大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

朝鮮総督府庁舎(財政難の明治政府が避けたかった韓国併合)

朝鮮総督府庁舎建設の経緯

お金がないので、韓国併合はやりたくなかった明治政府

朝鮮総督府は、1910年(明治43年)の韓国併合によって大日本帝国領となった朝鮮を統治するため、設置されました。

当初、初代韓国統監伊藤博文とする韓国統監府が、南山山麓の日本人街に建設されていました。
というのも、当初、日本は朝鮮を併合するなどということは、できるだけ避けたい最悪の事態と考えていたからでした。

初代韓国統監伊藤博文は、初代内閣総理大臣をやっただけあって、日本の財政状況を知り尽くしていました。
明治時代の大日本帝国は、とても朝鮮を植民地経営するだけの国家予算がない貧乏国家であるということをよく理解していました。

 

朝鮮王朝時代の漢城(ソウル)南大門。現在、この場所は、ソウル駅前から市庁に向かう広い道路になっている。高層ビルがこれでもかというほど立ち並び、大量の自動車が行き交う見違えるような大都会となっているのであるが、100年ほど前は、のどかな農村風景が広がっていた。一独立国家の首都なのにである。

慶熙宮から景福宮を望む。朝鮮王朝時代の漢城(ソウル)の中心部。のどかな田園風景が広がっている。これが朝鮮最大の都市であり、首都だったというのだから、朝鮮王朝全体の経済力は、現在のソウル市の区役所単独の予算規模にも満たない。
この時代の大日本帝国の国家予算も慢性的にひどい赤字だったが、それにもまして、朝鮮王朝はどうしようもないほど貧乏であった。
これが平和な農村だったら、また別の評価もできようが、朝鮮の人々は、この限られた経済のなかで、既得権益を少しでも増やそうと、日々、内輪もめを繰り返していた。
経済力をパイに例えるなら、日々縮小してく小さい皿にのったパイのうち、自分の取り分を1mmでも増やそうと、不毛な争いを繰り返している感じであった。
パイを飛行場のようなとてつもない巨大なものに育て、その中の巨大な薄い一切れをもらおうという考えを持っている人は、この当時の朝鮮にはいなかった。
というのも、宗主国である中国清王朝満洲族)が、積年の恨み(朝鮮族満洲族には積年の因縁がある)から、長い年月をかけて、朝鮮の人々の心や考え方を腐らせたからであった。

 

鐘路。朝鮮の首都のメインストリートにしてこの有様であったため、朝鮮辺境に至っては、絶望的なまでの貧困状態であった。ちなみに、この写真は、日本が明治後期であった時代に撮られたものであり、日本では、山手線の電車が走り、地下鉄が建設され、現在の国会議事堂や迎賓館などが着々と完成しつつあった。ロシアがシベリア鉄道を着々と建設していた時代でもあり、こんな朝鮮に、継戦能力無限大のロシア軍がなだれ込んでくれば、ひとたまりもないのは誰が見てもわかる。このことから、国家の経済力とは、核兵器に勝る軍事的抑止力となりえることを教えてくれる。

 

ロシアの南侵計画が事態を複雑にした

ならば、なぜ、その最悪の選択、朝鮮を併合するようなことをやったのかというと、帝政ロシアの南侵計画を阻止するためでした。

ロシアにとって、過去のモンゴル帝国の侵略の記憶は拭い去り難く、シベリア地方に居住する複数の民族で構成される黄色人種は警戒すべき人種でした。
ロシアは、シベリア地方の黄色人種を搾取・絶滅すべき対象として捉えており、ロシア軍として徴兵されるのも、強制労働を課されるのも主にシベリア人で、ロシア西部に住む白色人種は、比較的徴兵や強制労働の対象とはなってこなかった経緯があります。

つまり、一度ロシアに占領されれば、お金や資源にとどまらず、命までもっていかれる危険性があるということなのです。

そのようななかで、シベリアの東で台頭してきた日本という脅威は、シベリア人達の希望となり、独立運動を助長する可能性があるため、なるべく早く除去し、国家の安泰を図る必要がロシアにはあったという具合です。

つまり、日本にとって、ロシア問題は、お金のコストパフォーマンスが良いか悪いかで論じることのできない問題だったわけです。

イギリスも、中国権益を狙って、極東に出没していましたが、軍艦を派遣してきた程度だったので、継戦能力はたかがしれています。
しかし、ロシアはシベリア鉄道を建設して、兵員や武器弾薬を大量輸送することを目論んでいます。
継戦能力は、無限大といっても差し支えありませんでした。

