大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

外国人街 東部二村洞、漢南洞、梨泰院

外国人隔離政策がもたらしたソウルの中の外国

ソウルの中の日本

最近の日本人観光客にはあまりなじみのない街なのですが、龍山米軍基地の南に、東部二村洞という街があります。
この街の成り立ちには、日本と韓国の国交断絶の歴史が関わっています。

 

東部二村洞。中央の低層区画(漢江マンションアパート)が最も古い区画。韓国では、賃貸マンションも分譲マンションも、マンションとは言わず、アパートと言うが、あえてマンションという言葉を使っているあたり、韓国建国以来、はじめて日本人を受け入れる緊張と困惑の跡がみてとれる。

 

 

約30年間、日本と徹底的な国交断絶をした李承晩大統領

日本と韓国は、1948年の大韓民国建国以来、約30年間にわたって徹底的な国交断絶状態にありました。

 

李承晩大統領

侵略者を追放するというのが、李承晩大統領の大義名分であったのですが、実際のところ、この国交断絶状態にあった30年間、韓国では、市民の大虐殺の嵐が吹き荒れました。
本当に、あまりに多くの市民が虐殺されたため、漁船や小舟などで、命からがら日本へ逃亡する人が相次いだわけです。
晴れた波静かな時に出航すれば、たちまち韓国の沿岸警備隊や、日本の海上保安庁に拿捕されます。
韓国の沿岸警備隊に捕まれば、たちまち殺されますし、日本の海上保安庁ともなれば、問答無用で、艦砲で攻撃するであろうし、そうなれば、船もろとも木っ端微塵とされるだろうと考えられておりました。
韓国人からみて、日本の海上保安庁というと、旧日本陸軍の悪逆非道のイメージがあるわけです。

そこで、月明かりのない真っ暗な夜間、それも、韓国の沿岸警備隊や、日本の海上保安庁が危険で船を出さない嵐の最中に出航していきました。

 

日本との国交を回復した朴正煕大統領

日本が高度経済成長で、著しい経済発展を遂げていた頃、韓国では、政変が起っていました。
韓国陸軍少将朴正煕が 5・16軍事クーデターを起こし、国家再建最高会議議長に就任したのでした。
軍事クーデターの目的は、国家の建て直し、経済の建て直しにありました。

 

朴正煕大統領

この時代の韓国は、李承晩大統領の悪政のため疲弊し、バングラディシュ以下の経済状況であり、端境期の春になると、食糧が欠乏し、国民が木の根や山草を求め、仕事を放り出して野山を彷徨い歩くほどでした。
それゆえ、独裁政権、ことに軍事政権に対して、非常に厳しい態度で臨むのが原則のアメリカも、援助物資をたかるだけのタチの悪い乞食国家であった韓国の現状を少しでも変えるためには、朴正煕少将の軍事クーデターを黙認せざるをえませんでした。

これほどの経済困窮を打開するには、経済大国となった日本との関係を修復する以外にないというのは明白でした。
これを李承晩大統領は頑なに拒み、韓国を米軍の援助物資をたかるだけのタチの悪い乞食国家にしてしまったのでした。
大統領となった朴正煕がまず第一にしなければならなかったことは、いかにして敵性国家である日本を受け入れるかということでした。

ソウルの韓国人と地理的に隔絶した地域に日本人居住地域を作り、そこに日本人を受け入れるというのが妥当な結論でした。

韓国が高度経済成長を達成するためには、日本人を招聘し、事業を誘致することは避けて通れなかった。

大統領就任2年目にして、朴正煕大統領は、日本の佐藤栄作内閣総理大臣との間に、1965年6月22日日韓基本条約に署名。
国交回復を行ったのでした。

とはいえ、日本側も軍事色の強烈な朴正煕大統領を警戒し、実際に日本企業の韓国進出がはじまったのは、1970年代からでした。

なにせ、身分証不携帯で道を歩いていたならスパイ容疑で即刻逮捕(これは韓国人であっても同じだったのだけれど)。
地図を持っていただけでスパイ罪で逮捕される、道路で写真を撮っただけでスパイ罪で逮捕されるというような世情でした(今も国家保安法違反なのは変わらないのだが、逮捕されなくなっただけである)。
報道統制下にある韓国のマスコミ報道はまったく信用できるものではなかったので、日本大使館や領事館などが発信する無線とラジオは、在韓日本人の生命線でした。

