大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

朝鮮総督府庁舎 (朝鮮王朝瓦解の真相と、後を引き継いだ朝鮮総督府の困難を極めた主要3事業)

 

朝鮮瓦解の黒幕ロシア・・・日本と韓国だけを見ていたら、朝鮮瓦解の真相はわからない

韓国併合条約が朝鮮総督府を生んだ

1910年(明治43年)8月22日に、韓国併合条約が漢城(現在のソウル特別市)で韓国統監府寺内正毅統監と大韓帝国李完用首相により調印され、同月29日に裁可公布により発効されました。

そして、朝鮮総督府は、1910年(明治43年)の韓国併合によって大日本帝国領となった朝鮮を統治するため、韓国統監府と、大韓帝国の行政府を合体させ、同年8月29日に設置された官庁です。

細かいことになりますが、朝鮮総督府は8月29日に発足したものの、本格的な行政事務開始までには1年ぐらいかかりました。というのも、朝鮮王朝は、日清戦争清王朝が弱体化した隙を突いて、中国から独立して、大韓帝国(中身は朝鮮王朝そのもの)を発足させたばかりで、韓国統監府と大韓帝国の行政機関を合体させるうえで混乱があったためです。

肇慶壇(ちょぎょんだん)。ここは、一般に公開されていないため、韓国人もあまり知らない高宗関連の史跡である。
朝鮮王朝の王の祖先、元寇の時代に生きた李安社は、衰退した全州李氏の再興を誓い、全州の山で、派手に祭祀を行った。そこに、李安社は、始祖廟を建てたらしい。
その場所について、朝鮮王朝第21代王英祖が調査を行った形跡があるが、わからず、第26代王高宗もその場所について調査した。その結果、始祖廟跡と思われる場所を突き止めたとしており、現在その場所に、高宗が建設した始祖廟(李翰:イ・ハン)の墓、肇慶壇がある。
斜面上部の円墳が李安社の作った始祖廟跡と考えられている場所で、中央の四角形の建築物が、高宗が建設した始祖廟である。
始祖廟脇の建物の中には、「大韓肇慶壇」の碑がある。「大韓」と石碑にあるだけに、間違いなく高宗の作で、まだ新しい。
場所は、全州の名所、慶基殿の真北にある山で、KTXが通るようになって新しく建設された全州駅に程近い、全州市中心部の全北大学医科大学の裏、全州室内バドミントンコートの横にある。

肇慶壇から見える範囲は風致地区として広範囲に山林や農地が保全されており、パッと見た感じ、農村地帯の趣きで、全州市中心部だとは思えない不思議な場所である。

 

朝鮮王朝第26代王高宗は善王か?

第26代王高宗は、第21代王英祖の取りまとめた朝鮮王家の歴史を整理し、消失した朝鮮王家の陵墓の調査、復元を進めました。
高宗の復元した建築物は多く、現存する景福宮勤政殿などの壮大な建築物にとどまらず、徳寿宮、慶基殿、肇慶壇といった数々の大規模な建築物も、この時、再建されました。

それゆえ、現在でも、高宗は善王として誉れ高い王です

『ちょっと待て、本当に高宗は善王か?』
と韓国で言うと、全方向から罵倒されます。

韓国の伝統的保守紙、朝鮮日報が「本当に高宗は善王か?」という特集を組んでひどい目に遭っているので、これは間違いないようです。

高宗の事業に必要な莫大な経費はどうやって調達したのか・・・朝鮮日報が指摘したのは、この1点です。

この1点は、大日本帝国朝鮮侵略史を覆すほどの大問題を孕んでおり、これは、韓国では触れてはいけないタブーなのです。

何がいけないのかというと、

高宗は事業に必要な莫大な経費を、よりによって、ロシア帝国から借りた。

ということ。

これが韓国史上の最大タブー。
国家そのものを転覆させたという点で、済州4.3事件、光州事件を超えるタブーなのであります。

 

善王高宗が、なぜ朝鮮王朝を瓦解させたのか(ロシアへの借金とロシアの貸し剥がし

当時の朝鮮に高宗の事業で必要な費用を賄うだけの国力はありませんでした。

高宗は、なんと、お金を貸してくれると朝鮮に友好的な態度をとっていたロシアから莫大な借金をしたというのでした。

ロシアの東アジア侵略計画を知っていた大日本帝国からすれば、『アホかおまえら』という状況だったのでした。

ロシアがホイホイと朝鮮にお金を貸したのは、借金のカタに、朝鮮を潰す下準備でありました。
時期をみて朝鮮王朝に借金の一括返済を迫り、貸しはがしを行えば、合法的に朝鮮領土と朝鮮国民を没収できるという手筈でした。

