大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

韓国の前政権である朝鮮王朝の組織と、政権と、朝鮮王家は現存している

朝鮮王朝の組織と、政権と、朝鮮王家は現存している

朝鮮半島の独立は、1910年に失われたが・・・

朝鮮王朝は、1897年頃、中国の清王朝との冊封関係を清算し(独立し)、国号を『大韓帝国』と改めました。
現在の大韓民国とよく似た名前ですが、実態は、朝鮮王朝そのものです。

初代大韓帝国皇帝高宗の国際情勢の無知を原因とする相次ぐ失政がもとで、急速に国家が傾き、1910年の韓国(大韓帝国)併合により、朝鮮半島の独立が失われます。

朝鮮半島大日本帝国の占領に落ちたのですから、朝鮮王朝の組織と朝鮮王家は当然消滅したと思われる方も多いと思います。
しかし実際は、朝鮮王朝の組織と朝鮮王家は消滅しませんでした。

 

学校の教科書では教えない朝鮮統治の丸秘計画

大日本帝国の当初目指した朝鮮統治の形態とは、朝鮮王朝の組織と李王家を近代的なもの、親日的なものに改造した後、朝鮮半島を再び統治させるというものでした。

だからこそ、朝鮮王朝の組織と朝鮮王家を温存する必要がありました。

その影響で、朝鮮王朝の組織は、社団法人全州李氏大同宗約院として、韓国ソウル市鐘路区に現存していますし、朝鮮王家は、韓国に全州李氏の名前で現存しています。

弱体化していた朝鮮王家の強化を目的として、天皇家(女性皇族)との間では数多くの政略的結婚が行われ、李王家と天皇家の合体が進められました。

そのため、全州李氏と日本の天皇家は、親戚関係にあります。

なぜそうするかというと、1910年当時の日本の経済力はあまりにも小さく、軍艦一隻建造するにも死ぬほど苦労するほどの貧乏国家。
日本に朝鮮半島の面倒をみるほどの経済力がないというのがその理由です。

この統治計画は、後に破綻し、朝鮮は世界最強の反日国家と化してしまうわけですが、計画が破綻した背景には、朝鮮総督府を統括する日本陸軍の暴走があります。

 

 

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朝鮮王朝最後の皇太子 英親王(李 垠)(イ ウン)

皇太子の本名は、一般の韓国人が使わないよう、変わった名前『垠』にされた。
日本の植民地時代には、皇族風に、昌徳宮李王垠(しょうとくのみやりおうぎん)となった。
この名前が、日本の戦後処理の時、李垠が朝鮮王であるという根拠に利用された。

非常に美男子であったことから、当時日本人女性から非常に人気が高かった。
李 垠は、妻との不仲に人生を翻弄された父を反面教師とし、非常に愛妻家であった。妻は梨本宮方子。
朝鮮半島再統治の使命を帯びて、ほとんど名誉職の日本陸軍少将に任官したが、実際に任官してみると、朝鮮総督府からは疎んじられ、専ら、日本内地の困難な仕事がまわってくることがしばしばであった。
司令官として2.26事件の鎮圧に駆りだされたのもその一例である。
2.26事件繋がりで、後の朴正煕大統領からは非常に尊敬され、皇太子としては特別に王墓である宗廟、永寧殿に祀られた。
韓国国内的には王として即位していなかったにも関わらず、日本国の公文書上で即位したことになっていることに鑑み、英親王という国王の称号を贈られたという。

 

大日本帝国政府の中核であった伊藤博文は、必要以上に朝鮮王族の面倒をみた

伊藤博文は、日本に連れてこられた英親王(李 垠)を、ことのほか親身になって面倒をみました。
これは、政略的な深謀遠慮からというよりは、人並外れた人情家であった伊藤博文の性格によるものと思われます。
親王(李 垠)も伊藤博文が大好きだったといいます(このことが後に、李承晩大統領の癪に触った)。

東京の都会暮らしに馴染めなく苦労していた英親王をみかねて、伊藤博文1903年に継承者がなく断絶し、管理する者がいなくなっていた小松宮邸(現:三島市楽寿園)を李王家の別邸としたところ、英親王(李 垠)はことのほか気に入り、『昌徳宮』と名付け、太平洋戦争終結までここに住みました。

親王は、楽寿園をとても大切に扱ったので、古い建物ですが、建物は現存することになりました。

 

