行事は国家行事としての色彩を帯びることとなる。元は単なる年越しイベントだった普信閣の鐘撞きに、大統領が出席するようになったのは、北朝鮮の動向が大きく影響している。
ソウルの街の片隅のうらぶれた薄汚れた民族的モニュメントだった普信閣が、北朝鮮の主体思想塔に匹敵する政治的モニュメントに変貌し、綺麗に管理されるようになった背景に、北朝鮮の動向があった影響は否定できない

 

ソウル地下鉄の測量基準点と普信閣

さて、 1971年、ソウル地下鉄1号線建設工事が鐘閣の前で行われることとなったのですが、地下鉄工事を行うにあたって、測量原点となるソウル地下鉄の測量基準点を設定する必要があります。

このとき、日本の技術援助で地下鉄工事が行われることとなったのですが、日本の土木工事の手順に則り、測量基準点は不変性を担保する必要から御影石の杭が測量基準点として打ち込まれることとなりました。

これが、ソウルの気脈を断つという大反対意見を誘発し、大炎上し、どこに杭を打つかで大モメにモメました。

結局、鐘閣はそれ自体がソウルの中心に打たれた杭だという解釈で、鐘閣の敷地内にソウル地下鉄の測量基準点の杭を打つなら問題なかろうということになり、御影石の杭が鐘閣の敷地内に打たれることとなりました。

後に、道路拡張工事に伴い、鐘楼は現在位置に移設され、ソウル地下鉄の測量基準点の杭も鐘楼そばに移設されています。

余談ですが、地下鉄1号線工事の過程で、世宗時代に建てられた旧鐘楼の礎石が発見され、それまで光海君の再建した非常に簡素な鐘閣しか知られていなかったのですが、実は正面5間側面4間2階の大楼閣だったことがわかり、早速、調査結果に基づいて、1979年に、鉄筋コンクリート構造で現在ある鐘楼を新しく建てることになりました。

 

左が地下鉄1号・5号線鐘路工区鐘閣付近。右が地下鉄1号・3号線「ソウル駅」駅工区。
ちなみに、このとき鐘路工区で建設された地下鉄5号線トンネルは、ソウル市の予算枯渇から途中で工事が中断され、地下鉄5号線建設が断念された。現在、鐘路共同溝に転用されている。
「ソウル駅」駅は当初、地下鉄1号・3号線の駅として計画されたが、工事中相次ぐ大惨事発生の影響で大幅に計画が変更され、3号線はソウル駅は経由しないことになった。しかし、ソウル駅をソウル市内の交通の要衝とする構想は撤回されなかったため、代わりに、地下鉄4号線がソウル駅経由とすることになった

 

開通した地下鉄1号線。日本の技術移転があった関係で、1970年当時の日本の地下鉄と瓜二つである。非常によくできた路線で、現在では首都圏電鉄の大幹線に成長している。赤い電車はソウル市所有の電車、青い電車が鉄道庁所有の電車であった


文化財指定された「首都圏高速電車水準点」。文化財指定されなかった普信閣建物

測量基準点なので、本来、移設してはいけない水準点の杭なのですが、あっさり移設されたところをみると、日本人と韓国人の感性の違いを強く感じずにはいられません。

御影石の杭は、韓国の地下鉄事業の始発点だったという象徴的な意味で、ソウル特別市指定登録文化財第2号「首都圏高速電車水準点」に指定されています。

特に説明書きがあるわけでもなく、普信閣敷地内の植え込みに、斜めに刺さっています。
「首都圏高速電車水準点」という刻印が見やすいように斜めにしたのでしょう。

不変の基準点そのものに価値を置く日本人と、石の杭を一種の石碑と捉える韓国人の感性の違いがよく表れています。

ところで、この敷地の主、普信閣の方ですが、建物そのものは文化財でも何でもありません。
「首都圏高速電車水準点」の御影石の杭の方が、普信閣より文化財的価値が高いというのは、なんとも不思議なことではあります。
これは韓国の法令の適用によって生じたハプニングです。

「首都圏高速電車水準点」の御影石の杭は本物ですが、現在の普信閣建物は、なりは歴史的建造物の格好をしていますが、本物でもなければ、復元建物というわけでもない近代的なビルディングというところがポイントです。

世宗22年(1440)の鐘楼の遺構をもとにしてはいますが、鐘楼の遺構の礎石の上に建っているわけではありません。

世宗時代の建物の写真や図面が残っているわけではなかったので、かなりの部分が想像で作られています。

さらに、現在の普信閣建物が建設された1970年代の鐘閣交差点は、売春街(赤線地帯)のド真ん中だったという2020年代のオフィス街に変貌した鐘閣交差点の姿からは想像できない事情がありました。

劣悪な立地ゆえ、保守管理コストや放火などの防犯対策を考えたら、鉄筋コンクリート構造の近代的なビルディングにするのがベストだったという事情がありました。

ということで、現在の普信閣建物は、法令上は周囲のオフィスビル同様、竣工した1979年の建築関連の法令が適用されている近代的なビルディング扱いとなっています。

観光案内書などでは、ソウル特別市が1990年6月18日に指定したソウル特別市記念物第10号と書かれていることが多いです。
ですが、建物そのものは文化財指定を受けていません。
もともと普信閣があった現在の普信閣建物前の敷地だけが記念物に指定されました。

革新的な政党が政権をもつ韓国政府とは対照的に、親米保守政治勢力の牙城、ソウル市らしいこだわりが垣間見える仕事ぶりではあります。

現在の普信閣が竣工間もない1980年頃の写真。ソウルの街の片隅のうらぶれた薄汚れた民族的モニュメントという印象だった。現在鐘路タワーが建っている場所には韓寶和信百貨店があった。現在の韓国なら、木造での建設もありえたであろうが、1970年頃の普信閣は現在のように積極的に管理されていたというふうでもなく、立地自体お世辞にも良いとはいえず、保守管理コストや放火などの防犯対策を考えたら、鉄筋コンクリート構造とするのがベストといえた

普信閣前の第一銀行裏にあったYMCAがあったあたり。写真では赤線が一掃されているので、1980年代後半から1990年代初頭の写真だと思われる。2000年頃まではこんな感じであったが、2010年頃から再開発が始まり、2020年には高層ビルの立ち並ぶ現在のような清潔なオフィス街に変貌している。現在の普信閣が建設された当時、周辺は猥雑な繁華街であって夜中の治安はお世辞にも良いとはいえなかった

宗廟・宗廟祭礼

宗廟正殿

 

朝鮮王朝の歴代王と王妃、皇帝と皇后の神主(位牌)を安置して祭祀を行う国家祠堂

これがあることが、日本の室町時代における東洋の先進国の証だった

李 成桂(太祖)が朝鮮王朝を宣言した直後である1395年(太祖4年)、建設されました。
朝鮮は諸侯国であったことから、当初は中国の五廟制の礼法に従い、開国始祖(太祖)と在位中の王の4代の祖先(高祖・曾祖・祖・父)を祀る制度で位牌を祭りました。

李 成桂(太祖)が建国早々に、景福宮の造営より優先して宗廟を作ったのは、もちろん、息子、李 芳遠(太宗)から殺されないようにするためです。

そもそも、国名が高麗のままでも何ら不都合はなかったのですが、鄭 道伝(チョン・ドジョン)の入れ知恵で、国号を変更すれば、李 成桂開国始祖(太祖)となるため、中国の許可なく殺すことができない。
さらに、とっとと宗廟を建設して、開国始祖(太祖)4代の祖先(高祖・曾祖・祖・父)を祭って、朝鮮王朝を既成事実化すれば、李 芳遠(太宗)が国号を高麗に戻すことができなくなる・・・ということで、とっとと宗廟を作ったわけです。

宗廟は、李 成桂(太祖)4代の祖先(高祖・曾祖・祖・父)、さらに、後継の王2名の位牌を祭るため、縁起のよい7室の建物として建設されました。

朝鮮王族の謎として、

  • 李 安社(穆祖大王:もくそだいおう)
  • 李 行里(翼祖大王:よくそだいおう)
  • 李 善来(度祖大王:どそだいおう)
  • 李 子春(桓祖大王:かんそだいおう)

の4名だけがなぜ「大王」で、宗廟に祭られているのか?というのがあるのですが、李 成桂(太祖)からしてみれば、五廟制の宗廟を作るために、李 安社(穆祖大王:もくそだいおう)までの歴史さえわかっていればよかったわけです。

それで、李 安社(穆祖大王:もくそだいおう)の父、李 陽茂以前の先祖についての調査は、積極的に行わなかったわけです。

さて、李 成桂(太祖)は、李 芳遠(太宗)が国王となることを阻止するため、李 芳遠(太宗)の兄の李 芳果(定宗)に王権を譲位しようとします。
これはまったく余計なことで、この後、朝鮮王は短期間に李 芳果(定宗)李芳遠(太宗)と代替わりしたため、宗廟の7室はあっというまに埋まってしまうことになりました。

宗廟永寧殿


永寧殿建設の経緯

譲位を受ければ、李 芳遠(太宗)に殺されるのが目に見えてた李 芳果(定宗)は、王位継承を嫌がるのですが、なぜか、李 芳遠(太宗)から、譲位を受けるように脅迫されます。
これは、李 芳遠(太宗)の兄の李 芳幹(太祖の四男)が王位を狙っており、李 芳幹が王になると、その性格上、甚だ厄介なことになるからでした。
案の定、李 芳幹は、李 芳果(定宗)即位直後にクーデターを起こしました。
クーデターを予見していた李 芳遠(太宗)はこれを軍事力で鎮圧。
王権こそ李 芳果(定宗)にありましたが、実質国内を掌握していたのは李 芳遠(太宗)であったため、下手すると李 芳遠(太宗)に殺されかねない状況にほとほと嫌気がさした李 芳果(定宗)は、王権を李 芳遠(太宗)に譲位します。
李 芳遠(太宗)に譲位した李 芳果(定宗)は、仁徳宮に移り住み、撃毬・狩猟・温泉・宴会などの娯楽で悠悠自適な生活を送り、長寿を全うしました。

