
駱山。市街地の家々の軒先を上から見下ろすような奇景が駱山公園からの独特の絶景を特徴づけている。韓国といえども普通なら、個人のプライバシー云々が問題となり、一般家庭を至近距離で見下ろすような公園などありえない。が、この地の板子村の歴史が、それをOKにしている

駱山は下から見ると、普通の山である。
2000年までは、駱山公園は市民アパートだった。山の上までアパートの住棟が建ち並んでいた。市民アパートは駱山周辺の住環境及び衛生環境向上を目指して1960〜1970年代にかけて順次整備された。
市民アパート建設前は、駱山がソウル市有地であるにもかかわらず、大量の不法占拠民が勝手に住宅を建てており、不法占拠民追い出しを巡っては、韓国が傾くような大騒動があった


市民アパートの住棟。駱山のてっぺんまで住棟が建設されていた。
なにぶん韓国の高度経済成長前、国力は北朝鮮以下という悪条件で建設された建物であったため、耐震性もへったくれもない北朝鮮の住宅よりひどいといわれ、幽霊屋敷と揶揄されるような住宅であった。
ここに住めた人々は、朝鮮戦争後の混乱期において、紛う事なき勝ち組であった

駱山公園建設に向けて取り壊し中の市民アパート。駱山の市民アパートからの眺めは、非常によかったのである
- 駱山の概要
- 板子(掘っ立て小屋:バラック)村と駱山の深い関係
- この世の地獄、板子(掘っ立て小屋:バラック)村
- 国民を搾取の対象としてしかみていない行政の棄民政策『広州大団地』
- 悪徳不動産屋が、広州大団地の土地不正転売で荒稼ぎしはじめる
- 広州大団地事件は北朝鮮の格好の宣伝材料となる
- 日本との国交回復後、広州大団地の産業基盤が整備されはじめる
- 広州大団地の名前は消え、盆唐新都市に飲み込まれる
駱山の概要
駱山は、ソウルの東大門から続く駱山公園を構成する低山で、漢陽都城の東西南北にある四山のうちで最も低い標高120m程度の山となっています。
「駱山公園」は、演劇やミュージカルの小劇場が集まる、ソウルの大学路(テハンノ)の小高い丘の上にある展望公園です。
大学路(テハンノ)の恵化駅が最寄り駅ですが、狭い路地が入り組む住宅街を抜けていく必要がある関係で、東大門から駱山城郭道をテクテク歩いていく行き方をする人が多いです。
2002年に開園した比較的新しい都市公園で、特に入場料は必要なく、24時間ライトアップされているうえ、夜間営業がメインの東大門市場に隣接していることもあり、早朝から深夜まで毎日多くの人が訪れます。
現在は、頂上近くまで宅地化が進み、現在、駱山と言っている部分は非常に狭くなっています。
ちなみに、朝鮮王朝時代には、王室で使用する牛乳をを生産するため、牛をここで育てたということから、「酪山」という別名もあります。
西の仁王山や北の北岳山は野生の虎がいて危険、南の南山はムダン(巫教)のお堂があって嫌な雰囲気というなかで、駱山は放牧地で安全、かつ、見晴らしも良かったため、朝鮮王朝時代は、景勝地としても知名度がありました。
そこで、李承晩大統領は駱山に邸宅を構えていました。

漢陽都城(漢陽城内:漢城)
風水における位置づけ
- 左(東) 青龍
- 右(西) 白虎
- 南(下) 朱雀
- 北(上) 玄武
「左 青龍」を担当する山であります。
これは景福宮の正殿である勤政殿から南を眺めたとき、左側に駱山があるということで、「左 青龍」というわけです。
この山は、駱駝(フタコブラクダ)の背中に似ているため駱山と呼ばれるようになりました。
青龍とは勇ましいですが、東に開けた漢陽城内(漢城)の地形にあって標高が低く、なだらかな丘のような山です。
山体自体は、北漢山、南山、仁王山と同じくらい大きい山で、朝鮮王朝時代、漢陽城内(漢城)を取り囲む4山の一つに数えられた山でした。

現在の駱山。
駱山自体は大学路から晶信洞までにかけての大きな山であるが、そのほとんどが宅地化されており、急傾斜の山肌に住宅がびっしり建ち並んでいる。
かろうじて、稜線が公園化されていて、これが駱山城郭道・駱山公園となっている。駱山公園の北部はカトリック大学の構内敷地に続いている
板子(掘っ立て小屋:バラック)村と駱山の深い関係
ところで、ソウルに住む年配の人に、漢陽都城の東西南北にある四山のうちの東の山は?と聞いても、駱山という答えが返ってこないことが多い。
「駱山?どこにあるの?」
と、意外と土地の人は知らなかったりする。
「大学路(テハンノ)にある山」
と言っても
「そんなところに山はあったっけ?」
ってな具合。
「大学路(テハンノ)の丘みたいなとこ」
と言ってはじめて
「ああ、あそこ、なんかあるね」
といった具合。