これがうまくいくと、ロシアは戦争をせずに、大日本帝国包囲が完成することとなり、次は大日本帝国を落とすだけになります。

 

李安社の行った祭祀について、第21代王英祖は調査を行ったが、わからず、これを記念する霊廟、慶基殿を全州中心部に建設した。
これが高宗の時代はかなり荒れていた状況であったので、これを高宗は修復した。
霊廟という性質の施設であるから、肇慶壇と構造がよく似ており、高句麗様式の神道が設置されている。
なお、神道は基本的に人間が通ってはいけない場所なのだが、なぜか
神道を通らなければ入れないようなこんな入り口の階段が作られている。階段は神道脇に作らなければいけない。

 

霊廟の神道脇には、鉄の水盤が並べられている。本来はここに水が満たされていなければいけない。ボウフラ対策で、水がないことが多いが。
正面の霊廟ひさしには、斜め下を向く亀が張り付けてある。これは何かと言うと、慶基殿南東方向正面に見える昇岩山が火山であり、八卦の火の卦と重なる。従って、この建物は火の卦が強く、火災になりやすいとされる。そこで、神道脇には、鉄の水盤を並べ、南方向の火の卦を弱め、さらに、斜め下を向く亀を貼り付け、昇岩山を水の卦に転換して、建物の火の卦を弱めているのである。
日帝時代、慶基殿は小学校になっていた。日本の小学校でも、校舎建設が間に合わず、寺子屋の習慣が江戸時代にあったことから、お寺や神社の建物を小学校に使ってしのいだ例は多い。
ただ、高句麗には、寺子屋の習慣がなかったから、王族の霊廟を小学校にする日本人の無知さ加減に全州の両班は唖然としたという歴史がある。

 

高宗の頭の中には、日本征伐のことしかなかった

しかし、このとき、高宗の認識では、中国を凌ぐ大国ロシアを利用する絶好のチャンスと捉えていました。

うまくロシアに取り入れば、実力ではとても勝ち目のない目障りな日本を自ら手を汚すことなく、速やかに排除できると考えたのでした。

しかし、それにしても、ロシアの朝鮮に対する態度は、実に素っ気ないようにも思えました。

なぜ、ロシアは、朝鮮に対して素っ気ないのか。

それは、ロシアが朝鮮を奪ろうとしていたからなのですが、それを、高宗は、ロシアは日本をいたずらに恐れており、覇気に欠け、情けないと都合よく考えました。
そこで高宗は、ロシアに日本征伐の確約を要求を突きつけ、覚悟を問うたのでした。

ロシアからすると、目が点になるほどの、実にありえないはなしでした。
日本がどうこう言う前に、朝鮮がなくなるということがわかっているの?

いや、高宗はわかっていなかった。

わかっていなかったからこそ、ロシアの判断ミスを誘う大暴投をやってのけたのでありました。

 

朝鮮王朝第26代王高宗。朝鮮の本名は李㷩(イヒ)。日清戦争清王朝が弱体化した隙を突いて独立。大韓帝国となった後、高宗光武太皇帝を名乗るが、間もなく韓国併合が起こり、徳寿宮李太王(とくじゅきゅう りたいおう)という日本名に改名する。
この他に、幼名があったり、字(あざな)があったり、号があったりして、生前から、歴代の朝鮮王の中でも名前がやたら多い人であった。
死後は、これとは別に名前がつくため、すごいことになっている。名前が多いということは偉いという価値観が朝鮮にはあったため、そうなった。
大韓帝国皇帝になってから、皇帝服として、ドイツの軍服などを試したようではあるが、実は高宗は、顔が相当大きな人で、頭の小さいヨーロッパ人向けの小さな兜が頭の上にちょこんと乗っかって無様であったうえ、太鼓腹を隠すことができず、まったく似合わなかったため、最終的に、日本式の大礼服に落ち着いた。大礼服だと、勲章をいっぱい付けられる点も高宗の好みだった。
この写真は、最も広く流布しているもので、日本の大蔵省造幣局製作の勲章がいっぱいついているという点で、高宗本人は大のお気に入りだったが、韓国的には問題があるらしい。
大礼服がお気に入りだったので、当時、日本に協力的であったように考えた人も多かったが、全然そんなことはなく、日本がいかに馬鹿で無知であるか、朝鮮がいかに偉大で優れた国家であるかを盛んに吹聴していた。すぐに余計なことをして、朝鮮を国家存亡の危機に陥れるという致命的な問題点はさておき、国の指導者はこのくらいの図々しさがないと、やっていけないという典型である。
日本が朝鮮総督府建設で悪戦苦闘しているのを横目で見ながら、後継者の純宗が寺内正毅と通じているのを知っていたから、景福宮の秘密について純宗に明かすことなく亡くなっている。
韓国の保守紙、朝鮮日報は、高宗を「国際情勢に疎かった人物」、「何かあれば外国公使館への避難・亡命説が出回る国家指導者」と評価している。