さて、李 芳遠(太宗)の次の王、李 裪(イ・トウ:世宗)の時代になると、宗廟の7室は既に埋まっており、李 安社(穆祖大王:もくそだいおう)の位牌をどこかに移して、李 裪(世宗)の位牌を置くスペースを作っておかなければならなくなりました。
万事合理主義の中国ならば、国王の命令で、あっさり、位牌を撤去するところなのですが、朝鮮人のメンタリティーとして、そんなことをすれば、臣従する有力者から弓矢や槍がとんできます。
李 裪(世宗)本人は、面倒なことになるから、自分の位牌など宗廟に祭るな、今後は宗廟に位牌など祭るなと言っていたのですが、臣下がそれを許しませんでした。
大議論の末、宗廟から撤去した位牌を安置する建物である永寧殿を建設し、以前からの建物を正殿としました。
永寧殿は、一応正殿より格下ということで、基壇の高さが正殿より低くなっています。

宗廟図。壬辰倭乱 (文禄・慶長の役)での破壊をきっかけに宗廟祭礼が断絶した時代が長かった関係で、(韓国独立後も李承晩大統領の意向で長期間宗廟祭礼が断絶した)各施設は、時代によって呼び方が変わっている場合が多い。そのため、どの名称がもっとも正しいかということを巡って様々な議論がある。そのような関係で、宗廟に掲示されている案内図などと、この図とでは建物の名称が異なっている部分も多々ある。
宗廟は竣工直後、竜巻被害に遭っており、これが威化島回軍時、李 芳遠(太宗)によって虐殺された第32代高麗王、王禑の祟りだと噂される事件となった。そこで、事実上の高麗王朝最後の王である王禑の父の第31代の高麗王王顓恭愍王)を祭る廟が香大廳望廟樓横に建てられた。

 

宗廟祭礼

 

祭服


宗廟が中国の様式を離れ、朝鮮独自の様式の宗廟となる原因になった増築について

中国の王朝と比べて、ずっと長命であった朝鮮王朝は、歴代王の人数が多くなり、宗廟の室不足は慢性化していました。

順当にいけば、あれほど建国当初影響力の強かった李 芳遠(太宗)李 晄(睿宗)の時代には宗廟正殿から追い出されなければならなかったのですが、そうはなりませんでした。

この解決法として、第13代国王李 峘(明宗)の時代、中国式の宗廟からは逸脱するものの、正殿を増築して対処することにしました。
時代的にも、今さら五廟制の礼法でなくてもよかろうという雰囲気だったからでした。

これ以降、宗廟の室不足には増築で対処するようになっていきました。

宗廟祭礼


宗廟での歴代王の扱いの違いが生まれたわけ

時代は遡るのですが、第10代国王、酒池肉林の暴君で有名な李 㦕(燕山君)の時代のことです。
その李 㦕(燕山君)は、なぜか宗廟祭礼の整備の仕事には熱心で、宗廟での歴代王の位牌の扱いとして、永久に正殿に位牌を祭る「世室」永寧殿に位牌を移す「祧遷(ちょうせん)」の儀式を制定しています。

例えば、正殿から位牌を撤去しようにも撤去しずらい李 芳遠(太宗)のような王は、永久に正殿に位牌を祭ることとし、正殿から位牌を撤去してもさしたる問題のない李 芳果(定宗)のような王は永寧殿に位牌を移すことにしました。

ただこれはこれで、そもそも永寧殿などない中国式の宗廟の礼法を完全無視した儀式で、李 㦕(燕山君)の時代にあっては、暴挙といってよく、大問題でした。
さりとて他に妙案はなく、李 㦕(燕山君)の制定した儀式は受け継がれていくこととなります。

李 㦕(燕山君)は生前熱心に宗廟祭礼の改革に取り組んだにもかかわらず、死んでも宗廟に祭られない(現在も祭られていない)最初の王となりました。

宗廟での歴代王の扱いは、

  • 永久に正殿に位牌を祭る「世室」該当者:王19名
  • 永寧殿に位牌を移す「祧遷」該当者:高祖4名+王15名+思悼世子事件の怨霊2名+李垠(英親王)
  • 宗廟に永久に祭らない(悪王)該当者:燕山君・光海君

の3種類となっています。

1592年(宣祖25年)、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)時に焼失。
ただ、放火したのが豊臣軍だったという記録は特になく、豊臣軍が都にたどりついてはみたものの、漢陽は荒れ果てていたと記録していること、朝鮮臣民と王族の対立関係が小さくはなかったことから、景福宮同様、一般民衆が豊臣軍進軍のドサクサで放火略奪を行ったとの説もあります。

1608年(光海君即位)、宗廟は再建され、現在の宗廟は李 琿(光海君)が再建したものとなっています。
李 琿(光海君)は、李 㦕(燕山君)同様、宗廟の整備に多大な功績を残しましたが、宗廟に永久に祭られない悪王として扱われることになってしまいました。

壬辰倭乱で焼失する前、「世室」「祧遷(ちょうせん)」の選別が厳格に行われましたが、光海君再建後は、正殿の増築が頻繁に行われるようになり、「祧遷(ちょうせん)」の対象となる王もいなくなりました。

度重なる正殿の増築の結果、正殿19間、永寧殿16間となったことにより、位牌の数は35個にもなりました。
朝鮮末期には、こっそり位牌をすり替えても誰も気がつかなかったことをいいことに、王として即位できなかった有力な王族のなかに、位牌をこっそりすり替える不貞の輩もいました。
王朝実録と位牌が違うということが過去にはありました。
現在は、すり替えられた位牌はすべて元に戻されています。
李 㦕(燕山君)李 琿(光海君)が祭られていない以上、位牌のすり替えはアウトだという判断からです。

日本統治期に、宗廟の修繕が行われていますが、外壁の修復に際して、日本の習慣に従って、定礎石が設置されています。

 

日本が設置した定礎石。複数あり、右書きのものと、左書きのものがある。宗廟の外壁自体は、純然たる朝鮮様式で、日本らしさのカケラもないのであるが、ここで「昭和」の文字を見ると、そのギャップにあっと驚く。きちんと「改築」と表記している点が仕事が細かい。韓国人は、オリジナルを日本人が変えたという但し書きの意味の「改築」を、日本人がオリジナル復活させたという意味の「復興」と誤解しているようで、日本人に朝鮮の何がわかる!との怒りを招いているようである。いや、そう誤解されて怒られても仕方のないほど、宗廟の外壁は、日本らしさのカケラもない完璧な出来の仕事なのである

 

朝鮮総督府庁舎工事が遅れた関係で、宗廟の東にあった昌信洞採石場と朝鮮総督府庁舎を結ぶ路面電車(貨物用)の軌道を宗廟と昌慶宮の間に通したいということになったことがあります。
路面電車の軌道を敷設する栗谷路の延長をしたいと朝鮮総督府が李 坧(純宗)に打診したところ、昌慶宮から宗廟にかけての尾根は、気脈の通り道なので、祭祀に関わる問題を引き起こすので、栗谷路延長は困ると揉めたことがありました。

栗谷路延長は揉めに揉めて、結局、李 坧(純宗)死去後、李 垠(英親王)に許可を得たうえで、朝鮮総督府が栗谷路延長を押し切って、昌慶宮と宗廟は分断されました。
2011年、ソウル市が栗谷路トンネル化工事を行い、昌慶宮と宗廟を再接続しています。

 

宗廟親祭規制圖說、いわゆる宗廟祭礼のマニュアルである。口伝の部分も多々あるが、一子相伝というわけではない

五享親祭班次圖。フォーメーション図である

 

宗廟祭礼

宗廟祭礼は、典型的な儒教の儀式です。
儒教というと、論語など思想的な側面が有名ですが、本来の儒教は、降霊術(降神礼)の一種です。
従って、宗廟祭礼は、降霊術(降神礼)ということになります。

原理的には、神霊との和解の儀式であり、以下の手順に従って儀式をすすめます。

  1. 迎神: 霊を迎える
  2. 進饌: 料理を供する
  3. 獻杯: 酒を供する
  4. 飮福: 霊と共に食事をする
  5. 送神: 霊を送る
  6. 望燎: 霊への贈り物を燃やして霊界に届ける

『降霊中は、決して神霊と言葉を交わしてはならない(神霊と取引してはならない)』

これは絶対に守らなければならない神官の掟です。
その理由は、長年の経験から、『非常に危険だから』というものでした。

降霊した霊のもたらすものは、取るに足らないものであるにも関わらず、対価として命を要求してくることが多々あるという理由からでした。

儒教の降霊術は、社神、稷神、亡者の霊に対する和解の契りであって、『お願いですから祟らないでおいてください』という日本の神道と極めて類似した動機による降霊術になっているというわけです。

現代の宗廟祭礼においては知りませんが、朝鮮王朝期の宗廟祭礼においては、なにがしかの霊を降霊させることができていたのは間違いなかったようです。

当初は先祖供養が目的だったと思われますが、朝鮮王朝期の民衆の間では、王族の儒教儀式の模倣が横行しました。
そのうちに、民衆は儒教儀式の本体である降霊術を覚え、しまいには、未来の情報を得ようとする儀式である巫教(ムダン)に変形していき、蔓延していきました。
現在、韓国国内に残存して社会問題化している巫教(ムダン)問題はその名残りで、民衆が見よう見まねで真似た朝鮮王朝期の降霊術のなれの果てです。

