大阪の被差別部落と釜山国際市場を結び付け、莫大な富を生み出した大阪航路
1960年以降、国際旅行は船から飛行機に変ったが
日本と海外を結ぶ国際旅客航路(船舶)の時代は、1960年10月1日シアトルから帰ってきた氷川丸ををもって、終了したといわれています。
これ以降、国際旅行といえば、飛行機の時代となってくるわけです。
しかし、こと日本と韓国の間の国際旅客航路(船舶)に関しては、1960年よりも、平成の時代のほうがむしろ盛んで、多くの旅客船が日本と韓国の間を行き来しております。
日本と韓国を結ぶ定期船航路は、平成時代も絶賛発展中
日本と韓国を結ぶ定期船航路としては、下関 − 釜山 を結ぶ関釜フェリーが有名です。
しかし、実際には、元博釜連絡船を引き継ぐカメリアライン・BEETLE・Kobeeの就航する博釜航路(博多− 釜山)が最も旅客の輸送実績が多く、はまゆう・星希が就航する関釜関釜航路(下関 − 釜山)、パンスタードリームが就航する大阪 − 釜山航路と続きます。
貨物航路としては、東京 − 釜山、名古屋 − 釜山、敦賀 − 釜山、金沢 − 釜山の定期航路が存在しています。
特に、船を使う場合、日本の合法物資の海外輸出検査は、はっきりいってザル
海外旅行は飛行機が当たり前の時代、なぜ、これほど船の航路が存在するのかというと、ひとえに、日本と韓国の間の船舶による貨物輸送の需要がとても多いためです。
飛行機で荷物を運ぼうとすると、荷物検査でいろいろなものがひっかかりますが、船だと、基本的に荷物検査はザルで、実に簡単に何でも韓国に荷物を運ぶことができるのであります。
韓国船を使う場合、韓国上陸時の輸入物資の検査は、はっきりいってザル
まして、船舶が韓国の企業が所有する船だったら、制度上、韓国上陸時の荷物検査なんてあってないようなものですから、日本で一旦船に積んでしまえば、ほとんどの場合、誰からも文句はいわれません。
日韓二国間貿易の闇で財を成した許永中氏
ここに目をつけて、日韓貿易で財を成したた人物がおりました。
大阪国際フェリーという会社を立ち上げ、大阪 − 釜山 航路を開設した許永中氏です。
大阪国際フェリーは、オリンピア88という北朝鮮の万景峰92号に毛が生えた程度の船で大阪-釜山間を行き来するというような航路でした。
もっとも、パンスターフェリーが登場するまで、日韓国際航路の船は、どの航路も、貨物最優先、旅客は二の次のオンボロ船が当たり前でした。
機関室や機械室横の配管むき出しの狭苦しい風呂場で、造水機から送られてくるお湯をためた真水風呂(海水風呂ではなく)で汗を流すというのが、唯一の贅沢でもありました。
どんなに地域社会から差別・排除された人でも、金次第で、人並以上の人間らしい生活ができ、人生の一発逆転が可能な場所、それが許氏のふるさと
許氏が生まれ育った大阪中津は、梅田貨物駅と阪急電車の線路に挟まれた区画で、被差別部落として、日本で最も有名な地域でした。
似たような被差別部落としては、東京に新宿という地域があります。
こういったところに、日本全国から被差別民が集まりました。
どんなに地域社会から差別・排除された人でも、ひとたびこの地域に入れば、金次第で、人並以上の人間らしい生活ができ、人生の一発逆転が可能な場所で、それが大阪の中津であり、東京の新宿なのです。
被差別民の多くに芸能関係者がおりましたから、こういうところが新たな文化発信の拠点として発展していきました。
金に執着する許氏のメンタリティーはふるさとで育まれた
大阪の中津も、東京の新宿同様、現在は大阪駅前の巨大オフィスビル街になっています。
ただ、大阪の中津が未だに被差別部落として全国的に有名なのは、ここに投下される大阪市の同和対策交付金を巡って、部落解放同盟と暴力団との武力抗争事件が絶えず、「流れ弾を喰らったらたまったもんじゃない」と大阪の人々から恐れられていたためでした。
それは、新宿の歌舞伎町と似たような構造があります。
許氏は、自らが在日韓国人であったという出自を利用し、大阪市の同和対策事業に食い込み、財を成します。
同和対策事業を食い物にする行為は、現在、『えせ同和行為』として、法律で厳しく取り締まられています。
大阪中津と釜山国際市場を結びつけ、財を成した許氏
その後、許氏は、韓国に渡り、非合法市場としてそれなりに繁盛していた釜山の国際市場に目をつけます。
日本から持ち出される物資の輸出検査は、韓国で違法でも、日本で合法ならば、非常に甘いため、日本でかき集めた非合法物資(日本では合法物資)を韓国に持ち込んで商売することを思いつきます。