 

大番狂わせの日露戦争開戦・・・実は、打つ手がなかった日本だったが

実は、この状況で、日本が朝鮮のロシア領化を打破する方法は皆無でありました。

ロシアが黙って粛々と朝鮮王朝に借金の一括返済を迫り、貸しはがしを行えば、誰からも文句を言われず、合法的に朝鮮領土と朝鮮国民を没収することができるはずでした。

しかし、日本征伐は決定事項、最初からやることになっていたロシアは、勝ち急ぐ気持ちが先に立ち、ロシア皇帝にお伺いを立てるまでもなく、当然のこととして、日本征伐を朝鮮に確約しました。

しかしこれが、実は、『つい、うっかり』というやつで、万策尽きてピンチだった日本に、開戦の口実を与えることとなりました。

それで、大番狂わせの日露戦争が勃発しました。

東洋の金欠の素寒貧であった大日本帝国は、『窮鼠猫を噛む』の勢いで、大国ロシアに勝ってしまいました。

ロシアは今も昔も、準備不足か、兵站の枯渇で負けるというのが典型的な負けパターンだったわけですが、このときはその両方が起こってしまった。
ただ、当時は、ロシアの負けパターンなど誰も知らなかったから、世界中が驚いたわけです。

さて、ここで、ロシアは、朝鮮王朝に借金の一括返済を迫り、大日本帝国との間で発生した莫大な戦費の回収を行おうとします。
払えなければ、合法的に朝鮮領土と朝鮮国民を没収という手筈でした。

ロシアは日本との戦争に勝てなかったのですから、安全パイを切ってくるのは当然のことですな。

 

李完用
この人が日本人の間でほとんど知られていないのは、乙巳五賊、丁未七賊、庚戌国賊と言われ、韓国政府によって公式にも『親日反民族行為者』に認定され、現在も一族は財産没収の対象となっているほどに韓国のタブーだから、公式の歴史からは排除されているためである。
ただし、韓国が軍事政権だった当時、特に朴正煕大統領は、大韓民国を自立した国家にするためには優秀な李完用一族の能力は必要不可欠であるとして、政権中枢に抜擢し、韓国の急速な経済大国化に大きな功績を残すこととなった。
だが、金泳三政権以降の韓国民主化により、逆に国賊として、国を追われることになってしまった。
ソウル近郊の盆唐出身で、1883年に科挙に合格して出仕するようになった秀才。
入庁後4年目にして、アメリカ合衆国に派遣。
朝鮮開国後10年足らずで、英語を学ぶ機会などまともにない状態であったが、李完用は流暢な英語を操り、3年間のアメリカ合衆国勤務を経験した後、帰朝。朝鮮が著しく世界情勢から遅れていることを痛感し、旧来の王政に復古することを主張する大院君と対立する。
当初、親露派として行動する。これは帝政ロシアを単に欧米列強と捉えていただけのことで、ロシアの朝鮮侵略の意図は察知していなかった。朝鮮を欧米列強に伍する先進国にするにはロシアと組むのが良いと考えていた。
しかし、朝鮮を搾取対象としてしか見ていないロシア公使ウェーベルと大喧嘩となった後は、親米派として行動するようになる。

ロシアからの借金踏み倒しを図る大韓帝国代表、李完用

ところで、そんな朝鮮にも頭のキレる秀才がおり、ロシアからの借金を踏み倒さないと、エラいことになると気付くわけです。

もし、ロシア領土になってしまえば、ロシアは、東方の黄色人種を搾取・絶滅すべき対象として捉えていますから、一度ロシアに占領されれば、お金や資源にとどまらず、命までもっていかれる危険性があります。

しかし、時すでに遅し。

朝鮮独立の維持は、どうあがいても不可能というところにきてしまいました。

この状況下では、朝鮮民族をいかに残していくかの一点に絞って可能性を追求するしかありませんでした。

日露戦争に勝った大日本帝国の領土になれば、いくらロシアでも、借金の返済を朝鮮に迫ることが、事実上できなくなります。

どうせ、大日本帝国は、大国ロシアに勝ったとはいえ、所詮、金欠の素寒貧。
明治政府のような身の丈に合わない無理を続ければ、いずれ、国が傾くか、自爆するかに決まっているので、その隙を突いて朝鮮は再独立すれば、それでよしと考えたのでした。