朝鮮王朝期、民衆の降霊術模倣にとどまらず、王族の中にも、せっかく降霊術を使うのであるから、未来の情報を得るなどメリットのある使い方をしたいという要望が実際のところありました。
過去に、朝鮮王朝末期の閔妃が巫堂ノリに熱中したというのも、降霊術悪用の例として歴史に残っています。

 

詳細な宗廟祭礼の手順

本来は降霊術であるため、宗廟祭礼は夜中の暗闇の中で、長時間かけて、関係者だけで集まり、秘密裏に行うべきものである。
しかし、1969年再開以降、北朝鮮の金日成の権力を異端化することを最大の目的として挙行される国家行事に変わったため、現在では、日中、多くの来賓・観覧者を招いて行う比較的短時間にまとめられたセレモニーとなっている。

  1. 迎神: 王と王妃の魂を呼ぶために、鶏皮と毛、肉を油に混ぜてヨモギを燃やす。執拍(朴を打って音楽の始まりを合図する)の後、楽章の「熙文曲」を9回繰り返して歌うが、献歌における演奏中に文舞を奉納する
  2. 奠幣: 奠幣は神に絹布(廃白)を奉納する儀式で、初憲(初杯)前に行われる儀式である。この時、宗廟祭礼楽を代表する音楽である「保太平」を演奏し、舞踊が奉納される奠幣熙文の儀式が開始される。
    奠幣礼で演奏される保太平の最初の曲である「レアム」は特に有名で、これを奠幣レアムという。世祖9年(1463)に宗廟祭礼楽として作曲された
  3. 晨祼: 初獻官(王)が神室に入り、香を焚き、蔚昌酒を地に注ぎ、奠幣熙文を読み上げ、先祖の魂を呼ぶ降神禮である。儀式の進行中、祭礼楽が演奏されない「白語」とよばれる時間である。
    本来、これは王が行うものであったが、1969年再開以降、第4代大韓帝国皇帝役の李 玖がしばしば不参加となったことや、35室すべてを1人の王役がこなすと儀式が長時間となるため、時間短縮の要請が大きかったことから、初献官が代行する様式が確立された。現在は第5代大韓帝国皇帝役の李 源が行っている
  4. 進饌: 神に供物を供える儀式で、晨祼(酒を注ぐ)の後の本格的な獻作(酒杯を上げる)を準備する儀式である。この時、チャルメラによく似た形のダブルリード式木管楽器太平簫(音は雅楽の篳篥「ひちりき」と同じ)にて鎮賛楽を演奏し、神を楽しまる
  5. 初獻: 初獻官(王)が神位の前に最初の酒を上げる最も重要な儀式で、進饌直後に行われる。「保太平」を演奏し、先王の功徳を賛美し、初獻官(王)が酒を供えた後、大祝官が祝文を読む順序で行われる。
    かつて、王はこの準備のために4日間謹慎し、3日間所定の作法に従い禊を行うなど、非常に厳しい手順を経た。1969年再開以降、時間短縮の要請が大きかったことから、初献官が代行する様式が確立された
  6. 亞獻: 亞獻官(王世子:王位継承順位第1位の王族:王太子または王嗣)が神位の前に2回目の酒を供える儀式で、初獻直後に行われる。朝鮮王朝の武功を賛美する「定大業」が演奏され、武舞が舞われる。
    現在は朝鮮王世子がいないことから、亞獻官が代行する様式が確立された
  7. 終獻: 終獻官(領議政:内閣総理大臣)が神位の前に3回目の酒を供える儀式で、亞獻直後に行われる。終獻は語呂が悪いため、英獻とも呼ばれる。終獻の際には、朝鮮王朝の武功を賛美する「定大業」を、この時全曲を演奏する。武舞が舞われ、雄大に儀式の終盤を飾る。終獻が終わると、大金を10回打つ大金十次を行う。
    領議政とは朝鮮冊封時代の正1品の官職名であり、大韓帝国では内閣総理大臣となった。領議政職は1401年(太宗1)太宗によって創設された名誉職であったが、1436年(世宗18)頃より世宗が糖尿病の悪化や慢性的な疲労感の増大から政務を委任するようになり、国王の政務を輔弼する職としての地位が確定した。この役職は大韓民国でも引き続き制定され、役職名は国務総理となっている。
    政教分離の観点から、終獻官は全州李氏大同宗約院内から任命することとなった
  8. 飮福: 古くは祖先より下賜された酒を飲む儀式であり、本来、酒を飲む行為だけを意味したが、徐々に祭祀にあげた食べ物を分けて食べる全体の過程を含める神人共食を指すことになった。宗廟祭礼は報恩を目的とする祭祀なので飮福を行うが、現在は行われていない除祭や退祭のように災害を下す霊を対象とする儀式の場合、供物は穢れとなるため、飮福は行わない
  9. 撤籩豆: 供物を収める儀式で、この時、チャルメラによく似た形のダブルリード式木管楽器太平簫(音は雅楽の篳篥「ひちりき」と同じ)にて「雍安之樂」を演奏し、先祖が食事を終えたことを知らせる
  10. 送神: すべての祭事を終え、先祖の霊を送る儀式で、すべての祭壇で位牌に向かって4回祈って退場する儀式である。この過程で、送神楽が演奏され、敬虔に儀式を終える
  11.  望燎: 祭祀が終了した後、使用した祝文、廃白(絹布)などを北西(正殿・永寧殿左裏手)にある小さな焼却炉(望燎位)から燃やして空に返す最終儀式である。
    ちなみに、社稷の儀式は、祭る対象が社神、稷神になるだけで、宗廟祭礼と手順はほぼ同じである。ただし、この望燎だけは社稷では実施せず、燃やさずに土地に埋葬する。社稷で行う燃やさずに土地に埋葬する儀式のことを「望瘞」という。どちらも式典終了後に少数の祭司が施設裏手で密かに行うので、祭官でもよくわかっていないことがしばしばあり、望燎と望瘞を混同している文献もよくみられる

迎神

晨祼

 

進饌(饋食)

初獻

 

亞獻

 

終獻

 

飮福

 

撤籩豆

 

送神

 

望燎

 

祭官

  • 初獻官: 宗廟祭礼で最も重要な祭司で、最高位職の祭司が任命される。朝鮮王朝時代には王が初獻官であった。現在は、全州李氏大同宗約院により各神室ごとに初獻官が任命され、担当神室の該当王の世子(直系子孫)を除いた王子子孫派宗會で推薦された者から任命される。 初獻において神室に入り、最初の盃を上げて祝文を読む役割を担う
  • 亞獻官: 朝鮮王朝時代には王世子(王位継承順位第1位の王族)が亞獻官であった。王即位直後で王世子がいない場合や、中国から王世子が不認定となった場合は、正1品官が代行した。過去には通常、終獻官となるべき領議政が亞獻官を務めたこともあった。現在は全州李氏大同宗約院により各神室ごとに亞獻官が任命され、原則担当神室の該当王の王妃家の宗親会より推薦された者から任命される。よって、全州李氏以外の金氏、朴氏、崔氏、鄭氏等より任命されることになる。王妃家の宗親会は比較的しっかりしているので問題が発生することは少ないが、宗親会が宗親会の体をなしていないというケースもしばしばあって、その場合には、全州李氏より代役が立てられることがある。亞獻において神室に入り、二番目の盃を上げる役割を担う
  • 終獻官: 朝鮮王朝時代には領議政、大韓帝国時代には内閣総理大臣が任命された。現在は、初獻官同様、全州李氏大同宗約院により各神室ごとに初獻官が任命され、担当神室の該当王の世子(直系子孫)を除いた王子子孫派宗會で推薦された者から任命される。終獻において神室に入り、最後の三番目の酒を上げる祭官としての役割を担う
  • 執禮: 儀式を執行する(進行管理する)役割を担う
  • 贊禮: 初獻官を補佐する役割を担う
  • 薦俎: 進饌で煮肉を供する役割を担う。これは、高句麗の古代から伝わる祭礼法の名残りであり、先祖に煮肉など食べ物を捧げ、その匂いで神を迎えるという意味が込められている。宗廟正殿(19室)と永寧殿(16室)の前で、各室50種以上の供え物を載せたテーブルが置かれるため、薦俎は、1700以上の供え物を準備し、祭礼当日は、先祖に煮肉など食べ物を捧げる役割を担うことになる
  • 捧俎: 進饌で煮た肉を受け取り、位牌の前に携えて供する役割を担う
  • 大祝: 祝文を読み上げる役割を担う
  • 監察: 祭礼の始まりから終わりまで、全過程が礼法に合致して進行しているか確認し、監督するための重要な役割である。執事者と一緒に祭祀の準備が完璧かどうか慎重にチェックし、儀礼の威厳と格式を維持する役割を果たす。 祭礼準備段階で祭器と祭水を点検し、行礼中にはすべての手続きを監視し、祭礼後には使用した用具が元通り返却されているかどうかを検査して封印するなどの役割を担う
  • 右奠·廟司: 右から酒杯を供える役割を担う
  • 內奉: 宗廟正殿または永寧殿の神室の中で、初獻官、亞獻官、終獻官が神位の前に酒杯を上げるとき、外奉から酒杯を引き受け、最終的に神位の前に供える役割を担う
  • 外奉: 宗廟正殿または永寧殿の神室の中で、初獻官、亞獻官、終獻官が神位の前に酒杯を上げるとき、酒を入れておく器がある所で、執尊より酒の入った杯を受け取り、内奉に酒杯を受け渡す役割を担う
  • 執尊: 祭礼中酒に関する職務を担う。祭礼中、レードル(おたま)で大きな酒器(樽)から爵に分配し、外奉に手渡す
  • 贊儀: 祭礼中、執尊と外奉を導く役割を担う。現在は日中の明るいときに宗廟祭礼を行うため必要性は薄いが、本来は夜間、漆黒の闇のなかで行う祭礼であるため、執尊と外奉が転ばぬよう先導役が必須であった(昔は祭礼中に転んだら打ち首獄門は必至であった)
  • 盥洗位: 盥洗位は祭礼の祭官が神室に登る前に、手を洗って禊をする場所、担当者、及びその手続きをいう。盥洗位には、洗臺の上に洗う水を入れて置いた洗罍と手ぬぐいが置かれた