駱山の板子村。
市民アパート建設のため、強制撤去中。
なお、この時代、韓国には重機がなかったため、人力で解体している
山のてっぺんまで板子(掘っ立て小屋:バラック)村があった駱山
知名度が低い原因は、かつてソウル名物であった板子(掘っ立て小屋:バラック)村が最近まで山のてっぺんまであって、近づくのもはばかられる状態であったという事情がありました。
現在も駱山公園ギリギリまで迫っている住宅街が元板子村だったわけです。
現在、駱山公園ギリギリにある住宅は、自分の土地に住んでいるか、はたまた誰かの土地を不法占拠しているのかは定かではありません。
とりあえず、ソウル市有地ではない場所だったため、撤去対象にはなりませんでした。



李承晩大統領の失政がわかる写真。
李承晩大統領が政権をとる前の1945年、イーストマンコダックのカラーフィルムで撮影された日本敗戦直後の京城市内。
韓国の歴史教科書では、日本の植民地時代の京城は地獄であったと書かれているが、なかなかにして現代的な生活をしていたのである。
こういう教科書の記述と写真に矛盾が生じた背景には、李承晩大統領の時代より、日本の植民地時代の方が豊かであってはならない(まともであってはならない)という大韓民国の国是があったからである



それから10年後ぐらいのソウルの写真。
朝鮮戦争により、近代的なソウルの街並みは灰燼に帰した。
日本の植民地時代より明らかに貧しくなり、生活水準は甚だしく悪化した。
川は清渓川。カラーの写真は1960年ぐらいの写真で、李承晩政権末期の世情を反映している。
これでもよい方の写真であって、悪い方は、広州大団地の写真にもあるように、軍用テントで生活していた。
女性は、よく言えば専業主婦なのであるが、実態は自宅警備員。わずかに目を離した隙に泥棒に入られて、あるもの全部盗られるので、外に出掛ける自由はなく、どんなに貧しくても共働きなどできなかったのである。泥棒といっても隣近所の住人同士が隙あらば泥棒しあっているという救いようのない状態であったので、井戸端会議も決して和気あいあいとしたものではなく、近隣住民の性格や思想を把握し、不法行為をされないように牽制しあう場であった
この世の地獄、板子(掘っ立て小屋:バラック)村
板子の語源は、「板子一枚下は地獄」のことわざもあるように、板切れを意味します。
通常、韓屋は、断熱性と吸湿性を確保するため、土壁に韓紙を貼った家にしますが、不法占拠民の建てる板子村の住宅は、掘っ立て小屋は板を壁にしているため、冬寒く、夏暑く、湿気がこもって居住環境は劣悪になります。
なぜそんな住居にするかというと、不法占拠民同士の厳しい場所の取り合いがあるためです。
少しでも早く家を建てて、広い場所を占拠する必要があるからです。
高級住宅街から掃き溜めまで、様々なレベルがある
一口に板子(掘っ立て小屋:バラック)村といっても千差万別。
ホームレスとはいっても、年収1000万円水準の訳ありの高額所得者が集まる板子村であった江南の九龍村の場合、電気・ガス・水道が通っていて、駐車場には高級自家用車があり、家は水洗トイレで冷暖房完備というハイスペックな仕様でした。
九龍村の場合の問題点は、自立して生活できる水準の高収入な社会人が、なぜ社会から排斥され、長年ホームレスを続けなければならないのかという点に尽きました。
九龍村の住人が、九龍村のことを「タルトンネ(月の街):高級住宅街という意味もある」と自称していたのは、九龍村はひどいとはいえ、他の板子村とは格が違うのだよと言っていたわけです。
一方、かつてあった駱山の板子村の場合は、住人が本当に貧しかった。
家には断熱材がなく、柱と板で囲ったほんとうにみすぼらしい掘っ立て小屋で、屋根がトタン板だったらよいほうで、電気・ガス・水道はなく、トイレも良くて汲み取り、基本垂れ流しで悪臭源だったという惨状でした。
また、そのような貧民街では衛生環境の悪さから、無視できないほどに伝染病の蔓延し、迅速に撤去しないとその地域一帯の住人の生存そのものが脅かされる有様でした。
ソウルにおける占拠の遵法・不法の線引きライン
ソウル江北では、日本統治時代、日本人が所有していた土地が少なからずあり、敗戦で日本人が引き上げていった土地は、大韓民国成立後、国有地化されることはありませんでした。
・・・ということは、日本人が所有していた土地を不法占拠する人々を追い出すには、日本統治時代その土地を所有していた日本人が不動産明渡訴訟を起こす必要があり、それは事実上不可能なので、黙っておとなしくさえしていれば、いつまでも占拠を続けることができました。
また、再開発するにしても、基本的に日本統治時代その土地を所有していた日本人から土地の所有権を譲渡してもらわないと再開発できませんが、それは事実上不可能なので、ここらへんの土地所有の混乱が、現在のソウル江北の再開発を阻んできました。
大韓民国建国時の混乱期、日本人が所有していた土地を不法占拠した人々をみて、あいつらうまくやったなという具合で、韓国人の所有地の不法占拠やソウル市有地の不法占拠も横行しました。
ですが、韓国人の所有地の不法占拠や、ソウル市有地の不法占拠はアウトです。
不動産明渡訴訟を起こす人が韓国国内にいるからです。