その秀才達が、いわゆる、親日派と言われる人達であり、そのリーダーが、李完用であったということになります。
そこで、韓国併合条約の調印が行われ、朝鮮は、大日本帝国の領土となったわけです。

 

この期に及んで、日露戦争が起こした大番狂わせを理解していなかった高宗が、ロシアを怒らせ、大韓皇帝をクビになる(純宗即位)

もっとも、すんなり、韓国併合条約の調印となったわけではありませんでした。

というのも、朝鮮瓦解問題を引き起こした張本人の大韓帝国皇帝高宗は、非常に頭が固く、この期に及んで大日本帝国日露戦争勝利を認めておらず、ロシアに日露戦争講和条約であるポーツマス条約破棄を求めたからでした。

オランダのハーグで開催されていた第2回万国平和会議に、ロシアが独断でオブザーバーとして朝鮮を招待しました。
ロシアとしては、そこで、日本の韓国併合阻止に向けた話し合いがなされれば万々歳といったところでした。

ところが、高宗が送った代表は、李完用のような秀才ではなく、李完用と対立する反日運動家達で、国際法には詳しくなく、どうすれば国際舞台で外交交渉を行うことができるか、知識を持ち合わせていませんでした。

この人達は、高宗同様、大日本帝国日露戦争勝利を認めておらず、単純に、ロシアに対し、日露戦争講和条約であるポーツマス条約破棄を求めました。

朝鮮特使が破棄したかったのは、大日本帝国大韓帝国保護国とする規程なのですが、これを破棄するとなれば、ポーツマス条約全体に影響が及ぶので、そうなると、ロシアとしては、辛くももぎ取った日露戦争の戦時賠償無効化の話も吹っ飛ぶという問題がありました。

朝鮮の借金は、大日本帝国が主張する日露戦争の戦時賠償と比べればたいしたことなく、李完用の借金踏み倒し計画が仮に発動したとしても、ポーツマス条約を無効とされるよりはロシアにとってましでした。

そこで、朝鮮を招待したはずのロシアが、メンツを潰されたと突然手のひらを返し、会議議長を務めるロシア帝国主席代表ネリドフ伯爵は朝鮮代表との面会を拒絶。
特使3人の会議出席を拒絶しました。

このことは、逆に朝鮮半島の日本による管轄権が国際的に認められる場を作った結果になりました。

大韓帝国皇帝高宗は、この無礼千万な暴挙の責任をとらされる形で、退位させられ、大韓帝国皇帝の位は、高宗の息子の純宗に移譲させられました。

 

親日派売国奴といわれる李完用・・・であるが、明治政府の高評価とは裏腹に、日本には敵対的であった

李完用は、大日本帝国に対して友好的な人であったかというと、むしろ、敵対的でした。

生涯、日本語を学ぶどころか、一切、話そうとすらしなかったそうです。では、日本に来たときどうしていたのかというと、英語をあえて使っていたそうです。

李完用は、当初は親露派で、大日本帝国と敵対し、朝鮮民族の存続を模索していましたが、占領地から収奪することしか考えないロシアに併合されるのは悪手だと認識したため、日本に擦り寄ることにしただけという割り切りがありました。

金欠の素寒貧であった日本の財政を見抜いており、対ロシアに関して言えば、日本に時間さえ稼いでもらえば、朝鮮の失地回復の勝機はあると考えていたようです。

李完用は、韓国統監府の寺内正毅を、終生、敵としか認識しておらず、単に、金欠の素寒貧であった日本の財政に明るかった頭の良い人であったというわけです。
ただ、このことが、李完用大日本帝国から非常に高く評価された理由でもあったのでありました。

それは、韓国統監府に原因がありました。

もともと、日露戦争敗戦時の保険だった寺内正毅は、今や、韓国統監府の独裁者。
韓国統監府の職員で、寺内正毅に逆らう人はいませんでした。
Yesマンで周囲を固め、天皇直轄組織の長であることを理由に、大日本帝国政府の言うことを聞かない厄介者。
しかも、金欠の素寒貧であった日本の財政なんて完全無視。

この事態に、大日本帝国政府は相当困っていました。

いろいろ思案した挙句、朝鮮の親日派リーダー格の李完用を、寺内正毅より格上の華族にヘッドハントし、旧徳川御三家と同格の侯爵にまで格上げし、朝鮮王族に命令できる地位はもちろん、大正天皇に直接謁見し、意見できる地位を与えました。

李完用ら朝鮮親日派を、寺内正毅の御目付役に任命し、天皇に韓国統監府の暴走ぶりを随時報告する役割を与えたということになります。
もちろん、李完用だけでは足りないと考えた大日本帝国は、朝鮮親日派を軒並み寺内より高い地位につけ、寺内正毅の暴走対策の徹底を図りました。

