大韓民国観察記

韓国のどうでもいい重箱の隅をつつくブログ。

独立門

独立門。フランスの凱旋門がモデルという点では北朝鮮凱旋門と同じであるが、北朝鮮凱旋門と比べるとかなり小さい。

 

韓国人の間でも、わりと敬遠される傾向のある史跡

いわくの原因は日本からの独立記念碑ではないことにある

日本からの独立記念碑ということで、面倒なことになりそうなのであまり行きたくない史跡、独立門。
独立門は、漢城の西方、敦義門(西大門)より、現在の統一路を北西へ約900m(2里)行ったところにあり、高さ14.28 m、幅11.48 m。約1,850個の御影石を用い、フランス・パリのエトワール凱旋門を模して造られました。
この独立門は、1945年8月15日の日本の太平洋戦争敗戦、朝鮮でいうところの光復節を記念して作られた、日本からの独立記念碑と一般的にはいわれており、日本でもそのように説明されています。
韓国人の間でも、わりと敬遠される傾向のある史跡なのでありますが、敬遠されるその最大の理由は、反日運動団体の巣窟、反日利権の権化・・・とまあ、韓国人の間でも面倒なことになりそうな雰囲気がプンプンする史跡だからです。

独立門にわりと詳しい韓国人から、ぜひ行くべきと説得され、嫌々行ってみました。
景福宮駅から西の方向に歩いて行くと、非公開史跡の社稷公園があり、さらに西に行くとトンネルがあり、トンネルを抜けて都市高速の入り口を越えると独立門がありました。
地下鉄3号線に乗れば、景福宮駅の次が独立門駅なのですけれども。
独立門には人がだれもいませんでした。

独立門の説明文によると、『この独立門は中国からの独立を記念して1897年に作られた記念碑』ということでありました。

 

竣工直後の独立門。中国から漢城義門(西大門)に向かう主要街道に作られた。当時としては、他を圧するような、なかなか大きな建造物であった。現在、こじんまりとした建物に感じるのは、朝鮮王朝末期と大韓民国の圧倒的な国力の差を表しており、今となっては周囲のビル1つにも満たないこじんまりとした建築物である

 

中国からの独立記念碑が正解・・・なのだが、日本は無関係ではない

朝鮮が中国から独立することができたのは、日清戦争が原因であって、山口県下関市の料亭春帆楼(しゅんぱんろう)での日清戦争の講和会議で朝鮮の独立が議題に上ったからであり、調印者は、日本側全権が伊藤博文陸奥宗光、清国側全権が李鴻章・李経方で、朝鮮王朝からの出席者はありませんでした。

ちなみに、日清戦争の講和会議が山口県下関市の料亭春帆楼で行われた理由は、幕末の志士時代より伊藤博文陸奥宗光らが行きつけた料亭であり、江戸幕府の禁令に反し、高杉晋作とつるんでこっそりフグを食べに行った気心知れた料亭であったという事情がありました。
伊藤博文が首相となった後、山口県令原保太郎に命じて春帆楼にフグ調理師免許を交付しています。

すぐ後に起こった日露戦争の講和会議はポーツマスでフォーマルに行わたのは、やっぱり気心知れた下関の料亭で寄り合って日清戦争の講和会議をしたというのが問題だったからで、ロシア、ドイツ、フランスの三国が日本に遼東半島の返還を勧告するという三国干渉が起こったときに、反論して突っぱねるということができなかった大きな原因となりました。

ほぼほぼ身内同士が馴染みの店で寄り集まってかたをつけた日清戦争講和条約である下関条約の中身は、

  • 朝鮮の独立
  • 台湾・遼東半島澎湖諸島の日本への割譲
  • 清から日本への2億テールの賠償金支払い
  • 清の一部市港の開港、最恵国待遇

でありました。

 