李 承晩大統領私邸跡。梨花荘。(社団法人李承晩建国大統領記念事業会)
駱山にある。ソウル市記念物(文化財)第6号。一般公開していた時期もあるが、管理上の問題から一般公開をしていない時の方が多い。なんてったって、李 承晩大統領が大嫌いという韓国人がほとんどというなかにあって、建国の父とほめたたえるような博物館に嫌悪感を持つ人が少なくないという事情がやはりある。駱山にバラックが建ち並んでいた頃は、バラックの中に建つ異様に目立つ豪邸であった
李承晩大統領は、面倒な板子村問題は手をつけなかった
駱山の板子(掘っ立て小屋:バラック)村の場合、ソウル市有地の不法占拠だったので、一発アウトのケースに該当します。
ただ、数がものすごかった。
市民アパートを建設しようにも、駱山のソウル市有地にびっしりと建ち並んでいる不法占拠民のバラックを撤去しないと、市民アパートの建設すらおぼつかない有様でした。
江南や道峰山周辺の広大な未利用地は、ソウル市の市域拡大で生まれた経緯があって、駱山の板子(掘っ立て小屋:バラック)村が問題化した時代のソウル市は、人口密集地である江北と永登浦だけがソウル市でした。
こういう場合、たとえ韓国であっても、法律上は、基本的に1軒1軒、不動産明け渡し訴訟を行い、不法占拠民を強制排除していかなければいけませんが、なんせ数が膨大な上、ソウル市で当時蔓延していた結核、コレラ、赤痢、A型肝炎の感染源だったため、一刻も早く不法占拠民を排除する必要に迫られました。
李 承晩大統領は、駱山に私邸を構えていながら、隣近所に密集する板子村の問題は、面倒であったので全然手をつけておらず、ソウル市は、結核、コレラ、赤痢、A型肝炎などなどが蔓延する世界有数の不潔都市となってしまいました。

朴正煕大統領私邸。所有は陸英修記念事業会。ソウル市が管理委託を受けている。
駱山からすぐ、東大門市場東の新堂洞 62-43にある。2008年に登録文化財(第412号)に指定されている。これが、中国の毛沢東、北朝鮮の金日成を震え上がらせた歴史に名だたる強権的独裁者朴正煕の自宅である。
この質素さこそ、刮目すべきポイントである。毛沢東も金日成も暗殺者からの攻撃を防ぐ鉄壁の防御を誇る巨大な邸宅に住んでいたが、人の信頼を権力の基盤とする独裁者朴正煕にはその必要がなかったということである。金日成はこの物理的防御の薄さを弱点と捉え、何度も朴正煕の暗殺を試みたが、一度も成功しなかった。朴 正煕は最も信頼する部下の金 載圭の信用を失ったことで、金 載圭により暗殺されたという点は皮肉である。
この住宅は、日本植民地時代の東洋拓殖株式会社の子会社である朝鮮都市経営株式会社が1930〜40年代に奨忠洞と新堂洞一帯に建てた日本人向けの文化住宅の一つで、現存するのはこの1軒だけである。
朴正煕大統領が陸軍准将だった1958年5月から5・16クーデターを起こした1961年まで住んでいたところで、1962年10月に最高会議議長に就任した後、奨忠洞の官舎に移った。
1979年朴正煕大統領暗殺後、遺族は官舎を退居しなければならなくなり、この家に戻った。通用口の増設や増築などされていたが、2010年より、一般公開を前提とした博物館化工事が行われ、家は1960年の朴正煕在住の頃の状態に復元された。表札は現在も「朴正煕」となっている

朴正煕大統領が板子村問題に手をつけたが、モラルなき政府が立ちはだかった
5.16軍事クーデターで政権を掌握した朴 正煕大統領も、実は東大門市場の近所の新堂洞 62-43に家があります。
その家自体は、日本植民地時代の東洋拓殖株式会社の子会社である朝鮮都市経営株式会社が1930〜40年代に奨忠洞と新堂洞一帯に建てた日本人向けの文化住宅の一つでした。
今も表札が「朴正煕」となっているのですが、板子村が密集していた地域のド真ん中に住んでいたこともあって、手始めに、不潔都市問題の解消にあたります。
しかし、予算はない。
資材もない。
ダンプもない、ブルドーザーもない、クレーンもない。
社会正義の実現という崇高な理想に燃えた朴正煕大統領の前に立ちはだかったのは、国民を搾取の対象としてしかみていない政府であり、地方自治体でした。
ただ、朴正煕大統領には、韓国軍の兵士の人力と、対人兵器の銃や戦車があった。
そこで、軍事力を背景に、腐敗した政府組織を脅すという、後に『開発独裁』と名づけられる独裁政治を断行したのでした。

