大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

韓国のファーストレディー、歴代ぶっちぎりNo.1の陸英修(ユギョンス)

韓国のファーストレディー、歴代ぶっちぎりのNo.1

現在も大韓民国の「国母」といえば、陸英修(ユギョンス)

普通、韓国大統領夫人というと、政治の表舞台に出ることはほとんどありません。

そのなかで、陸英修は別格。
大韓民国大統領・朴正煕の妻ということで知られています。

社会福祉政策、教育政策に深く関わり、積極的にファーストレディとしての役目を果たし続けました。
そんなこんなで、現在も韓国国民には「国母」と呼ばれ、尊敬されています。

 

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朴正煕と陸英修
もともとチマチョゴリはほとんど着ない人だったが、朴正煕が大統領に就任してからは、イメージ戦略上の作戦もあって、いつも着るようにしていた。とはいえ、伝統的下着では用便しずらい問題があったので、現在広く普及しているチマチョゴリ用下着のトンチマを考案し、愛用した。写真のチマチョゴリは、現在のチマチョゴリと仕立てが違って、厚手の紬に近い生地で、筒袖ではない。

 

陸英修は、実は、朴正煕大統領の3番目の妻

ちなみに、朴正煕には、現在確認されている中で、少なくとも3人の妻がいます。

最初の妻は、朝鮮王朝時代の慣例に則り、親が一方的に決めた妻、金浩南

二番目の妻は、李現蘭
朴正煕は金好南が大嫌いで、女の子1人産ませたものの、それっきり金浩南の前からは姿をくらまし、梨花女子大生だった李現蘭のところに出入りしていた(陸軍士官学校教官であるという身分を利用して、梨花女子大の女子寮に出入りしていた)といいます。

朴正煕を将来有望な若手将校として高く評価していた李現蘭の親族に対する体面を繕うために、金浩南との婚姻関係を隠したまま結婚式を挙げるという暴挙を行っています。
金好南との婚姻関係が存在することが後にバレて、李現蘭は逃げ出し、金浩南も家出し、金浩南の父親からは、二度と結婚できないようにと離婚を認めないという扱いを受けています。

この頃の正煕は、親しい部下の下宿を訪ねては、べろんべろんに酔いつぶれ、正体もなく泣いていたといいます。

梨花女子大女子寮出入事件と、李現蘭との重婚事件のせいで、朴正煕の信用はガタ落ちでしたが、朴正煕という人は運が強い。
積み重なった悪評を吹っ飛ばす事件が勃発しました。
朝鮮戦争です。この戦争で甚だ多くの犠牲者が出た関係で、戦争前の醜聞など、どうでもよくなってしまいました。

三番目の妻の陸英修と結婚したのはそんな時期です。

 

陸英修が両親の反対を押し切り、重婚事件を起こした朴正煕に、2人の先妻との離縁を迫り、結婚を迫った(もうムチャクチャでんがな・・・)

陸英修は、朴正煕の上官の陸鍾寬の娘で、朴正煕が女子寮に出入りしていた梨花女子大出身。比較的裕福であった陸鍾寬邸の家産の管理を一手に引き受け、仕事上の成り行きで(わりと公私混同が横行する韓国特有の事情で)陸軍にも出入りしていたようです。

朴正煕が陸英修をみつけたというより、陸軍に出入りしていた陸英修が目敏く出世株の朴正煕に目をつけたというのが真相のよう。
それまで、女性から押し切られるという経験が全くなかった朴正煕は、情熱的に迫る陸英修にあっというまにのぼせあがり、結婚することに。

釜山の影島で結婚の契りを交わすにあたって、過去の醜聞の件もあり、なかなか気持ちの踏ん切りがつかなかった朴正煕は、酒を飲んで酔っ払って結婚の申し込みに行ったという逸話がのこっています。
噂では、同僚が気を利かせて、気の小さな朴正煕と陸鍾寬との間をとりもって、「酒を飲ませてでも連れて来い」との言質を陸鍾寬からとったということのようです。

陸鍾寬も、朴正煕の醜聞を充分に把握した上での許婚だったため、そのとき邪魔だった金浩南の戸籍の処理に協力しています。

 

陸英修のムチャぶりはとどまるところを知らず・・・

ちなみに、現在でもそうですが、韓国人女性が男性に情熱的に迫るということは、あまりありません。
不作法なことと考える人が多いです。それからすると、陸英修という人は、相当ぶっ飛んだ性格の人だったということになります。

  

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 母:陸英修と娘:朴槿恵
朴槿恵氏の目は父親の朴正煕似だが、それ以外は母の陸英修と瓜二つである。
性格も母の陸英修と良く似て、喧嘩っ早く、ハチャメチャであるとのもっぱらのうわさである。朴槿恵氏の癇癪には、朴正煕も手を焼いたという。
陸英修暗殺後、朴正煕が再三の再婚の申し出を断ったのは、陸英修に生き写しであった朴槿恵氏の外見と性格に理由があったといわれる。


朴正煕と結婚するまで、洋服が似合うような非常に活動的な人で、キャリアウーマンだったのですが、朴正煕が大統領になると、公の場では、チマチョゴリ以外の服は着なくなります。

とはいえ、異例の高学歴であったプライドは終生あったようで、対外的には非常に家庭的な妻を演じてはいたものの、料理・洗濯・掃除など家事全般はサボったり、他人(大抵、大統領府職員)に押し付けて逃げたりするのは常習犯だったとのこと。

 

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朴正煕は、怒ると、たとえ陸英修の忠告であってもまったく耳を貸さないほどの頑固な独裁者であった。だから、陸英修が政治に口をだしたことはなかったという。ただし、朴正煕の浮気が原因であった『陸朴戦』が勃発すると、陸英修の怒りはすさまじく、お前に殺される前にぶっ殺してやると言って包丁を持ち出す勢いだったという。朴正煕は、何だかんだ言って、陸英修が好きだったから、尻尾をまいて逃げ出したという。
前日『陸朴戦』があったかどうかは、正煕の怪我や、陸英修に対する態度をみれば、だいたいわかったという。朴正煕は、『陸朴戦』対策として、中央情報部(KCIA)に命じてソウル市内の各所に避難所(安家)を建設した。浮気癖が治らなかった朴正煕は、ついでに安家を利用して、浮気に興じるようになっていった。
大統領府で『陸朴戦』が比較的頻繁に起こったのは、最高国家機密であった朴正煕の浮気を、陸英修が、どのようにしたかは知らないが、察知してしまったためである。

 

歴代ぶっちぎりNo.1のファーストレディーである理由は、冷徹な独裁者であった朴正煕を、韓国で唯一、懲らしめる人だったから

大統領府では朴正煕に唯一歯向かう人として、『青瓦台の野党』というニックネームもあり、朴正煕の独裁に批判的な国民からの人気を一身に集めていたそうです。
ただ、青瓦台の夫婦喧嘩、青瓦台職員の言う『陸朴戦(肉薄戦と発音が同じ)』の原因は、朴正煕の浮気に関するものに限られ、『陸朴戦』が始まると大抵、朴正煕が負けたと言います。
そもそも、朴正煕は、政治のことについて陸英修ですら口を出すこと許さなかったといいます。

陸英修は1974年、在日朝鮮人の文世光に暗殺され、生涯を閉じます。
陸英修が亡くなって以降、朴正煕の性格が急速に殺伐としたものになり、1979年10月26日、暗殺を招くことになってしまいます。