供物

五享親祭設饌圖。季節によって使用する用具は変わり、この図はそれらを網羅している

  • 薦俎匣: 牛と羊の腸、胃、肺と豚皮の煮物の入った重箱に似た器
  • 幣篚: 朝鮮王室の先祖である歴代王と王妃の神位に真心を表わすための供物である絹(廃白)とそれを盛る竹鉢
  • 龍瓚: 降神禮(地下の神を祀る儀式)で鬱鬯酒を供えるときに使用される真鍮製のボウル。龍が描かれているか、龍の形をしている
  • 木豆: 祭需、祭祀膳のうち、水気のある料理など12種類の供え物を入れた漆器製の高坏 
  • 竹籩: 祭需、祭祀膳のうち、主に栗、ナツメ、乾燥肉、餅など12種類の供え物を入れた竹で編んだ高坏
  • 洗罍: 祭祀の前や祭祀の間に王が手を洗うときに水を入れておく水器。洗罍に入れた水に瓢箪製の勺(ムルパガジ)を浮かべ、盥洗罍という器に注ぎ、手を洗う。祭礼の前に体と心を浄化させる禊に使われる重要な祭器
  • : 先祖に酒を供えるときに使う真鍮製の酒器。古代中国の酒杯の形を模倣して作られており、器の形が雀と似ており、爵という名前がついた
  • 犧罇: 酒を供する際に使われる真鍮製の象形酒器である。春と夏には牛と鳳凰の形を使用し、秋と冬には象と鶏の形を使用する。最初に盃を供するときに主に使用され、玄酒と醴齊酒をそれぞれ入れておく
  • 象罇: 酒を供する際に使われる真鍮製の酒筒である。亞獻禮、すなわち2番目の盃を供するときに使用され、玄酒と醴齊酒をそれぞれ入れておく
  • 鳥彝: 種苗祭礼で使用される鳥彝とは、祭祀時に酒や明水を入れる鳥の形(主に鳳凰)が描かれたり、刻まれた祭器である。 春の大祭では鬱鬯酒をいれ、下向大祭(夏や秋)には、明水(月夜に月に照らされた鏡に結露した露を集めて作った水)を入れる
  • 鷄彝: 鶏の形を刻んだり描き込んだ酒器で、主に春の大祭で降神、神を迎えるときに使われる。 鶏は暗闇を倒して夜明けを知らせる象徴であり、宗廟祭礼で神を迎え覚醒する意味をもっています。 春の大祭の初獻等に主に使われる
  • 著罇・壺罇: 宗廟祭礼で使われる着罇と壺罇は、伝統的な真鍮酒筒で、この2つの酒筒は主に秋の大祭で一対で使われる。通常、玄酒、淸酒、場合によっては水が供される。著罇はふたがあり、支柱なしで床が地面に触れる形であり、壺罇は本体が膨らんだ瓶の形をしている。集樽官が、龍模様のひしゃくで献酌するときに使用される
  • 剪燭器: ろうそくの流れ落ちたろうや、長くなりすぎたろうそくの芯を切って入れる真鍮の器
  • 剪燭子: ろうそくをととのえるための鋏。和ろうそく同様、芯が自動的に燃え尽きていかない朝鮮ろうそくは、芯が伸びすぎると火が消える。そこで使用中は芯を時々切る必要がある。ろうそくの流れ落ちたろうも除去できるよう、先端が半円形になった特殊な形をしている
  • 香爐: 晨祼禮の香りを燃やして天上の魂を呼び寄せる核心的な祭器で、主に真鍮で製作された22〜30cmの高さの香炉と香合(香盒)が一対で使用される。香炉で焚く煙を通って天にいる祖先の魂が下ってくるという象徴的な意味がある
  • 香盒: 日本の茶道で使われる香合に似ており、形は平棗に似ている。真鍮製の香を盛っておくふた付きの祭器である。香炉と一対を成し、晨祼禮などの香を焚いて神を迎える儀式で使われ、香座兒というテーブルに載せる
  • : 冪は酒杯や祭器、特に酒筒である山罍の上にほこりや異物が入らないように覆う四角い布である



 

単純に、正殿に善王、永寧殿に悪王が祭られているわけではない

正殿に祭られているのは、朝鮮王朝時代の国王(一部、大韓帝国の皇帝)ということで、比較的単純にすっきりとまとめられています。

しかし、朝鮮700年の歴史ともなると、そうすっきり単純に王位継承が行われたわけではありません。

トラブルを抱え、矛盾に満ちた王位継承も多々あり、そのへんの面倒な部分が永寧殿に祭られているといっても過言ではありません。

正殿から撤去された高祖の位牌、朝鮮初期、中期の混乱期、正殿から撤去された王の位牌が永寧殿に祭られているのですが、それだけではありません。
思悼世子事件絡みの怨霊2名、在日朝鮮人の身分保証に関する経緯で、米国及び日本国にて書類上即位したことになっている朝鮮国元首1名を含んでいます。

米国及び日本国にて書類上即位した王とは、李 垠(英親王)のことなのですが、GHQにて書類が作成されたのが大韓民国建国後のことでした。

米国が、わがまま放題で米軍のお荷物となっていた大迷惑な大韓民国の大統領の首をすげ替えるために、李 垠を即位させたと、この話を聞いた李承晩大統領は激怒しました。

李承晩大統領が、米国にとって大迷惑だと自覚があったというのですから、あきれます。

ともかく、米国が大韓民国の大統領を李 垠に替えることのできないよう、永久国外追放としたため、韓国史的には、公式には即位していない朝鮮国王となっています。

あきれた李 垠は、息子がアメリカの大学(マサチューセッツ工科大学)に留学時に、無国籍では息子にも会えないという理由で、日本帰化を申請することになりましたが、昭和天皇の親戚であり、元大日本帝国陸軍陸軍中将であったこともあり、日本人『李 垠(り ぎん)』として日本帰化はあっさりと認められています。

 

朝鮮最末期の1909年の宗廟正殿。荒れ放題だった社稷壇とは対照的に、管理状態は非常に良かった

宗廟及び宗廟祭礼を、大韓民国が朝鮮の正統であり、北朝鮮は朝鮮の異端であることの証明とすることにした李 垠(英親王)と朴 正煕大統領の思惑・・・これで金正日が窮地に陥る

李 垠が日本に帰化した知らせを聞いた朴 正煕大統領は、日本の東京にある田園調布の李 垠の家に立ち寄り、帰国を認め、韓国籍を付与しています。

このとき、朴 正煕大統領が李 垠と何を話したのか記録はありません。
しかし、その後2人の行動から、おおよそ、話された内容は推測できます。
北朝鮮を朝鮮の異端とするには、李 垠の大韓民国への帰属が必須であることに朴 正煕が気付き、朴 正煕が李 垠を説得したのだと思われます。

日韓国交正常化交渉開始にあわせて、李 垠は韓国に渡航していますが、この頃には体調不良が著しく、金浦国際空港からソウルの聖母病院に直行することとなりました。

普段は昌徳宮の民家風の離れである楽膳斎に起居することになりましたが、病床において、李 垠は大韓民国を大韓帝国の正統後継国家にするための段取りをつけるという最期の大仕事に取り組み、7年間の闘病の末、1970年死去し、永寧殿に祭られています。

李 垠の妻は、日本の皇族、梨本宮方子女王(戦後、李方子:りまさこ、国籍:大日本帝国→無国籍→日本国→韓国)であったことから、元々日本人ながら、1989年の死去を機に、永寧殿に夫李 垠とともに祭られています。
宗廟に祭られている中では唯一の日本人という説明がなされることもありますが、貞操を守る強い意向から、李 垠との結婚を機に日本人を名乗ることに否定的であったうえ、李 方子自身はカトリック教徒であったことから、さほど宗廟祭礼に熱心ではなく、宗廟の歴史でもあまり語られることはありません。

 

朴 正煕大統領(左:1枚目)は、李 垠(英親王)(右:2枚目)を大韓帝国最後の国家元首と認めるかわり、大韓民国が朝鮮の正統な後継国家であることを世界に認めさせる仕組み作りで手を組んだ。李 垠は、無口で温和な性格が印象的な人であったが、大日本帝国陸軍中将として太平洋戦争を経験した猛者でもあったことから(同僚に硫黄島の戦いで有名な栗林中将がいる)、戦略家としての能力は朴 正煕大統領に引けをとらなかった。
この2人の作戦によって、北朝鮮は民族的正統性を永久に失うことになり、北朝鮮はこれを埋め合わせるため、錦繍山太陽宮殿を莫大な費用を掛けて建設し、金日成及び金正日の遺体を永久保存し、日常的に祭礼を執行して民族的正統性を主張する必要性に迫られることになった。これにより、北朝鮮経済は回復不能な大打撃を被った。
厳密なことをいえば、李 垠がGHQ及び日本国の公文書上、大韓帝国最後の国家元首とされたのは、大韓民国建国後の李承晩大統領の時代のことであるので、李 垠を大韓帝国最後の国家元首と認めれば、李承晩大統領、尹潽善大統領も朝鮮史上の異端となってしまう問題が発生する。
ただし、大虐殺と破壊的悪政が慢性化した李承晩大統領、イデオロギーと理想論ばかり唱えて何もしなかった尹潽善大統領は、金日成、金正日、金正恩もろとも朝鮮民族史上の黒歴史として葬ってよし・・・というのが韓国国民の率直な意見であるので、李 垠を大韓帝国最後の国家元首と認めることに異を唱える人はまずいなかった

