大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

大日本帝国の命運を背負った傷だらけの釜山駅

釜山駅は、大日本帝国の国際戦略上の最重要拠点だった

当時、大蔵省は釜山駅に冷淡だったが、軍部が強引に押し切った

釜山駅は、大日本帝国の東アジアにおける軍事的戦略とともに誕生しました。
釜山駅に期待されたのは、朝鮮半島及び中国大陸への侵略のための大陸の玄関口としての役割でした。

 

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辰野金吾設計 初代 釜山駅

 

釜山駅誕生を決定づけたロシアによるシベリア鉄道の建設

釜山駅が建設されるきっかけとなったのは、ロシアによるシベリア鉄道の建設でした。
ロシアは、大量輸送が可能な鉄道を使って極東の支配権確立を目指しました。ターゲットは、中国清王朝と、明治維新以来、欧米で存在感を増しつつあった大日本帝国

鉄道を使って攻めてくるとなると、輸送力に限界のある軍艦が相手の今までとはわけが違います。

 

大日本帝国の第一次防衛線は、中国清王朝、第二次防衛線は朝鮮王朝であったのだが

日本のロシア植民地化という抜き差しならぬ軍事的脅威を感じた大日本帝国は、その第一の防波堤の役割を中国、そして、第二の防波堤の役割を朝鮮半島に求めざるをえませんでした。

 

西大后が実権を握る清王朝は、欧州列強による植民地化が進み、国土は虫喰い状態

ところが、西大后が実権を握る清王朝は、欧州列強による植民地化が進み、国土は虫喰い状態。
とてもロシアに反撃するどころの状態ではありません。

 

乞食同然の朝鮮王朝は、国内の権力闘争で忙しく、ロシアどころの騒ぎではない

朝鮮王朝も、日々、閔妃と大院君(高宗の父)が熾烈な権力闘争に興じていました。
当の朝鮮国王、高宗は、基本的に国政には無関心。
当時の朝鮮半島を旅した英国人、イザベラ・バードは、あまりの国土の荒廃ぶりに、ここは乞食の国かとあきれ返ったほど。

朝鮮国王、高宗は、いっそのことロシアに取り入って、頼りにならない清王朝との関係を断絶し、ロシアからお金を恵んでもらった方が良いと考えている有様でした。

 

大日本帝国の独立を守るためにできること・・・ロシアの防波堤は自分で作るしかない

そうなると、大日本帝国の独立を守るためには、強硬手段に打って出るしかない。
つまり、ロシアの防波堤は自分で作るしかないと、明治維新で鍛えぬかれた明治時代の大日本帝国の元老は考えたわけです。

 

釜山から新義州(中朝国境)へ至る鉄道を、日本の費用負担で建設するという途方もない計画の一部として釜山駅建設が計画された

飛行機のないこの時代。
中国大陸にロシアの防波堤は自分で作るには、船舶では速力、輸送量ともに役不足
釜山から新義州(中朝国境)へ至る鉄道を、日本の費用負担で建設することが必要であるという途方もないことを考えるようになりました。
その玄関口として、釜山駅は計画されました。

 

当然、大蔵省は「いったいどこからそんな金を持ってくるんだ」とおかんむり

時の大蔵省は「帝国本土でも鉄道が整備中なのに、朝鮮如きに鉄道とは笑止千万」
と、大ブーイング。

そもそも、この時代の日本は、農業以外まともな産業のない貧乏国。
文化の担い手としては、旧武士階級という限られた人々しかなく、その文化自体も世界に通用する水準とは程遠かったという有様でした。
軍艦一隻作れば国家財政が傾く貧乏国に、朝鮮鉄道とは、笑止千万でしかなかったのは事実でした。

が、しかし、大日本帝国は、平成の日本国と違って、大蔵省より軍部の力が圧倒的に強い国。
大蔵省が全力で阻止しようとしても軍にはかなわなかったという事情がありました。

 