広州大団地の門。バスは、3台あったソウル市営バス270番の1台
国民を搾取の対象としてしかみていない行政の棄民政策『広州大団地』
この当時の韓国の常識では、国民は搾取の対象であり、役立たずの公有地の不法占拠民はどこかに追放したいというのが行政の本音でした。
とはいえ、法律上は棄民政策は違法です。
ここは北朝鮮ではなく、大韓民国なのですから、北朝鮮方式でやったら、駐留するアメリカ軍司令がアメリカ本国になにを言いつけるかわかったものではありませんでした。
アメリカが韓国に内政干渉しなくなったのは、経済発展が進んだ1990年代になってからのことで、1960年代は、アメリカが韓国の内政に口をはさみ、在韓米軍を使って韓国政府を脅すというのは毎度のことでした。
アメリカ政府が棄民政策に難癖をつけてきたときの言い逃れはできるようにしておきたい。
公有地の不法占拠民の広州大団地へ強制移住させるという線は特に変更はありませんでしたが、嘘でも詐欺でもなんでもいいので、公有地の不法占拠民の合意をとりつけるという縛りは設けることにしました。
ソウル市内の公有地の不法占拠民の移住団地候補として検討されたのは、現在のソウル市江南に接する農村で、東は現在の広州市中心部周辺から、河南市、西は光明市、安養市にかけてでした。
当時は国家予算が逼迫していて造成工事などするお金などなかったし、そもそも食糧難の解決すらできていない状況だったので、宅地造成より優良農地保全が優先されました。
もともと優良農地ではなく、南漢山山麓の造成工事がさほど必要のない寒村であった広州郡中央洞周辺に、ソウル市内の公有地の不法占拠民の移住団地候補の白羽の矢が立ったのでした。
そして、移住団地は『広州大団地』と命名されました。

広州大団地分譲計画のビラ。駱山一帯の板子(掘っ立て小屋:バラック)村に配布された。このビラを見る限り、ニュータウン造成が行われるようにみえる。しかし実際には荒地が広がっているだけで、造成工事など行われていなかった
ソウル市が駱山近辺の不法占拠民に提示した立ち退き条件は、詐欺だった
当時、ソウル市が不法占拠民に提示した契約条件は次のとおりです。
- ソウル市は「自給自足都市」として、広州大団地を造成することになったので、住民を募集する
- 一世帯当たり20坪、一坪当たり2000ウォンで広州大団地の土地を分譲する
- 広州大団地入居後2年間は土地代の支払いを猶予する
- 入居後3年後に土地代の支払い義務が発生するが、基本、分割償還すればよく、一括返済を求めない
- 広州大団地分譲に係わる土地取得税、財産税、営業税、所得税は課税しない
- 基本は住宅地の分譲であるが、工業用地への転用も可能で、工場を建てて人を雇用してもよい
結論からいうと、この分譲契約はまったくのデタラメでした。
ソウル市は「自給自足都市」として、広州大団地を造成すると約束していましたが、造成工事をする予算など最初からなかったので、造成工事はしませんでした。
政府だから安心、市役所だから信頼がおける・・・という最低限の常識は、この時代の韓国にはありませんでした(今もないという意見は多々あるが・・・)。
そして、この申請書には、「再びソウルに引っ越してこない」という誓約文があり、この申請書に署名したら最後、二度とソウルに戻ってくることはできませんでした。
破格の値段で自分の土地が持てるという嘘にまんまと騙された不法占拠民は、早速申請書を提出し、布団やら、屋根裏に保管していた食器やらを荷造りし、ソウル市が提供したトラックに乗って広州大団地へ出ていきました。
連れていかれた広州大団地はタダの荒地
さて、広州大団地に着いてみると、家も道路もない砂漠のような荒地でした。
周辺に商店や工場など明日からの生活を支える施設は何一つありませんでした。
放り出された不法占拠民は、念のため、移住にあたって、まとまったお金を用意するぐらいの用心はしていましたが、米や野菜を買う場所すらありませんでした。
もちろん、水道も電気もガスもあるわけがありませんでした。
場所がソウル飛行場横という軍事基地の隣という場所だったため、さすがの韓国軍にもかなりの迷惑が及び、朴 正煕大統領の直属でもあった韓国軍はなにもしないというわけにもいかず、軍用テントを不法占拠民に配布するようになりました。
ソウル市と地理的にあまりにも隔絶された土地であり、木を切ってくる山もないため、冬になるまでに暖房器具を調達することもかなわず、風だけやっと防ぐことのできるテントで、飢えた子供たちと働く場所もない住民が真昼からソウルから持ってきた布団にくるまってうずくまるしかない惨状が展開されました。
夏になればテントは容赦ない日差しに焼かれ、大発生した蚊に刺されまくる惨状が展開されました。
トイレといっても、地面に穴を掘って用を足すしかなく、かといって汚物汲み取りがあったわけではなかったので、すぐに汚物が四方に溢れ、広州大団地にはひどい悪臭が立ちこめていました。
また、ゴミ収集だってあったわけではなかったので、広州大団地はゴミだらけでした。
結局、広州大団地で伝染病が蔓延してしまい、収拾がつかなくなりました。

広州大団地の様子。電気はもとより、上下水道はなく、屎尿垂れ流しである。屎尿や汚水の流れる溝の横にキムチを漬けた瓶が置かれており、不衛生なことこのうえない。これで伝染病が蔓延しないほうがどうかしている
ソウルへの交通手段は準備しようにも準備できなかった
ソウルへの交通手段はないに等しく、ソウル市営バス270番がバス3台で運行されるだけでした。
これが食糧買出しの唯一の手段として機能しました。
そもそも、経済発展前の韓国においてバスは基本的に輸入車で貴重品。
日本とは国交断絶していた関係で、日本からバスを輸入するという手は使えません。
バスを増やしたくても増やせなかったのでした。
広州大団地がソウル江北と隔絶されていた最大の理由は、現在ロッテワールドがある蚕室あたりで漢江が分流し、永登浦にかけて大蛇行していた影響で、江北と江南を結ぶ橋がありませんでした。
ソウル市営バス270番はその千戸洞まではるばる山道を通って迂回して江北へ渡っていました。
生計に困った広州大団地の住人が、聖水あたりにあった工業団地に通勤するようになると、ソウル市営バス270番の輸送能力はあっというまにパンクしてしまいました。
あまりの惨状にバス3台増車し、ソウル市営バス270番は6台体制としましたがそれでも焼け石に水。
ソウル市の政治家は、10万人も人が集まれば、なんとかやっていくだろうと無責任なことを言って、家も道路もない砂漠のような荒地にソウルの不法占拠民を身の回りの荷物一つで不法占拠民を次から次へと放り出していきました。