 

朴 正煕大統領は、李 垠死去に際し、古式に則り、最後の大韓帝国皇帝として『英親王』、「懿愍太子」諡号を送っています。

よって、大韓民国史上は

李承晩大統領 → 尹潽善大統領 → 朴正煕大統領 → 崔圭夏大統領

と歴代国家元首の流れがありますが、宗廟的には

→ 高宗 → 純宗 → 英親王 → 朴正煕大統領 → 崔圭夏大統領

という朝鮮王朝から続く歴代国家元首の流れが存在します。

李 垠を不遇の第3代大韓帝国皇帝英親王として、永寧殿に大韓民国大統領朴 正煕が葬るということは、大韓民国大統領朴 正煕が第3代大韓帝国皇帝の後継者であり、大韓民国が大韓帝国の正統後継国家であることを宣言する行為でした。

(このシナリオは李 垠自身がつくった可能性が高い。朴 正煕は宗廟祭礼に詳しくないし、李 垠以外では、李 垠の息子、李 玖にしか正殿に葬るか、永寧殿に葬るか決定権がないが、李 玖は宗家継承の時期に大韓民国との関係をボイコットして全州李氏大同宗約院と揉めた経緯があるためである)

朴 正煕大統領が、金日成の権力を異端化する目的で、意図的に朝鮮王族を優遇して、自らの権力を正統化し、この流れを作ったというのは確かでしょう。

これ以降、宗廟は、朴 正煕大統領が永寧殿に李 垠(英親王)を祭ったという事実関係によって、大韓民国が朝鮮の正統であり、北朝鮮が朝鮮の異端であることを証明する施設となったのでした。

北朝鮮は、この宗廟及び宗廟祭礼に対抗して、錦繍山太陽宮殿で莫大な費用を掛けて、金日成及び金正日の遺体を永久保存し、祭礼を執行することを迫られたのであります。

韓国の文化財保存は、結構雑で、燃やしてしまったりとか不祥事が絶えませんが、こと宗廟の管理が特別に厳格なのは、大韓民国が朝鮮の正統であることを証明する役割をもった現役の政府施設だからです。

永寧殿に祭られている人の歴史の方が、正殿に祭られている人の歴史より、人間臭い部分が多々あって、何倍も面白いのですが、朝鮮史の暗部であることは確かかもしれません。

宗廟の観光ガイドが、思いっきり「正殿に善王、永寧殿に悪王が祭られている」と説明しているケースも多々ありますが、永寧殿と永寧殿の存立基盤である正殿が大韓民国の正統性の担保であり、北朝鮮を窮地に追い込む役割をもつ現役の政府施設であるという重大な事実にもっと目を向けるべきでしょう。

 

宗廟祭礼

 

正殿

  • (国王)太祖、太宗、世宗、世祖、成宗、中宗、宣祖、孝宗、顕宗、粛宗、英祖、正祖、純祖、文祖、憲宗、哲宗
  • (大韓皇帝)高宗、純宗

 

永寧殿

  • (高祖)穆祖大王、翼祖大王、度祖大王、桓祖大王
  • (国王)定宗、文宗、端宗、徳宗、睿宗、仁宗、明宗、元宗、景宗
  • (思悼世子事件の怨霊)孝章世子、思悼世子
  • (戦後の在日朝鮮人の身分保証に関する経緯で、米国及び日本国にて書類上即位したことになっている朝鮮国元首)李 垠(戦前日本名:昌徳宮李王垠・しょうとくきゅうりおうぎん、日本帰化後:李 垠・りぎん)(死去後:英親王) 

正殿にも永寧殿にも祭られていない

  • (国王)燕山君、光海君

ともに、宗廟祭礼の改革・整備に著しい功績があったが、朝鮮王朝では悪王に分類された。燕山君については、性格上の問題が著しく、文句なしの暴君という評価が定着しているが、光海君については人格的にも優れ、善政が目立ち、謀略によるクーデターに遭った不遇の王という側面が強い。

 

全州李氏宗家第30代当主 李 源
注:全州李氏大同宗約院編纂の族譜(王統譜)において、何代目になるかの数え方について諸説あって、8世紀(日本だと飛鳥時代後期から奈良時代初期)李翰(イ・ハン)を初代とする数え方と、朝鮮初代国王李成桂(太祖)を初代とする数え方がある。第30代当主というのは、李成桂(太祖)を初代とする数え方である。この他、李安社(穆祖大王:もくそだいおう)を初代とする数え方があり、この方式は朝鮮初代国王李成桂(太祖)が主張していたが、現在はほとんど認められていない。さらに、男性の命名規則を定めた時を初代とする数え方、傍系の家系では、枝分かれした人を初代とする数え方もあり、同一人物が族譜の版ごとに何代目かが異なるということはよくある。それが韓国であまり問題とはならないのは、族譜が朝鮮王朝時代からの伝統で、漢文で書かれており、ほとんどの人が漢字が読めない(ハングルしか読めない)現代韓国にあって、族譜を持ってはいるが、読んだことがないという全州李氏の人々が大多数であることによる。

 

もともと宗廟祭礼は、儒教の本体、一種の降霊術であった。
しかし、現代の宗廟祭礼は、金日成・金正日・金正恩の権力を異端化することを目的とする、北朝鮮が朝鮮の異端であることを証明する国家行事に変化している。

それゆえ、日本の大相撲同様、韓国国民への広報戦略として、宗廟祭礼の商業化も当然のように許容されている。
降霊術としての厳格さをさほど問わない(PA用のスピーカーがあったり、ビデオカメラが神室を行き来したり、仮設テントが宗廟内に設置されたり)、見方によっては、ある種緩くいい加減な現代の宗廟祭礼の性格は、1969年の宗廟祭礼復活をとりしきった李 垠(英親王)の意向によるところが大きく、李 垠(英親王)がカトリック教徒であったことと深い関係がある。現在、韓国国民の過半数がキリスト教徒であるが、偶像崇拝を激しく忌避するはずのキリスト教徒が宗廟祭礼に対して寛容である背景には、李 垠(英親王)の匙加減が絶妙であった経緯が否定できない

 

崇禮門(南大門)

崇禮門(南大門)。焼失前のオリジナル。このように、両翼の城壁を壊したのは高宗である。1907年、後の大正天皇である吉仁皇太子が大韓帝国に行幸することが決まった際、高宗は、朝鮮の偉大さを見せつけるランドマークを作りたいと考えた。朝鮮最大の城門である南大門に白羽の矢が立ったが、南大門といえど、さほど大きな建物ではないということが問題となった。そこで、石塁の中のアーチ状の虹霓門(ホンエムン)部分も含めて1つの建物となるようデザインする改造案を思いつき、このようなかたちになった。こうすることで、先だって建設した大建築である独立門が霞むほどドデカい建築物になり、朝鮮の偉大さを見せつけるにはうってつけのランドマークとなった

 

概要

朝鮮時代の首都、漢陽都城の大門の一つであり、現在の韓国では、漢陽の正門であったと考えられています。

崇禮門が正式名称で、漢陽都城の南に位置する大門であるため南大門とも呼ばれました。

崇禮門という名称が一般的に使用されるようになったのは2008年2月10日の放火火災以降のことで、現役の城門であった朝鮮王朝時代でも「南大門」で通っていました。

漢文を日常的に使用しない庶民の場合、懸板を読むことができないので、より直感的な「南大門」が支配的に使われており、漢文をよく知っていた権力層の記した王朝実録等公文書でも、「南大門」を非常によく使用した例を見ることができます。

2008年2月10日の放火火災までは、ソウルに現存する最古の木造建築物でした。

太祖5年(1396年)に着工され、太祖7年(1398年)に竣工しました。
この建物は竣工後まもなく倒壊し、世宗王30年(1448年)に再建されました。
1961年から63年にかけて解体修理したところ、世宗10年(1479年)にも大工事が行われていたことが判明しました。

壬辰倭乱(文禄・慶長の役:1592〜1598年)時、加藤清正、小西幸長らが敵兵の潜伏を警戒しつつも、破壊することなく凱旋門として使用したことが南大門の運命を変えました。

 

この写真は1907年頃のもの。人々の服装をみてみると、現在韓国で放送される時代劇で俳優が着ている衣装とは異なる。電柱にみえるものは電話線。この時代の電話線は裸銅線で、ビニールの絶縁被服なんて発明される前なので束ねることができず、1本で1回線、帰還線(マイナス線)に1本電線を使うこともあったから、ここに通っている電話線は10回線ということになる。交流送電網の発明はニコラ・テスラ、電話の発明はグラハム・ベルと、そもそも発明者も発明時期もまったく違い、電気の普及より電話の普及が早かったことによる。南大門なので、各国大使館等々がこの周辺にあり、必然的に早々に最新の通信機器が導入された。電話線の本数からして、王宮と大使館が使用した電話線であろう。もちろん庶民には関係ない

 

というのも、1904年から1908年まで日本軍の朝鮮駐屯軍司令官だった長谷川吉道は交通障害を理由に南大門の除去を強硬に主張していたからです。

当時「漢城新報」社長兼日本人居留民団長だった中井北郎が「崇礼門は加藤清正が漢陽に入城した門です。 」と説得したところ、長谷川吉道が大陸進出の夢を成し遂げた偉大な先人の遺産なのであれば、むしろ国宝に指定すべきとなり、加藤清正らが凱旋した南大門が1934年8月27日に「京城南大門」の名称で宝物第1号に、小西幸長らが凱旋した東大門が「京城東大門」の名称で宝物第2号に指定され、厳重に保存されることになりました。

