大韓民国観察記

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

ソウル駅

ソウル駅。KTX開業を機に建設された巨大なガラス張りの駅舎と、贅は尽くしているものの、こじんまりとした赤レンガ駅舎の対比が面白い。現在の韓国の経済力と、戦前の日本の経済力の差がこれだけあるという対比でもある。ソウルシティーエアターミナルが地下にあり、韓国系航空会社を中心に、事前チェックイン、預託荷物の預かり、事前出国審査が可能である。ここで飛行機をチェックインした場合、空港鉄道で仁川国際空港に行かなければいけないルールがある。

 

揉めに揉めた朝鮮首都駅構想の跡が色濃く残る駅

日本では、火災の原因になると嫌われた鉄道であったがゆえ・・・

そもそも、朝鮮に鉄道が通った背景には、大日本帝国による朝鮮の植民地化政策がありました。

朝鮮の植民地化政策は、一事が万事、一筋縄ではいかず、朝鮮の首都駅の設置については特段の配慮がなされたが、それでも、揉めに揉めたのでありました。

鉄道は、それまで旅程に1ヵ月はかかったソウル−釜山間の旅行を、たった1日に短縮する革命的な技術でした。

しかし、蒸気機関車によって牽引される列車しかなかった当時、モウモウと黒煙を吐き、火の子を撒き散らし、当時としては破格の大音響である汽笛を鳴らす蒸気機関車に対し、『火災を誘発する』『空気を汚す』『騒々しい』と、敷設者たる大日本帝国内部ですら根強い否定的な意見が多かったのでした。

特に明治政府は、徳川将軍から接収し、宮城とした絢爛豪華な江戸城を、明治6年5月には早々と火災で丸焼けにしてしまうという大失態を演じていました。
その後、皇居では、江戸城レベルでの建物の整備は行われず、現在に至っています。

モウモウと黒煙を吐き、火の子を撒き散らす蒸気機関車が火災から再建中の宮城のそばに通すなどということはありえませんでした。
こと、こういう人の感情の機微に人一倍敏感であった西郷隆盛などは、危ない鉄道など、ほどほどにしておいて、安全な蒸気船で国内交通網を整備すべきとさえ言っていました。

大日本帝国の首都駅が、東京のいちばん外れに設置された新橋駅となり、大正期まで東京駅の設置が遅れに遅れたのは、明治政府内部に、モウモウと黒煙を吐き、火の子を撒き散らす蒸気機関車に対する相当な忌避感が存在したためでした。

 

朝鮮首都駅は、漢江の北岸で、かつ、王宮から最も離れた場所、龍山に決定

朝鮮鉄道の敷設においても、この点は非常に真剣に考慮されました。
朝鮮首都駅の設置については、漢江の北岸で、かつ、王宮から最も離れた現在の龍山の地が選定されました。

ここが、初代の朝鮮首都駅。
実質、初代ソウル駅といって差し支えありません。

ここは、完全な未開発地であり、王宮との間に南山があるため、王宮の住環境を悪化させる心配も皆無でありました。

そもそも、欧米諸国では、王宮と駅は離れているものだったので、これでよしということになりました。

1900年に、大型の蒸気船が接岸可能な仁川港と首都を結ぶ京仁鉄道が敷設され、朝鮮首都の近代的な物資輸送体系が整備されると、龍山の首都駅を起点として、1905年に京釜線、翌1906年には京義線が開通しました。

 

大韓帝国皇帝(朝鮮王)は、王宮を鉄道の起点としないのはおかしいと激怒

さて、京仁鉄道建設中の最中のことでありましたが、時の大韓帝国皇帝、高宗が工事現場を視察しています。

鉄道をいたく気に入ったとのことでありましたが、朝鮮首都駅を龍山に設置しようとしているということについて、京仁鉄道に相当な不満をぶつけたのだそうです。
「鉄道のような先進物を、王宮を起点にしないとはなんたること」
と激怒したということなのであります。