広州大団地の様子。スパイを派遣して広州大団地の惨状を取材した北朝鮮政府は、韓国はもう終わりだと自信を深めた。北朝鮮の優位性をアピールするため、世界中に広州大団地の惨状を伝えた。そして、西側諸国は、こぞって韓国から手を引く決断をしはじめた。アメリカもその例外ではなかったのである
悪徳不動産屋が、広州大団地の土地不正転売で荒稼ぎしはじめる
さて、ここまでみてきたソウル市役所の詐欺は、導入部にすぎません。
目ざといソウルの不動産屋が、不法占拠民をでっちあげ、土地投機・転売を目的に土地を取得した定着者(専売有住者)が相次ぎ、大量に安く広州大団地の割り当てをソウル市から受けると、これを高値で転売しはじめるようになりました。
工業団地が造成されるとか、市場が開設されるなど根拠のない売り文句で土地を高値でソウル市内の生活困窮者に転売し始めました。
ソウル市の不法占拠民追放政策はなかなかひどいものでありましたが、広州大団地の土地転売で大儲けをした不動産屋の所業は悪魔の所業といっていいでしょう。
これがなかなか濡れ手に粟のいい商売で、悪徳不動屋は暴利をむさぼりました。
いけいけどんどんで、広州大団地の土地は悪徳不動産屋によって買い占められ、悪徳不動産屋によって買い占められた土地は、広州大団地の全面積の30%に達しました。
もちろん、高値で不動産屋から広州大団地の土地を買った人も、もれなく軍用テントの住人となり、二度とソウルに戻ってくることはできなくなりました。
ソウルでは、現在も不動産屋というと、詐欺師かペテン師並の扱いで、他の人からどう言われようと自分はお金を儲けるからね・・・という金の亡者がなる職業と考えられていて、社会的信用は甚だ低いのですが、これは未だに広州大団地の土地不正転売事件の記憶がソウル市民に強烈に残っているせいです。

軍用テントの生活をいつまでも続けているわけにはいかないと、バラックの建設が始まっている。結局、広州大団地は住民の自助努力により生活基盤が整備されていった
ソウル市役所は、京畿道庁に広州大団地問題を丸投げした
さて、この世の地獄、広州大団地に追放された不法占拠民には、入居後3年すると、土地代の支払いの督促がはじまりました。
ソウル市は、悪徳不動産屋が土地買い占め・転売で大儲けする様子を苦々しくみていました。
非常に面倒なことになったので、広州大団地がソウル市外にあることを理由に、広州大団地関連の業務を、ソウル市は京畿道庁にろくな引き継ぎもせず丸投げしてしてしまいました。
広州大団地事業の詳細をよく知らない京畿道庁は、悪徳不動産屋の土地不正転売に鉄槌を下すべく、坪当たりの土地取得価格を一律8000~1万ウォンに大幅引き上げするとともに、土地代金は問答無用で一括返済とし、それまで不要としていた土地取得税・財産税・営業税・所得税などの課税を一方的に通告。
これに応じない者には、土地所有権の没収と財産差し押さえの強制執行を行うと通告しました。
もちろん、住民のほとんどは、ソウル市と合法的に契約書を交わして広州大団地に入植した住人であり、この京畿道庁の強制執行には、根拠法令も裁判所の判決もなく、さらに3年前に住民とソウル市が締結した分譲契約に違反していました。
これではただの詐欺・強盗です。

広州大団地暴動
住民は遵法闘争で対抗するが、ソウル市は一貫して不法行為を続けた
ソウル市の不法行為に反発した住人は「払い下げ価格是正対策委員会」を設立し、ソウル市の分譲契約の一方的な不利益改変の撤回と、未造成地へ身の回りの荷物一つで放逐したソウル市の不実対応に対する損害賠償として、課税延期等各種救済措置、職場斡旋などを要求しました。
ところが、ソウル市庁は、広州大団地入植事業は京畿道庁の管轄なので、ソウル市は関係ないと交渉を拒否。
京畿道庁は、広州大団地の分譲契約は住民とソウル市が締結したものであり、京畿道庁の知ったことではないと一蹴。
これに怒った住民は、実力行使に打って出ることになり、警察機動隊と衝突を繰り返し、ソウル市の出張所や官用車、警察車両に放火、派出所を破壊するなどしました。
李 承晩大統領の時代ならば、ここで大統領が軍隊を出動して鎮圧するところですが、朴 正煕大統領は、軍隊の出動を拒否。
ソウル市に事態の収拾を命じました。
慌てたソウル市長(梁 鐸植)が住民代表と会談することになり、移住民の要求を無条件に受け入れることを約束し、敗北を認めたことで、暴動は終息しました。
この事件によって、住民と警察の双方に100名余りの負傷者がでたほか、住民23名が傷害罪、器物損壊罪の現行犯で逮捕されました。

