大韓民国観察記

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

鐘路 (チョンノ )

ソウルの繁華街が江南に移った現在はさほどではないが、この街が建設されてから500年間、中心街であり続け、多くの人で賑わった。写真右側に一部写っている普信閣(鐘閣)のあるこの交差点が、ソウルの伝統的な中央である

 

普信閣(鐘閣)の向かいにある鐘路タワー。サムソンが1990年代に建設したショッピングセンターであるが、開業前に資金が尽きて、開業できず、国税庁に没収された。その関係で、長らく韓国国税庁であった。最上階には、サムソン系列のレストランがあったが、ボッタクリ価格のメニューで有名で、ー度行ったら二度と行かない場所としても有名だった。

2010年頃からの再開発の及んでいない益善洞韓屋通りの路地裏には、隠れ家感覚のオシャレな店が多数ある。

韓国雑貨店が集中する仁寺洞も、鐘路 の一角にある。

 

鐘路周辺には、観光地が集中する。全域が地下鉄1号線沿線で、鐘閣駅から東大門駅の間にある。タプコル公園周辺の屋台街のように、ボッタクリ多発地帯があったり、乙支路道具屋街のように、日没とともに危険地帯と化す場所があったりするため、場所によっては注意が必要。広蔵市場は朝から夕方、東大門市場は夕方から明け方にかけてが営業時間。

ソウルの中心街  鐘路 (チョンノ )

起源は、朝鮮王朝の都、漢城の中央に、なぜかこだわった初代王、 李成桂

鐘路 (チョンノ )は、光化門交差点から東は東大門市場に至る大通りの名前ですが、伝統的に、この大通り沿いの地域を呼ぶ際にも、鐘路 (チョンノ )といいます。
鐘路の名前の由来は、この大通りの西寄りに、朝鮮の都、漢城の中心を示す鐘閣(普信閣)があることに由来します。

朝鮮王朝の都、漢城は、中国の都を範としただけあって、日本の平城京平安京と同様、王宮は都の北の端にあり、都の中心に王宮はありません。
都の中心に王宮を設置すると、上下水道がなかった時代、周囲の人家から汚物が流入し、王宮の衛生を保てなかったという理由からでした。

さらに、王宮の門を入ってすぐのところに、王宮内部と外部を隔てる川が流れていました。
これも、王宮に外部の悪い気を王宮内部に流入させないための陰陽道にもとづく工夫でした。

そういうわけで、都の中心というと、特別汚い場所になることはあっても、さして重要な場所ではありませんでした。
ちなみに、日本の平城京平安京では、都の中央を示す建造物は特にありませんでした。

しかし、朝鮮王朝初代王『太祖(李成桂)』は、都の中央を示す建造物がないことをたいへん気にしました。
この人は、朝鮮民族にはめずらしく、性格的にはかなり細かい人で、自ら造営した都に中央を示すものが必要だと考えました。そこで設置されたのが鐘閣(普信閣)です。

 

ソウルの中央を示す鐘閣(普信閣)の役割

通常、城門に置く都中に時刻を知らせる鐘を、都の中央を示すものとして設置した鐘閣(普信閣)に置きました。
城門に置く鐘を都の中央にもってきたという経緯があったものなので、特に重要視されたのが、都の城門の開門と閉門を知らせる鐘で、開門は午前4時に鐘を33回打って城門を開き、午後10時に28回打って門を閉めていました。

鐘閣(普信閣)は、現在のソウル市のなかでは、かなり北寄りの位置になりますが、ソウルの伝統的な中心という位置付けになります。

 

ソウルの中央を示す鐘閣(普信閣)。それほど大きな建物ではない

地域としての鐘路の範囲

地域としての鐘路ということについていうと、光化門交差点から宗廟あたりまでを鐘路と言い、鐘路沿いでも、広蔵市場以東は、地名こそ『鐘路五街(チョンノ オーガ)』ですが、鐘路区に住む地元民は、通常、鐘路とはいいません。

これは、朝鮮王朝時代、光化門交差点から宗廟あたりまでが両班(貴族)階級の居住地だったのに対し、広蔵市場以東は、中人以下の居住地だったことに由来します。

鐘路は、日本の植民地時代でも、朝鮮人居住地として、日本人の入植が制限されており、朝鮮人居住地域の中心街として発展した経緯があって、やはり、プライドが高い。

 

朝鮮王朝の時代でも、貴族階級の街だっただけに小綺麗で、昔から鐘路は大通りだった

日本の植民地時代に入って、街は洋風化されたが、この界隈への日本人の居住は、朝鮮総督府より禁止されており、朝鮮人が闊歩する街であった。というのも、当時、国家予算の貧弱な大日本帝国は、植民地として朝鮮を面倒みるだけの財力はなく、朝鮮王族と皇室との婚姻を通じて親日国化を図り、再独立させる構想があったから、朝鮮人アイデンティティーを守る必要性があったからである。しかし、朝鮮に駐屯していた陸軍の横暴な振舞いが、この計画を頓挫させてしまうことになった。