 

中国も朝鮮も、帝政ロシアの南侵計画阻止のあてにはならず

日本からみて、中国は対ロシアの第一次防衛線、朝鮮は、第二次防衛線と考えていました。

しかし、中国は、アヘン戦争以降の混乱で瀕死の状態。

朝鮮王の高宗の内政音痴、外交音痴は甚だしく、日本の嫌がらせをすれば、国民が皆、乞食のような生活を強いられていても、万事OKといったレベルの政治を行っていました。

こうなると、中国や朝鮮は、遠からず、ロシアの領土となるのは避けられなかったのですが、そうなると、日本が帝政ロシアに包囲される事態となります。

最悪、朝鮮のロシア併合だけは絶対に阻止しなければならないと、日本軍部は考えていたのでした。

 

一旦は日本が併合し、教育を施し、社会基盤を整備し、親日国に改造後、再独立させるのが当初の目論見

当時、朝鮮は、文字の表記に日本と同じ漢字を使用し、公用文書は、日本とまったく同じ。
発音のみ異なるという状況でした。

朝鮮語の発音も、津軽弁ウチナーグチ琉球語)と大差ないレベルで、アイヌ語ほどの差異はなかったため、一旦は日本が併合し、教育を施し、社会基盤を整備し、親日国に改造後、再独立させれば、愛国心も非常に強い人達なので、ロシアの侵略など跳ね返してくれるようになるだろうと、楽観的に考えていました。

 

伊藤博文
大日本帝国創設者にして頂点に君臨する男だったが、腰が低く、好感をもたれた。
温厚な性格も好感をもたれたが、怒ったときの眼光は、命のやりとりをする侍そのものであり、非常に怖かったという。
怒ることは滅多になかったが、伊藤博文の戦争嫌いは筋金入りで、高陞号事件で日清戦争の戦端を開いてしまった防護巡洋艦浪速艦長東郷平八郎を呼び出し、罵倒した話は有名である。
内政面で活躍することが多かったが、勝ち戦、負け戦ともに経験が豊富であり、いざ戦闘に参加すれば、なかなかに強かった。
いざとなると、頼れるのは伊藤しかいないということで、明治政府から重用された(面倒な仕事を押し付けられた)のである。


景福宮への韓国統監府建設にこだわるNo.2の寺内正毅と、国家予算を気にするNo.1の伊藤博文の対立点

韓国統監府No.1で元勲の筆頭格であった伊藤博文は、韓国統監府No.2の元陸軍大臣寺内正毅とは、どうしようもないほど反りがあわなかったというのは、持って生まれた性格の差が原因であったろうことは容易に想像がつきます。

どちらも、細かい性格で、内政を得意としたことが、より対立を深いものにしたと思われます。

伊藤博文は、とても朝鮮を植民地経営するだけの国家予算がない貧乏国家なので、独立採算で朝鮮はやるしかないとみており、いたずらに反日感情を煽るのは愚の骨頂と考えていました。

また、歴戦の武士であった伊藤博文は、蛤御門の変など、敗戦経験が豊富で、城郭にうかつに手を出すと、必ず痛い目に遭うことを経験から知っていました。

景福宮への韓国統監府建設にこだわっていたNo.2の寺内正毅に対し、壮大な韓国統監府が必要なら、漢城(現在のソウル)には、土地は腐るほど、どこにでもあるのだから、景福宮以外の場所に、壮大な建物を建てたらよいと主張していたようです。

また、朝鮮統治の本命である寺内正毅天皇の統制を邪魔に思っていた節があり、暴走が懸念されたことから、寺内の上にブレーキ役を置かないと取り返しのつかないことになると考えられ、伊藤が統監府のトップに据えられたのも、伊藤暗殺後、大蔵大臣の曾禰荒助が統監府のトップに据えられたのも、寺内のブレーキ役を期待されてのことでした。

 

伊藤博文は、朝鮮に赴任すると、早速女漁りを開始し、1年ほどで複数の妾を囲う勢いであった。この写真で、左から2番目が、正妻、伊藤梅子。伊藤博文朝鮮人女性から好かれた最大の理由は、当時日本人が持っていた朝鮮人を見下す考え方をまったく持っていなかったことにあった。朝鮮人の扮装をすることにも、まったく抵抗感をもっていなかった。伊藤梅子のメンタリティーは江戸時代の人で、大日本帝国の筆頭大名格の博文が側室を持つことに何ら疑問は持っていなかったようである。


