大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

朝鮮総督府庁舎 (景福宮の秘密:北漢山との関係性)


景福宮の秘密。細かく挙げればきりがないが、一言で言うと、景福宮後方の北岳山のさらに後方にある北漢山の最高峰、白雲台を基準に一直線に建物が並んでいるということである。このことに、大日本帝国陸軍が気付かなかったのは、景福宮の位置からは、北漢山の白雲台が見えなかったからである。
ちなみに、朝鮮総督府庁舎が完成して、ドームから眺めれば、北岳山の後方に隠れていた北漢山の白雲台が見えるようになったのであるが、その時、大日本帝国陸軍は、景福宮の基点が北漢山の白雲台であることに気付いたのである。しかし、時すでに遅し。

 

景福宮の設計図。
景福宮周辺にある最も高い山である北漢山白雲台と光化門を結ぶ軸を基線とし、基線が強い気脈である『艮(山)』『坤(地)』と一致する地点で、かつ、北岳山に隠れて北漢山白雲台が見えない地に景福宮が建設された。
首都、漢陽は、景福宮の基線とは無関係な、北岳山を基点とする災難の軸『坎(水)』『離(火)』を基線として造営されているが、北岳山は火山であり、水の卦と対立し、漢江は火の卦と対立するため、災害の軸は無効化されるようになっている。
このようなややこしい設計となっているのは、高句麗の伝統的な宗教観に則った解釈によると、悪鬼・悪霊を迷わせるためである。
仮に悪鬼・悪霊が、漢陽に攻め込んできたとしても、必ず災難の軸に沿って襲ってくるはずで、漢陽からは北岳山に隠れて北漢山白雲台が見えないため、悪鬼・悪霊が惑わされることになる。

中国からの特使が、景福宮を訪れるとき、あえて西方からの山越えルートを使ったのは、『兌(友好を意味する「沢」)』の卦の方角から近づくよう配慮したからであり、信心深い高句麗の民に悪鬼・悪霊の化身と認定されないための策であった。

日本軍が、漢城に攻め込んで来たとき、南方から災難の軸に沿って侵攻してしまったのは非常にまずかった。風水を篤く信じる当時の朝鮮人民に、自らを悪鬼・悪霊の化身と名乗るに等しかったからである。

そして、朝鮮総督府建設をめぐって、光化門周辺で混乱したのも非常にまずかった。
悪鬼・悪霊の化身だから迷ったのだと朝鮮人民に思われることになったからである。
『艮(山)』『坤(地)』の良い気脈の軸と、『坎(水)』『離(火)』の災難の軸の交点は、光化門外に設定され、景福宮にはこの交点がないため、悪鬼・悪霊の化身が景福宮を見ただけでは、この仕掛けがわからない設計であった。

 

悪鬼・悪霊の化身を惑わせ、光化門外に追い出すために、景福宮は、斜めに建設されているし、斜めでなければいけないのである。

最近の韓国人も、景福宮は、斜めに建設されていることを、意外に知らないので、垂直な景福宮の地図が結構普通にある。

 

朝鮮総督府は、北岳山を基点とする災難の軸『坎(水)』『離(火)』に沿って建設されてしまい、この建物ができたことで、『艮(山)』『坤(地)』の良い気脈の軸と、『坎(水)』『離(火)』の災難の軸の交点となってしまったため、風水上、悪鬼・悪霊の集まる場所となった。こんなところに、こんなふうに莫大な予算を投下して、こんな建物を建設してしまったというのは、最悪という表現以外思いつかない。風水を篤く信じる朝鮮王朝時代の朝鮮人民に対し、朝鮮総督府が悪鬼・悪霊の最前線陣地であると宣伝しているのに等しかったからである。

 

景福宮は、悪鬼、悪霊の化身と初代朝鮮王太祖(李成桂)が恐れた実の息子、李芳遠(太宗)を失脚させ排除するために建設された、呪術的仕掛けが細部にわたって施された壮大な風水上の仕掛けなのであるが、うかつに引っかかり、とんでもない大損害を被ってしまったがために、自ら悪鬼、悪霊の化身であることを証明してみせてしまった大日本帝国陸軍

 

景福宮・・・韓国人にとってもなかなか手強い史跡

門外不出であった景福宮の秘密・・・とはいっても、旧王族で、朝鮮王朝の内部事情を知る李承晩大統領が、朝鮮王家当主、李垠の即位を阻止する目的で、これでもかというぐらい、事細かに暴露してしまったので、現在は門外不出でもなんでもないのですが、韓国人にとっても、景福宮が一筋縄ではいかない、なかなか厄介な存在であることがわかっていただければ幸いです。