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親王の住居であった三島市楽寿園
現在、三島市楽寿園では、楽寿館の公開を行っているが、案内員の説明では、旧小松宮邸としての説明だけが行われ、昌徳宮時代があったことや、英親王についての説明は一切ない。
当主である英親王(李 垠:イ ウン)は、韓国独立時に、静岡県三島市にある現在の楽寿園に住んでいたが、李承晩大統領から国外追放処分を受けた。そこで、朝鮮籍問題が一段落した昭和32年日本国籍を取得し、日本人「李 垠:り ぎん」となった(昭和37年、朴正煕大統領により韓国国籍回復)。
大日本帝国陸軍軍事参議官(大日本帝国国家公務員)であったため、公職追放となり失職し、日本国憲法成立にともなう王公族制度廃止により、生活の手段を断たれた英親王は、楽寿園を売却することで糊口をしのごうとした。楽寿園を買い取って英親王の財政危機を救ったのが伊豆出身の資産家・緒明圭造であった。これがまったくの善意であったのは、現在も楽寿園の屋敷と土地がそのまま残っていることからもわかる。
新幹線の止まる三島駅の真ん前の立地なので、住宅地開発でもすれば、よほど儲かっていたに違いなかったが、現在も昔日の面影をとどめている。

 

朝鮮王朝の政権が残存する理由となった外籍日本人問題

さて、植民地になった韓国人(大韓帝国臣民)は、戦前、何人(なにじん)と呼ばれたのでしょうか?
答えは、『日本人』です。

日本人には現在の日本国内で生まれた内籍人と、その他で生まれた外籍人がおり、韓国人(大韓帝国臣民)は、『日本人(外籍:朝鮮)』となりました。

朝鮮人」が蔑称として使われた背景には、内籍人の中に、外籍人を日本人とは絶対に認めてやらないぞという差別意識があったためです。

ちなみに、日本から朝鮮に移住した内籍人(日本人)両親から生まれた子供も『日本人(外籍:朝鮮)』となりましたから、民族上の韓国人と日本人の間には、特に差別的取り扱いはありませんでした。

外籍人を日本人とは絶対に認めてやらないぞという差別主義者は、日本から朝鮮に移住した内籍人(日本人)両親から生まれた子供も、「朝鮮人」と罵って徹底的にいじめぬきました。

 

血縁主義の戸籍という制度をよく理解していなかったGHQ特別永住者問題を引き起す

日本が戦争に負けて、1948年に韓国と北朝鮮という国家が朝鮮半島にできました。
アジア諸国が一体となって日本人を名乗るなどもってのほかと考えるアメリカ(GHQ)は、外籍人に、日本国籍を捨て、新しく建国された国の国籍を名乗るように命令を出します。

大韓帝国臣民には、韓国籍大韓民国籍)か、北朝鮮籍か選択することを迫りました。
民族上の韓国人は、どっちかを選べばよかったわけです。

ところが、日本人移住者の子どもが困ったことになってしまった

生まれた場所が旧大韓帝国だと、韓国籍大韓民国籍)か、北朝鮮籍か選択する必要があります。
しかし、民族的には日本人です。

しかし、属地主義の住民登録しか知らないGHQは、韓国籍大韓民国籍)か、北朝鮮籍か選択することを要求しました。

しかし、受け入れ側である大韓民国朝鮮民主主義人民共和国も、宿敵日本人の受け入れは拒否しました。

 

本来、特別永住者制度は、朝鮮半島の日本人移住者の子どもの身分を保証する制度
この制度を作るために、朝鮮王朝の政権を日本の公文書上に残した

というわけで、困った日本政府は、日本にいた英親王と相談し、朝鮮半島出身の日本人移住者の子供は、朝鮮半島の旧政権である大韓帝国(朝鮮王朝)が引き受けることとし、『朝鮮籍(国籍を朝鮮王朝とする)』とするという、なんとも玉虫色の決着が図られることになりました。

本来ならば、朝鮮籍をGHQに認めさせるには、日本が植民地化する前の政権である大韓帝国の了承が必要です。
幸い、大韓帝国は朝鮮王の独裁国家でありました。
つまり、大韓帝国の皇帝の了承があればOKということになります。

大韓帝国憲法である経国大典によれば、王位継承者第一位は李垠であり、即位さえしていれば、大韓帝国の皇帝ということができます。
李垠の了承はとれていたので、GHQに李垠が大韓帝国の皇帝であるということをいかにして認めさせるべきかが重要な問題でした。

この当時、李垠の本名は、昌徳宮李王垠(しょうとくのみやりおうぎん)でしたから、名前に『李王』とついています。
英語に翻訳すれば「King of Lee」なので、GHQを充分説得することができました。