気心知れた下関の料亭で寄り合って講和会議というのが朝鮮独立の国際的な信用性という点で問題となった

さて、朝鮮独立と一口にいいますが、これは、朝鮮にとっては驚天動地の大事件で、建国以来どうすることもできなかった中国の実質植民地以下の属国待遇が永久に終了したということでした。

そんな重要なことを、伊藤博文陸奥宗光らが、行きつけの料亭に清国側全権、李鴻章・李経方呼び出して、寄り集まってかたをつけたわけで、そこに朝鮮代表がいなかったこともあいまって、本当にフォーマルな独立だったのか?という疑念が生じても仕方のないことでした。

かつて幕府役人の小栗上野介が、尊皇攘夷を叫んで満足しきっているド素人に複雑怪奇な外交を任せたら危ないと指摘していたのですが、その指摘どおり、この時代の明治政府のお偉方は、国際政治に関してはド素人といってよく、フォーマルな場でフォーマルな講和会議をする重要性について、とんと認識がなく、全権大使を呼んで話をつければ、それがどこであろうと問題なかろうと考えていたわけです。
これがその後100年以上続くトラブルの原因になるとは、その時の参加者は思い至らなかったわけす。

 

独立門の場所にあった迎恩門。実は、現在も迎恩門は独立門前に存在する。独立門前の古ぼけた2本の石柱は、木造部分がなくなった迎恩門そのもので、中国からの冊封使を迎えるために朝鮮王が出迎え、この門の下で「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼」を行った。
三跪九叩頭の礼とは、土下座よりひどい中国清朝の皇帝に対する臣下の究極的な服従を示す礼で、3回ひざまずき(三跪)、その都度音が出るくらい強く3回頭を地面に打ち付ける(九叩頭)、これを3度繰り返す(三跪九叩頭)というものであった。朝鮮王が冊封使を出迎える効果的な演出を要したため、敦義門(西大門)より2里離れた仁王山と鞍山に挟まれた谷間で、峠を越えた漢城側の下り坂に作られた。
横暴極まる中国の戦狼外交の典型であるが、中国は朝鮮に入国する際、西北以外から入国することは決してしなかった。というのも迷信深い高句麗人の末裔である朝鮮において、西北は乾(皇帝)の卦を表し、高句麗人は西北から来た者以外に決して隷属しないことを知っていたからである

竣工直後の独立門。後ろのハゲ山は、仁王山。現在はうっそうと木が茂る仁王山であるが、朝鮮王朝末期は、王宮を含めて漢城の住人が薪を採集するため、木を根こそぎ切ってしまったため、ハゲ山となった。現在の北朝鮮と変わらぬ惨状である。
朝鮮王の王宮や王宮関連施設は、お化け屋敷(ゴミ屋敷)かと見紛うほど木がボーボーに生えていたが、朝鮮王朝末期の人々は、それを高貴な証しとして認識するようになっていた。
ぶっちゃけたはなし、中国の冊封使は、ゴミ屋敷同然の朽ち果てた朝鮮王宮を確認しにわざわざ朝鮮までやってきていたのである。
朽ち果てた朝鮮王宮を確認するだけで充分だったのであるが、それでは面白くないということで、三跪九叩頭の礼をさせ、酒池肉林の接待をさせたのである。
朝鮮王朝末期、外国人、特に日本人が漢城にやってきて、ゴミ屋敷同然の王宮を見て、なんじゃこりゃと腰を抜かしたのも無理はない


朝鮮からすれば、日本が朝鮮を冊封する目的があったと疑うに充分な根拠があった

時の朝鮮国王、高宗は、冊封使に迎恩門の下で三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼を未来永劫しなくてよくなったわけですから、うれしい話ではあったのですが、日本が中国に代わって朝鮮に冊封を要求するのではないかという疑念が拭えませんでした。
なぜなら、日本が、伊藤博文山県有朋なじみの料亭の寄り合いで、非公式と疑われても仕方のない場で朝鮮の独立を中国と合意したのは、日本が朝鮮を冊封する目的があったからではないかと疑うには充分な根拠となりえました。