広州大団地暴動。この写真から、ソウル市営バス270番が広州大団地から鐘路5街にある広蔵市場まで走っていたことがわかる
ソウル市役所と住民が和解後に悪徳不動産屋の土地不正転売が再燃
それで事態が収拾するほど韓国は甘くない。
悪徳不動産屋は、広州大団地住民とソウル市との間で交わした覚書を盾に、広州大団地の住民を戸別訪問して、土地代を代わりに払うので譲ってもらえないかと話を持ちかけます。
広州大団地の初期住民には、土地代を払うあてなどなかった人も多かったので、悪徳不動産屋の話しに乗ります。
すると、悪徳不動産屋は工業団地が造成されるとか、市場が開設されるなど根拠のない売り文句で、安く仕入れた広州大団地の土地を高値で転売し始めました。
高値で不動産屋から広州大団地の土地を買った人は、もれなく軍用テントの住人となり、二度とソウルに戻ってくることはできなくなることが延々とくりかえされました。
悪徳不動産屋は濡れ手に粟の暴利をむさぼり、焼け太っていきました。

現在の広州大団地。住民の自助努力によって生活基盤が整備されていったことから、軍用テントが建ち並んでた頃の区画割がそのまま残っている
広州大団地事件が制御不能なヘルゲート(地獄の門が開いた状態)化する
韓国の新聞では、「地獄の門が開いた(ヘルゲート)」という言葉が頻出しますが、社会秩序の底が抜けて、手がつけられなくなった状態を指します。
まさに、ソウル市役所が詐欺・強盗を働き、道徳や倫理のへったくれもない守銭奴の不動産屋が、ソウル市を叩き出されてテント暮らしをする貧民を喰い散らかす惨状となってしまいました。
挙句の果てに、1970年代になると、広州大団地の住民の過半数が不動産屋の違法転売による住人という、どうしようもない状況になってしまいました。

現在の広州大団地。クモの巣のようになっている電線や、壁に無造作につけられたガスメーターに、住民の自助努力によって生活基盤が整備されていった様子を物語っている。軍用テントが建ち並んでた頃の区画割がそのまま残っているため、道路は狭い
広州大団地事件は北朝鮮の格好の宣伝材料となる
「地獄の門が開いた(ヘルゲート)」状態で泥沼化した韓国の様子を拍手喝采で見ていたのが、他ならぬ金 日成であり、北朝鮮政府でした。
この惨状を知った北朝鮮は、早速スパイを送り込み、広州大団地の惨状を詳細に取材し、米国傀儡の韓国国民の惨状という大々的見出しで、以下のような報道を世界中に発信しました。
- 韓国政府の大量虐殺(李承晩時代の虐殺を日付をごまかして報道)
- ソウル市役所の詐欺・強盗(広州大団地事件)
- 悪徳不動産屋の違法転売(広州大団地事件)
- 相次ぐ住民の暴動(広州大団地事件を誇張して報道)
北朝鮮がなんぼひどいといっても、ここまでの惨状ではなかったわけで、北朝鮮は自国の様子を嘘偽りなく報道したところで、韓国と比べれば、地上の楽園といっても過言ではない状況でした。
広州大団地の惨状が世界中に流出したことで、これを支援するアメリカともども国際的信用を一気に失い、韓国に投資しようなどという国家はなくなってしまいました。
朝鮮半島南部出身の在日朝鮮人の多くが、北朝鮮に帰還するという禍根を残す事態を招く
また、この情報は、北朝鮮を通じて日本にももたらされ、日本の人権運動の核心的組織でもあった日本社会党を大いに刺激することとなりました。
北朝鮮が進める在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業を支援する日本社会党は、在日朝鮮人を韓国に帰還などさせたら終わりだということで、積極的に北朝鮮への帰還を支援していくことになりました。
その結果、北朝鮮が進める在日朝鮮人の北朝鮮帰還事業の支援に拍車がかかることにもなりました。
朝鮮半島南部出身の在日朝鮮人の多くが、北朝鮮に帰還するという事態を招き、現在に多くの禍根を残す結果となりました。