また、李承晩大統領以前の朝鮮総督府が、そこのところの事情を知らず、そんな景福宮に、うかつに手を出したのですから、とんでもない大損害を被ったのは当然の結果でした。

 

この位置からだと、景福宮の設計がよくわかる。背後の最も高い山、北漢山白雲台を向いていることがわかる。
景福宮北漢山白雲台の間の距離は、直線距離で7Kmほど離れているが、地形の関係で直行できないので、片道だけで、1日を要する。
ソウルの街は、北岳山に向かって建設されているので、ソウルの街に対して斜めを向いているのである。
朝鮮総督府を建設した時代は、ライト兄弟が飛行機を発明する前。高層建築も周囲に全くなかったから、大日本帝国陸軍は、このことに気付かなかった。


高麗の首都が北に偏っているわけ

ソウルが朝鮮の首都となったのは、日本の室町時代のことで、それまでは、現在北朝鮮にある小都市、開城が長らく首都でした。

というのも、朝鮮の前の王朝、高麗は、別名、後高句麗とも呼ばれ、朝鮮半島の北部から満洲を拠点とする高句麗王朝が支配していたためです。

高句麗王朝は、北部に対する影響力は強いのですが、南部に対する影響力は弱い王朝でした。
その関係で、朝鮮は北部が経済的に豊かであり、南部は貧困地帯でした。

この影響から、朝鮮半島北部に高句麗王朝の首都が定められるのが、成り行き上自然で、朝鮮半島中部の現在のソウルの地が首都に定められるということは、高句麗人的には、かなりイレギュラーなことでした。

 

北漢山白雲台。大日本帝国陸軍は、朝鮮総督府庁舎建設後、漢城の基点が、漢城からはるか遠くの北漢山白雲台にあることに気づき、ここに天測点の位置を示す鉄杭を設置した。北漢山白雲台は、もともと、登頂困難なツルツルの1枚岩の岩峰だったので、ヒマラヤ登山もかくやといった規模の鉄製のボルトや鎖などを多数設置し、岩を削って足場を作って登攀した。それほど、朝鮮総督府庁舎がお行儀悪く歪んで建ってしまったことは、大日本帝国陸軍のメンツに関わる一大事だったのである。これを見ていた朝鮮人が、日本人が朝鮮の首都に呪いをもたらす呪符として、北漢山白雲台に鉄杭を打ったと噂しあった。これが、今日有名な『呪いの鉄杭(쇠말뚝)』である。現在は、『呪いの鉄杭(쇠말뚝)』は抜かれ、代わりに、韓国の国旗が設置されている。

白雲台までの登山道は、一般に開放され、現存する。

 

『呪いの鉄杭(쇠말뚝)』。日本が設置したもの。日本は測量地点の不変性を重視して石製、コンクリート製、金属製の測量杭を岩など動かないものに設置することが多いが、韓国では、金属製の測量杭に対する忌避感が非常に強い。測量杭は、目印になる山の稜線に設置されることが多いのだが、この鉄杭が気の流れを断つのだという。そのため、測量杭は、基本、樹脂製、または木製で、土に打ち込むことが多く、道路に打ち付ける場合は、気の流れに対する影響の少ない小さな金属製の鋲を使う。

 

韓国で普及している樹脂製の境界杭。日本で一般的な石製、コンクリート製、金属製の境界杭は、トラブルのもととなるので、使われない。

 

韓国では非常に多い木の測量杭。同じ形で樹脂製のものもある。土地の境界杭に使われていることが多い。引っ張ればすぽっと簡単に抜けるが、抜いたり折ったりしたら、ムチャクチャ怒られる。というのも、1筆分設置するのに測量費込みで、50万円ぐらいかかるためである。

韓国で、金属製の測量用標識を使うことがないわけではないが、使ってもこんな小さなものに限られる。これは、測量鋲。道路の一部が私有地の場合、境界線を示すために使われる。

 