南大門の管理は、朝鮮独立後の方が、経済的混乱もあったせいもあり、いい加減になった側面があります。
朝鮮戦争時、北朝鮮軍進軍に伴い砲撃を受け、一部損傷したものの、凱旋門としての使用予定があったようで、本格的な破壊は行われず、焼失を免れました。

 

北朝鮮占領時の南大門

 

朝鮮戦争で破損した部分の大規模な解体、修復工事は1961年から1963年にかけて行われ、1962年12月20日に改めて大韓民国文化財保護法(朝鮮語版)(1962年法第961号)に基づき「ソウル南大門」の名称で国宝第1号に再指定されることになりました。

軍事政権時代は、国家統合の象徴として立入禁止で一貫していたのですが、民主化後は文化財としての保存方法が文化財庁の方針、組織体制が変更される度に二転三転し、崇礼門を管理する中区庁が依頼する警備会社の契約不履行による放置が常態化し、ホームレスが住み着くなど荒廃が進みました。

その後、2008年2月10日に南大門で放火火災が発生し、楼閣2階の屋根が倒壊し、1階の屋根の一部が焼失するなど甚大な被害が発生しました。
5年2か月の修復工事を経て、2013年5月4日に完成し、一般公開されたものの、再建工事の不備が見つかり、倒壊の危険性が発覚したため、再び立ち入り禁止措置が講じられています。

 

朝鮮王朝がまだ滅亡の兆しをみせていない時代の南大門。1890年頃。訪れたイギリス人のイザベラ・バードが、ここは乞食の国かと驚いたのがこの頃。実は南大門は朝鮮最大のオーパーツともいうべきロストテクノロジーの塊であったのだが、崩れかかった城壁をみてわかるとおり、そんなことを意識する人はあまりなかった。南大門が、漢陽の正門というよりは、荷物搬入口としての性格が強かった特徴が写っている。ちなみに、イザベラ・バードは、同時期の日本については、牧歌的生活のある国と評しているので、日本についても、文明国とは思っていなかったようだ

 

南大門の位置づけ

外交使節は入ってはならぬ大門

ちなみに、外交使節は、西に位置する西大門から入るのが礼儀であり、西大門以外からの入城は敵対の意志ありと認識されました。
南大門から漢陽に入った外交使節は、宣戦布告を目的とするものと認識され、直ちに逮捕・処刑の対象となりました。

これは、朝鮮を構成する最大勢力である高句麗人が風水を篤く信じていたことにより、方角に強いこだわりをもっていたことによります。
大門には八卦に基づく意味がそれぞれ割り当てられており、

  • 東大門:震:革命
  • 西大門:兌:友和
  • 南大門:離:紛争
  • 北大門:坎:疾病

冊封使を迎える迎恩門が西大門外にあったのも、友和を意味する西大門から冊封使を迎える必要性からです。

北大門が山の上に建設され、接続する道が特にないというのも、北大門が疾病をもたらす門であるということからきています。

こういった門の表す意味は、高句麗人ならば誰でも知っている常識でありましたが、伝承はあくまで口伝、異民族には秘密とされました。
そのため、朝鮮王朝は、付き合うのが非常に面倒な国という印象を外国に与えることに成功しています。

しかしながら、中国、清王朝がなぜ朝鮮王朝を属国化できたのかというと、清王朝の皇帝が属する満洲族(女真族)は、古代、満洲で高句麗人と覇を争った兄弟といっていいほど近い民族であったことにあります。
満洲での女真族との抗争に敗北した高句麗人が、朝鮮半島を南下し、朝鮮半島を平定して高麗を建国しています。

高麗の後継国家である朝鮮の弱点など、満洲族(女真族)は熟知していましたので、清王朝の方が朝鮮王朝より何枚も上手であり、非常に長期間にわたって朝鮮を属国化することが可能であったわけです。
清王朝の冊封使ともなれば、どこの門から漢陽に入城しようが自由だったはずですが、決して西大門以外から入城することはありませんでした。

 

朝鮮の首都、漢城であるが、正式名称は「漢陽城内」。略して漢城という

 

四大門の意味

門の命名には、朝鮮王朝の志向する思想が反映されています。
漢陽都城の主な門には五行の思想に応じて、儒教で最も重要視される徳目、すなわち五常を成す仁、義、禮、智、信に対応させて名前をつけましたが、仁、義、禮、智、信が朝鮮王朝における統治理念そのものでもありました。

  • 仁(じん): 他人を思いやり、慈しむ心。優しさや愛情
  • 義(ぎ): 正しい行いをすること。道理にかなった行動、私利私欲にとらわれない正義感
  • 禮(れい): 礼儀作法。社会秩序を保ち、他者を敬う心と態度
  • 智(ち): 善悪を見極め、正しい判断を下す知恵。知識や理性
  • 信(しん): 信頼や誠実さ。約束を守り、嘘をつかないこと

 

  • 東大門(じん): 興仁之門
  • 西大門(ぎ): 敦義門
  • 南大門(陽門・水不足の際閉鎖):(れい): 崇禮門
  • 北大門(陰門・水不足の際開門):(ち): 粛靖門(靖国の意味を込めて智の代わりに靖を使った)
  • 都中央(しん): 普信閣 

日清戦争後のゴタゴタで、清王朝の冊封が終了し、朝鮮が独立し、大韓帝国が建国されると、俄然景気はよくなり、街は活気にあふれた。1890年頃にあった南大門外の掘っ立て小屋が一気に一般住宅に変貌した。韓国史上における大韓帝国の存在感は甚だ薄いが、庶民の生活の目線でみると、大韓帝国建国後、景気浮揚に伴い、街並みは一気に変化したので、大韓帝国建国は一大事件であった。南大門周辺の住宅は、間もなく1907年、高宗の気まぐれにより、取り壊されることになる

 

構造

門は、石を高く積み重ねて作った石塁の中にアーチ状の虹霓門(ホンエムン)を置き、その上に前面5間・横2間×2、6軸の2階建ての重層門塔の楼閣を置きました。
同様な門は、東大門である興仁之門、水原市の水原華城の八達門、水原市の水原華城の長安門があるのですが、韓国に現存する城門の中で最大規模です。

 

ウジンガク屋根

独特のカーブを描く楼閣の屋根は、ウジンガク屋根といいます。
このウジンガク屋根が非常に曲者で、垂木のカーブでもって上に乗った重い瓦を支える構造になっています。
ところが、垂木は瓦の重量で曲がって垂れ下がってくるので、組物(くみもの)である斗・肘木(と・ひじき)を4段にも重ねて荷重を分担する構造になっています。
日本では3段に重ねる三手先までしかなく、4段にも重ねる組物は朝鮮独特の様式です。

垂木を切り出す際、カーブをどのぐらいにするか、重い瓦の荷重がない状態で決めないといけないわけですから、たいへんです。

木の強度は、木によって千差万別。
ということは、垂木のカーブは1本1本バラバラにつくって、瓦をのせたとき、軒がピシッとまっすぐになるようにしなければいけない。

あまりにも無理難題なので、修理はまあよいとしても、ゼロから新規に垂木を作ることだけはどうしても避けたいところです。

日本の寺社建築では、強い地震が頻発すること前提で、荷重があまりかからないよう、控えめな作りになっていますが、地震が基本的になく、あっても弱い朝鮮では、瓦はメチャクチャ重く、ギリギリを攻めた作りになっています。
これを職人の勘でビシッとやるのが朝鮮建築の真骨頂なわけです。

現代の韓国にそんな技術があるもんかい・・・と韓国人はみんなわかっているから、修理はまあよいとしても、ゼロから新規に垂木を作ることはやりたくないわけです。

屋根瓦の大重量で梁が割れてしまわないようにするための組物(くみもの)

屋根が張り出すと、たわんで垂れてしまうが、これを防ぐための応力分散を目的とした組物。日本では大地震の懸念があるため、屋根の張り出しは控えめになっており、組物も三手先までとなっている

朝鮮では、屋根の張り出しを最大化するため、大型の飛檐垂木(ひえんだるき)を採用している

 

懸板

南大門の懸板が、朝鮮では珍しい縦書きである件

よくみると、南大門の懸板は、縦書きになっています。

これについては、特に伝説めいたものはないのですが、朝鮮において、縦書きの懸板はいくつかあるものの、非常に珍しいものなので、後の研究者の間で、様々な憶測をよびました。

最も広く普及した俗説は、ソウルの南、果川市との境にある岩山、冠岳山が火山であることから、火の卦が景福宮に侵入するのを防ぐために、 火の卦のある「崇」、「禮」という字を縦に重ね、「炎」の卦を作りだし、冠岳山の 火の卦を乱すことを目的としているというものです。

南大門の外側に人工的な大池である南池が開削され、そこに水の卦を呼ぶ青銅龍頭の亀(玄武)が埋められていたことから、このような俗説が生まれました。

この亀は、日本統治時代、1926年朝鮮郵船事務所建設のため、南池を埋め立てた際、基礎工事の過程で発見されたのですが、胎内から、「火」を「水」で囲んだ呪符が出てきたことから、この説を裏付けています。
南池は、現在、世宗大路となっており、地下には地下鉄1号線トンネルが敷設されています。

南池(写真左)と南大門

 

南池跡から出土した玄武

 

玄武の胎内から出てきた呪符。火の回りに水の字がある

 

ソウルの南、果川市との境にある岩山、冠岳山。火山である。山の麓にある建物は韓国政府庁舎

冠岳山頂上。遠くから見るとわかりにくいが、わりと尖った山で、登山者の人気は高い

 

南大門の懸板は、伝承では、太宗(李芳遠)の長男、譲寧大君の書といわれていますが、韓国の考古学者の多くは否定しています。
その理由として、南大門の懸板の字体が譲寧大君の書の字体と異なる点と、譲寧大君の素行の悪さという点が挙げられています。

