大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

朝鮮総督府庁舎(結局ズレて建ってしまった朝鮮総督府庁舎)


西欧列強を完膚なきまでに打ち負かす100年戦争の端緒とすべく建設された朝鮮総督府だったが…

景福宮の破壊と、朝鮮総督府の建設

大韓帝国の政府組織を韓国統監府に取り込み、改組・統合したため、韓国統監府は巨大な組織に膨れ上がりました。そこで、韓国統監府を改組し、朝鮮総督府としました。

基本的に、20世紀初頭の国家機関の名称は、だいたい、古代ローマ帝国の行政庁の名前に準じていました。

「統監府」という名称も、出所は古代ローマ帝国で、大韓帝国にあった統監府だったので、韓国統監府といいました。

大韓帝国大日本帝国保護国とするにあたって、古代ローマ帝国の行政庁と命名ルールの整合性をとるべく、大韓帝国大日本帝国の下位の組織に格下げする必要がありました。とはいえ、大韓帝国には大韓帝国のメンツがあるし、中国の清王朝から、いらぬ干渉を受けたくなかったので、むやみやたらな名前を使うわけにはいきませんでした。そこで、中国の冊封国であった時点の『朝鮮』に戻すことにしました。そして、統監府から、古代ローマ帝国における植民地の統治を行なう最高の権能を有する行政庁である総督府と名称を変更し、朝鮮総督府としまし た。

明治時代の日本がなぜ、古代ローマ帝国にこだわったのかというと、植民地を古代ローマ風にしたかったということにつきます。

19世紀の欧米の植民地は単なる収奪の対象にすぎませんが、古代ローマの植民地とは、そこに行けば、ローマと変わらない文明的な生活ができる場所でした。大日本帝国が、本来目指していたのは、朝鮮は収奪の対象ではなく、日本と変わらぬ文明的な生活ができることでした。

結論からいうと、宗主国たる大日本帝国自体が、古代ローマ帝国と比べると、話しにならないほど、社会的に成熟していない幼稚な新興国にすぎず、自国民である日本人に対しても平気で収奪や圧政を行なう国だったので、朝鮮統治も低レベルに終始しました。

この時代、朝鮮最大の問題は、いかにして産業を振興し、経済を活性化し、国を富ませるかということに尽きました。
これができなければ、ロシアからの借金返済はできません。

まず、手始めに、1915年、景福宮で朝鮮植民地化5周年を記念した朝鮮物産共進会(朝鮮内国博覧会)を開催し、一般民衆に景福宮を公開した後、その景福宮を近代化改修するという建前の下、朝鮮総督府を建設しました。

 

朝鮮総督府は、西欧列強を完膚なきまでに打ち負かす100年戦争の端緒とすべく、立派なものとする方針

朝鮮総督府庁舎は、1910年の韓国併合後、南山の北麓に建てた統監府庁舎を朝鮮総督府庁舎として使っていましたが、庁舎が手狭になったことに加え、植民地支配者としての優位性を誇示する建物がほしいという陸軍の意向もあり、景福宮勤政殿の前面に立派な新庁舎を建てることにした。

無論、大蔵省が首を縦に振るはずもない大盤振る舞いでした。ただ、天下無敵の現在の財務省(大蔵省)と異なり、戦前は、軍より立場は弱く、『天皇統帥権干犯の疑い、此れ、あり』と恫喝されれば、大蔵省は、屈服するしかない弱い立場でした。

そんなわけで、ぺんぺん草の生える荒涼とした朝鮮の首都に、贅を尽くした巨大な建築物を建設することとなりました。

ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデに設計を依頼しますが、1914年にデ・ラランデは神戸で急死したため、実際の設計や建設には関与できず、伊東一郎、国枝博などが後を引き継ぎます。


起工するも、第一次世界大戦が勃発し、庁舎建設どころのさわぎではなくなる

庁舎建設は1916年(大正5年)6月に始まりました。ところが、悪いタイミングで第一次世界大戦が勃発し、庁舎建設どころのさわぎではなくなります。

西欧諸国の日本差別を撤廃させることが最重要課題であった日本は、是が否でも、これにいち早く参加し、どさくさに紛れて西欧列強の一角を占める必要に迫られました。

こうなると、同じ陸軍内でも予算獲得競争が起こるので、迅速な施工が要求されてきます。

 

朝鮮王朝末期の漢城の地図。当時、朝鮮の技術的稚拙さにより、このような地図しかなかったと言われ、朝鮮人の大部分もそう思っていたが、これは朝鮮人民に紛れた間諜を欺くための謀略であった。ごく一部の人間のみ、この地図に仕込まれた虚偽の情報を知っていた。大日本帝国陸軍朝鮮総督府を建設するにあたって、参考になる地図はこれしかなかったから、測量からやり直さざるをえなかった。