中国からの渡来人で、国司としてはじまった朝鮮王家

朝鮮王家研究の大家としては、初代朝鮮王太祖李成桂)、第21代朝鮮王英祖、第26代国王(初代大韓帝国皇帝)高宗の3名が挙げられます。

太祖李成桂)は、元寇の際、全羅道全州を出た朝鮮王家が朝鮮国王となるまでの歴史を取りまとめました。

英祖は、遡って調査できる限りの朝鮮王家の歴史を取りまとめ、朝鮮王家は日本の飛鳥時代後期から奈良時代前期にまで遡ることができることを明らかにしました。

高宗は、英祖の取りまとめた朝鮮王家の歴史を整理し、消失した朝鮮王家の陵墓の調査、復元を進めました。

韓国人の大好きな世宗大王はというと、朝鮮王家研究については、ほとんどなにもやっていません。

第21代朝鮮王、英祖の朝鮮王朝研究によると、朝鮮王家の人間として遡ることの可能な限界は、李翰(イ・ハン)という人で、8世紀(日本だと飛鳥時代後期から奈良時代初期)に中国から渡来し、全州に定住した後、統一新羅王朝より、司空職(日本でいうと、いわゆる国司職)に任命されたのだそうです。

それゆえ、李翰の子孫は、特別に、全州李氏といいます。

全州李氏の主な役割は、百済王朝の復活の阻止であり、統一新羅末期の混乱で、一時、後百済が復活してしまいましたが、高麗建国にあたって、後百済征討に著しい功績があり、高麗王朝になると、その功績が認められ、朝鮮王家は、おもに司空職(日本でいうと、いわゆる国司職)に任命され、全州を治めてはいましたが、高麗の要職を登りつめていくことになりました。

百済王族と関係が深かった当時の日本の大和朝廷にとって、この全州李氏は、かなり都合の悪い存在でもありました。
ただ、現在は、日本の天皇家とかなり血縁関係の濃い親戚なので、非常に因縁めいたものがあります。

 

朝鮮建国以前の朝鮮王家のキーパーソン、李安社(穆祖大王)

これ以降の朝鮮王朝研究は、初代朝鮮王太祖李成桂)がとりまとめています。

12世紀後半、政治的腐敗が甚だしかった高麗王朝の影響で、朝鮮王家は衰退しつつありました。

高麗将軍職にまで出世していた李安社は、全州李氏の再興を誓い、全州の山で、派手に祭祀を行いました。

その場所について、英祖が調査を行った形跡がありますが、わからず、これを記念する霊廟、慶基殿英祖は建設し、現在も慶基殿(きょんぎじょん)は全州市の中心部に残っています。
高宗もその場所について調査していますが、ここだと思われる場所を突き止めたとしており、現在その場所に、高宗が建設した肇慶壇(ちょぎょんだん)があります。

李安社の時代、元寇が起こりました。
高麗はひとたまりもなく元軍に制圧されました。
もともと、渡来人の家系であった全州李氏の棟梁であった李安社には、高句麗に対する忠誠心は薄く、元による侵攻を朝鮮の革命のチャンスと捉え、元に寝返り、現在の北朝鮮の元山周辺を拠点に、千戸職(ダルガ)として、満洲族の武力制圧を任されました。

この事件があるため、多くの朝鮮人は、朝鮮王家が、実は大嫌いで、何度も暴動を起こし、最終的に、豊臣秀吉の軍勢が攻めてきたどさくさに紛れて、景福宮を略奪・放火しています。

李安社は、満洲族の武力制圧に成功し、朝鮮北部から満洲にかけて自治州を経営。
これが、朝鮮王朝建国の基礎となります。

この功績から、現在、李安社は、穆祖大王(もくそだいおう)と呼ばれています。

 

李安社の満洲族制圧が、後の朝鮮国難を招く

李安社という人、朝鮮王族中興の祖であると同時に、朝鮮国難の原因を作った人でもありました。

後に、朝鮮王朝は、中国清王朝満洲族の王朝)からフルボッコにされ、乞食の国にさせられましたが、李安社以来、満洲族にとって、朝鮮族は先祖の怨念を晴らすべき敵であり、朝鮮族は、絶やさず、永遠に苦しめなければならないとされてきたからです。

もっとも、今から100年前、日本が明治の頃は、満洲族の天下でしたが、現在の中国を治めているのは漢族です。

いまや満洲族は弾圧の対象。
特に最近の習近平体制下では、ウイグル族チベット族どころの騒ぎではなく、満洲族を名乗ること自体が生命の危険に直結するほどの事態となってしまっています。