大蔵省の反対をよそに、着々と朝鮮鉄道の事業は進むが・・・閔妃との葛藤

そこで、朝鮮の政権を実質的に掌握していた閔妃と、鉄道敷設権の交渉が大蔵省の反対をよそに、朝鮮王朝と着々と進められることとなりました。

ところで、閔妃という人。
30代後半の若い女性で、中国の西大后と並んで、東アジアに強い影響力を持った女性統治者でした。

親日的な政策を行ったこともあり、大日本帝国政府からはある程度評価されていたのですが、基本的に日本人を虫ケラとしか思っていない人でありました。

基本的に、閔妃と対立する大院君(高宗の父)が蛇蝎の如く嫌う親日的な政策を行って、大院君に嫌がらせをしただけのことであり、閔妃は、ゆくゆくは、邪魔な大日本帝国を、強大な清王朝の軍隊を使って退治するというシナリオを考えていたのでした。
それゆえ、大日本帝国に対して、余裕の態度で対峙していたわけです。

閔妃は、大日本帝国との鉄道敷設権の交渉の進捗を、都合のいいように、逐一清王朝に報告します。
当然のことながら、朝鮮を自国領だと考えていた清王朝が激怒します。
そして、日清戦争が勃発します。
そして、退治しようと思っていた大日本帝国日清戦争に勝ってしまいます。

閔妃の破滅の原因は、日本を軽蔑しきっていたがゆえに、日本の明治維新というものについて知らなかったばかりか、知ろうともしなかったというところにありました。

 

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戦前の釜山駅周辺の地図(改造社
初代釜山駅は立派な駅舎だった反面、長編成の列車に対応できないという根本的な欠陥があった。これは、欧亜連絡鉄道という御大層な大義名分の割には、京釜線が2〜3両編成の列車を1日に3〜4本運転していただけという見かけ倒しの実態があったためである。

 

当然のごとく日本から逆襲された閔妃。ロシアの植民地化に合意する国王高宗

当然のごとく閔妃大日本帝国から逆襲され、暗殺されます。

大日本帝国の元老も、気分はまだまだ江戸時代を引きずっておりました。
江戸時代なら、閔妃のような不義不忠の輩は、切腹のうえお取り潰しが当たり前だったのであります。
ですが、国際社会でそれをやっちゃいけなかった。
各方面からの非難に、時の大日本帝国政府は反省します。

また、朝鮮国王高宗もいけなかった。

恐れおののいた朝鮮国王高宗は、王宮から逃走し、あろうことかロシア大使館に立て籠もり、ロシアに身柄の保護を要請します。

そして、あろうことか、ロシア大使に、朝鮮はロシアの属国になる約束をとりつけ、支援を要請します。
格下の大日本帝国の植民地になるのは嫌だけど、ロシアの植民地になるのは全然OKよという、後年の大韓民国政府が完全否定したくなるようなことをやってのけます。

格下の大日本帝国が嫌がることすれば、それでよしという浅はかな考えから、朝鮮をロシアの植民地としようとしたようです。

 

卑劣な朝鮮王朝の立ち回りに振り回され、日露戦争に突入する大日本帝国

こうなると、一歩も後に引けなくなったのが大日本帝国
ロシア大使館だけでは、イケイケ状態の大日本帝国の恫喝を排除し難く、1898年に高宗は、日本に朝鮮領内の鉄道敷設権を与えることで、大日本帝国を引きさがらせることに成功します。
もちろん、後程、ロシアが大日本帝国を退治するという密約を結んでのことですが。

ここらへんの朝鮮王朝の卑劣な立ち回りは、後の韓国大統領、朴正煕が、

「四色党争、事大主義、両班の安易な無事主義な生活態度によって、後世の子孫まで悪影響を及ぼした、民族的犯罪史である」
「今日の我々の生活が辛く困難に満ちているのは、さながら李朝史の悪遺産そのものである」

「今日の若い世代は、既成世代とともに先祖たちの足跡を恨めしい眼で振り返り、軽蔑と憤怒をあわせて感じるのである」

と痛烈に批判しています。

たいへん真面目で実直な国民性のロシアは、朝鮮との密約をうやむやにすることなく、1904年、日露戦争で日本退治を実行します。

日本を植民地化することは困難でも、最低でも朝鮮を手中に収めることができれば、充分な成果があるということで。

しかし、あろうことか、ロシアは日露戦争で負けてしまいました。
当然、朝鮮のロシアの属国になる約束は反故となります。

高宗は日本から逆襲されますが、日本も閔妃殺害はやりすぎだったと反省していたこともあり、高宗の王位剥奪で鉾を収めることになります。

 