そういわれてみれば、確かにそうなのであるけれど、うっかり王宮を江戸城のように丸焼けにするわけにはいきません。

そこで、窮余の策として、龍山の朝鮮首都駅から支線を王宮の隣まで敷設し、末端を駅としました。
末端の王宮駅は西大門駅と称し、仮設の駅舎を建設。

本格的な王宮駅とは、どのように整備すべきかは宿題として、時間をかけて研究していくこととしました。

「鉄道のような先進物を、王宮を起点にしないとはなんたること」
という高宗の激怒は、なるほど一理あって、日本で真剣に検討されました。
その結果、日本の鉄道こそ宮城を起点とすべきではないかという意見にまとまりました。

その結果作られた首都駅が東京駅。
現在、東京駅が皇居の真正面にあるのは、日本の鉄道は皇居を起点とするという考えに基くものです。

 

王宮駅(西大門駅)設置のドサクサで誕生した現在のソウル駅(南大門駅)

朝鮮の王宮駅に関していえば、火災を懸念し、蒸気機関車を西大門駅に常備させたくなかったので、手前の南大門前に南大門駅を設置し、必要に応じて列車を西大門駅に押し込むようにしました。

そのかわり、一般民衆用には、龍山の朝鮮首都駅から景福宮の前を通り、鐘路を通り、東大門に達する路面電車を建設。
実質、首都内への連絡交通は路面電車が引き受ける形となりました。

なお、このドタバタ劇の最中、1910年、日韓併合により首都漢城(ハンソン)が京城(けいじょう)と改称されました。

この日韓併合が南大門駅の運命を変えました。

 

開業時の南大門駅。やっつけ仕事感ありありの粗末な駅舎。この駅を朝鮮の首都駅にするという目論見は、当初まったくなかったということがわかる

 

たまたま絶好の場所に立地していた南大門駅を新たな京城府中央駅にすることに

1910年頃といえば、日本の新橋駅では、列車の発着する旅客用ホームが圧倒的に不足するという問題が起きていました。

機関区と貨物駅が同居する関係上、頭端式ホームが1本しか設置できず、列車の発着本数が増やせないという問題を起こしていました。

さらに、天皇が列車に乗るということも増えてきたのですが、天皇が新橋駅を使用するときは頭端式ホームが1本しかないので、駅を貸切にして一般客を排除しなければならず、さらには、東京の外れにある新橋駅の立地では、儀礼的側面が重要視される首都駅としては問題が大きくなってきました。

これは、龍山の朝鮮首都駅も同様で、容量不足が深刻でした。

しかし、それ以上に問題だったのは、駅の正面に日本軍の陸軍基地がある(現在は在韓米軍龍山基地となっている)という点で、儀礼的側面が重要視される首都駅としては問題が大きすぎました。

このため、日韓併合を機に、たまたま絶好の場所に立地していた南大門駅を新たな京城府中央駅として大改造することになりました。

 

韓国の左翼運動家は、日本人が韓国を侵略したうえ、収奪し、ソウルをメチャクチャにしたと主張するが、そのような資料は残っていない。鉄道建設にあたっても、既存の朝鮮人居住地との共存が最大限考慮されており、むしろ王宮横の西大門駅の設置を渋っているくらいである。日本人町も、当時荒廃していた乙支路周辺に建設されている。ただ、朝鮮における日本軍の暴走傾向は目に余るものがあって、日本軍が龍山に駐屯したのはさすがに、やりすぎ感が大きかった。当時の大日本帝国内部の知識人層を中心に異論は多かった。それゆえ、駅前に日本軍の駐屯地のある龍山駅は、京城府中央駅にはなれなかった。

 

現在も残る赤レンガの駅舎が、辰野金吾の弟子の設計により建設される

1922年に入ると、新駅舎の建設工事が始まりました。

設計は、東京駅、釜山駅設計で実績のあった辰野金吾の弟子の東京帝国大学教授・塚本靖。
当時、一等国であることを欧米に誇示するため、東洋的なデザインを極力排し、純西洋的デザインの建物が好まれましたが、この設計では第一人者でした。

そして1925年、現在も残る赤レンガの駅舎が竣工しました。
これにあわせて、南大門駅は、京城駅に改称されています。
実質、二代目ソウル駅といって差し支えありません。

 

京城駅。なんにもないところに、この赤レンガの駅舎がぽつんとあったわけだが、この駅舎のすぐ正面が南大門だったので、首都駅にふさわしい風格があった

 