漢族にとって、満洲族は、明王朝を倒して国を乗っ取った、先祖の怨念を晴らすべき敵であり、満洲族は、絶やさず、永遠に苦しめなければならないとされているためです。

中国大陸の東の方では、そんなことを、大昔から現在に至まで続けているのです。
桑原桑原。

 

李安社の子孫、李子春が高麗に擦り寄ったことが発端で歴史が変わった

ありがちなことですが、満洲族全州李氏との関係は最悪であったがために、李安社の子孫、李子春(桓祖大王:かんそだいおう)は、望郷の思いを捨てきれず、高麗王朝に擦り寄ります。

しかし、この頃の高麗王は、浮世離れした、そうとうおめでたい人で、満洲族統治権李子春から奪うために、李子春に謀反の疑いをかけ、暗殺しようとします。

 

李成桂(太祖)の御真。御真とは、公式の王の肖像画のこと。この御真は、全州の慶基殿に展示されている。現在の全州李氏にこんな感じの顔の人は結構たくさんいるし、なにより、気難しく、癇癪持ちで、小難しい性格の雰囲気がよく現れている。

朝鮮王朝建国の立役者、李成桂(クソ親父)と李芳遠(暴れん坊)登場

ところが、李子春の子に、相当な曲者がいました。
李成桂(太祖)という男と、その5男で、手のつけられない暴れん坊で知られる李芳遠(太宗)と呼ばれる人物です。

特に、この後世間を騒がせる李芳遠(太宗)は、ただの暴れん坊ではなく、相当頭の切れる人物であったがため、手のつけようもなかったというわけです。

李成桂(太祖)は、日頃から、李芳遠(太宗)を、実の息子であるにも関わらず、悪鬼・悪霊の化身で危ない奴だから隙あらば殺したいと考えている、現在の日本であったら、警察に速攻で逮捕されかねない危険な毒親であったのでありました。

李芳遠(太宗)が悪鬼・悪霊の化身であると考えた根拠は、文武両道に優れ、父親である李成桂(太祖)より多くの人に好かれる好青年であったことが許せなかったということでありました。

李成桂(太祖)は、迷信深く、自分より優れた者の存在を全否定して排除する、非常に気難しい性格の人でした。

この時は、李芳遠(太宗)を高麗王に特攻させて、闇に葬る絶好のチャンスだったので、李成桂(太祖)は、李芳遠(太宗)に『高麗王を倒そう』とけしかけました。

 

鄭道伝(チョン・ドジョン)と伝えられる絵。李成桂(太祖)のブレーンであり、朝鮮建国と、李成桂(太祖)即位の実務を担った。これ以外に、景福宮建設の実務も担っており、『景福宮』の命名者は鄭道伝である。

 

高麗王朝を倒したのは李芳遠(太宗)だったが・・・クソ親父の成果横取りが原因で誕生することになったソウルと景福宮

李成桂(太祖)は、李芳遠(太宗)が高麗王を襲うことは容易に想像できたのですが、その行動はあまりに素早く、李成桂(太祖)ですら出し抜かれるくらい素早かったわけですから、高麗の首都、開城にいた高麗王にとって、李芳遠(太宗)の襲撃は、まさに、寝耳に水。
李成桂(太祖)は、李芳遠(太宗)の後を追うだけで精一杯でした。

まさか、李芳遠(太宗)が王宮を急襲するなどとは思ってもいなかった高麗王は、突然現れた李芳遠(太宗)に反撃する余裕もなく、王宮を逃走。
李成桂(太祖)の期待に反し、李芳遠(太宗)は討ち取られることもなく、高麗王族を次々と抹殺していきます。

李芳遠(太宗)が高麗王族を皆殺しにしている間に、李成桂(太祖)は、李芳遠(太宗)を助けもせず、1392年に開城の王宮で、新高麗王となったことを宣言しました。
この成果横取りに怒った李芳遠(太宗)は、高麗王族を抹殺後、引き返して、開城の王宮を急襲。

高麗王が何で李芳遠(太宗)を殺さなかったのか激怒しつつも、じゃあ、自分が実力で李芳遠(太宗)を殺せるかといわれれば、それは絶対に無理なので、李成桂(太祖)は開城の高麗王宮を逃走。

国王が逃走・・・では格好がつかなかったため、遷都を宣言。
開城のすぐ南に、よく知られた風水のよい地があったので、李成桂(太祖)はここを首都と宣言し、漢陽と名づけました。
これがソウルのはじまりです。