朝鮮王朝歴代王の墓所。宗廟。このあたりまでが街としての鐘路。これより東は鐘路とはいわない。

広蔵市場は、朝鮮王朝時代から続く伝統市場。鐘路五街にあるが、伝統的に鐘路界隈には含まれない。朝鮮王朝、日本の植民地時代、大韓民国時代の3つの時代をまたいだまさに伝統市場。罪刑法定主義の原則によれば、現在の大韓民国の法律は、朝鮮王朝時代にできたこの市場には適用できない。ゆえに、事実上、無法地帯であり、ソウルの魔界として知られる。ただし、広蔵市場の掟はたいへん厳しく、市場外で韓国の法律に則って商売する方がはるかに楽らしい。

 

鐘路区の横暴は、ソウルでは比較的有名

この影響で、鐘路の東の端にある東大門は、長らく東大門区に所属しておりました。
しかし、ソウル旧市街を鐘路区とするという鐘路区の方針から、東大門をよこせと東大門区とかなり無茶な交渉が行われました。

『東大門』の名前を冠する東大門区から東大門がなくなるというのは、さすがに筋が通らない話しだということで、大いに揉めたそうですが、東大門が鐘路区に所属するようになりました。

 

鐘路の東端にある東大門。なぜか鐘路区にある。後方のビル群は、東大門市場のファッションビルである。東大門市場のファッションビル群は、現在は中区に属し、こちらも東大門区とは関係がない。

 

鐘路区は韓国の反日運動のメッカでもある

鐘路区の横暴ということについては、ソウルのなかでは比較的有名ですが、横暴はソウル市内の案件にとどまらず、日本相手にも多々存在します。
現在でも、鐘路は反日運動の中心的役割を担う地域であり、街の掲示物においてもかなり反日色が強いです。

タプコル公園(通称:パゴダ公園)。名前の由来である仏塔は、現在、ガラスケースに収められている。ここが反日運動のメッカ、聖地である。1919年3月1日に、ここで三・一独立運動が行われた。現在の韓国の反日運動家の多くは知らないが、ここで読み上げられた「独立宣言」は、大日本帝国政府の朝鮮再独立計画に概ね則ったもので、これがゆえに、北朝鮮政府は三・一独立運動親日的敵対行為として断罪している。かねがね日本国内でも議論されていた朝鮮再独立計画や朝鮮自治論に反対であった大日本帝国陸軍は、三・一独立運動を口実に朝鮮で大弾圧を行い、朝鮮再独立計画を潰しにかかった。

三・一独立運動の碑。このすぐ横に「独立宣言」が書かれているが、当時、国家予算の逼迫を背景に、日本国内でも議論されていた朝鮮再独立計画や朝鮮自治論と内容的に大差はない。

タプコル公園で将棋をする人々。これは、三・一独立運動から続く伝統で、ここで、将棋をして時間を潰すこと(将棋を差し続けること)が愛国的活動である。韓国の正統的な反日運動とはこういうものである。1919年に、ここで読み上げられた「独立宣言」にも、慰安婦像のまわりでシュプレヒコールをあげるような行動は、民族の品位を貶める反民族的行動であると書かれている。

じいさんが帽子をかぶっているのは、男子は冠(カッ)をかぶらなければならないという朝鮮王朝の伝統に則ったもの。ただし、タプコル公園に来るような、うるさ方のじいさん以外は、帽子をかぶって外出する人は稀。

 

日本人バックパッカーを最初に受け入れた街 鐘路

ただし、普段から鐘路の住民が日本人に対していろいろ嫌がらせをしてくるかというと、ぜんぜんそんなことはありません。

むしろ、日本人観光客に対してたいへんフレンドリーであったことから、鐘路が観光地として一躍脚光を浴びることとなりました。
これは、1948年以降、大韓民国になってからの鐘路の歴史によるところがたいへん大きいことによります。

 

貧弱なソウル駅の代わりに、バスターミナルとして発展した鐘路

ソウル駅の旅客設備が悲惨なほど貧弱であったため、交通の障害となっていたことをきっかけに、なし崩し的に長距離バスによる移動が発達するようになりました。

このとき、多くの長距離バスが、鐘路をソウル側の発着点としました。

道幅が広く、整備の行き届いた鐘路が、そのままバスの発着場として利用されました。
鐘路にはソウル市電が走っていたこともあり、長距離バスからソウル市電に乗り換えるうえでもとても便利でした。