 

起工しようにも京城の地図がデタラメ

朝鮮総督府庁舎の建設予定地は、景福宮の光化門付近と決定され、建物を建てる前に測量をはじめました。

ところで、いざ、庁舎を建設しようと測量をはじめてみると、漢城(現在のソウル)の地図がおかしい。
東西南北、ぴしっとまっすぐに整備されているように地図では描かれている漢城なのに、実測してみると、あちこち微妙に歪んでいる。
そういえば、漢城中に散在する宮廷施設の向きが地図では東西南北、ぴしっとまっすぐに整備されているように描かれているのに、実測してみると、これが見事に全部バラバラ。
景福宮まわりが一番厄介で、測量の基点をどこに定めたらいいかわからない有様。

乞食があふれかえる、ぺんぺん草の生える荒涼とした朝鮮の首都のド真中で、測量の基点が割り出せないとは、笑止千万にも程がある事態だったのでありました。

ほとほと困った日本陸軍は、、ソウルを取り囲む山という山の頂上に鉄の測量杭を打ち込んで測量するという、力業で対処しようとしました。

でも、失敗したわけです。
なぜなら、景福宮の基点は、景福宮からは見えない北漢山の白雲台だったからです。

何のために鉄抗を打っているのか、まさか、総督府を建てる場所と向きがわからなくて困っているとは思ってもみなかった一般の朝鮮人は、高句麗人ならだれでもよく知っている儀式、呪いの儀式のために鉄杭を打ったのだと理解し、鉄の測量杭のことを、「呪いの鉄杭」と言って嫌悪したのでした。

ま、設置した陸軍としては、別の意味で「呪いの鉄杭」だったので、この朝鮮人の考察は、当たらずとも遠からずでした。

 

大日本帝国が測量して作成した京城の地図。一見正確そうに見えるが、土木建設用の地図としては用をなさないほど間違っている。作成チームの一部は、この都市が微妙に歪んでいることに気づいたようであったが、測量誤差と結論づけた人が多かったようで、この当時のほとんどの地図には、街の微妙な歪みが反映されていない。ちなみに、鉄道は、地図もなしに、必要最低限の測量だけで作ったようで、出た所勝負、やっつけ仕事の所産であった。この当時の土木技術者の大胆さには驚かされる。

 

景福宮が歪んで建設されているなんて考えてもみなかった日本陸軍

景福宮は、土地区画も建物もまっすぐバランスよく調和しているので、当然、漢城の街と垂直平行がきちんと出ていると錯覚するわけですが、実際は、あえて、中途半端に、斜めに、いびつに歪んだ形に建設されています。

景福宮の中心にある勤政殿
周囲の街路どころか、景福宮全体に対しても、中途半端に、斜めに、いびつに歪んだ形に建っています。

景福宮正面の光化門前大通り(日帝時代は「大平通り」現在の「世宗大通り」)から景福宮は見通せないようになっているのですが、これも、景福宮のすべての建物が、バラバラに中途半端に斜めに建設されていることをわからなくする仕掛けだったのです。

朝鮮王朝初代王太祖が首都漢城景福宮を建設した際、微妙に歪ませたうえ、実際の地形と微妙に異なる地図を流布させ、後々自分を追い落として政権を奪取するであろう李芳遠(朝鮮王朝第3代王太宗)を困らせるようにしていたのです。
もっとも、李芳遠はこのことをよく理解しており、生涯景福宮には手をつけませんでした。
自分のよいように離宮を造営し、セレモニーが必要な時以外は、離宮に住み、景福宮には近づかなかったのでした。

しかも、念の入ったことに、首都漢城の地図は、だいたいは合っているけれど、ほとんどデタラメに描かれ、風水上の仕掛けを隠蔽しているという具合で、20世紀初頭ともなると、王族でも、そのようなことを知らない人多数という惨状でした。

というわけで、景福宮が微妙に歪んで建っているなんて、大日本帝国陸軍関係者の誰も知りませんでした。

 

どの向きに朝鮮総督府庁舎を建てるかで大揉めに揉める

ただ、朝鮮総督府庁舎の基礎工事に必要な測量をすれば、さすがに、そのズレには気づくのですが、そのズレが測量ミスなのか、計算ミスなのかがはっきりしない。

景福宮が結構デタラメに建っていることまではわかるのだけど、それは、単に朝鮮の建築技術水準が低いからと考えられていたため、まさか、景福宮全体が精緻かつ微妙に歪んで建っているなんて、想像もできなわけです。