こういう経緯で建設されることになった新首都の王宮(景福宮)が、ただの王宮であるはずがないのです。
すでに、悪鬼、悪霊の化身だと李成桂(太祖)から決めつけられていた李芳遠(太宗)を新王宮から徹底的に排除するための呪術的仕掛け、とことん悪鬼、悪霊の攻撃から身を守るための、ありとあらゆる風水上の仕掛けが施されていました。

一方、李芳遠(太宗)は、開城の旧王宮を押さえ、新高麗王を名乗ってみせたのですが、無意味でした。
だれも相手にしなかったのです。
クソ親父の、李成桂(太祖)が1枚上手だったのです。

高麗は、中国(明王朝)の冊封国家だったので、王族を皆殺しにしても、中国が新王を承認しなければ、とってかわって新王にはなれないのです。
それが嫌なら、李芳遠(太宗)は、中国と戦争するしかなかったのです。
李芳遠(太宗)といえども、中国と戦争する余力はなかったので、現状では、中国が任命した王を殺した中国の反逆者に過ぎません。

李成桂(太祖)が逃げ回って李芳遠(太宗)を引きつけている間に、李成桂(太祖)のブレーンだった儒学者鄭道伝(チョン・ドジョン)に動いてもらい、手続的に非常に難しい新王の承認を中国に依頼していました。鄭道伝のシナリオでは、中国に対する天下の反逆者、李芳遠(太宗)から、王権を守ったので、李成桂(太祖)を新国王に任命してほしいというものでした。

さらに、李芳遠(太宗)がいずれ李成桂(太祖)の命を狙うのは目にみえていたので、鄭道伝の入れ知恵で、高麗を廃し、李成桂を太祖とする新王朝、朝鮮を建国し、中国に承認してもらえば、冊封制度上のルールで、李芳遠(太宗)李成桂(太祖)に手を出せなくなるので、新王朝、朝鮮を建国することになりました。
そして、鄭道伝に必要な事務を進めてもらい、中国からの国家承認を得た後、朝鮮国王に李成桂(太祖)を据えてもらい、新王朝を建てることに成功していたのでした。

その後、李芳遠(太宗)が、開城の旧王宮を押さえ、一人、新高麗王を名乗ったところで、時すでに遅し、世間知らずが何を言うやらという状態でした。

ちなみに、鄭道伝は、第一王子の乱で、李芳遠(太宗)に殺されています。
鄭道伝自身、李成桂(太祖)より優れた為政者でありましたが、自分より優れた者の存在を全否定して排除する李成桂(太祖)から命を狙われる危険が常にあったため、李芳遠(太宗)を殺して、李成桂(太祖)に気に入られる必要がありました。
そこで、常に李芳遠(太宗)を高麗王族殺害の件で天下の反逆者呼ばわりし、中国から李芳遠(太宗)処刑の勅令が発せられるよう画策しておりました。
李芳遠(太宗)にとって、鄭道伝は非常に危険な人物で、殺さなければ、自分の命が確実に危なくなる人物でした。

 

李芳遠(太宗)と現在考えられている絵。公式な王の肖像画である「御真」ではない。
なぜか、李芳遠(太宗)に関する御真がない。どこかにあるのかもしれないけれど、見たことがない。ちなみに、朝鮮王朝時代の考え方では、朝鮮建国時のしくじりから、何度も中国に対する反逆罪を犯した李芳遠(太宗)を、建前上、賞揚することはできず、不当に軽く扱ったきらいがある。
現在の全州李氏の人々にも共通するのであるが、胃腸が弱いという遺伝があり、普段から、膨満感と腹痛に悩まされている人が多い。それが、全州李氏の人々に共通する癇癪持ちな性格の原因ともなっているのであるが、韓国人なのに、トウガラシの入ったキムチが食べられないという人も多く、全州李氏の家の家庭料理は、日本人も驚くほど、薄味で淡白な傾向がある。これは、現在韓国で賞味できる宮廷料理が、がっかりするほど薄味で味気ないこととも関係がある。この胃腸が弱いということは、王朝実録に書かれており、ほぼすべての朝鮮王についていえる。
その分、歴代の朝鮮王は、気難しい表情の、細面の肖像が多いという結果になっているのであるが、この李芳遠(太宗)像は、その真逆である。
よって、この肖像画の信憑性はあまりないのではないかとも考えられる。
しかし、李芳遠(太宗)の王となってからの顕著な業績を鑑みると、多くの人から好かれる性格であり、頼りにされる性格であったことから、このような肖像が描かれたのではないかとも想像できる。