まだ日本と韓国との間の国交がまともに回復していない時期に、全斗煥大統領に多額の政治献金を行って釜山-大阪航路開設を図ります。
もちろん、釜山税関の荷物検査は素通りさせるという申し合わせも込みで。
釜山の国際市場で非合法の貿易仲介者、俗にいう担ぎ屋『ポッタリ』を募集し、この人達をフェリーに乗せ、大阪に送り込み、この人達を使って非合法物資を韓国に持ち込ませます。
韓国には非合法物資が届き、日本には定価の数倍のお金が落ち、フェリー会社にはボッタクリ価格の運賃が落ちるという三方よしの構造が功を奏し、許氏は巨万の富を築きます。
非合法物資の運搬人(ポッタリ)の掟・・・釜山税関職員の生活を守れ
釜山港にオリンピア88が入港すると、税関職員は『ポッタリ』の荷物検査をしないのが慣例だったようです。
当時の釜山税関は給料の遅配、欠配が日常的で、税関職員も食うに困っていたような時代でしたから、通過するときに、小さく畳んだ一万円札を何枚か握らせるのが『ポッタリの掟』でした。
荷物検査場の出口、釜山銀行窓口の隣に荷役業者の汚い事務所があって、旧国際旅客ターミナルが閉鎖されるまで、闇両替やってました。
私もよくここで大荷物の宅配を依頼しましたが、税関職員がこっそり日本円を韓国ウォンに両替しにくることもありました。
荷役業者は、目の前の釜山銀行窓口に行って、日本円を両替してきて、税関職員に韓国ウォンを渡します。
荷役業者の看板には「両替所」の文字があり、観光客相手には、政府当局へのめくらましで、銀行レートと同額で両替しましたが、税関職員からは手数料をとっていたようです。
船会社、港湾組合、銀行、税関までみんな許氏に養われ、みんなグルだった
船会社、港湾組合、銀行、税関までみんなグルでした。
これを韓国語で『相互扶助』といいます。
『相互扶助の掟』を守る人は『仲間』といいます。
韓国ではよくでてくる概念なのでよく覚えておくように。
釜山の旧国際旅客ターミナルが閉鎖になり、移転した理由の一つに、釜山税関で最近まで細々と続いていた官憲賄賂の撲滅があったというのが専らの噂です。
オリンピア88に便乗して韓国に入る日本人観光客は、ほとんどが海雲台の赤線(2000年前後まではあった)に買春ツアーに行く男ども、あとは少数の物好きのバックパッカーでありました。
バックパッカーは、比較的高学歴の頭のいい人が多かったとポッタリは言っていましたが、そういう人を見抜くポッタリの眼力もたいしたものでした。
バックパッカーにはポッタリも優しく扱ってくれて、
「知らない人とか、癖の悪いああいうヤツとか、あそこらへんに座っているババアはポッタリだから荷物を預かったら絶対にダメだ」
とか
「降りるときは、一番前が観光客の定位置と釜山税関と申し合わせがあるから、下船口に人が並んでいても、無視して最前列に強引に横入りしろ。ババアとかに文句を言われても、みんなポッタリだから無視しろ」
とか、それとなく『赤線の掟』とともに『ポッタリの掟』を教えてくれたものでした。
金への過剰な執着が許氏の身の破滅を招く
許永中氏は後に、日韓貿易で稼いだ金を背景に、暴力団と組んで、総合商社イトマンを通じて、住友銀行から巨額の金を横領します。
この巨額なお金の行方は、現在も知っている人は少なからずいるのですが、表向き、行方不明ということになっています。
日本の経済界が、許永中氏のような非合法なことに手を染めていた人を嫌ったんですね。
基本的に、バレるはずもない情報が、何者かから日本経済新聞社に垂れ込まれ、許永中氏は逮捕されたということになります。
許氏の逮捕で、大阪国際フェリーは廃業。
パンスターフェリーが航路を復活するまで、10年以上大阪航路は閉鎖されます。
『ポッタリ』は、下関、博多航路に活動の拠点を移し、存続。
しかし、大統領の申し合わせのない『ポッタリ』は釜山税関の取り締まりの対象となり、通関時の賄賂の相場はどんどんつり上がっていきました。
大阪国際フェリーと許永中氏
写真は45歳のときのものというから恐れ入る。
45歳にして、身長180cm体重100kgの巨漢で、暴力団も思わず尻込みするほどの迫力の人だったという。
とはいえ、私が知る限りでは、非常に頭がよく、根は正直で、面倒見がよく、曲がったことが大嫌いという人だった。
商人としてのセンスは天才的であり、多くの人からは好かれる性格の人であった。
ただ、人を見る目がどうしようもないほどなくて、周囲に悪人が集まりやすかったし、利用されやすい人だった。
関係する在日朝鮮人が多い関係で(特に戦前の朝鮮北部出身者)、日本の極真カラテとの関係は深く、極真カラテの分裂騒動にも許永中氏が深く関与している。