譲寧大君は、漢陽の種馬と異名をとるほどの女癖の悪さがあり、廃嫡となったぐらいなので、書の才能はないと考古学者の意見が一致していることによります。
日本史ではさほどマイナスにはならない女癖の悪さですが、朝鮮史では伊藤博文レベルの女癖の悪さでも結構致命的です。
15男11女の26子をもうけ、さすがに明治天皇を心配させた松方正義に至っては、朝鮮史ならば、抹殺されて当然のレベルです。

譲寧大君は長生きで、弟の世宗死去後も生きており、王族の長老として数々の陰謀で暗躍したとも伝えられています。
譲寧大君の16代孫に、大韓民国初代大統領の李承晩がいることも、譲寧大君がタダの暗愚であると否定される原因ともなっています。

朝鮮史上は、太宗(李芳遠)の次男、孝寧大君は書の天才として有名なので、孝寧大君ならわかるが、譲寧大君はありえないとのことです。
とはいえ、太宗(李芳遠)はもとより、三男、忠寧大君(世宗)も書の天才として有名で、書の天才家系で、譲寧大君だけが無能というのは、なんか納得がいかないところがあります。
ちなみに、世宗は、二大恩人として譲寧大君と孝寧大君を挙げており、二人がなければ今の自分はなかったと王朝実録に残しています。

譲寧大君公派の子孫たちは、あまりにも譲寧大君の評判が悪く、懸板も掛け替えられてしまう可能性が高かったことから、譲寧大君の筆跡を保存する必要性を早くから感じていたのだそうで、何度も懸板の拓本と複製木版を作って保管してきたのだそうです。
2008年2月10日に南大門で放火火災の復旧工事の際に、至徳祠(社団法人譲寧大君公派)によって秘蔵されていた懸板の拓本と複製木版が出てくることになりました。

 

左が南大門焼失前の懸板。赤い四角の部分が、至徳祠(社団法人譲寧大君公派)秘蔵の拓本と異なっていた部分。右は秘蔵の拓本。最終的に秘蔵の拓本どおりに修正されたため、現在の懸板は右のようになっている。
懐疑的な考古学者は、この違いを理由に懸板は譲寧大君の筆ではないと強硬に主張していたが、誰がどう見ても筆跡は同じに見え、懐疑的な考古学者の主張する筆跡が違うという主張は受け入れられなかった。

 

ちなみに、2008年2月10日に南大門で放火火災の際に、南大門の懸板は焼けませんでした。

消防隊員のなかに、朝鮮史に非常に詳しい隊員がいて、火災初期のうちに懸板を強引に取り外してしまったためです。

ただ、撤去する時間がなかったため、接続部分をノコギリで切断したものの、あまりにも重量があったため、高所作業車の作業員では受け止めることができず、落下させてしまったのが痛恨事でありました。

幸運にも、一部破損しましたが、比較的完全な状態でした。
そこで、至徳祠(社団法人譲寧大君公派)より提供を受けた懸板の拓本と現物合わせで突き合わせてみたところ、筆跡レベルではおおよそ一致していたものの、いくつかの字画で若干の差がみられました。

この時、比定に使用した拓本は、譲寧大君の子孫であるイ・スンボなる人物が、1865~1871年に南大門の懸板を確認しながら作ったものだそうです。
至徳祠(社団法人譲寧大君公派)の拓本は、それまでの複数の拓本と完全に一致しており、至徳祠(社団法人譲寧大君公派)の拓本が譲寧大君の筆跡であることは確認されていました。

朝鮮王朝末期から日本統治時代の南大門写真とも完全に一致していたため、南大門の懸板の字体の変化は、韓国独立後に起こったことがわかりました。

特に記録はなかったのですが、韓国独立後の懸板の修理は、1961年から1963年にかけて、朝鮮戦争で破損した部分の大規模な解体、修復工事しか行われていないので、朝鮮戦争で懸板が破損し、これを雑にはんだ付けで直したのが原因で、文字に変形が起こったと推定されました。

そこで、現在、懸板は拓本のとおりに修正されています。

 

朝鮮戦争で焦土と化したため、現在の場所と特定するのは難しいが、おおよそ南大門の近くにある市場。1945年の写真。韓国の教科書では、日本統治時代、悲惨な生活環境だったと説明される時代の写真である。写真を見る限り、独立後の李承晩大統領の時代よりずっと活況を呈している

 

南大門市場

南大門は、漢江に開設された麻浦の港に最も距離が近い門で、物資輸送用、いわゆる貨物用の門として機能していました。

漢陽に送られてくる地方物資は、通常、船舶を用い、麻浦の港に陸揚げされました。
南大門の近くには、租税や供物を保管するための大規模な倉庫が建てられました。
物資を集めただけでは租税や供物の用をなさないので、これらを売り払う仕組みが必要でした。
そこで、南大門周辺が漢陽における商業地となっていきました。

本格的に南大門そばに市場が開設されたのは、1897年のことで、南門内装、倉内場などと呼ばれました。
ほぼ同時期に、東大門そばにも広蔵市場が開設されました。
ちなみに、広蔵市場の広蔵とは、租税や供物を保管するための大規模な倉庫を意味します。

日本統治時代、南大門市場は朝鮮総督府の統治の及ばない場所であったため、朝鮮総督府は何度も解体を試みましたが、やはり日本陸軍の下部組織である朝鮮総督府では市場取引の勝手がわからず、失敗をくりかえしています。

親日派の朝鮮人が朝鮮農業株式会社を設立し、南大門市場を買収し、1921年に日本人が経営する形態の中央物産株式会社に転売することで、所有権が日本人に移りました。
現在では朝鮮農業株式会社の社長は親日派ということになっていますが、これってタダの転売ヤーじゃんと思うのは私だけ?

結局のところ、南大門市場は日本人所有となり、朝鮮総督府も文句を言わなくなり、韓国独立時には押しも押されぬ常設市場としての地位を確立するに至りました。


ランドマークとしての南大門

漢陽の名目上の正門である南大門は、大きさこそ朝鮮最大の門でありましたが、外交使節がここを通れば、侵略の意図ありとして逮捕・処刑される運命にあり、実際、南大門を凱旋した加藤清正らは朝鮮に侵略をもたらし、東大門を凱旋した小西幸長らは、朝鮮に革命をもたらしたのでした。

南大門は、現代ほどは重要視されてはおらず、物資輸送用の通用門として使用されていたのでした。

ちなみに、朝鮮の文明が遅れていた話として、朝鮮には車輪がなかった説がまことしやかに伝えられていますが、これは間違い。
南大門と麻浦の港の間は、荷物を満載した牛車が行き交っていました。

人の往来は、象徴的意味が強い大門ではなく、交通の利便性のために設置された小門の方が便利だったので、専ら小門が使用されました。
ただし、小門とその前後の道の幅員が牛車の通行ができないほど狭かったので、その周辺には牛車がなかっただけのことです。
もちろん、狭隘な路地の多かった漢陽城内は牛車通行禁止であったため、牛車の発着場として、後の南大門市場、広蔵市場のあたりに倉庫街が建設されました。
それで余計、漢陽城内の写真に牛車が写ることはありませんでした。

 

牛も暴走するときは暴走するので、道幅の狭い漢陽の場内は牛車の通行は制限されていたようである。よって、昔の写真に牛車が写ることは稀であったが、資材搬入口の南大門には牛車がよくみられたそうである

 

1907年、後の大正天皇である吉仁皇太子が大韓帝国に行幸することになった際、南大門の周囲にあったみすぼらしくスラム化した韓屋を撤去し、帝国にふさわしい景観を整備しようということになりました。

西洋からランドマークという概念が入ってきて、朝鮮のランドマークとして、朝鮮最大の城門である南大門がもっともふさわしい(それしかなかった)ということになり、高宗の命令により、南大門のランドマーク化改造が行われました。

これにより、南大門は漢陽の城門としての機能を喪失することとなり、朝鮮の民族統合の象徴としてのランドマークというアイデンティティだけが残ることになりました。

しかし、この変化により、南大門は漢陽で一番大きいだけの目立たない城門から、朝鮮最大のランドマークという地位に躍り出ることになりました。

日本統治時代になると、南大門のランドマーク化はより一層加速していきます。

大日本帝国にとっては、大陸進出の夢を成し遂げた偉大な先人の遺産として、大日本帝国のアジア支配を象徴するランドマークにふさわしいよう、周辺に施設が続々整備されていきます。

1925年に竣工した京城駅の赤煉瓦駅舎は、絶妙に南大門に面するように建てられ、その反対側に、白亜の京城府庁舎が建てられました。
この2つの朝鮮行政を象徴する建物は大路で結ばれ、この大路の延長線上には朝鮮総督府庁舎が鎮座する景福宮が配置され、南大門の象徴性が権威付けられました。

一方、大日本帝国による朝鮮統治に対する反発から、朝鮮人の間には、南大門が永久不変の朝鮮民族を象徴する建築物であるという愛国思想が刷り込まれ、現在に至ります。


崇礼門放火事件

いつしか、南大門があの場所にあるのは当然のことという意識が韓国人の間に芽生え、日常生活のなかの意識から消えつつありました。
そのような最中、2008年2月10日、放火火災により焼失しました。

犯人は京畿道高陽市で20年近く占い師をしていた人で、都市再開発事業により、土地の立ち退きが迫られることとなりましたが、立退き料に不服であったことから、立ち退きを断固拒否していました。
2006年3月に行政代執行が実施され、犯人は強制退去となったのですが、このことに腹を立て、4月に昌慶宮文政殿に放火したものの、すぐに消し止められ逮捕。
裁判所は情状を酌慮し、文化財保護法違反で懲役1年6月、執行猶予2年が言い渡され、併せて追徴金1300万ウォン(約130万円)の有罪判決となりました。
かなりの温情判決となったのですが、逆に有罪となったことに犯人は激しく立腹し、南大門を焼き払い、朝鮮民族を象徴する建築物をこの世から消し去ることを決意したといいます。