 

結局、特に李成桂(太祖)と争わなくとも、王権は勝手に李芳遠(太宗)に転がり込んだ

鄭道伝李芳遠(太宗)追撃の策として、李芳遠(太宗)の王位継承権剥奪がありました。

実は、李芳遠(太宗)は、高麗王族殺害の件で中国に対する反逆者ではありましたが、父親の李成桂(太祖)が新王朝の国王となったことから、ややこしいことに、王位継承権が発生してしまい、下手に殺害すれば、中国に対する反逆者となるという状況になっていました。

そこで、鄭道伝の画策で、李芳遠(太宗)よりはるかに年の若い8男の李芳碩に李成桂(太祖)家督を譲れば、李芳遠(太宗)の王位継承権は消滅し、李芳遠(太宗)をたやすく処刑できるようになります。
これを察知した李芳遠(太宗)は、8男の李芳碩を殺し、王位継承権を確保した後、非常に危険な鄭道伝を殺したのでした。

ただし、王の世継ぎを殺したというのは、いくら王子であっても、中国に対する反逆罪に問われるので、タダでは済みません。
それゆえ、中国にまで報告が入る一大事(第一王子の乱という扱い)となってしまい、王宮は上や下への大騒ぎとなりました。

李芳遠(太宗)は責任を取ることが要求されたので、王位辞退を宣言して責任を取らざるをえず、李成桂(太祖)は高麗王朝乗っ取りの前科もあったので、更なる平和的仲裁策を中国から求められます。
そこで、不本意ながら、李芳遠(太宗)より年長で、あまり文武の才のない李芳果(定宗)李成桂(太祖)は王位を譲位し、李成桂(太祖)は国王を引責辞任しました。

王位継承権は李芳遠(太宗)に残ったことで、李芳遠(太宗)の命が担保され、李成桂(太祖)は国王を引責辞任したということで、李芳遠(太宗)の命を狙うことのできる人がいなくなりました。

これで一件落着かと思われたのですが、李芳果(定宗)が、弟の李芳幹から殺されそうになるという殺人未遂事件が発生しました。
あれだけ大騒ぎになっていたのに、李芳幹は、中国の冊封制度を全然学習していなかったのでした。
この事件も、中国にまで報告が入る一大事(第二王子の乱という扱い)となってしまい、王宮は上や下への大騒ぎとなりました。
この時は、李芳果(定宗)が、李芳遠(太宗)に命じて李芳幹を無礼打ちにするという建前(実際は李芳遠(太宗)李芳果(定宗)を救援した)で事を収めます。

李芳遠(太宗)は、今度こそ、立ち回りでしくじりませんでした。
このことが効を奏します。
李芳果(定宗)は、自分は殺されるのは嫌だし、人殺しもしたくないと言って、王位を、より優れた王の器であるということで、李芳遠(太宗)に譲ってしまいます。

こうして、李芳遠(太宗)の下に、思わぬ形で王権が転がり込んできました。
これに衝撃を受けたのが、引退した李成桂(太祖)です。
これこそ李芳遠(太宗)が悪鬼・悪霊の化身の証、我、悪鬼・悪霊に敗れたりと、景福宮から逃げ出し、昌徳宮に篭もってしまいました。
それからというもの、李成桂(太祖)は、悪鬼、悪霊退散の祈祷にどっぷり浸かってしまい、二度と国政をすることはありませんでした。

 

李芳遠(太宗)を失脚させるため作られた罠に見事引っかかって、自から悪鬼、悪霊の化身であることを証明してみせた大日本帝国陸軍

朝鮮全土を手中に収めた李芳遠(太宗)は、景福宮が自らを悪鬼、悪霊の化身であると国民に広く知らしめ、失脚させるために作られた罠であることを熟知していました。
そこで、景福宮では、いかなる失敗も犯さないよう最大限注意し、鄭道伝が悪知恵の限りを尽くした風水の権化ともいえる景福宮には手をつけず、自分の気に入った離宮を建設し、普段は離宮に住みました。

ソウルの中心部に異様なほど離宮が多いのは、景福宮が一筋縄ではいかない面倒な建築物であった歴史があったからです。

そうとも知らず、この仕掛けに見事引っかかったのが、ここに朝鮮総督府庁舎を建設しようとした寺内正毅率いる大日本帝国陸軍だったというわけです。