大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

ソウル地下鉄5号線

ソウル地下鉄5号線は全区間地下なので、車両の写真を撮ることが非常に難しい

 

漢江をトンネルで通らなければならない宿命だったソウル地下鉄5号線

ソウルの地下鉄は4号線までで一旦完結したのであるが・・・

ソウル駅から清凉里駅まで、試験線的意味合いの強い地下鉄1号線が建設されて以降、ソウルでは、開発地域を環状に結ぶ2号線。富裕層の住む地域を結ぶ3号線。庶民の町を南北に結ぶ4号線が建設されました。

これを、ソウル地下鉄第1期整備線ともいうようです。
ソウル地下鉄1号線〜4号線は、ソウル市内の地下鉄道を運営する会社、ソウル特別市地下鉄公社が運営する路線となっています。

 

地下鉄5号線は東で二股に分かれている。馬川支線は、市内バスが集中するソウル地下鉄2号線、蚕室駅前の大渋滞を緩和するため、ソウルオリンピック選手村跡の高級住宅地、夢村土城(モンチョントソン)周辺住民を蚕室を経由せず、直接江北へ誘導するためのバイパス路線として建設された。それゆえ、支線なのに、乗降客数は非常に多い。金浦空港を通っているが、停車駅数がとても多く、スピードも遅いので、空港鉄道を使ったほうが早い。

 

なぜか漢江を橋で横断することを気にするソウル市民

ところで、1980年代後半のことですが、『ソウルの地下鉄は、地下鉄とは言いながら地上を走っている』という批判が勃発しました。
漢江を横断している地下鉄2〜4号線は、漢江手前で地上に出て、橋を渡って渡河しています。
地下鉄1号線は、漢江を横断していませんが、電車の運行系統上では、京釜線に乗り入れ、橋を渡って渡河しています。
要するに、ソウルのすべての交通機関は橋を渡って漢江を横断しているわけです。
つまり、橋梁を爆破すれば、ソウルの南北交通は容易に寸断されうるということなのでした。

 

地下鉄5号線の駅といっても、ごく普通にある地下鉄の駅に過ぎないから、ぱっと見、印象は薄い

原因は、朝鮮戦争中に起きた漢江人道橋爆破事件

朝鮮戦争中『漢江橋梁爆破』ということは実際起こりました。
しかし、北朝鮮軍が破壊工作して爆破したのではなく、韓国軍が爆破しました。
漢江人道橋爆破事件がそれです。
北朝鮮軍進軍の知らせを聞いた大統領の李承晩が、水原に逃走した際、北朝鮮軍進軍の情報を隠蔽し、自分が真っ先に漢江を渡り終えると、北朝鮮軍の進軍を阻むため、漢江人道橋爆破を命令しました。

李承晩大統領の水原遷都の発表を聞いたソウル市民は、李承晩大統領に騙された、自分たちは北朝鮮軍をおびき寄せるエサにされたと、大パニックとなり、唯一の避難路であった漢江人道橋に殺到し、漢江人道橋は4000人を超える避難民でごったがえしていました。
これを、避難民もろとも爆破したため、死傷者は1000人を超えたともいわれます。

韓国軍の本隊は、板門店付近で北朝鮮軍と交戦中でしたが、漢江人道橋爆破の一報で、李承晩大統領に騙された、自分たちは北朝鮮軍をおびき寄せる囮にされたと、大パニックとなり、たちまち瓦解してしまいました。

軍事常識のある人間だったら、絶対やらないこの不祥事が原因で、韓国軍は壊滅し、韓国の敗北が決定的となってしまいました。

さらに悪いことに、京釜線漢江鉄橋も同時に爆破しましたが、こちらは装薬量の計算違いから、爆破に失敗し、北朝鮮軍は京釜線漢江鉄橋を使って韓国南部に進軍することとなり、漢江人道橋爆破事件の犠牲者は、まったくの無駄死にになってしまったのでした。

爆破された漢江人道橋と、爆破中の京釜線漢江鉄橋。京釜線漢江鉄橋は、爆破に失敗し、北朝鮮軍は、京釜線漢江鉄橋を伝って、漢江を越えて、南進した。

 