下半身で天下国家を論ずる宰相、伊藤博文

明治時代といえば、朝鮮に関する情報は皆無に等しいという絶望的な状況下、国際政治を誤らないには、どうしたらよいか。
伊藤博文は、彼なりに考察した結果、自らの下半身以外、信用できるものはないとの結論に達し、朝鮮に赴任した早々から、女漁りを始めました。
「伊藤の女癖はなんとかならんか!」
明治天皇が言ったのは有名な話。

同類に、松方正義がおり、こちらは、明治天皇から子供の人数を聞かれ、多すぎて、即答できず、
「後日、詳細な調査の上、御報告申し上げます」
と言って、明治天皇をずっこけさせた前科があります。

朝鮮女は気性が激しいというのが専らの噂でしたが、人一倍人情家であった伊藤博文にとって、そんなもの屁でもありませんでした。
むしろ、日本人にはない、情の篤さに惚れたようです。
曰く、『朝鮮には優れた人や文化があり、これを生かさぬ手ははい』。
本質を見抜く眼力には驚かされますが、ただ単に、「朝鮮には美しくも情の篤い女がおり、これを生かさぬ手はない」と言ったまでという説もあります。

 

寺内正毅
危険ではあるが、嘘はつけない不器用な男である。
それゆえ、日露戦争敗戦時の備えとして、ブレーキ役の伊藤博文とセットで韓国統監府に送られた。『毒を以って毒を制す』の作戦である。
伊藤博文が暗殺され、ブレーキ役不在となった後、暴走を懸念した大日本帝国政府は、大蔵大臣の曾禰荒助をブレーキ役として送った。
しかし、日露戦争勝利のタイミングでこれを体よく追い出し、寺内正毅が韓国統監府のトップとなると、寺内の暴走が目に余るようになったのである。
大日本帝国政府の安全策が完全に裏目となり、寺内は韓国統監府の組織を拡大し、朝鮮総督府に改組した。さながら、『河豚が自らの毒で中毒死する』の惨状であった。
寺内総督時代の朝鮮総督府は、朝鮮の武力弾圧に邁進し、違法な弾圧、不当逮捕が目に余ったため、内地でも問題視する声が大きかった。
朝鮮総督府の暴走、すなわち軍部の暴走を放置すれば、大日本帝国はいずれ自爆死しかねないと危険視する意見が相次いだ(実際には、そのとおりになったのだが)。
ただ、寺内が陸軍大臣に居座りつづけ、内閣総理大臣の言うことを聞く必要のない立場であったため、引きずり下ろすのに大日本帝国政府は苦労した。
大日本帝国憲法下では、陸軍大臣より格下の役職であったが、名誉的には、はるかに上席であった内閣総理大臣職をあてがうことで、陸軍大臣から寺内正毅を引き剥がし、幕引きを図ったが、寺内総督時代の悪習は朝鮮総督府に残り続けた。
寺内内閣は失政が続き、最後は富山で米騒動が起こったが、寺内を軍から引き剥がすことに成功したので、結果オーライだった。
最終的に、朝鮮総督府は、大日本帝国憲法上合法であった三・一独立運動を徹底弾圧し、違法に関係者を次々と逮捕したことが、軍部の暴走として、大日本帝国政府内部から著しい非難を浴び、組織改革を迫られることとなった。


几帳面が取り柄だったが、短気で野心家なところが徹底的に嫌われた寺内正毅
伊藤博文の後任となった韓国統監府統監、寺内正毅は、明治人としては、ありえないほど生真面目かつ几帳面で、令和に生まれたならば、もっと生きやすかったであろうというような人。

制度構築や管理といった地味な行政事務に対して有能で、出世も早かったのですが、短気で人をよく叱ったため、特に、面子を潰されることを異様に嫌う明治時代の人々からの人望はまったくありませんでした。
その反動で、名誉欲が強く、事細かく厳しかったため、士官学校校長時代に付けられたあだ名は「掃除係」、「重箱楊枝」でした。

首相時代には、強引な政策が目立ち、最後は富山の米騒動を起こし、責任をとって辞任するという結末になったのですが、非立憲をもじって、「ビリケン宰相」と揶揄されました。
あまりに他人から嫌われることに辟易していた寺内自身は、この愛称を気に入っていたらしく、ビリケン像を3体も購入していたといわれています。

