韓国で最も有名な廃道。清渓高架道路
朴正煕大統領が作って、李明博大統領が壊した、なんとなくきなくさい道路
清渓高架道路は、ソウル市庁のすぐそばから東大門付近を走る都市高速に接続する韓国初の高架道路です。
清渓高架道路は京釜高速道路より前の1967年に建設されました。
清渓高架道路の両側にビルが立ち並ぶが、その裏側はスラム街。そういう状況なので、清渓高架道路の下には怪しげな露天商のビーチパラソルが並ぶ。ちなみに、朴正煕大統領の時代、こんな写真を撮ろうものなら、即刻逮捕され、死刑は免れなかった。それだけ、清渓高架道路の下にあるものを外国使節に見せたくなかったのだろう
清渓川といえば、ソウルのど真ん中のスラム街を流れる(元)ドブ川
清渓川といえば、ソウル旧市街である江北地区のド真ん中を流れる川なのですが、ここに韓国初の高架道路が建設された最大の理由。
それは、清渓川といえば、ドブ川の代名詞であったからということに尽きます。
朝鮮王朝時代のソウル(漢城)には、これといった排水設備がなく、生活排水、屎尿を清渓川にタレ流ししていました。
悪臭を放ち、甚だ不衛生な清渓川周辺は、漢城の中心部であるにも関わらず、スラム化が著しく、国政運営上の汚点ともなっていました。
ソウル市庁裏にあった清渓高架道路の起点。ぷっつり途切れたような作りが印象的だった。このすぐ先に慶熙宮があるので、これ以上の延長は無理だろう。一般人には使い勝手の悪い道だったので、それほど渋滞することはなかった
清渓川問題に最初に取り組んだのは、実は日本人
日本が韓国を植民地化した際、漢城に日本人居住地を建設することになったのですが、どうしようもなかった清渓川周辺の土地は、朝鮮人があっさり明け渡してくれたこともあり、ここに上水道、下水道を整備し、日本人街を建設することとなりました。
日本人街の周辺は、清渓川覆蓋事業を行い、清渓川の悪臭が日本人街に及ばないようにしました。
第二次世界大戦後、日本人が引き揚げていったあとは、住環境が改善された清渓川周辺の土地に韓国人が住むようになりました。
日本がせっかく整備した清渓川周辺のインフラは朝鮮戦争で破壊され、もとの黙阿弥
このままいけばよかったのですが、朝鮮戦争が起こってソウルが焼け野原になってしまうと、せっかく整備した清渓川周辺のインフラは破壊され、もとの黙阿弥。
再び清渓川はドブ川となり、悪臭を放ち、甚だ不衛生な清渓川周辺は、ソウル最大のスラム街になってしまいました。
臭い清渓川に蓋をして、上に道路を作り・・・スラムを一掃したかった
とりあえず、臭いものには蓋を・・・ということで、李承晩大統領の時代の1958年から清渓川覆蓋事業が開始され、1963年からの朴正煕大統領の時代に事業が本格化しました。
清渓川に覆いかぶさるように建ち並んでいたバラックは、覆蓋の過程で撤去され、マンション・商店街が建設されました。
ただ、清渓川両岸に住んでいた多くの人々は、新しくできたマンションに入ることはできず、奉天洞・新林洞・上渓洞などに強制移住させられました。
1977年。20年越しの清渓川覆蓋事業が完成すると、清渓川の上は幅100mにも及ぶ道路として整備されました。
でも、スラムは一掃できなかった
これでスラムが一掃できたかというと、さにあらず。
そもそもスラムは乙支路界隈に広く分布しており、土地の所有権も複雑怪奇。
このとき政府が撤去できたスラムは、住民の不法占拠状態が明らかであった清渓川両岸のごく一部。
土地の所有権が複雑怪奇な乙支路界隈の大部分はそのままだったのでありました。
現在も、通称、乙支路道具屋街として、スラムは健在なのであります。
スラムを外国使節に見せたくなかった朴正煕大統領は、清渓高架道路を建設した
このことに非常に不快感をもっていた朴正煕大統領は、この100m道路上に清渓高架道路を建設したのでした。
当時、政府庁舎のあった光化門から、当時迎賓館として使っていたウォーカーヒル・ホテルに外国使節を送迎するということはよくあったのですが、その途中、どうしても乙支路のスラムのど真ん中を通っていくことになります。
これで、シビアな外交交渉をするとなると、あまりにもしんどい。
せめて、スラムを外国使節に見せなくてすむようにしたいということで、清渓高架道路を建設したらしい。
一般道扱いの『高架道路』とはいえ、走ってみれば、間違いなく都市高速道路なのでありました。
ずいぶん使い勝手の悪い道だったのは、あきらかに、朴正煕大統領の都合で、光化門とウォーカーヒル・ホテルを行き来することだけを考えた作りだったからなのでありましょう。
清渓高架道路の取り壊し。建設から30年ぐらいしか経っていないのに、確かにボロボロなのである
2000年代になると、早くも、清渓川覆蓋、高架道路ともども、老朽化が無視できないほどに進行
韓国が経済成長を始める以前の事業で、施工技術が甚だ稚拙だったのか、2000年代になると、早くも、清渓川覆蓋、高架道路ともども、老朽化が無視できないほどに進行し、補修工事のコストも莫大なものになることが予想されたことから、2002年に就任した李明博氏(当時ソウル市長)は清渓高架撤去を清渓川復元事業と連携して実施することにしました。
2003年 6月30日に清渓高架道路を閉鎖した後、撤去し、2003年7月1日から2005年10月1日まで3,600億ウォンをかけて清渓川の覆蓋を開けて清渓川復元事業を実施しました。
周辺の地下鉄駅に湧出する地下水を清渓川に流すことで清渓川の水質改善を図っています。
現在の清渓川。怪しげな露天商のビーチパラソルはなくなった。両岸のビルは新しくなったが、ビルの裏側のスラム街は健在