やっと敷設可能となった朝鮮鉄道。次なる敵は大蔵省

さて、朝鮮鉄道、いわゆる京釜線は、すったもんだの末、ようやく鉄道を敷設できることになりました。

そこで、いざ建設しようという段になって、時の大蔵省より、
「朝鮮如きに、帝国本土でも採用できなかった国際標準軌の鉄道などけしからん。軽便鉄道でもぜいたくだ。本当に鉄道は必要なのか?」
という、ちゃぶ台返しのクレームがつき、現場は大混乱。

ただでさえ、赤貧状態の大日本帝国の国家予算。
さらに、日清・日露戦争で戦費が嵩み、スッカラカンだったことがそもそもの原因。

莫大な犠牲を払って日清・日露戦争を戦ってまで朝鮮鉄道のお膳立てをした陸海軍、元老も、揃いも揃って、引くに引けない状況だったから、大蔵省に怒りが大爆発。

金がない大蔵省の事情もわからんではないが、コレだけは引くに引けんということで、軍部と後藤新平あたりの鉄道広軌化論者が結託して、
軽便鉄道欧亜連絡とは笑止千万」
と、斜め上の高飛車な論戦を展開。

本当は、中国までの物資輸送が便利になればそれでよかったのだけれど、シベリア鉄道に対抗する欧亜連絡が必要というところまで超絶大規模な話をぶち上げ、かつ、軍部に物申せなかった当時の大蔵省を軍部とつるんで威嚇するという作戦。

最悪、軽便鉄道でも中国まで通せれば御の字と、当時の軍部も元老も考えたようです。

 

どうせやれんだろう、やれるならやってみろと、大蔵省は開き直る

この作戦に対し、どうせやれんだろう、やれるならやってみろと、大蔵省は、大ボラそのまんまの国際標準軌の立派な欧亜連絡鉄道を作る予算をとおしてしまいました。
国会で決めた予算案も、使えなければタダの議事録にすぎません。
大蔵省のねらいはそこ。
意地でも立派な欧亜連絡鉄道を作る必要に迫られるという予想外の事態に、朝鮮鉄道建設の現場は、大混乱。

それでも、やりきってしまうあたり、戦前の人々は偉かったのでありました。

そのせいで、釜山駅は、1910年欧亜連絡(アジアとヨーロッパを結ぶ鉄道)の立派な玄関口として建設されることになってしまいました。
最低でも、東京駅の設計者として有名な辰野金吾先生にお願いせんと収まらんということで、釜山駅も辰野金吾に設計を依頼。
釜山駅は、朝鮮最大の駅として、贅を尽くして建設することになってしまいました。

京釜線は1905年に開通していたのですが、贅を尽くして建設することになってしまった釜山駅の竣工が間に合わず、現在の釜山駅の位置にあった草梁駅を終点としていました。
で、ようやく1908年に釜山駅開業。
といっても、釜山駅の駅舎はまだまだ工事中。
東京駅の設計者として有名な辰野金吾の凝った設計だったがゆえに、そう短期間に建設できるはずもなく、1910年にようやく竣工しました。

 

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釜山桟橋駅 会計検査対策という本音がにじみでた駅、というか発着所という趣き。釜山駅からの撮影。左手の渡り廊下で釜山駅とつながっている。

 

会計検査対策という本音がにじみでた変な駅・・・釜山桟橋駅

大蔵省との経緯があったので、欧亜連絡の建前上、釜山港の埠頭に釜山駅を隣接させるという設計は絶対でした。
1913年、釜山港第一埠頭を建築し、連絡船から直接列車に乗車できるように釜山桟橋駅が開業。
関釜連絡船は基本的には一日2便で、これに連絡する釜山発の優等列車は、釜山駅通過の釜山桟橋駅発着。

ただ、駅の名前こそ違えども、釜山駅から釜山桟橋駅までは歩いて3分程度の距離。
そのため、釜山駅に釜山桟橋駅の改札も併設されていて、桟橋駅までは連絡通路でつながっていました。こういう中途半端な設計がまかりとおったのは、朝鮮鉄道を国際標準軌で建設するための言い訳なんだからしょうがない。

案の定、終戦の1945年には、会計検査がなくなったので、釜山桟橋駅(廃止時は釜山埠頭駅)は即刻廃止になりました。

こうして、釜山駅は、気の遠くなるようなスッタモンダの末、完成し、現在に至るのですが、1948年、大韓民国の所有になってからもさらに流転を続けます。

 