韓国併合を、豊臣秀吉が果たせなかった朝鮮征伐を今果たしたと御満悦で、「小早川 加藤 小西が 世にあらば 今宵の月を いかに見るらむ」という歌を詠んでみせました。
これは、寺内最大の失言でもあって、後に、伊藤博文暗殺の黒幕と噂されれる原因ともなりました。

 

暗殺直前の伊藤博文伊藤博文の写真を知っている我々ですら、この中の誰が伊藤博文であるか、当てるのが難しい(左から2番目の帽子をとって挨拶している腰の低いおじいさん)。この写真を撮った人も、写真中央の小柄な偉そうな人にカメラを向け、ピントをあわせていることから、伊藤がどんな人か知らなかったようだ。伊藤がどんな人か知らない安重根が、果たして、伊藤を撃てたのであろうか。

 

伊藤博文を暗殺したのは、朝鮮の独立運動家、安重根ではなく、寺内正毅が雇ったヒットマンだったという陰謀論

伊藤博文を暗殺したのは、朝鮮の独立運動家、安重根で、単独犯行であったというのは定説です。

伊藤博文を暗殺したのが安重根でないと、日韓双方困ったことになりますからね。

しかし、この事件の捜査があまりにずさんであったため、噂が噂を呼び、陰謀論まで飛び出すに至りました。

そもそも、朝鮮に伊藤博文の写真が流通していたわけではなく、安重根は伊藤がどんな人かは死刑執行に至っても知らなかったということでした。

満洲ハルビン駅で、安重根が銃を発砲したのは事実ですが、「顔が黄ばんだ白髭の背の低い老人」が伊藤博文だろうと考え、その人物に向けて4発を発砲し、人違いで失敗したとあっては一大事と考えて、「その後ろにいた人物の中で最も威厳のあった人物」にもさらに3発発砲したと言っています。

果たして、安重根の銃弾が、本当に伊藤博文に当たったのでしょうか?

この事件で発砲された銃弾は、少なくとも計13発で、安重根が所持していた拳銃ブローニングの装弾数の約2倍の弾が発射されていました。
残りの弾は、誰がどこから発射したのかは一切明らかにされず、安重根の単独犯行であったとして、処理されました。

こういう話は、娯楽が少なかった明治人の興味関心をそそることとなり、日本、朝鮮双方で、大きな噂となりました。

憶測が憶測を呼んで、伊藤博文が殺されて最も都合がよかった人物として、寺内正毅が疑われました。

天皇を殺すわけにはいかないが、元勲の伊藤博文がいなくなれば、事実上、天皇朝鮮総督府のパイプは切れるため、伊藤を殺せば、寺内のやりたい放題できるということになります。

実際、伊藤博文亡き後、寺内正毅朝鮮総督府でやりたい放題をやって、余計、内地の政府関係者から顰蹙を買っています。

ハルビン駅頭での伊藤博文暗殺事件の際、安重根が伊藤と誤認して、宮内大臣秘書官、森泰二郎を誤射した機を捉え、寺内の命を受けた警護兵らが、邪魔な伊藤を射殺したという陰謀論は、なかなか説得力があって、かつて何度も否定されましたが、現在、日本人研究者だけではなく、韓国人研究者からも広く支持されています。

 

寺内正毅騎馬像跡。現在は最高裁判所庁舎が後にあるが、太平洋戦争後は、最高裁判所庁舎の土地が米軍住宅で、こんな場所に寺内正毅騎馬像を再建するわけにはいかないということで、日本電報通信社(電通)が3体の裸婦像(平和の群像)を置いた。日本初の裸婦像であったため、猥褻物と酷評されることが多かったが、米軍は気にしなかった。

 

伊藤博文暗殺にまつわる陰謀論が、死後もついてまわった寺内正毅

大日本帝国の予算事情を考慮し、韓国併合に消極的であった伊藤博文が暗殺されたことで、1910年(明治43年)8月29日に「韓国併合ニ関スル条約」へ基づき、大日本帝国大韓帝国を併合し、統治下に置きました。

この日本による朝鮮半島の統治は、大日本帝国ポツダム宣言による無条件降伏後も行われ、国際法上は、1945年(昭和20年)9月9日に朝鮮総督府が連合国軍への降伏文書に調印するまで続きました。

もっとも、降伏文書に調印後も、朝鮮人は連合国軍の信託統治を断固拒絶し、さりとて、朝鮮半島の後継国家が決まらないというゴタゴタのせいで、日本本土から大日本帝国が消滅してなお、大日本帝国の行政組織が朝鮮半島に残るというイレギュラーな事態が発生しています。