ちなみに、李完用ら朝鮮親日派と敵対し、諸悪の根源といわれた寺内正毅は、実は大韓帝国2代皇帝純宗と性格的にウマがあい、個人的に仲がよいという裏事情がありました。
大日本帝国政府は知らなかったのですが、内緒で個人的にいろいろ純宗に便宜を図り、日本内地に向けては、朝鮮王族が永遠に続くよう宮内省に圧力をかけて取り計らっていたというのですから、さすがは陰謀の天才であります。

せっかくの李完用も、朝鮮に帰ってみれば、誰も邪魔することのできない純宗-寺内ラインがあって、身動きがとれなかったというのですから、何のために日本で高い地位についたのかわからないという状態にありました。

なお、純宗-寺内ラインのせいで、宙ぶらりんにされてしまった李完用は、大日本帝国で異例の出世を遂げたことから、朝鮮人からは、徹底して裏切り者として認識されていたようです。

生涯、自宅焼き討ちや、暗殺未遂が絶えず、1926年(大正15年)に亡くなり全羅北道益山郡朗山面に埋葬されました。
現在、韓国政府によって親日反民族行為者に認定されており、墓も撤去されています。

 

朝鮮総督府の一番大事なお仕事は、朝鮮王朝がロシア相手に作った借金の返済

大日本帝国本体は、いままで何度も述べてきたように、軍艦1隻建造すると、国家財政が傾くほどお金がない。
なのに、日露戦争をやったがために、今や更なる金欠の素寒貧。
どうやって、朝鮮のロシア絡みの莫大な借金を大日本帝国が肩代わりするのでしょうか。

寺内正毅の理論では、たかがロシアからの借金なら踏み潰したらよかろうということでしたが、国際政治はそう甘くない。

借金は借金。

軍事力を背景に脅して借金の返済期限を延ばすことはできても、大日本帝国には通貨としての日本円の信用問題がありますから、そう簡単に徳政令を出して、帳消しにすることはできないのです。

誰がお金を稼ぐの?

日本人?

そんなのやめてくれよ、朝鮮の借金は朝鮮人が返せや・・・ということになり、朝鮮の借金返済が韓国統監府や朝鮮総督府の最優先課題となりました。

そこで、朝鮮総督府が行ったのが、以下の3本柱で、産業を振興し、朝鮮の借金返済をすすめるということでした。

 

高宗が住んだ時期が長かった徳寿宮。
特に、閔妃暗殺事件(乙未事変)後、景福宮から逃走してロシア大使館に保護してもらって以降は、ずっと徳寿宮に居ついている。それで、日本名が「徳寿宮李太王」となった。
元は慶運宮と言っていたが、景福宮再建と同時期に、廃墟となっていたものを再建している。国家の産業振興など後回しで、こんなことばかりやっていたから、ロシアへの借金が嵩み、朝鮮王朝が瓦解する原因となった。
日韓併合後に、西洋式の石造殿を増設している。これはたいへん有用な建物で、歴史遺物となることなく、現在も現役施設として利用されている。
1911年から1922年は李王世子李垠の宿舎、高宗死去後の1933年以降は、徳寿宮美術館として利用された。
第二次世界大戦後にはアメリカ軍に接収され、石造殿は朝鮮半島の占領統治を協議する米ソ共同委員会の会場となった。
1955年からは国立博物館として利用されている。

 

石造殿建設時、日本は、朝鮮総督府庁舎をどのように建てても、お行儀悪く歪んで建ってしまう問題に悪戦苦闘していた。
高宗は黙っていたが、日本が馬鹿で無知であることを後世に残したくてウズウズしていたらしい。
そこで、景福宮同様、斜めに建設されている徳寿宮に増設される石造殿を使って、こっそり、朝鮮総督府庁舎をどのように建てればよいか、正解を示していた。
徳寿宮の中和殿を景福宮勤政殿に見立て、北西方向、「乾」の卦の方角に朝鮮総督府庁舎を建設するのが正解であった。
というのも、「乾」の卦は、天を表し、権威・権力を示す。
建物の向きはどの向きでもいいことを示すため、石造殿は、あえて中和殿の軸からずらしている。
現在、旧大統領府の青瓦台が、景福宮勤政殿の北西方向に、勤政殿と違う向きで建っているのは、ここに大統領府を建設した李承晩は、この景福宮の秘密を知っていたからであった。