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現在の釜山駅周辺の地図
この地図には、現在頓挫している現釜田駅への釜山駅移転計画が記されている。

 

釜山駅は大韓民国の所有となり、釜山大火で全焼。焼け落ち、復旧もままならず。

1945年、関釜連絡船、博釜連絡船運航停止。
日本との国交断絶により、京釜線の末端である釜山駅は盲腸線と化し、発着効率の悪さだけが問題として残ってしまいました。

辰野金吾の壮大な釜山駅の駅舎は、大韓民国の国威の象徴として大切にされ、なんとか朝鮮戦争には耐えたのですが、李承晩大統領の時代、1953年11月27日に発生した大規模な都市火災(釜山大火)で全焼。焼け落ちてしまいました。

釜山駅の駅舎は、元通り復旧したかったそうなのですが、その当時の大韓民国には、壮大な釜山駅を復旧する財力はなく、放置するのも危険な状態だったので、泣く泣く取り壊しが決定。

日本人が作ったものを復旧することすらままならない。
これは、韓国人にとって、心底屈辱的な出来事であったようです。
その時の遺恨がよほど強かったせいか、現在建設される韓国の鉄道駅や旅客ターミナルは、宮殿のように、ことごとく壮大かつ豪勢な設計になっています。

釜山駅復旧にあたって、かねてより問題だった長編成列車発着への対応と、発着効率改善を図るため、草梁駅の位置に移転したうえ、簡素で実用本位な駅舎を建設し、現在の釜山駅としました。

 

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釜山駅2代目駅舎(旧草梁駅)
1階が優等列車、2階が緩行列車の待合室と改札だったが、緩行列車の発着が釜山鎮駅に移ってからは、優等列車の待合と改札も2階で行うようになった。(1階でもできたけど狭かった)

 

盲腸線という構造ゆえ、乗降客の爆発的な増加に対応できず

さて、移転後の釜山駅ですが、そもそも盲腸線のため、朝鮮戦争後の乗降客の爆発的な増加に対応できず、発着列車の交換作業に重大な支障をきたすようになり、緩行列車の発着は釜山鎮駅へ移転後、線形のよい釜田駅へさらに移転しています。
釜山駅を線形のよい釜田駅の位置に移転する必要性が議論されるようになったのもこの頃で、釜山駅の移転話はかなり本格的なものでした。

 

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釜山駅2.5代目駅舎
釜山駅2代目駅舎の建物の外側に屋根とガラスの壁を建設。この外観は、ハリボテ。
そもそも、この改修作業が行われた時期、釜田駅の位置に釜山駅を移転する話が本気で検討されていたため、韓国鉄道公社に本格的な3代目駅舎を作る計画はなかった。
本当は、韓国鉄道公社はこのハリボテも作る気はなかったそうであるが、釜山駅を、初代の辰野金吾の壮大な釜山駅の駅舎に勝る駅にすることは、韓国政府の悲願であったらしく、廃止する予定の釜山駅に金を掛ける気のさらさらなかった韓国鉄道公社とスッタモンダの末、政府の意向を汲んで外観だけは立派にしたということらしい。

2004年、KTX開業。
それまでの駅建物の外側に屋根とガラスの壁を建設。
新釜山駅建設までの暫定措置として、見かけだけは新しい駅になるように改装しました。

KTX開業後、列車の発着数が大幅に増加。
再び列車交換作業に重大な支障をきたすようになり、2007年には交換作業中、釜山駅KTX列車衝突事故が発生しています。

 

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釜山駅KTX列車衝突事故
釜山駅の構造上、起こるべくして起った感のある事故であった。
時速約30kmの衝突事故であったため怪我人はなかったが、重い機関車同士の衝突だったので、グシャっといってしまった。事故1発で、高価な機関車2台を潰したという点で、悲惨な事故であった。だから韓国鉄道公社は現在の釜山駅が嫌いらしい。

最近、駅裏の釜山港国際旅客ターミナルが絶好調で、京釜線への乗り継ぎも多いため、京釜線盲腸線状態が解消されつつあり、釜田駅の位置に釜山駅を移設する計画は10年以上経った現在でも実現していません。