漢江人道橋は、爆破後、8年間にわたって再建されることはなく、仮設の有料橋を歩いて渡らなければならなかった。韓国の歴史教科書の挿絵には、漢江人道橋は、名前のイメージから、貧相な木造の橋のように描かれることが多いが、植民地時代、日本により建設されたものであり、れっきとした近代的な鋼製トラス橋であった。いや、李承晩政権時代の韓国は、鋼製トラス橋を架橋できるほどの経済力はなかったという反論も実はあるが、それは、李承晩の失政により、韓国は、近代から中世の生活水準にまで逆戻りしてしまったためである。大韓民国国民がロウソクを使うようになる以前は、電球を使っていたというブラックジョークがあるくらいだ。北朝鮮をみれば、このジョークが荒唐無稽ではないことがわかる。朝鮮戦争前の韓国には、日本の植民地支配中に整備した近代的社会基盤が多数残存しており、少なくとも、朴正煕政権時代中盤と見劣りしないだけの経済力はあった。

 

手前の4本束になったトラス橋が京釜線漢江鉄橋。中洲を経由して2本橋がかかっているのが漢江大橋(旧漢江人道橋)。河川拡幅工事が済んだ現在は、中洲を経由して2本橋がかかっている形だが、拡幅前は、中洲から左側の橋はなく、地続きだった。この場所に人道橋があったのは、漢江の川幅が狭い場所だったからである。京釜線漢江鉄橋は、急曲線を嫌う鉄道の特性上、人道橋と若干離れた位置にあったが、ここに架橋された理由は、人道橋と同じく、漢江の川幅が狭い場所だったからである。河川拡幅工事に伴い、延長された部分にはトラスがない。1950年6月28日人道橋爆破。1958年人道橋再建。1982年、8車線の現在の橋に掛け替えられた。

漢江人道橋復旧開通式。写真中央の老人が李承晩大統領。この人は、8年前、自分が強硬爆破して、1000人近い犠牲者をだし、韓国軍壊滅の原因となった橋の復旧開通式を盛大に挙行するずうずうしさがあった。この時のソウル市民及び韓国軍関係者の怒りと恨みは甚だしく、軍事政権の真っ最中に地下鉄5号線の漢江横断トンネルを作る原因となった。ちなみに、現在は漢江人道橋と呼ばれるこの橋だが、写真には漢江大橋と書かれている。実は、漢江人道橋という名前も、落橋中に仮設された橋の名前かなにかで、正式な橋の名前としては実際には存在しなかった可能性がある。

 

そりゃあ、ソウル市民が漢江人道橋爆破事件をしつこく恨まないはずはない

韓国人は、日本の植民地統治をあれだけ恨みに思う国民でありますから、非常識極まりない漢江人道橋爆破事件に至っては、恨み骨髄に達すの域にありました。

とはいえ、李承晩大統領(『あの馬鹿野郎』と年配のソウル市民は未だに言う)に言っても、逆に虐殺されるのがオチなので、韓国がソウルオリンピックを誘致できるまともな国家となるまで、皆、黙っていました。

1980年代後半というと、朝鮮戦争経験者が30歳代、40歳代の時代ですから、漢江人道橋爆破事件も、まだ記憶に新しい事件でありました。

それゆえ、河底トンネルで漢江を横断する地下鉄建設は、経営上いかに無謀であろうが、技術的にいかに無謀な挑戦であろうが、韓国政府は、けじめとしてどうしても建設しなければならないものだったのです。

第二次世界大戦中、日本軍は関門トンネル建設の予備試験として、韓国に海底トンネルを何か所か建設していました(有名なのは統営市の統営海底トンネル)。
韓国人はその工事にも動員されていましたから、さすがに海底トンネルは無理でも、河底トンネルぐらいできんでどうする?というのがこの時代の韓国人の平均的な認識でした。

5号線沿線には、韓国人でも知る人ぞ知る隠れた景勝地が多い。東端にある夢村土城。駅の名前は「オリンピック公園」。元オリンピック会場。丘から眺めるソウルの街並みは秀逸。特に夕方のフォトジェニックな風景がたまらない。基本的に観光地ではないので、周辺の高級住宅地の住民しかいない。日没とともに人がいなくなるので、注意。写真は、有名な『ひとりぼっちの木』2代目。ヒノキ。初代はイチョウで、すぐ近くにある。現在はかなりの大木になっており、『ひとりぼっちの木』というには大きすぎるのだが。

韓国政府は、けじめをつけたかったがお金がなかった

なるほどそういうことなら、韓国政府は、けじめとして、漢江横断トンネルは、どうしても建設しなければならないものでした。
それゆえ、地下鉄5号線は、経営的にいくら赤字になろうが、何としても建設しなければなりませんでした。
ただし、このとき、韓国は地下鉄5号線を自力で建設するだけのお金がありませんでした。

景福宮景福宮は5号線の沿線にある。韓国人が普通、景福宮へ行く場合、地下鉄1号線か2号線を使って市庁駅で降りるのだけれども。景福宮に近い場所を走る5号線をあえて使わない理由は、鐘路3街駅で5号線に乗り換えるぐらいだったら、市庁駅で降りて歩いたほうが早いから。