首相辞任後、韓国併合の功によって寺内正毅は、伯爵を授けられ、華族となりました。
そうでもしないと、また陸軍に戻って朝鮮総督府にちょっかいをだして、エラいことになるという懸念が大日本帝国政府にあったようです。
寺内正毅の没後、国会議事堂の近くに銅像が建てられましたが、これも、そうしなければ収まりがつかなかった節があります。
国会議事堂内の伊藤博文銅像は残されたものの、寺内正毅銅像は、太平洋戦争中に金属回収で溶解されてしまいました。

 

大韓帝国第二代皇帝純宗(朝鮮王朝最後の王)。
巫教(ムダン)の占いに狂った母の閔妃の政略により、清からの承認を受け、王世子(世継ぎ)として冊封された。巫教(ムダン)を王宮から排除しようとした高宗の父の大院君と、巫教(ムダン)の占いにますます傾倒する母の閔妃の権力闘争に巻き込まれ、毒殺を目的としたアヘン入りのコーヒーを飲まされたことで、一時意識不明の重態となった。一命はとりとめたものの、脳に重い障害が残り、歯はすべて抜け落ち、胃潰瘍と萎縮腎に生涯悩まされた。
父の高宗がハーグ特使事件を起こしたことで、高宗は引責退位することとなり、純宗が大韓帝国第二代皇帝となった。
幼い頃から家族には徹底的に恵まれなかったゆえ、精神的に極めて不安定であり、疑い深い性格でもあった。
その点、嘘はつけない不器用な男であった寺内正毅との相性はよく、毒殺未遂で知的障害を負っていたことも相まって、寺内が敵国人であることをあまり意識しなかった可能性がある。

実は朝鮮研究で学術的な功績があったアカデミックな寺内正毅

生前、ほぼすべての人から嫌われたといってもよい、問題のデパートのような寺内正毅ですが、どういうわけか、大韓帝国第二代皇帝純宗(朝鮮王朝最後の王)からは好かれ、信頼されたというのですから、世の中わかりません。

純宗は、非常に神経質で、癇癪持ちだったといわれますが、どう考えても明らかに朝鮮の敵で、諸悪の根源であった寺内正毅とウマが合ったというのですから、世の中難しいものです。

ともかく、寺内にとって唯一といっていいほどうまくいった人間関係が純宗との人間関係で、この一件があって、寺内は、急速に朝鮮研究に目を向けるようになります。

そして、散逸しつつあった朝鮮関係の書籍蒐集を趣味とするようになります。

几帳面に整理、保存し、私設図書館「寺内桜圃文庫」を設立するなど、韓末期、韓国の文化的遺産が逸散しなかった背景には、寺内正毅の朝鮮研究の功績があります。

寺内桜圃文庫の書籍は、戦後、山口県立大学に移され、一部は韓国の慶南大学校に移され、逸散することなく保存されています。

 

景福宮勤政殿。朝鮮王朝第26代国王高宗の作。今となっては立派な歴史的建造物だが、寺内正毅の時代は、できたばかりの新しい建物だった。
歴史建造物の復元というなら、なかなかの大作といえるが、問題は、高宗がここで、本気で、400年前と同様に政治をするため、建てたのである。
日本なら大正時代にさしかかっている時期で、現在の国会議事堂がそろそろ完成するという時期である。ここにずらっと官吏を並べて、チャングムの時代と何ら変わらぬセレモニーを執り行っていたのである。
宗主国である中国からは過分のお褒めにあずかったが、その背後には、
朝鮮が中国に先んじて近代化してもらっては困る中国の都合があった。

 

景福宮慶会楼。朝鮮王朝第26代国王高宗の作。今となっては立派な歴史的建造物だが、寺内正毅の時代は、できたばかりの新しい建物だった。
歴史建造物の復元というなら、なかなかの大作といえるが、問題は、高宗がここを本気で現役の迎賓館として使うため、建てたのである。
これとて、宗主国の中国の本音からすれば、笑止千万、時代錯誤も甚だしいものであったが、朝鮮が中国に先んじて近代化してもらっては困る中国の都合があったから、慶会楼で接遇を受けた中国からの使者は、朝鮮国王を褒めちぎった(これを、『褒め殺し』と言う)。

