大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

韓国史上最高の料理人、黄慧性(ファン ヘソン)

韓尚宮と並ぶ韓国史上最高の料理人、黄慧性(ファン ヘソン)

筑紫高女、京都女子高等専門学校(現 京都女子大)卒

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1920年、日本の植民地下の韓国忠清南道天安の両班(貴族)の家に生まれました。

非常に頭の良い娘であったことから、当時では珍しく高等教育を受けることとなり、女学校3年の時に福岡の筑紫高女に転校することとなりました。

その後、京都女子高等専門学校(現 京都女子大)に進学し、卒業後、大田の女学校の教師となりました。
当時の韓国人女性の中では、トップエリートでした。

黄慧性(ファン ヘソン)は、日本語もかなり堪能で、はんなりとした京都弁を喋る快活なおばあさんと記憶している人もたくさんいます。
2006年に亡くなる直前まで、世界中を飛び回る生活をしており、日本にも頻繁に訪れています。

 

ソウルの淑明女子専門学校に就職し、小田校長と出会ったのが人生の転機

23歳でソウルの淑明女子専門学校の家政科の教師になったのが人生の転換点だったそうです。

当時、韓国に西洋的飲食文化を導入し、遅れた韓国文化を刷新しようと意気込んでいたそうなんですが、そんな折、淑明女子専門学校の小田校長に呼ばれ、
『君は韓国人なのだから、韓国料理文化を子女に教育すべきです』
と言われ、面食らったといいます。

今になってみれば、小田校長のような考え方こそ真っ当で進歩的考え方といえますが、その時代の韓国人にとって、悪弊にまみれた朝鮮王朝の文化は捨ててしかるべきという考え方が進歩的だと考えられていたというのですから、小田校長の考え方がいかに普通ではなかったかがわかります。

 

日帝時代、朝鮮を支配した軍部は最悪であったが、朝鮮に渡った民間の日本人は、進歩的で開明的な人が多かった

当時、朝鮮総督府中枢こそ、権力欲と名誉欲に凝り固まった困った人たちが多かったものの、下級吏員はもとより、特に民間人に関しては、進歩的で開明的な人が多かったといわれております。

日本内地には、保守的で国粋主義的思想で頭の凝り固まった人が多かったのですが、あえて外地、例えば朝鮮とか台湾とかに出て行こうとする人たちは、進歩的で開明的な人が多かったといいます。

このことは、当時京城在住であった盲目の箏演奏家であった宮城道雄が証言していますが、21世紀の日本人の間では、ほとんど知られていません。

そんなわけで、韓国では、困った日本人の巣窟であった植民地時代の朝鮮総督府庁舎こそ取り壊されましたが、進歩的で開明的な人が市長なり駅長なりを務めた植民地時代の建物であるソウル市庁舎、ソウル駅舎など多くの建物は文化財として大切に保存されています。

 

小田校長が奔走し、黄慧性を朝鮮王宮に送り込む

ともあれ、小田校長の奔走で、朝鮮王族の隠居する昌徳宮の楽善斎に派遣されることになり、焼酎房(ソジュバン)を仕切っていた韓熙順尚宮のところにやってくることになりました。

これは、現代でいえば、一介の新任教師を宮内庁大膳課に送り込むのと同じことで、小田校長の行動力たるや、恐るべしと言わざるをえません。

当然のことながら、黄慧性を受け入れることになった昌徳宮楽善斎焼酎房は、どうしたらいいかわからず、たいへん困惑したといいます。

ちなみに、13歳で宮廷入りし、混乱の韓末期のいつ謀殺されるかわからなかった危険な宮廷を生き抜いた叩き上げの技術者でもあった韓尚宮にとって、海外留学の経験もある西洋かぶれしたトップエリートの黄慧性は大の苦手だったようです。
とにかく韓尚宮は、黄慧性氏に対し、3年間、一言も口をきかなかったのだそうです。

 

楽善斎派遣と同時に、韓国料理文化の授業も担当させた小田校長のムチャ振りもすごい

とにかく、黄慧性に対し、3年間、一言も口をきかなかった韓尚宮、恐るべし。

普通なら逃げ出すところ、踏みとどまった黄慧性の根性もたいしたもの。

ここらへんのエピソードは韓国ドラマ『大長今』の登場人物の性格付けにも反映されています。

ただ、黄慧性は、楽善斎派遣と同時に、韓国料理文化の授業も担当させられていました。

楽善斎で勉強して、覚えてきてから・・・ではなく、ちゃんとできなくてもいいから、同時進行でやれ・・・という小田校長のムチャ振りは、明治生まれの日本人に共通したとても楽天的かつチャレンジ精神旺盛な、今の日本人からは失われた性格といってもよいでしょう。