そこで、日本人は、まとまって住む必要に迫られ、韓国政府の押し進める日本人隔離政策、東部二村洞への居住には、従う以外ない状況にありました。

 

東部二村洞、漢南洞、梨泰院。これらの地域は、山、川、米軍基地、鉄道で、韓国人居住地域からは隔離されていた。例外的に龍山解放村が梨泰院近くにあった。なお、現在はこれらの地域周辺にも韓国人の住宅が密集しているが、後からできた韓国人の住宅周辺は、スプロール化しており、街の区画がグチャグチャなので、一目瞭然である。

 

もし、東部二村洞以外に住もうとしたら?
基本的に、在日韓国人という存在があるため、韓国政府の押し進めた日本人隔離政策は、完全に実施することは困難でした。
これは、李承晩大統領が自国民を大量虐殺し、日本に逃亡した大量の避難民を出した結果でもありました。
そこで、日本人が東部二村洞以外に住むことは不可能ではありませんでした。

ただし、東部二村洞以外に住もうとする日本人に対しては、敵性国民というレッテルと弾圧が待っていました。

日常的な警察による監視活動、KCIAの尾行と素行調査は回避不可能でした。
それだけでなく、日本人に家を貸した大家さん、自治会の人々が片っ端から警察に呼ばれ、終生、身体に障害が残るような暴力的な尋問を受けることもしばしばでした。

東部二村洞以外に住むということは、安全を放棄するということを意味しました。
軍事政権時代の韓国という国は、そういう極めて危険な国でした。

今でもそうですが、東部二村洞、漢南洞、梨泰院界隈は、韓国でも治外法権的に取締りの少ない地域で、地図を持って歩いても、道路で写真を撮ってもお咎めなしで済みましたが、他所では、スパイ罪での逮捕は免れませんでした。
万が一、これらの地域で警察に捕まっても、日本国内同様の人権上の配慮がありましたし、警察も外交的に面倒な事になる可能性の高いこれらの地域の取締りは避けられました。

梨泰院に違法建築物が散在していたり、偽ブランド販売店があったりするのは、この時代の名残りで、今も警察の取り締まりが相当に緩いためです。

 

南山と龍山米軍基地に挟まれた隔絶の地

梨泰院と漢南洞、そして、東部二村洞は、南山と龍山米軍基地に挟まれ、韓国人が容易に到達できない地域でした。
最近まで、あえて地下鉄も首都圏電鉄も整備されませんでした。

 

梨泰院中心部。ハミルトンホテル裏。ここで有名な梨泰院雑踏圧死事故が起ったのであるが、なにを隠そう、この建物も公道にハミ出して建てられたれっきとした違法建築だったりする。ソウルなら普通取り締まられるくらい露骨な違法建築なのだが、伝統的に警察の取締りの緩い梨泰院ゆえ、これで通っている。

 

梨泰院。木造3階建てのビル。違法建築もここまでくればヤケクソである。これで火事にでもなったら30分で燃え尽きるのではないか。公道ハミ出しなんて、梨泰院ではおとなしいほうなのである。この自由闊達さが、若者の人気を集めているのだが、ムチャクチャ危ない。伝統的に警察の取締りの緩い梨泰院ゆえ、これで通っている。

梨泰院は南山の斜面にあり、在韓米軍の慰安所として開設されました。
自由の国、民主主義の国、アメリカの文化を持つ在韓米軍の軍人も、独裁国家の韓国からすると、かなり厄介な存在で、韓国の政権を脅かさないよう、厳重に隔離されました。

特にアメリカ人は、娯楽がないと、なにをするかわからないと考えられたこともあって、梨泰院の地に、娯楽の殿堂を建設することは国家的課題でした。

漢南洞は梨泰院の下の比較的平坦な地域です。それ以外の国の外交官なども、独裁国家の韓国からすると、かなり厄介な存在で、韓国の政権を脅かさないよう、厳重に隔離されました。

漢南洞では、欧米西側諸国同等の生活水準が保証され、韓国語の使用の必要は一切ないという特別な地域でした。

どちらかというと、対米軍の隔離政策が徹底していたのに対し、欧米西側諸国に対しては比較的扱いは緩やかでした。

梨泰院へ行くにはタクシーに乗るしかありませんでしたが、漢南洞へは、タクシー以外では、壁がサビて穴の開いたオンボロ列車がのんびり運行する京元線(通称:龍山線)に乗って行くことができたという扱いの差に表われていました。