これはもう、立派なテロで、大統領とかだったら当然死刑求刑レベルの犯罪でしたが、韓国政府は、南大門の管理体制が杜撰だったことが追求されたくなかったことがあり、また、死刑目的の模倣犯の発生を懸念し、犯人を「ただの、あたまおかしい人」扱いすることを選択。
犯人逮捕後、懲役10年の有罪判決となりました。

犯人は意気揚々と刑務所入りしたとのことですが、刑務所内の全受刑者からの激しい憎悪の対象となり、犯人に対するいじめは凄惨を極めたといいます。
また、全刑務官からの激しい憎悪の対象となり、犯人に対するいじめがあっても一切無視され、懲罰対象となるのは犯人だけで、いじめが制止されることはなかったといいます。

また、この事件報道で、アナウンサーが「南大門」と連呼したことが問題となりました。
この門には「崇禮門」というちゃんとした名前があるじゃないか、通称で呼ぶなということになり、この事件以降、南大門は「崇禮門」と呼ばれるようになりました。

 

焼失した南大門。これ以降、南大門は崇礼門と正式名称で呼ばれるようになった


崇礼門復興事業

崇禮門の火災から100日目にあたる2008年5月20日、文化財庁は記者会見を開き、「崇禮門復興基本計画」を発表しました。
2009年12月までに発掘調査、考証、設計を行い、2010年2月10日に復元工事に着工し、2012年12月に復元完了とする復興計画を発表しました。
復元は伝統的な技術で行われ、作業員は民族衣装(韓服)を着用し、電動工具は使用せず、崇禮門の復元は、朝鮮王朝期の姿を再現することに重点が置かれ、日本統治時代に1.6m高くなっていた周囲の地盤を従来の高さに戻すとともに、1907年に取り壊された左右の城郭の一部も再現するとしました。
また、復元される崇禮門には赤外線熱感知器・煙感知器、スプリンクラー設備、監視カメラ等の防災システムが設置され、復旧費用には当初の予想を上回るおよそ250億ウォン(約24.7億円:当時)を充てるとしました。

なんか、大昔、朝鮮総督府初代総督の寺内正毅が本来の仕事そっちのけで、純宗とつるんで趣味全開で手掛けた昌徳宮の復元事業で聞いたようなセリフではあります。
重箱楊枝と朝鮮総督府職員から中傷された寺内の場合、日本的なものが昌徳宮に入ることを一切許さず、完璧な朝鮮様式の復元に、釘の1本、屋根瓦の1つに至まで徹底的に、水も漏らさぬ完璧さでこだわったのでありました。
特に、朝鮮に残る伝統技術の使用を絶対とし、日本からの技術移入は一切認めませんでした。
韓国政府はそのレベルで崇禮門を復元すると言ってのけたのでした。

そもそも、最先端の工具や資材を使ってですら崇禮門の修理は激ムズレベルなのに、丸焼けスッテンテンの状態から崇禮門を作るなんてできるわけがない。
寺内の時代、朝鮮がまだ中世もかくやといった状態だった反面、まだ木工職人はほとんど伝統木工職人だったので伝統建築が再現できたという側面は見逃せません。
韓国の場合、経済発展が急速だった分、今ある文化財はロストテクノロジーの塊だから尊いのだという自覚が薄かったりします。

文化財庁は2006年に作成した3D設計図があって、復元は可能と大見得を切ったのですが、1本1本の木の癖を見抜いて調整できる職人がいないんだから絶対無理。
そんな状況なのに電動工具は使うな、朝鮮の伝統資材を使ってやれだ?
これだから文系の役人が机の上で考えることはろくなもんじゃない。

万事いい加減と諸外国から中傷されることの多い韓国にも、良心ある優秀な技術者はいっぱいいます。
ただ、そういう技術者は、韓国という土地柄、やばい仕事に手を出さなくても食っていけますし、人気があるから、高額な報酬の随意契約の仕事だけを請け負ってもやっていけます。
万事いい加減と諸外国から中傷されることの多い韓国だからこそ、優秀な技術者が引く手あまたなのです。
苦労は、多分、日本の比ではないと思いますけど。

韓国人はみんなが、そんな危ない仕事・・・とわかっている条件を韓国政府が提示すれば、もちろん良心ある有能な職人は逃げますし、集まってくるのは怪しい山師ばかりという惨状でした。
そんなところで一般競争入札なんてやったらどうなります?
違法談合して値段釣り上げまくって、入札不調を連発させ、当局を煽り倒した挙句、高値落札といった具合に、ハゲタカの宴会場になってしまいますがな。

さて、2013年4月30日に復元工事が終了し、同年5月4日に復元記念式典が開催されました。
ところが同年10月頃から丹青に亀裂や剥離・退色が見つかり、また一部の木材に亀裂が走るなどしたため、復元工事に問題があったのではないかとの指摘が相次ぎました。
心ある有能な職人なら言うでしょう。
そもそも崇礼門に使うような大径木は、伐採してから10年は厳重管理下で寝かせて乾かしても、割れは避けられないから、5年で崇礼門作るのはそもそも無理だって。
2013年11月には文化財庁が、あっさり手抜き工事を認めて謝罪、保存管理に最善をつくすことを発表しました。

 

柱の割れ。計画耐用年数1000年の建築物で、竣工後半年でこれはヤバイ

 

塗装の剥げ。計画耐用年数1000年の建築物で、竣工後半年でこれはヤバイ

 

改めて韓国政府が調べてみると不良施工がでるわでるわ。
韓国産の金剛松ではなく価格が100分の1程度の安価なロシア産の松を使用し、しかも、乾燥不良で派手に幹割れを起こす。
木材の表面処理に使う油は、高価な不燃性のものを使う指定があるにも関わらず、安価な可燃性のものを使用し、工費を大幅カット。
木の表面を彩色する顔料は鉱石を粉砕精製した岩絵の具ではなく、一般の絵の具に使う顔料を使用することで工費を大幅カット。
顔料に混ぜる膠は、鹿膠のような天然品ではなく、安価な接着剤を溶剤で溶いたものを使用し、工費を大幅にカット。
本来、木材の強度にあわせて1本1本反りを調整しなければならない用材を、瓦を乗せて荷重をかけた状態で計測された設計図面どおりにカット。
法隆寺の五重塔を手刻みではなく、プレカット工法で復元するような無茶苦茶なことをやって、工費を大幅にカット。
法隆寺の五重塔を面倒な手刻みで修復するのは、プレカットなんかでやれば倒壊するからなのであって、崇禮門ではそれをやったんで、当然、完成後、木材が抜けたり割れたりする。
工事中、さすがに倒壊の兆候が出始めたので、日本製の高品質資材で補強し強度を確保・・・

なんで使わない約束の電動工具を使ったのかと問い詰めると、こんな短い工期で手作業でやれというのはそもそも無理と施工業者は開き直り。
なんで、日本製の資材を使ったのかと問い詰めると、施工業者は「日本製の資材は優秀だ。国宝で実験はできない」と施工業者は開き直り。
そして、不良施工をして浮かせた予算は行方不明。
崇禮門不実工事関連検証調査を行った忠北大学パク・ウォンギュ教授が、あまりのひどさに、検証調査の続行は不可能だと、学科事務室で自殺。
警察関係者は、何者かが浮かせた工費を着服したとみて捜査を開始。

結局、監査院が監査結果発表を通じて、山のような復旧不良内訳を発表し、文化財庁に、工事やり直しを命令。

警察の捜査が進み、2022年にようやく崇禮門顔料偽装疑惑の部分が解明されることになりました。
丹青を修復する過程で天然顔料ではなく一般的な化学顔料と接着剤を使用したことにより、人件費3億ウォン、材料費9億ウォンほどを不正に浮かし、計12億ウォン(約1億2千万円)を横領した容疑が明らかになり、刑事責任とは別に、韓国政府は容疑者ホン・チャンウォンとその弟子であるハン氏に14億ウォン(約1億4千万円)を韓国政府に損害賠償するよう判決が下されました。 
比較的小規模といわれる崇礼門の顔料不正で約1億4千万円の横領ですからね。
疑惑の本丸である用材(金剛松)偽装疑惑の横領となったら、いくらになるんでしょうかね。

崇禮門不実工事関連捜査は現在も続いています。

焼失前の崇禮門。最大の識別ポイントは懸板の文字であるが、その他にも素人でもすぐにわかる特徴がある。丸い垂木や飛檐垂木(ひえんだるき)の形が1本1本微妙に違う。組物の形も、1個1個微妙に違う。1本1本の木の癖を見抜いて手刻みで調整しているからである。地震が少ないことを見越してギリギリを攻めた構造をとっているため、この調整量は大きく、この調整量の大きいにも関わらず、建物として破綻していない見事さが朝鮮建築の美の真骨頂である。実は焼失前の崇禮門の鑑賞ポイントは、この職人の手仕事の見事さだったのである

復旧後の崇禮門。見る人がみれば、旧に復していない。焼失前との最大の識別ポイントは懸板の文字が譲寧大君の筆跡に忠実になるように修正されているのであるが、これが唯一の改善ポイント。その他は、なかなか悲惨である。丸い垂木や飛檐垂木(ひえんだるき)の形が全部同じ。組物の形も、全部同じ。コンピューターでプレカットしたように全部同じなのである。従って、焼失前の崇禮門の鑑賞ポイントは、完全に失われてしまった。1本1本の木の調整のまったくないこの崇禮門は、朝鮮様式の建築物としての文化的価値はない紛い物である。緑色の塗料の色もかなり変だが、プレカット問題に比べればたいしたことない