また、この命令が発令された時点で、『朝鮮籍保有者となる人々は、全員日本人であったため、日本人としての権利は引き続き保証する必要があるので、『朝鮮籍保有者は、日本人同様の権利が保証されました。
いわゆる『特別永住者』という人々です。

こうして、内籍人(日本人)両親から生まれた子供『日本人(外籍:朝鮮)』の人々の日本国籍離脱を無理矢理に認めさせることができました。

 

この微妙な時期に、済州島四・三事件(住民大虐殺事件)を起こして、日本政府を混乱のるつぼに陥れた李承晩大統領

さて、朝鮮籍編纂の時期に、李承晩大統領が済州島四・三事件を引き起こし、日本への大量の逃亡難民を発生させたのは、よく知られているところです。

本来は朝鮮半島出身の日本人を登録するはずであった朝鮮籍に、逃亡難民が多数登録され、どさくさに紛れて、日本在住の韓国人、北朝鮮人まで登録されてしまったのでありました。

というのも、当時日本は、韓国、北朝鮮双方と国交断絶状態にありました。
逃亡難民は強制送還されなければなりませんでした。
強制送還されれば、絶対に虐殺されることは明白でした。
実際、強制送還されて、殺された人が多くいたという噂が残っています。

そこで、頭の良い者で、かつ幸運な者は、禁じ手ともいえる方法を用い、強制送還を免れました。

 

済州島四・三事件避難民で生き残れたのは、戸籍法に詳しい相当に頭の良い者で、かつ、たった1年間だけ存在した幸運を掴んだ者だけだった

当時、大都市の役所が空襲で焼けたため、戸籍の原本・副本ともに焼失した例があり、昭和25年頃まで、戸籍再製が行われていました。

この期間は、戸籍法11条により、申し出により、戸籍担当職員の職権で戸籍作成が可能でした。
済州島四・三事件は昭和23年の出来事なので、日本への避難から約1年間、申し出により、日本に戸籍を作ることが理論上可能でした。

ただし、日本語が不自由な人が多く、地方に、ある程度参照可能な戸籍が残っている日本の内地の戸籍を申し出ることは危険だったので、内地の戸籍を申し出る者は限られ、外地(朝鮮)戸籍を申し出る者が多かったといいます。

言葉の通じない外国で、実在しない日本人の父親、母親の名前、生年月日、出生地、結婚日、子の出生日等々、戸籍に記録されている内容を、矛盾なく、漏れなく網羅した立証資料を1年以内に集めるのは、素人にはまず無理といわれる難行。
言葉の通じない外国で、しかも行政事務要領が母国とまったく異なる国で申請するわけですから、韓国人弁護士がやっても相当難しいと思います。

しかし、命がかかっているだけに、やり抜いたんですね。

完璧に立証資料が揃っていれば、外地(朝鮮)戸籍の原本・副本は、国交のない大韓民国に存在しましたから、戸籍法11条により、逃亡難民の言うとおりに戸籍を作成せざるをえませんでした。

ちなみに、大韓民国にあった外地(朝鮮)戸籍の原本・副本は、1950〜1953年、3年間続いた朝鮮戦争で毀損してしまいます。
避難民にとっては幸運なことに、日本と大韓民国と国交が再開しても、済州島避難民の追跡は不可能となってしまったのです。

そして、外地(朝鮮)戸籍は再製されるわけですが、外籍(朝鮮)者は、大韓民国籍も北朝鮮国籍も選択しない場合、自動的に『朝鮮籍保有者となるので、いわゆる『特別永住者』となりました。

この責任は誰にあるのかというと、済州島四・三事件を引き起こし、済州島住民を全滅させたにとどまらず、日本国に想定外の大迷惑な事態を引き起こした李承晩大統領です。

さらに、昭和20〜26年は、日本はアメリカ合衆国の占領下にあり、国家主権は存在しませんでした。
すなわち、行政上の不備の責任はアメリカ合衆国にあります。
アメリカに対し、遡って行政事務の不備を追求できる人は、事実上だれもいません。

晴れて『朝鮮籍保有者となり、命を繋いだ済州島避難民は、世界史上にたった1年間存在した幸運を、死闘の末、自らに引き寄せた人達だったといえます。

特別永住者』は、建前上、戦後処理で処理しきれず先送りにされた日本人(外籍人)のなれの果てなので、帰るべき国は日本であるというのが国際的な認識となっています。