朝鮮より格下の日本に対して迎恩門を作り、日本からの冊封使に迎恩門の下で三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼をするということだけはどうしても避けたいという高宗の考えがありました。

そこで、朝鮮一の秀才官僚、李完用が立ち回り、このタイミングで大々的に独立宣言を行い、朝鮮の独立は正式な独立であると宣言することになりました。

 

大韓民国独立後、朝鮮戦争後の独立門。上部の欄干が欠けているのは、北朝鮮軍の砲撃による破壊跡である。日本統治期、朝鮮総督府は独立門を破壊してもよさそうなものであるが、破壊しなかった。それは、朝鮮総督府が、独立門とは迎恩門の中国側に建てられた中国からの朝鮮独立の記念碑であるということを正しく理解していたからであった。実態はどうあれ、建前上、朝鮮の日本統治は中国の冊封のような野蛮な制度とは違うものでなければならないと朝鮮総督府が認識していたからであった。ただし、朝鮮総督府は腐っても日本陸軍の下部組織ゆえ、朝鮮の再独立絶対反対の立場を崩さず、「日本が日清戦争で勝利し、朝鮮を清の支配から独立させた」と朝鮮人を教育した。日本による朝鮮統治を正当化するためにも、小さな迎恩門が前方に大きく見え、独立門を後方とし、2つの史跡の主従関係をはっきりさせるように、迎恩門に近付きやすいように公園化された

北朝鮮占領期の独立門。横断幕には北朝鮮式のハングルで「朝鮮民主主義人民共和国万歳」と書いてある。写真は、スターリン金日成。中国の経済支援にべったり依存し、中国のいいなりの北朝鮮であるが、本音では中国が大嫌いなのである。独立門を木っ端微塵に破壊しなかったのは、李承晩の起こした漢江人道橋爆破事件のせいで韓国軍は一気に壊滅し、北朝鮮軍には南進を急ぐ必要から、独立門破壊に充分な時間的余裕がなかった理由も大きいのだが、迎恩門が特に多くの銃撃を受け、現在も多数の弾痕が残っているところをみても、北朝鮮も本音では中国が大嫌いなのである

日本の朝鮮冊封を牽制する目的で、中国の残虐な支配からの独立を記念する独立門を建設した

そこで建設されたのが独立門。
1896年11月21日定礎、1897年11月20日完成。徐載弼の案をもとにロシア人建築家のアファナシー・イバノビッチ・セレディン=サバチンが設計し(朝鮮総督府の発行した京城府史による)、韓国人建築家の沈宜錫が施工。

日本による朝鮮の冊封は是が非でも回避したい高宗の意向を反映し、ロシア人建築家に独立門の設計を委嘱したのでした。
扁額は、朝鮮一の秀才官僚、李完用の揮毫です。

 

中国共産党は、独立門の存在が気に障ってしかたがない

さて、21世紀にもなった2000年代の話しになりますが、独立門はいつしか、日本からの独立記念碑という認識が広がっていました。
最大の理由は李承晩大統領による極端な排日政策と、そこを源流とする反日利権、さらに韓国の反日利権の背後にある中国共産党の都合があったとされます。

中国の都合が反映された結果として、独立門毀損問題が発生し、親米保守政治勢力の牙城、ソウル市当局が反発して大問題となりました。
具体的には、ソウルの独立門は1945年8月15日の光復節を記念して作られた日本からの独立記念碑であり、独立門前にある2本の意味不明な古ぼけた石柱が邪魔だから撤去しようという話しでした。

 