1.身分解放・戸籍再編成

非生産人口(特権階級、両班、無戸籍)が国民の60〜70%以上なのを何とかする

韓国統監府は朝鮮の借金返済を目的に、1909年、近代的戸籍制度がなかった朝鮮に、2006年まで何度か改正されつつも使用された戸籍制度を導入しました。

なお、1948年の大韓民国成立後、『本貫』『身分』の戸籍記載は復活しましたが(2006年撤廃)、日本統治時代は、『本貫』『身分』の戸籍記載は禁止されました。

ちなみに、旧戸籍では、『両班』と記載のある者は、就労の義務と、納税の義務が免除されていました。
その結果、『両班』以外の民衆に就労の義務と、納税の義務が集中し、『両班』以外の民衆の平均寿命が極端に短くなり、婚姻も難しくなっていったのに対し、『両班』の平均寿命は伸びる一方、子孫も大いに繁栄していきました。

朝鮮王朝400年の歴史の間に、そのツケは積もり積もって、韓末期には、人口の60〜70%が『両班』という歪な人口構成となっており、戸籍のある人口の60〜70%が非生産人口というとんでもないことになっていました。

朝鮮の借金返済のためには、まず、戸籍非登載者をあぶり出して、朝鮮の全人口を把握したうえで、この、非生産人口を生産人口に転換しなければいけませんでした。
そこで、身分制度撤廃を行ない、『両班』に就労の義務と、納税の義務を課すこととなりました。

 

非差別民開放は、朝鮮人全員に納税の義務を課すことを徹底するための施策

なお、非差別民であった奴卑、白丁の開放を行ったのは、『両班』に課す就労の義務と、納税の義務を徹底し、反論の余地を与えないためのものでした。
そのため、奴卑、白丁の開放に反対する者には警察権力を用いた制裁を課す非常に厳しいものとなりました。

当然のことながら、就労の義務と、納税の義務を課されることになった特権階級、『両班』の反発はすさまじく、朝鮮各地で激しい暴動が起こりましたが、警察権力を用いて即座に鎮圧されました。

これに対し、事情を知っていた李完用親日派は、沈黙していたため、後の大韓民国建国後、糾弾される原因となりました。

 

『名無し』で、戸籍に載らなかった人も多かったが、これも非生産人口だった

旧戸籍では、身分の高い者が複数の本名を持つ反面、身分の低い人、特に女性を中心に『名なし』が非常に多く、『両班』であっても、女性の場合、『名なし』が多く存在しました。
この人々は、法的には存在しない人々のため、徴税の対象ではありませんでした。

そこで、朝鮮総督府は、朝鮮人は全員、男女、子供の区別なく、姓名を名乗ることを強制しました。

 

朝鮮名そのものが『本貫』『身分』を現す厄介な問題があり、名前を日本式に改めない限り、身分差別の完全撤廃は不可能だった

朝鮮の姓名には、必ず『本貫』『身分』がついてまわり、名前を見るだけで、『本貫』『身分』が判明します。

実は、現在の韓国人の名前でも、『本貫』や『身分』にまつわる漢字が普通に使われており、見る人が見れば、だいたいのところで、『本貫』や『身分』はもとより、非差別民かどうかを見分けることができます。

朝鮮総督府は徴税の徹底を図るうえで、これを非常に問題視し、名前を日本式に改めない限り、身分差別の完全撤廃は不可能という結論に至りました。
そこで行われたのが創氏改名というものになります。

後に、創氏改名は朝鮮の民族的文化を破壊するものと理解されるようになり、大韓民国後速やかに、名前は朝鮮式に戻されました。
ただ、名前は朝鮮式に戻したら戻したで、身分差別は再燃し、差別は朝鮮の民族的文化なのかという議論が巻き起こることになりました。

ちなみに、朝鮮総督府創氏改名を行ったのは、後付けで、朝鮮の皇民化を図る目的だったとか理由付けされましたが、実態のところは、朝鮮名を破壊しなければ、朝鮮の社会に緻密に組み込まれた身分制度を破壊し、徴税の徹底を図る方法がなかった・・・というか、他に方法が思い浮かばなかったからという情けない理由でした。

 

1945年、イーストマン・コダックから発売されたカラーフィルムで撮影された写真。
朝鮮総督府の圧政下で、悲惨な境遇にあったと韓国の歴史教科書で説明される京城(けいじょう)の様子。
写真に写る人々の服装が、日帝時代を舞台にした韓国ドラマの韓国人の服装とかなり違う。男性も女性も上下白色の韓服を着ていたし、女性は、毛髪が飛び散るのを不潔だといってものすごく嫌う人が多く、多くの女性は白布を姉さんかぶりにしていた。そして、洋服がかなり普及しており、洋服を着ている人が過半数である。
閑散とした田園風景が広がる朝鮮王朝の首都漢城とは隔世の感がある活気である。
とはいえ、この写真の時期は、朝鮮瓦解から、まだ30年程しか経っていない。ものすごいスピードの経済発展である。
このような無理な経済発展をすれば、社会の歪みは、いかほどのものであろうか。
むしろ、朝鮮人は、日々驚くほどのスピードで発展する経済に翻弄され、朝鮮の民族的アイデンティティーが急速に失われつつある問題に対峙しなければならなかった。