京義新線の敷設などを経て現在の形になる

京城駅となり、満州方面の国際列車を扱うようになると、京城駅−龍山の旧首都駅間のスイッチバックが運行上の多大な障害となってきました。

そこで、旧王宮駅であった西大門駅までの線路を活用し、1921年、京義新線を敷設。
京城駅を京義線上の通過駅としました。

併せて、京城駅−龍山の旧首都駅間は京釜線編入
龍山の旧首都駅は、龍山駅としました。
もともと龍山の旧首都駅は、龍山駅と呼ばれていたので、それが追認された格好となっています。

 

日本の敗戦により、「ソウル駅」誕生

多くの文献では、ソウル駅誕生を1947年11月1日としているが

1945年、日本の敗戦により、京城(けいじょう)が京城キョンソン)と改称されました。
これに伴い京城駅(けいじょうえき)が京城駅(キョンソンヨク)に、なし崩し的に変更されました。

戦後、大韓民国建国前の1946年8月15日、所属国家がとりあえず大日本帝国の(実質はGHQが統治している)京城府(キョンソンフ)により出されたソウル市憲章により都市名「京城府」は「ソウル市」と改称されました。
京城駅から「ソウル駅」への改称は1947年11月1日になります。
これも、大韓民国建国前のことです。

 

赤レンガ駅舎の裏には跨線橋が伸び、各ホームを連絡していた。実は、これとは別に、ホームから直接駅前広場に抜ける地下通路もあった。跨線橋は乗車客が使用し、地下通路は降車客が使用していた。

 

外見はよかったけれど、多くの人に苦労を強いたレンガ駅舎

ソウル駅は、基本的に、レンガ駅舎の東口しかありませんでした。
ソウルの西部の京義支線(龍山線、新村連結線、唐人里線等)行き列車に乗るための通用口として、例外的に、1957年にソウル駅の西に駅舎が新設されてはいましたが。

乗車と降車は通路が別で、乗車の時はレンガ駅舎を通りますが、降車の時は、地下通路を通って、レンガ駅舎の外に直接出ます。

列車出発直前の改札時間にならないと、レンガ駅舎から駅に入れないシステムとなっていたので、レンガ駅舎前の広場は、改札待ちの乗客で慢性的に混みあっていました。

真冬の寒いときであっても、真夏の炎天下であっても、雨の日でも風の日でも、改札時間にならないと、レンガ駅舎から駅に入れませんでした。

これは、鉄道切符の発券が少なすぎて、切符の入手が難しいこととあいまって、大問題でした。
なんとか鉄道の代替手段がないかという話は常々あって、ならばと、市外バス、高速バスが運行されるようになり、韓国の交通手段の主流は鉄道からバスへと転換していったのでした。

改札待ちの人々。この時代、韓国の鉄道は、改札時間にならないとプラットホームに入れなかった。プラットホームに自由に出入りできると、回送車と接触するリスクがあるほか、停車中の列車内でスリ、置き引きが頻発するという問題があったからである。真冬の寒いときであっても、真夏の炎天下であっても、雨の日でも風の日でも、改札時間にならないと、レンガ駅舎から駅に入れなかったので、駅前広場はいつもこうだった。韓国の人々が鉄道が嫌いになる原因はここにあった

 

北朝鮮を大幅に下回る悲惨なソウル駅の接客設備を改善するため、橋上駅舎化

ようやく、1988年ソウルオリンピックに合わせて、ソウル駅は橋上駅舎化され、悪名高かったレンガ駅舎の改札口は廃止され、橋上駅舎の中で列車を待つことができるようになりました。

東口のレンガ駅舎は、切符売場として引き続き使用されましたが、レンガ駅舎左翼に橋上駅舎へ直行できる抜け道が新設され、ソウル駅を利用する人々は専らこちらを使用していました。

とはいえ、橋上駅舎は、増設された切符売場で窓が塞がれ、なんとも暗ぼったい場所でした。

橋上駅舎内には特に椅子もなく、外で待たされるよりはなんぼかマシになったものの、相変わらず立ち客で溢れかえっていました。
あまりにひどいので、軍人専用の待合室が特別に用意されていたほどです(今も残っているが)。