この時代は、現代日本とは比較にならないほどブラックな勤務環境が横行していましたが、それでもやっていけたのは、重箱の隅をつついてライバルの足をひっぱって陥れるような陰湿さはなく、とても楽天的かつチャレンジ精神旺盛な職場環境だったからといわれています。

 

ようやく韓尚宮に根性を認められ・・・

黙って突っ立っているだけでは、授業はできないので、写経坊主よろしく、韓尚宮のやることを片っ端からメモしていって、それを授業で教えるということをしていきました。

最終的には、韓尚宮は黄慧性氏の根性を認めて、言葉で調理法を説明し、みずから料理を作りながら教える方法で黄慧性氏に宮廷料理を教えていくことになります。

 

時代は戦後へ。韓国が独立を果たすと、日本政府の後援を失った朝鮮王族は離散した

太平洋戦争終結の3年後、韓国が独立を果たしますが、王族にとっては、今まで生活費を支給していた日本政府の後援がなくなってしまいました。

また、悪夢だったのは、旧王族の王政復古を疑う李承晩が大統領になったことでした。
収入を断たれ、生活費に困窮するようになり、これをきっかけに、旧王族は離散します。

当主である英親王(李 垠:イ ウン)は、韓国独立時に、静岡県三島市にある現在の楽寿園に住んでいたのですが、李承晩大統領から国外追放処分を受けます。

生活の手段を断たれた英親王は、楽寿園を売却することで糊口をしのごうとしました。

戦時中、暴走を重ねる軍部中枢にあって、果たせなかったけれど、精一杯日本軍部の正常化に奔走した英親王の日本での活躍をよく知っていた伊豆出身の資産家・緒明圭造は、楽寿園を買い取って英親王の財政危機を救ったのでした。

これがまったくの善意であったのは、現在も楽寿園の屋敷と土地がそのまま残っていることからもわかります。
新幹線の止まる三島駅の真ん前の立地ですから、住宅地開発でもすれば、よほど儲かっていたに違いありません。

日本にいる王族がこの体たらくであったので、李承晩のいる大統領府(景武台)目の前にあった昌徳宮にいた王族は、同族会(全州李氏大同宗約院)からの支援を受け、細々と食い繋ぐしかありませんでした。

 

朝鮮王族には、貧乏な直系、裕福な傍系という内部事情があり、直系が傍系に養われることで命脈を繋いだ

全州李氏の族譜をみればわかりますが、朝鮮王朝初期の王の傍系は、領地の分け前をたくさんもらっているのでお金持ちですが、国政運営の失敗を重ねた朝鮮王朝末期の直系の王族は貧乏でした。

朝鮮王朝末期出自の傍系ともなるとスカンピンで、あまりの貧乏ぶりに、日本に亡命する者も続出する有様でした。
つまり、昌徳宮にいた王族は、朝鮮王朝初期の傍系に養ってもらわなければ生きていけない有様でした。

 

第二次世界大戦後の混乱期が、韓尚宮と黄慧性の立場を逆転させた

宮廷でしか生きる術を知らない韓尚宮と、経済・学問に明るい黄慧性との立場がこの時から逆転しはじめます。

黄慧性は、淑明女子専門学校に勤める傍ら、韓国宮廷料理の文化を数多くの論文にまとめ、学会で発表していきます。
これが、当時の文書至上主義的かつ権威至上主義的であった韓国政府中枢部から、逆に注目されるようになっていきます。

一方で、宮廷料理教室を主宰し、黄慧性氏は宮廷料理の文化を学問として、広く一般の韓国人に教え広めていくようになります。

宮廷料理の文化が知識人階級に広まるにつ入れ、宮廷料理のレストランの経営をはじめ、広く一般の韓国人に宮廷料理を普及していくこととなります。

宮廷料理のレストランの経営については、資金調達を巡るゴタゴタが絶えなかったようですが、政府主催の分科会等がある時は、韓尚宮ら昌徳宮にいた女官たちを動員してとびきりの宮中名菜を試食に供したといいます。

食品衛生に対する考え方は、朝鮮王朝がなくなってから非常に大きな変化を遂げたのですが、これについても、韓尚宮が現役で活躍していたからこそ、新しい食品衛生を取り入れた時代に即した朝鮮王朝宮廷料理にまとめあげることが可能でした。

朝鮮王朝の文化で失われたものは数多くあるのですが、宮廷料理に限っては、何一つ失われることなく、1971年に朝鮮王朝宮廷料理が重要無形文化財第38号に指定されることになりました。