その結果、どの向きに朝鮮総督府庁舎を建てるかで大揉めに揉めることになります。

景福宮と、この前面の光化門前の大通りとの関係を正確な実測図に作つてみたところが、まっすぐになっていると思ったが、実はずれており、しかも、光化門前の大通りの中心と、光化門の中心がわずかにずれており、さらに、光化門の中心線と角度が、景福宮の中心にある勤政殿の中心と角度とも微妙にずれていました。
さらに、光化門前の大通りと直角に交わっているはずの直線の道も、測量してみると、弓なりに曲がっていました。

基本的に平屋の景福宮と違って、高層建築である朝鮮総督府庁舎は遠くから見通せますから、わずかでも中心線がズレていたり、横を向いたりしているようではお行儀が悪い。

ならば、光化門前の大通りの正面に朝鮮総督府庁舎を置くと、光化門はズレて曲がって建っているし、勤政殿はとんでもないずれた位置にあるし、角度も派手に違っているから、お行儀が悪い。

 

結局ズレて建ってしまった朝鮮総督府庁舎。
本来、正面の太平通りの中央の真正面に朝鮮総督府庁舎の正面玄関が位置しなければならなかったが、正面玄関は太平通りの右端に寄ってしまった。
なぜそうなったかというと、勤政門の中心と朝鮮総督府庁舎の中心軸を合わせる必要があったが、そもそも景福宮の軸が太平通りの軸と3.5度ズレているため、つじつまが合わなくなったのである。
朝鮮総督府庁舎完成後、ドームから眺めて、景福宮の軸が地上からは見えなかった北漢山の白雲台を向いていることに気がついて、アーッと叫んでも、後の祭りだった。

 

天皇直轄だった陸軍の直営施行だったから混乱に拍車がかかる

これだけでも、大蔵省管轄の公共工事であったら、大蔵省の厳しい完成検査は絶対に通りません。
陸軍の直営工事だったからこれでも通ったようなものですが、少なくとも、大蔵省からは、「お前らはまともに建物を建てられないのか、なにが統帥権の干犯だ」と散々嫌味を言われるのは避けられません。

陸軍省は、大蔵省の上に鎮座する天皇直轄の役所ですから、大蔵省の厳しい完成検査を拒否することは可能ですが、かといって、形だけでも大蔵省の完成検査を受けないと、そのことが天皇に報告が上がります。

この頃は、大正天皇の健康状態が悪く、報告は摂政の宮(昭和天皇)が受け取ることになります。
ちなみに、乃木将軍から直々に軍人教育を受けた摂政の宮(昭和天皇)は、大正天皇とは違って、軍人とはどうあるべきか、厳しく躾けられていましたから、なにかと官僚的であり、腐敗の目立つこの時代の陸軍に対し、不信感を持っていました。
それゆえ、大蔵省の完成検査を拒否したなどという報告があろうものなら、『何か、大蔵省の完成検査を受けられない理由でもあるのか、答えよ』と言われるに決まっていますし、『実は、庁舎が歪んで建ってしまいました』などと答えれば、ただでさえ、陸軍に懐疑的な摂政の宮(昭和天皇)が、何を言い出すかわかりません。

ちなみに、天皇臨席で行われる御前会議は、『一事不再理』。
一度否決されたら、再審はありません。
すべて滞りなく、天皇から質問されることなく裁可される必要があったのです。
絶望的な状況とはこのことを言います。

 

工期短縮を図るも、工期は延びに延びて、予算オーバー

第一次世界大戦勃発の煽りを受けて、陸軍は、なるべくはやく完成させようとします。

大日本帝国陸軍も馬鹿ではないですから、激動の時代にあって、朝鮮総督府庁舎建設に10年もかける気はさらさらありませんでした。

資料に出てくる、「遅くとも大正13年には竣工したい」という話も、工期が延びに延びた末の話しだったわけです。

当初案では、全面花崗岩張りの白亜の殿堂であったのですが、工事の簡略化は避けられず、花崗岩張りは建物の外周だけにとどめ、花崗岩は、東大門外の昌信洞採石場より調達。建物が建設されていないうちから、時間のかかる外装材の加工を始めたのでした。

まだ基礎工事を始めていないうちから、市電を敷設し、荷物電車を走らせ、ピストン輸送を行います。

ちなみに、測量問題が解決しないうちから、外装に使う花崗岩を東大門外の昌信洞採石場から切り出すなど、大蔵省管轄の公共工事であったら絶対やってはいけません。
仮にやるとしたら、山ほど書類を書いて、恐ろしく厄介な模様替え申請を行い、大蔵省から許可をもらわなければならないところでした。

なぜ大蔵省の公共工事で、そういうなりふりかまわぬ突貫工事が許されないのかというと、誤差が積もり積もって、収拾がつかなくなるからです。それが許される韓国で、想像を絶するオカラ工事が横行し、建物が自然倒壊する事故が頻発した歴史をみればわかります。