慶会楼と同時期に完成した日本の建築に、ベルサイユ宮殿もどきともいわれる現在の迎賓館(赤坂離宮)がある。これは当初大正天皇の宮殿として作られたものだったが、大正天皇昭和天皇共々使用をボイコットしたため、迎賓館として使われているのだが、明治政府が鹿鳴館を作ったことからもわかるが、外交接遇施設として使うとなると、このような施設でないと役割を果たすことができない。
慶会楼が、日本のベルサイユ宮殿もどきの迎賓館と同じことができるかといわれれば、まず、できないであろう。

 

朝鮮王朝第26代国王高宗。
朝鮮王朝の中で最も嫌われ、軽蔑されながらも、最長の在位期間を誇る第21代国王英祖の名誉回復に心血を注ぎ、英祖の成した朝鮮王朝研究の整理、保存をすすめ、荒廃した朝鮮王朝関係施設の修復・復元を進めた。
高宗がうまく景福宮を再建できたのは、英祖の研究を通じて、門外不出の景福宮の秘密に精通していたからであった。朝鮮王朝の価値観からいって、善政を行った王ということになる。

この頃の高宗は、自信満々で、ドヤ顔をしているが、朝鮮が中国なしでは生きていけない、より貧乏でみじめな国家となるよう、宗主国の中国からおだてられてられているのに気付かず、自分は正義に則って政治をしていると確信しきっている部分は確かにあった。
のどかな田園風景の広がる首都漢城を当たり前と思っていた高宗であるから、なかなかうまくやっていると錯覚したかもしれないが、現実の世界情勢からは甚だしくズレていたのである。


朝鮮国王、高宗の景福宮復元も、寺内正毅の気に入らなかった
ところで、景福宮は、日本が室町時代の1395年に竣工し、1553年の大火によって焼失するまで、約200年間は正宮として使用されました。

景福宮は、日本によって破壊されるのは、朝鮮併合後のことで、豊臣秀吉の時代、1592年の文禄の役において、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城の時には、既に荒れ果てていました。

というのも、文禄の役時、国王の宣祖が漢城から真っ先に逃亡しており、取り残された漢城民衆が暴動を起こし、景福宮を略奪、放火したためでした。

その後は離宮の昌徳宮が正殿に使用され、景福宮は約270年の間再建されませんでした。

時代が進んで、韓末期、朝鮮国王、高宗は、景福宮の復元に取り組んでおり、景福宮をある程度復元すると、今まで正宮として使用していた昌徳宮から景福宮に引越しました。

で、景福宮に引越した後、韓国併合後に高宗がハーグ特使事件を起こし、純宗に王権を移譲しなければならなくなりますが、その数年後に昌徳宮が火災で丸焼けになるという事件がありました。

かの寺内正毅をして、なんなんだこれはと、苦々しい思いで見ていました。
不満な点は以下の3点

    • なぜ景福宮を、時代の流れに逆行して、400年前とまったく同じに復元しようとするのか。景福宮を歴史公園にするなら別だが、現役の行政施設であるのだから、時代にあった最先端の形にすべきではないか。
    • なぜ、長らく正宮として実際に使われ、歴史的価値のある昌徳宮を火災で丸焼けになっても放置しておくのか。むしろ、歴史的価値のある昌徳宮こそ、焼失前の状態に完璧に修復すべきではないのか。
    • 仮に、景福宮の復元が、現状の政務をこなすうえで問題がないものならばよしとしよう。しかし、現役の行政施設として、機能上甚だ問題があり、そんな景福宮と丸焼けの昌徳宮に何の意味があるのか

なにかと問題が多かった寺内正毅でありましたが、腐っても優秀な官僚であったがゆえ、言っていることは、先進的な視点をもっており、至極まともでありました。
この頃の寺内は、純宗とうまくいっていたこともあり、かなり純宗に肩入れした考え方をするようにもなっていました。

また、寺内となにかとウマが合う純宗も、長らく正宮として実際に使われ、歴史的価値のある昌徳宮こそが、朝鮮の大事な王宮であり、昌徳宮でなければ李王家の祭祀が保たれないと主張しました。

そして、純宗は、昌徳宮内にある焼け残った民家風の小さな建物である楽善斎に留まったことから、寺内正毅は、早急に純宗の生活環境を復旧するため、景福宮の中途半端な復元家屋を昌徳宮に移設し、昌徳宮を焼失前の完璧な形に復元したうえで、景福宮跡地に近代的な朝鮮総督府を建設する計画を進めました。