現在の広州大団地。生活物資の供給を支える商店も、住民の自助努力によって整備されていった。軍用テントが建ち並んでた頃の区画割がそのまま残っているため、道路は狭い
惨状の打開には日本との国交回復という禁じ手しかなかった
「貧すれば鈍する(ひんすればどんする)」ということわざが日本にはあります。
生活や暮らしが貧しくなると、精神的な余裕がなくなり、知恵や頭の働きまでもが鈍って馬鹿になり、品性に欠けた行為をするようになるという意味のことわざです。
貧すれば鈍し、鈍すれば貧する・・・貧しくなると国民は馬鹿になり、国民は馬鹿になるとさらに貧しくなる・・・のデフレスパイラル状態に陥ってしまいます。
広州大団地の違法転売で焼け太った不動産屋の多くが、儲けの噂を聞きつけて、にわかにあちこちから親族がわいて出てきて「オレにも分け前をよこせ」と争い事が頻発する事態となり、一方、配偶者・子息が放蕩、散財に走ることとなり、「悪銭身につかず」のことわざを実践し、かえって貧しくなる結果となっていきました。
徹底した規制強化・厳罰化で正すべし・・・という論理はあります。
ただ、それが正解なら、些細な失敗が原因で死刑・終身刑になる究極の規制強化・厳罰化を実施している北朝鮮は、とっくの昔に地上の楽園を実現しているでしょう。
社会道徳の荒廃は、国民全体の生活を豊かにすると同時に、姑息な横領の道を断つ二正面作戦によってしか正すことはできません。
とはいえ、
- 国際的信用ゼロ
- 韓国に投資する国家ゼロ
- 正直、アメリカも韓国から手をひきたい
こんな状況で韓国国民全体の生活を豊かにすることはできるのでしょうか?
八方塞がりの韓国に、たった1つだけ状況を打開する禁じ手がありました。
日本との国交回復です。
日本と国交回復し、戦時賠償金を元手に一発逆転を図る。
当時の韓国国民の圧倒的多数意見は、日本との国交回復は絶対悪であって、韓国の社会道徳が荒廃して、地獄と化しても、日本と国交を結ぶことは絶対にあってはならないというものでありました。
国会も日本との国交回復を圧倒的多数で否決する勢いでした。
真の豊かさを知らぬ者に、経済成長の重要性をいくら説いても無駄だ、豊かさを強制しなければ、社会の変革は不可能だと朴正煕大統領は自著で述べています。
そういう朴正煕大統領の下に、暴力をもって韓国国民に豊かさを強制する革命を決行すべしという意見をもった過激な青年将校、車 智澈、尹 必鏞、李 厚洛(後の金 大中事件の首謀者)らが集結します。
朴 正煕大統領は、賛同する青年将校らを使い、軍事力と警察力、そして、KCIA(中央情報部)の取り締まりをもって韓国国民の反対意見を徹底的に封殺し、日本との国交回復、経済支援の獲得を強行します。
こうして得た莫大な種銭をもとに、韓国国内の生産設備への投資を行い、爆発的な経済発展を遂げます。

広州大団地の位置関係。盆唐新都市の北の端に位置する。
城南市内ではあるが、高速道路が集中していたり、ソウル地下鉄8号線(ピンク)が真ん中を走っていたりするのは、広州大団地事件でのソウル市長との和解内容によるものである。
韓国鉄道公社盆唐線(黄色)は、どちらもソウルの板子村解消問題に端を発する広州大団地問題と、ソウル地下鉄3号線開浦住公団地経由問題の早期解決を図るために政府直営で建設された路線であるため、双方を最短距離で結ぶ線形となっている。
盆唐新都市建設に伴い、盆唐線は延伸されたが、板子村解消問題に端を発する和解内容の都合上、城南市以北で駅が非常に多く設置されることになり、運転速度低下が著しく、ソウルまでかなり時間を要するため、急行鉄道建設の機運が高まり、新盆唐線(ぶどう色:赤)が建設された
日本との国交回復後、広州大団地の産業基盤が整備されはじめる
広州大団地は現在も存在しますが、広州大団地の名前は、広州大団地事件直後より使用されなくなりました。
広州大団地事件後すぐに、広州大団地一帯は城南市に昇格し、地名の変更が相次いで行われ、韓国の地図から広州大団地の名は消滅しました。
その名前の由来であった京畿道広州郡中央洞は、広州大団地事件の直後の1973年の城南市設置により、京畿道城南市となり、2分割され、 寿井区と中院区となりました。
なお、元の地名、中央洞は、城南市中院区中央洞が引き継いでいますが、広州大団地の南の外れの狭い地域に設定されています。
また、寿井区と中院区の区割自体が、広州大団地の痕跡を隠すように設定されています。
とはいえ、Googlemapの衛生写真をみてみると、広州大団地のあった区画は細い路地と狭隘な家屋が密集し、一目でわかります。
現在、韓国政府は広州大団地のあった区画の再開発を鋭意進めており、広州大団地の痕跡の解消をすすめています。
現時点でもかなりの区画が近代的な高層団地に変貌しています。
日本との国交回復後、広州大団地にも工場と上下水道が整備され、ソウルと広州大団地を結ぶ交通が整備され始めました。
現在、巨大な工業団地である板橋テクノバレーが城南市にありますが、これは、広州大団地事後整備事業で整備されたものです。

現在の広州大団地。今となっては、広州大団地事件の和解内容で整備された交通インフラ(高速道路・鉄道)が高水準に整っており、ソウル市と盆唐新都市の間にあるという好立地条件から、地価が爆騰している。そのままでは、固定資産税が爆騰し、支払えなくなる問題が多発しており、再開発が急ピッチで進んでいる。特に、軍用テント時代の区画割のままでは土地利用率が低いため、高層化して土地利用率を向上させ、高騰した固定資産税に対処する方向で再開発がすすんでいる
広州大団地に高速道路が乗り入れる
ソウル市は広州大団地住民のための交通対策として、ソウル江北地区と広州大団地をショートカットする蚕室大橋と松坡大路を建設。
また、京釜高速道路を広州大団地に可能な限り寄せるルートで建設し、広州大団地住民が概ね15分程度で江南副都心中心部へ、概ね30分程度でソウル江北地区へ行けるように道路整備を行いました。
京釜高速道路を建設する際は、高速道路建設技術が未成熟であったため、大胆な経路設定ができず、課題を残す結果となりましたが、後にソウル外郭循環路と第2京仁高速道路が広州大団地に牡丹駅付近で乗り入れることになりました。
これにより、広州大団地住民がソウル市内と遜色ない概ね60分程度で金浦国際空港、仁川国際空港に行けるようになりました。