朝鮮総督府庁舎で、なりふりかまわぬ突貫工事をやったのは、朝鮮人ならだれでも知っていることだったのですが、それで何とかなるという悪いお手本になってしまったため、その後の韓国、北朝鮮でオカラ工事が当たり前になるという恐しい結果を招いてしまいました。

当時の大蔵省の役人からすれば、『それみたことか』という大惨事です。

朝鮮総督府は、肝心の建物のクオリティーにまわすお金よりも、建設期間が延びたことで人件費がやたら膨張するという、建設業で絶対にやってはいけないパターンにはまってしまいました。

工期が延びた分、膨張した人件費を捻出するため、総督府庁舎の表から見えない部分のクオリティーを下げ、建設費抑制を図らざるをえませんでした。

さらに、大正天皇の健康状態が悪かったため、大正のうちに朝鮮総督府が完成させなければならないという状況に追い込まれ、なんとか、大正天皇崩御の2ヶ月前に滑り込みで竣工したというお粗末な結果でした。

大蔵省管轄の建築物であれば、最後に厳しい完成検査に合格しなければ、竣工が認められないのですが、朝鮮総督府庁舎は、大蔵省の厳しい完成検査を免れることのできる陸軍省管轄の建築物であったため、大正天皇崩御の2ヶ月前に滑り込みで竣工させることができたというお粗末さでした。

そして、朝鮮総督府庁舎は、大蔵省の厳しい完成検査だったら、絶対合格できないであろう不良施行を抱えた建築物になってしまったのでありました。

 

昌信洞採石場跡。
ここから産出された花崗岩は非常に良質で、朝鮮総督府庁舎だけではなく、京城駅(現存)、京城府庁舎(現存)、三越京城支店(現存)、第一銀行韓国総支店(現存)等にも使用された。
植民地時代は、初期が朝鮮総督府京城府、後期は京城府の管理だった。
第二次世界大戦後は米軍に接収され、軍政庁が管理したが、道路補修などに使う砕石を大量に必要としたため、ダイナマイト発破を行い、ド派手に採掘した。非常に良質な花崗岩を砂利にしてしまう米軍の荒っぽいやり方に、もったいないの声が挙がる一方、近隣住民は、爆音と粉じんに苦しめられた。
米軍が撤退した後は、ソウル市管理となり、再び良質な石材を産するようになった。1959年に設立された金剛採石土建に払い下げられ、採石が行われたが、1971年採石場跡地を分譲宅地として売り出した。その結果、崖の上下に住宅が密集する奇観が誕生したのだが、これはこれで防災の観点から問題となり、ソウル市が歴史公園化事業をすすめている。

 

あまりの大惨事に心労から寺内正毅心室肥大症を患ってしまう

この話は、当時、日本内地でも大いに話題となりまして、民芸運動家、民俗学者がこぞって、
「城郭にうかつに手を出すと、必ず痛い目に遭うからやめておけ」
漢城には、土地は腐るほど、どこにでもあるのだから、他の場所に壮大な建物を建てたらよい」
と言ったのでした。

伊藤博文にすらそう言われたのに、エビデンス(根拠)がないと一蹴し、あえて景福宮を潰してまで朝鮮総督府庁舎を建てようとした大日本帝国陸軍だったので、メンツ丸潰れ。

メンツ丸潰れとは、どういうことか、具体的に言うと、陸軍省は、天皇直轄の役所なので、報告が、摂政の宮(昭和天皇)に上がって、雷が落ちるということを意味します。

朝鮮総督府庁舎の不手際は、寺内正毅あたりの陸軍の偉い人も知っていることで、これが原因とは必ずしも言えないものの、心労から寺内正毅心室肥大症を患ってしまいます。

とりあえず、寺内正毅あたりが大蔵省に圧力をかけて、朝鮮総督府庁舎の不手際をもみ消すことは確定事項だったのですが、一応、形だけでも大蔵省の完成検査は受けなければなりません。

その際、内々にではありますが、寺内正毅あたりの陸軍の偉い人が、大蔵省から、待ってましたとばかりに、散々嫌味を言われるのは避けられません。
この期に及んで寺内正毅だって、陸軍に懐疑的な摂政の宮(昭和天皇)に呼び出されたくはない。

じゃあ、少なくとも予算オーバーで撤去できなかった光化門はどういたしましょうか?と陸軍上層部が言い出しっぺの寺内正毅に指示を仰いだというのが、間の抜けた話ですが、当然のことながら、不機嫌に無視されて終わりとなりました。

朝鮮総督府庁舎の工事があまり進んでいないうちに、寺内正毅は亡くなるのですが、これが原因で、撤去されるはずだった光化門はしばらく朝鮮総督府前にズレた位置で鎮座し続けることとなり、最終的にあまりにもみっともなかったので景福宮の東に移設され、朝鮮戦争で焼失するまで残ることになりました。