鐘路にソウル地下鉄1号線が整備されたのも、長距離バスから鉄道へスムーズに旅客を乗り継がせることが目的でした。

 

韓国随一のバスターミナルとして機能していた鐘路

 

東大門高速バスターミナル。このバスターミナルのすぐ横に、広蔵市場の場外市場が、夜間営業の形態でオープンしたことが東大門市場のはじまり。高速バスは今も昔も昼行ONLYのため、ソウル滞在の時間を有効に使える夜間営業の市場の存在価値が高かった。1980年頃、道路拡幅及び地下鉄4号線工事に伴い、江南の高速バスターミナルに移転し、現在は道路になっている。隣接する東大門総合市場ビルは健在。江南に高速バスターミナルが開業する前は、ソウル各地に高速バスターミナルが分散していた。

 

韓国初の地下鉄建設工事。現在のソウル地下鉄1号線。よど号ハイジャック事件に対する全面的協力の見返りとしての日本の資金援助で施工された。この影響で、ソウル地下鉄1号線だけは、日本の鉄道同様、左側通行になっている。バスが多いのは、鐘路が市外バスターミナルとして機能していた関係

 

大韓民国成立後の大混乱、朝鮮戦争に伴うソウル焦土化を経て、鐘路にあった両班(貴族)の住宅は消失し、ここに、バスの乗降客を見込んだ数多くの旅館、料理屋が集まってくることになりました。

長距離バスの発着は、24時間ひっきりなしであったことから、鐘路の歓楽街は不夜城ともいわれるようになりました。

 

鐘路のすぐ裏通りには、旅館や料理屋の並ぶ歓楽街が2010年頃まであった。

 

1980年代、ソウル郊外に総合バスターミナルが建設され、長距離バスの発着は移っていきましたが、入れ替わるように国外からの観光客、特にバックパッカーが、鐘路にあった旅館、料理屋を利用するようになりました。

鐘路再開発が始まる2010頃までは、外国人バックパッカーを、鐘路の旅館、料理屋が一手に引き受けていました。

日本で売っている旅行案内書では、未だに鐘路の旅館が数多く掲載されていますが、これはこの時代の名残りです。

2010頃から始まった鐘路再開発で、鐘路は歓楽街から、高層ビルの建ち並ぶビジネス街へと変化しつつあります。
路地裏の小汚い韓式旅館や、料理屋は、軒並み取り壊され、無機質な高層ビル街と変貌しつつあります。

 

鐘路再開発で、鐘路名物が次々と姿を消す今日このごろ

単純に、街の浄化だけなら、さほど問題はないのですが、ピマッコルをはじめとする昔ながらの飲み屋街などが再開発に伴う用地買収で消滅し、ソウル名物として名高かった鐘路が発祥の韓国料理も次々と消滅していっています。

朴正煕大統領が頻繁に青瓦台に出前を届けさせたという名物のカルククスも途絶えて久しいですが、鐘路の家庭料理としてはありふれていた1年以上発酵させたムグンキムチを使った伝統的キムチチゲを食べさせる店も、2010年頃には消滅しています。

私が出会ったなかでも特に気に入っていた鐘路名物がソンジヘジャンクク(鮮血解酲국:국は具がかなり多目の濃厚な汁)で、牛骨の濃厚なダシに牛の血をゼリー状に固めた、ぷりぷりした食感のソンジが入る雑炊です。

弱った胃腸でも、すっと入るやさしさがある一方、牛の血がガツンと身体に滋養を補給してくれる頼もしい料理です。

 

牛骨のダシに、少々の臭み消しの野菜と、牛の血の塊がゴロンと入ったのが鐘路にあったヘジャンククの特徴であった。やや、北朝鮮平安道の食文化が感じられる逸品であった。写真は、イメージ的にそれに近いもの。

 

全羅道淳昌産のコチュジャンを客が好みで入れて味を完成させるところが鐘路独特の作法でした。

ソウルと全羅道淳昌の共作料理というところが、かつて、ここが、韓国中の旅行者が行き交った名残でもありました。

もともとは酔い覚ましの料理ですが、韓国に来たばかりで、おなかの調子がいまいちよくない外国人バックパッカーにも人気がありました。

第一銀行裏の路地に銘店の集まった場所があったのですが、今は高層ビルになり、跡形もありません。

ヘジャンククという料理は、地域による味付けの差異がもともと大きい料理で、ソウル市内でも、場所が変われば、味付けもガラっと変ってしまいます。
ダシも牛骨だけでなく、豚骨、鶏骨、魚介等々いろいろあって、合わせダシ系など多彩です。

鐘路特有のあの味付けは完全に失われてしまったようで、いまだ出会ったことはありません。