東大門市場。東大門市場は5号線の沿線にある。ただし、東大門の下にある大きくて立派な地下鉄駅は地下鉄1号線の駅で、地下鉄5号線の駅は、地下鉄2号線、地下鉄4号線の駅とともに、DDP東大門デザインプラザ(旧:東大門野球場)の外れの方にある。東大門市場は、夕方5時からはじまり、朝5時に終わる夜の市場である。料金の安い夕方遅い飛行機で到着しても、余裕で遊びに行ける観光地として、根強い人気がある。ただし、深夜に東大門市場に集まるタクシーは高確率で雲助タクシーという噂があり(善良なタクシーは雲助タクシーに嫌がらせされるので東大門市場に近寄れない)、注意が必要。

 

円借款のプレゼンに通すため、計画は盛りに盛って、特徴が不明瞭に

日本の海外経済協力基金 (OECF) による円借款を利用することにしましたが、当然のことながら、軍事上必要な地下鉄1〜4号線のバックアップ路線ということでは、日本がお金を貸してくれません。
そこで、当時の国際空港であった金浦空港とソウル市内を、南の繁華街、永登浦経由で結ぶ高収益が予想される路線ということにしました。
また、ソウルの東では、ソウルオリンピック後、高級住宅地として絶賛開発中の江東区、松坡区の真ん中を通り、さらに将来性をアピールしました。
また、これまでのソウル市内で完結する(はずの)地下鉄1〜4号線とは異なり、郊外鉄道としての性格をもったソウル特別市都市鉄道公社が運営することになりました。
これでもかというぐらいアピールポイントを盛りに盛った計画のせいで、特徴の不明瞭な路線となってしまいましたが、無事、海外経済協力基金 (OECF) に採択され、円借款を受けることができました。

汝矣島。ここも5号線沿線。米軍飛行場跡を開発した場所で、国会議事堂、KBS本社などがある。北端の63ビルは長らく韓国一高いビルとして親しまれた。写真左端、細い川と高速道路(オリンピック大路)を挟んである低い建物は、日本の食通系youtubeでお馴染み、韓国の水産市場で有名な鷺梁津水産市場。ソウルのド真ん中にあるのだけれど、高速道路と京釜線に挟まれた不便な立地で、建物の老朽化もあいまって、場末感満載であった。2016年、新市場が旧市場の隣に建設され、移転。現在は、ショッピングモールのようになっている。




やっぱり、河底トンネルで、悪戦苦闘

そうして、建設された5号線ですが、ソウルの西と東に建設されることになった肝心の河底トンネルで、当時の韓国の土木技術がまったく通用せず、悪戦苦闘することになります。
漢江周辺は軟弱地盤ゆえ、トンネル掘削が思うに任せず、やはり漢江は橋で渡るべきという撤退意見が続出したとのことですが、それをやったら地下鉄5号線建設の意味がなくなるので、『撤退はありえない』との韓国政府の無茶な号令の下、必死の思いで無理やりコンクリートを打設して完成させました。
しかし、案の定、漢江からの漏水が激しく、対処療法的に設置したポンプを24時間フル稼働させないとトンネルが水没するという有様でした。
2本の漢江の河底トンネルの維持管理コストはすさまじく、その後に作られた地下鉄7号線や空港鉄道は、経済的理由から、橋を渡って漢江を渡河するようにしています。
さすがに最近は、韓国の土木技術が成熟してきたので、漢江の下を何本もトンネルが通っていますが、1980年代後半はこんな具合でした。

 

金浦空港。ここも5号線沿線。基本的に国内線用だが、狭い国土の韓国の場合、飛行機で行く必然性があるのは済州島ぐらいなので、発着枠に余力があり、東京など近距離国際線の発着もある。空港旅客は、基本的に停車駅が少なく、運行速度の速い空港鉄道を利用する。地下鉄5号線は、駅が多く、運行速度も遅いので、専ら空港周辺の江西区民の足。

できた5号線は、末端部が賑わう一風変わった地下鉄路線に

そうして完成した地下鉄5号線ですが、やはりバックアップ路線として作られた経緯があるだけあって、他路線との接続駅が多く、地下鉄1〜4号線に乗り継ぐ人が多く、地下鉄5号線を乗り通す人はあまりいません。
代替路線の多い中央部より、代替交通手段も限られる末端部で重要な交通機関となっており、末端部の江西区、江東区、松坡区では、基幹交通機関として機能しています。