旧広州大団地の南に隣接する盆唐新都市。面積的には、旧広州大団地の3倍程度であるが、人口は50万人を超え、ソウル首都圏の人口の多くの部分を占めている。特筆すべきは、日本の多摩ニュータウンを大幅に凌駕する居住環境を実現したところである。広州大団地での大失敗のリベンジを果たしたと言えなくもない。ただし、盆唐新都市が良好な居住環境を実現したことと引き換えに、地価が非常に高騰し、賃貸住居の家賃は東京の都心並と、とんでもないことになっている
広州大団地の鉄道整備
ソウル江北地区と広州大団地をつなぐ電車路線の要望もあり、広州大団地事件当時ソウル市長だった梁鐸植市長の策定した1期地下鉄路線網(代案1)には、当初5号線が今のように江東区に行くのではなく、現在の5号線千戸駅から馬川支線方向に5号線を延伸させ、現在の牡丹駅近くを終点とする計画が盛り込まれた。
ソウル市長が交代し、具滋春市長になってからは、広州大団地鉄道は、ソウル地下鉄6号線に計画変更され、蚕室から松坡大路地下を南下し、牡丹から広州大団地に入っていくルートに変更されました。
1988年には、良才駅から先の建設が予算枯渇が原因で延伸できなくなっていたソウル地下鉄3号線の延伸案として、広州大団地事後整備関連の予算を充てることが計画され、現在の韓国鉄道公社盆唐線のルートを南下し、牡丹から広州大団地に入っていくルートが検討されました。
しかし、ソウル地下鉄3号線計画自体が別の板子村整理問題が絡む開浦洞経由問題で紛糾したため、立ち消えとなってしまいました。
迅速な鉄道整備が喫緊の課題であったことから、最終的に、没案となったソウル地下鉄3号線の延伸案を国が整備することとなり、韓国鉄道公社盆唐線建設をもって決着しました。

旧広州大団地の南に隣接する盆唐新都市。分譲がはじまったのは1990年代で、旧広州大団地がバラックで埋め尽くされている最中に、いきなりこんなものを建設するという無茶振りであった。この無茶振りが、韓国の高度経済成長、漢江の奇跡の真骨頂であるが、建物の耐久性まで構っている余裕はなかったようで、盆唐新都市分譲初期の建物の多くが老朽化問題に直面している。盆唐新都市分譲初期の建物については、国の再開発事業(再建築事業)において、ことごとくタワマン化させ、容積率向上分で建設費用を償還する計画である。無茶振りが韓国の伝統芸になりつつある今日このごろである
広州大団地の名前は消え、盆唐新都市に飲み込まれる
また、別のソウル板子村整理問題が絡む盆唐新都市整備事業が広州大団地と同じ城南市で実施されましたが、盆唐新都市整備事業は韓国が経済発展の頂点にあった1990年代に入ってから事業化された後発の事業のため、予算規模が広州大団地とは数万倍、数十万倍のレベルで異なり、完成した街並みも日本の多摩ニュータウンの居住環境を大幅に超越するレベルとなりました。
広州大団地事件は、現在も新都市整備事業関係者のタブーであって、日本の多摩ニュータウンの居住環境以上の達成が韓国の新都市整備事業の必達ノルマとなっています。
この影響で、城南市の人口は爆発的に増加し、城南市市制施行から10年を経ずに50万人を突破したことから韓国鉄道公社盆唐線の輸送力が急速に逼迫することになり、広州大団地の人員輸送に特化した地下鉄バイパス線建設が必要となり、ソウル地下鉄8号線を旧ソウル地下鉄6号線のルートで広州大団地事後整備事業として建設することになりました。
そして、ソウル地下鉄8号線の山城駅から牡丹駅が広州大団地内に建設されることになりました。
現在、広州大団地は、盆唐新都市に飲み込まれ「老朽計画都市整備及び支援に関する特別法(老朽都市特別法)」の対象地域として、鋭意再開発が進んでいます。
ソウル地下鉄8号線の経路が、当初ソウルの東南端の蚕室が起点で、松坡区と城南市で完結するという異様な経路となっていたことが、広州大団地鉄道整備の名残りです。
ソウル地下鉄としては異例のピンクがラインカラーであったこと、ソウル地下鉄3号線全線開通前のソウル地下鉄6号線や7号線よりはるかに早い時期に完成したこと、電車や駅設備がソウル地下鉄の他の路線と比較してかなり高水準に整備され、ツルピカに整備されたことの背景には、積もり積もった広州大団地問題があり、広州大団地の発展的解消に向け、再開発を実施することを見据えた鉄道整備を行う必要があったためでした。



































































































