 

待望の橋上駅舎化により、駅前広場の人だかりは解消した。ソウルオリンピック開催を理由とした特別整備であった。どうせ外国人はソウル駅には来ないだろうという割りきりがあったかはどうかは知らないが、内部は低水準の仕上がりであった。1990年代後半、韓国ドラマブームで、日本人観光客が大挙して押し寄せたとき、韓国語ができない日本人が、韓国語しか話せない職員のいる切符売場に殺到し、韓国人職員を大いに狼狽させて、大問題となった。このときは、大韓民国の首都駅であるソウル駅たるもの、外国人対応ごときを、まともにできんでどうする?ということで決着したようである

 

旧橋上駅舎の中。昼でも暗かった。お店にでも入らなければ、座る場所はなかった。韓国人の間でも、旧橋上駅舎に関する思い入れはほとんどないらしく、旧橋上駅舎の資料は極めて少ない。2003年に新しいガラス張りの橋上駅舎ができると、さっさと壊されてしまった

 

現役最晩年の赤レンガ駅舎。外観はなるほど綺麗であった

 

中には大きな太極旗があり、天井には大韓民国の国章が描かれていた

 



100年間使い倒された感はハンパではなかった



相変わらず悲惨なソウル駅の接客設備を改善するため、ガラス張りの橋上駅舎を建設

2003年、KTX開業を機に、相変わらず悲惨なソウル駅の接客設備を改善することとなり、現在のガラス張りの橋上駅舎が旧橋上駅舎のさらに南側に新設され、旧橋上駅舎はロッテマート駐車場に改装されました。

新駅舎が南側に張り出すことになった理由は、ソウル駅のすぐ北側に、韓国鉄道公社の本部があるためです。

 

KTX開業を機に改修されたソウル駅。赤レンガ駅舎を完全な形で保存するため、新設された駅舎がいびつな構造になってしまったが

 

駅舎がガラス張りとなったのは、旧橋上駅舎が、あまりにも暗くてみすぼらしかったからである。ソウルの各バスターミナルでは1980年代にはとっくに解消されていた発車時間までの待ち合わせ場所がないという問題は、ソウル駅では2003年にようやく解消されることとなった

 

プラットホームはヨーロッパの巨大駅を思わせる立派なものになった。目立たないところでは、従来、降車用通路に使っていた地下通路が閉鎖され、降車客も駅舎を経由して外に出ることができるようになった。2003年のKTX開業以降、プラットホームに自由に入れるようになり、プラットホームで列車を待つことは可能になったが、韓国人の場合、昔からの習慣で、発車案内があるまでプラットホームに入らないのが普通である。長編成のKTXでは、ホームに出てから歩く距離が長いため、これが原因で出発遅延が起こることがよくある

 

文化財として保存されることになったレンガ駅舎

レンガ駅舎は、駅としての役割を終え、完全に使用されなくなりました。

保存建物として保存しようとしたのだそうですが、100年間使いっぱなしで、建物内部が大幅な改造の繰り返しで荒れ放題だったので、時間をかけて復元工事をする必要があったのだそうです。

なお、京釜線・湖南線・全羅線・長項線などの長距離列車はすべてソウル駅始発で運行さていましたが、2004年のKTX開通後は、線路容量の問題で、全列車をソウル駅発着で運行することができなくなり、湖南・全羅・長項線の始発駅を過去の経緯を鑑みて、初代首都駅である龍山駅発着に変更となりました。

 

復元工事の完了した赤レンガ駅舎。壁に設置された看板、ATM、売店、後付けされた電気配線などを丁寧に撤去し、無粋な太極旗、天井に描かれた国章の天井画も撤去された。吊り下げられていたボロっちい電球はどこへいったんだろうか。現役時代を知っている私からすると、おや、なんと、まあ、きれいな建物だったんだと、すごく驚いた

 

こちらも、現役時代は切符売場があって、なかなか無残だった一角。現役最晩年には自販機が置かれていた。現役時代の鉄格子の切符売場は後付けだったみたいね。後付けの施設を全部撤去したらこんな具合。もともとの切符売場は、こんな綺麗だったんだ