 

漢南洞。奥の小さな家が密集している区画は普光洞。南山トンネルが開通して便利になると、韓国人も家を建てるようになったが、スプロール化が著しかった。

 

漢南洞。ヨーロッパ的デザインの建築物が多い。現在も超高級住宅街である。

 

当初、日本人居住区も漢南洞あたりに整備される方向で検討されていましたが、漢南洞は狭かった。
さらに、日本人はまず英語ができないし、食べるものも欧米西側諸国と根本的に異なります。

そんなわけで、龍山米軍基地と漢江に挟まれた比較的広い未開発区画、東部二村洞が日本人居住区として整備されることになりました。
東部二村洞に住む日本人が買い物や遊びに行く場所として、当初、梨泰院が想定されていたのですが、アメリカ人とは根本的に嗜好が異なり、純日本的な居酒屋や小料理屋が好まれたという特殊事情から、東部二村洞に専用のスーパーや飲み屋街が整備されることとなりました。

 

東部二村洞。高級感はないが、さりとて、オンボロでもない。日本と変わらない住環境を整備するという目的で、あえて1970年代の多摩ニュータウンのような団地に似せたデザインの団地が整備された。漢南洞をみればわかるが、当時、韓国にはヨーロッパ的デザインの建築物を作る技術はあったが、日本人向けに、あえて日本的なデザインにこだわった団地を造成したのである。

 

日本人には、アメリカ式の梨泰院の喧騒は受け入れられなかった。プロジェクトが成功するまで、おいそれとは日本に帰れないビジネスマンにとって、こういう場所の方が心安まるのであった。

東部二村洞では、日本の食品は大抵手に入る。主婦にとっては心強い味方だったのだそうだ。

東部二村洞は、京元線のオンボロ列車以外にも、地下鉄4号線が通っていたので、比較的便利な場所ではありました。
東部二村洞には「日本語可能」を掲げる不動産会社が軒を連ね、日本語に対応する医院や歯科、日本料理店などが集まっています。
地域のスーパーは日本の食材を扱い、完全に日本と同じ生活が可能なようになっています。

東部二村洞はまた、日本人学校(日本の学校教育法1条校の卒業証書を取得できる学校)に通学するスクールバスの唯一の発着地で、下校時間になると停留所近くの公園は日本語一色になります。
東部二村洞にいる限り、韓国語ができない日本人が生活に不自由することはありません。

 

京元線のオンボロ列車。ピドゥルギ号。日本の鉄道マニアには人気があり、わざわざ乗りに行った人も少なくなかったという。京元線は、首都圏電鉄化されても、長らく他線区で使い古された車輌が集結する味のある路線だった。その理由は、韓国人と、外国人、特に日本人との交流を避けることが目的であったという。その必要がなくなった現在は首都圏電鉄京義・中央線となり、最新の車両で運行されるようになった。

 

日本人隔離政策の終焉

日本人隔離政策を終わらせたのは、強烈な反日運動の推進で知られる金泳三大統領です。

金泳三大統領

「日本のバカったれを叩き直してやる!」
と常に攻撃的な反日姿勢を顕著にしていましたが、実務面では、日本人が韓国全土、好きな場所に居住することを許可しました。
これは、韓国建国の経緯から、韓国国民の同意を得ることが不可能に近いほど難しいことでありました。

言っていること(強烈な反日言動)と、やっていること(親日的政策)がまるっきり違うということで、現在でも韓国国民からの評価は非常に低いです。

梨泰院と漢南洞も同様な経緯で、居住の自由が認められた後、韓国人に解放されました。
韓国でも治外法権的に取締りの少ない地域としての漢南洞、梨泰院界隈という特徴は残りました。
警察の取締を恐れることなく商売のできる地域ということで、ソウルでも特殊な地域として発展していきました。

もちろん、東部二村洞も治外法権的に取締りの少ない地域として残っています。
その影響からか、二村駅前には変な路上の物売りがやけに目につきますが。

東部二村洞も韓国人に解放されたわけですが、日本人街はなくなったと思いきや、これがなくならなかったのであります。
やはり、韓国語ができない日本人が生活に不自由することのない街には一定の需要があり、東部二村洞の日本人街は残存しています。