そもそも、独立門は道の真ん中にあったので、韓国の経済発展の結果こうなった。もともと、仁王山と鞍山の間の谷間を通る街道にあった独立門であったが、ここから仁王山をブチ抜いてまっすぐ東に抜けると500m足らずで中央庁(旧朝鮮総督府庁舎)など政府庁舎のあった景福宮前に出ることができるため、ソウルの都市化拡大に伴い、社稷路が延長され、道の途中にあった独立門は交差点となった。
独立門交差点の交通量は急増し、渋滞が恒常的に青瓦台(大統領府)前を越え、景福宮前にまで達する状況となったため、青瓦台の機能麻痺という国家安全保障上の問題となったため、都市高速内部循環路の支線、奉元高架道路に接続する独立門交差点立体交差化事業(峴底高架道路)が行われた。
そこで、独立門が邪魔になったため、撤去する案が挙がった。
この頃、独立門は1945年8月15日の光復節の記念碑であるという認識が広まっており、日帝遺産の清算ということが盛んに喧伝されていた時代でもあったため、独立門が清算すべき日帝遺産に挙がったのである。
さすがにそれは誤り・・・ということで、ソウル市は高架橋の掛からない位置に独立門を移設することにした。
独立門が清算すべき日帝遺産と主張する意見は非常に執拗で、独立門を移設保存するなら、日本からの独立と関係のない独立門前にある2本の古ぼけた意味不明な石柱を撤去すべきという意見が根強かった


独立門はあくまで迎恩門付属の記念碑であって、大事なのは独立門前の2本の古ぼけた石柱、迎恩門である

実は、この古ぼけた2本の石柱は、木造部分がなくなった迎恩門そのもので、中国からの冊封使を迎えるために朝鮮王が出迎え、この門の下で「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼」を行いました。
三跪九叩頭の礼とは、土下座よりひどい中国清朝の皇帝に対する臣下の究極的な服従を示す礼で、3回ひざまずき(三跪)、その都度音が出るくらい強く3回頭を地面に打ち付ける(九叩頭)、これを3度繰り返す(三跪九叩頭)というものでした。
これをやれば、当然、朝鮮王は、額に裂傷を負い、血が出ます。

冊封使の前では、いかなるときも朝鮮王は額の怪我を晒さねばならず、面子は丸潰れです。
血が出ないような甘っちょろいやり方をすれば、ふざけるなということで、冊封使からどんな制裁が下るかわかったものではありませんでした。
つまり、朝鮮王の面子を徹底的に潰すため、冊封使は三跪九叩頭の礼を朝鮮王に要求したのでした。

独立門とは、この迎恩門の中国側に建てられた中国の覇権を遮る象徴性を有した朝鮮独立の記念碑であり、朝鮮建国以来続いた冊封の終了の宣言として、迎恩門の木造の屋根部分を破壊したのでした。
このやりかたを考案したのは、朝鮮一の秀才官僚、李完用でありました。
日本の冊封開始に対する牽制の意図もあったとはいえ、実際に日本の冊封が起こっていないうちに冊封反対の記念碑をつくろうものならヤブヘビになりかねないため、中国の残虐な支配からの独立を記念する記念碑を作ったということになります。
ただ、これは、あまりにも侮辱が過ぎるということで、現在も、このことを中国共産党は非常に問題視しています。

独立門は、朝鮮王朝時代から存在する現在の統一路上にあり、交通の邪魔となることから、道路脇に移転することとなったのですが、この際、独立門前にある2本の古ぼけた石柱を撤去したらどうかという話しになったのでした。
しかし、このことが朝鮮日報中央日報か(両方であったように記憶している)で報じられたことで、炎上しました。
独立門はあくまで迎恩門付属の記念碑であって、大事なのは2本の古ぼけた石柱、迎恩門だということで大騒ぎになり、古ぼけた2本の石柱は残されることになりました。

韓国に独立門の写真は数多く存在するのですが、2本の古ぼけた石柱とともに独立門を置くのが正しい構図であり、独立門だけが写っている写真は、いくら綺麗でも、撮影者は史跡の意図を理解しているとはいえません。