 

2.教育文化政策

総督府の方針を朝鮮人に伝えようにも、文字がわからない、数字がわからない、計算ができないでは話しにならない

身分解放政策の施行時、朝鮮総督府は思い知ったのですが、当時の朝鮮人民の7〜8割が、公用文字である漢字が読めない。
ハングルは、1948年まで公用文字ではありませんから、これも読めない人多数。
さらに、算術に至っては、壊滅的有様で、日常生活のお金の勘定すらおぼつかない人が多数。
そんな状況で、朝鮮の借金返済などという高等な話は無理。

 

個人の財産所有という概念すら、ほとんどの朝鮮人は知らず、1から教えなければならなかった

まず、個人の財産所有という概念から、国民全体に1から教えていかなければならないという絶望的状況でした。

日本なら、当然、こういうことは学校で教えることになっています。
ならば、朝鮮でも・・・ということになり、日本内地に準じた学校教育制度の整備は喫緊の課題となったのでありました。

 

朝鮮の学門とは、『両班』のみが享受できる特権で、読み書き、算術など実学は非常に軽視されていた

しかし、当時、学問は『両班』のみが享受できる特権のひとつ。
しかも、朝鮮では、読み書き、算術など実学は非常に軽視されており、朝鮮の学問は、理念的、概念的側面が非常に重視されていました。

論語に始まり、論語に終わるという感じ。

当然のことながら、働き手を失うことになった両親、特権を失うことになった特権階級、『両班』の反発はすさまじく、朝鮮各地で激しい暴動が起こりました。

しかし、朝鮮総督府は警察権力を用いて各家庭の子供を引きずり出し、学校に集め、教科書、文房具を与え、教育を強制しました。

 

大きい声ではいえないが、朝鮮総督府の学校運営は上手だった

たいへん荒っぽい政策でしたが、朝鮮総督府の運営する学校は、教育の目的がはっきりしていたので、教育の目的が曖昧な現在の日本の学校と違って非常にうまく機能しており、子供にとっては、学校が虐待の場ではなく、子供の知的好奇心を満たす場として機能し、評価する声は、大きな声では言えないけれど実は大きかったのでありました。

そこで未だに、韓国にはこの時代の残滓が残っています。

滅多に抜かれない伝家の宝刀としてではありますが、学校の先生には日本と比べて強い社会権力があり、警察権力を用いて各家庭の子供を引きずり出し、学校に集め、教科書、文房具を与え、逆らう親を警察権力を用いて処罰することが可能となっています。

また、『科挙』の伝統と、学校教育制度がうまく合体し、激烈な大学受験というものが生み出されました。

修能テストに遅れそうになった子供を警察がパトカーや白バイで試験会場まで送迎するのは、韓国の12月の風物詩ですが、これは決して警察の厚意ではなく、日帝時代以来の伝統である教育の強制執行が形を変えて現在も残っているものです。

 

1945年、イーストマン・コダックから発売されたカラーフィルムで撮影された写真。
朝鮮総督府の圧政下で、悲惨な境遇にあったと韓国の歴史教科書で説明される京城(けいじょう)の様子。
乗合バスは、よいエンジンがなかった関係で、発明されていなかったが、人間は考えるもので、エンジンがなければ馬に引かせればいいじゃないといった具合で、1馬力の乗合馬車が結構たくさん走っていた。

21世紀の現在と比較してはいけないが、それにしても、朝鮮王朝末期とはうってかわって、なかなかにして現代的で文明的な生活をしている。
しかし、この写真が撮影された5年後、大韓民国が独立した後、ここに写っている建物も乗り物も全て破壊され、見渡す限りの焼け野原となる。
電灯を使っていた人々がロウソクを使うようになり、水道を使っていた人々が井戸で水をくむようになるのである。
大韓民国が独立して、人々の生活が中世に逆戻りしたという歴史は、絶対に言ってはいけない韓国の現代史であった。朴正煕政権中期に、日帝時代の経済水準を追い越し、この表現に対する規制は緩和されたが、教科書などの表現に若干の残滓が残っている。

3.地籍調査

所得税ではなく、固定資産税(地租)主体の税制だったので、地籍調査は不可欠だった

地籍調査については、大正期に入ってからになりますが、朝鮮全土で地籍調査が行われました。
当時の税金の徴税は、所得税によるものが少なく、固定資産税(地租)によるものが大部分を占めていました。
そこで、土地の所有、面積、地価の決定がどうしても必要だったのでした。

明治以前の日本でも、年貢の算定基準となる検地は必ず行われてきました。ですから、朝鮮でも、まず地籍調査が行われなければいけませんでした。

ただ、地籍調査の開始が遅れた理由は、現在の人工衛星写真に匹敵する極めて正確な地図である伊能図が存在する日本列島と違って、韓末期の朝鮮に正確な地図が存在せず、地籍調査の基準となる地図の整備をまず行わなければならなかったことによります。

 

この時作成された地籍図の精度の悪さが、現在の韓国で土地問題を引き起こしている

この時作成された地図は、時間がないなか、大急ぎで作成したものだけに、伊能図にははるかに及ばず、誤差が5〜10メートル程度存在し、1cm単位の精度が要求される地籍図の原図としては、かなりあてにならないものでありました。

この誤差故に、朝鮮総督府は地籍調査を行わなかったと主張する歴史学者が多数います。
しかし、固定資産税を徴税するには、徴税の根拠となる土地の場所と面積と生産力の決定が必要であり、地籍調査なしでは、ロシアへの借金返済などという大きな仕事などできるわけがありません。

高宗は、それをやらずにお金をロシアに借りて、朝鮮王朝を瓦解させたのであります。

現在、韓国で、土地の境界確定に非常に難渋するのも、この時の誤差が大きい地図が現在も使われており、あてにならないものであることが大きいです。
ラニメーターが使えないので、地籍図から、土地の面積を概算するということすらできません。

 

土地所有の概念を知らない朝鮮人相手の地籍調査は困難の連続

また、地籍調査が開始されてからも、地籍調査は困難を極めます。

まず、朝鮮人の大部分が、土地の所有とはなにかを知らなかったことが大きな問題となりました。

基本的に山林など、所有が明確でない土地や、朝鮮王家など高い地位の特権階級が奴卑に耕作させていたりする土地が数多くありました。
現状耕作していたり、占有していたりする人のいない土地は、国有化し、朝鮮総督府が管理することとなりました。

朝鮮王朝だった時の所有権どおりに所有権を確定してしまうと、生産人口に土地が行き渡らないという問題がでてきます。

そこで、地籍調査といっても、現状耕作していたり、占有していたりする土地を片っ端から登録していく作業となりました。

そこは、大日本帝国国内の話しですから、それが日本人であっても、日本企業であっても扱いは同じで、朝鮮半島に土地所有ができました。
地籍調査を悪用し、高額納税を大義名分に朝鮮人から土地を巻き上げ、高額で転売して荒稼ぎする悪徳業者も少なからずいました。

多大な混乱はあり、あくまで、当座しのぎの策ではありましたが、これが事実上、朝鮮版農地改革となりました。

これが農村の大幅な所得向上、生活向上に大きな効果があった反面、日本でGHQ版農地改革が後々多大な禍根を残したように、現在の韓国でも朝鮮版農地改革が多大な禍根を残しています。

 

この時の場当たり的対応が、土地強奪が横行する現代韓国の社会を醸成してしまった

他人の土地でも、強奪すれば、いずれ、いつかある地籍調査の時、自分の土地になるというのは、この時の経験から発生した韓国人の常識。
身分の低い人、非差別民ほど得をしたので、韓国人社会の底辺の人ほど、土地は強奪した者勝ちという考えが徹底しているという具合。

ちなみに、日帝時代やった地籍調査レベルの大規模な強制地籍調査は、韓国の現行憲法上不可能といわれておりますが、韓国人はみんな、日帝時代やった大規模な強制地籍調査は、またいつかあると、まるで宗教のように、堅く信じています。

ゆえに、他人の土地の強奪は、ソウルでもあるあるで、梨泰院の公道はみ出し違法建築で有名になりましたが、特に田舎では頻発傾向にあり、生活防衛上不可欠な基礎知識です。

他人の土地に勝手に家を建てる、他人の土地を勝手に造成するなどよくある話で、相手がある話ならば、喧嘩・乱闘になるので、あっても控えめとは言われておりますが、市有地、国有地、面道、市道が相手となったら、役所もすぐには気付かないということで、容赦ない。
勝手に潰すなどやった者勝ちの状態。

韓国の裁判所は、個人、地方自治体入り乱れて起こされる土地所有権訴訟でパンク状態。

田舎では土地問題が、治安悪化の最大の原因ともなっています。