大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

全斗煥大統領

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【任期】

1980ー1988(退任後、収賄罪で逮捕)

【学歴】

韓国陸軍士官学校(11期)

アメリカ合衆国ジョージア州フォート・ベニングの特殊戦教育機関(レインジャー・トレーニングコース修了)、陸軍大将

 

若き日の全斗煥。まだハゲが進行しておらず、毛がある。見ての通り、苦労人である。幼い頃、父に連れられ、満州に移住するも、父の事業の失敗で、日本敗戦の4年前、朝鮮に戻る。おかげで、ソ連軍に追われ、命を落とすことがなかった。生来の悪運は幼い頃から強かった。尹必鏞、李厚洛らとともに、陸軍内に朴正煕少将の同郷の陸士卒を集め、血判状を作成し、秘密組織、一心会(ハナフェ)を結成。5・16軍事クーデターを起こし、朴正煕少将を大統領に担ぎ上げた。尹必鏞が、酒席において李厚洛に「大統領はもうお年だから、後継者を選ぶべき」と発言したのが朴正煕に耳に入り失脚、李厚洛も、朴正煕の政敵、金大中を暗殺することで取り繕おうとしたが、日本の主権侵害事件に発展し失脚。全斗煥が一心会のリーダーとなった。
ざらっと書いただけでも、非常に悪運の強い人であることがわかる。
これで終わりかと思われたが、1979年10月26日に朴正熙大統領が暗殺される。
この時の国務総理の崔圭夏は、金鍾泌に次期大統領を依頼したが、やりたい仕事だけやって、筋悪の仕事をやり散らかして放ったらかす癖のあった朴正熙大統領の後片付けだけは断固拒否すると断られたので、崔圭夏が渋々大統領となった。
崔圭夏は国政事務のプロであったから、なんとか仕事の段取りをつけたが、朴正熙大統領のやり散らかした後片付けは困難を極め、そう簡単には韓国国内の混乱を収拾できなかった。さらに、軍のトップであった全斗煥少将が光州事件を起こし、国政の混乱に拍車をかけるにあたり、国政の混乱と遅滞は抜き差しならぬ状況となった。
国政の混乱を表面的にしか知らなかった全斗煥が、昔取った杵柄で、クーデターで政権を奪取すればなんとかなると考え、クーデターを実行した。
しかし、嫌々大統領をやっていた崔圭夏は、国政の混乱の張本人がクーデターを起こしたとあって、気持ちの糸が切れ、あっさりと大統領職を全斗煥に引き渡して、引退を表明したため、クーデターといっても、軍事衝突は起こらなかった。
むしろ政権を奪取して、やり散らかした朴正煕大統領の筋悪の仕事の数々を知って、青ざめたのが全斗煥であった。当初面倒事は、自らの政権基盤であった軍に丸投げしてしのごうとしたが、軍はむしろ事態をこじらせるだけだったので、行政のプロを雇入れることにした。
全斗煥は、引退を表明して国政の面倒事から逃げようとしていた崔圭夏を国政諮問会議議長(要するに、コンサルタント)に無理しておし止め、国政の混乱をしのいだ。


【血統】

旌善全氏

高句麗人で、高麗王族の出身。

血筋は良かったが、出自に慢心することなく、新世代の大統領の型である朴正煕の政治スタイルを継承し、政権の正当性をアピールした。

全斗煥大統領の成功により、韓国大統領の正当性は、経済的成功をもって計られるという概念が韓国国民に定着した。

 

朝鮮開闢以来4000年、初めて天皇と対等に会談した国家元首となった。注目すべきは、昭和天皇の着ているスーツであり、一般の日本国民がまず見ることのない完璧に仕立てられた最上級のスーツであり、シワ一つない。最上級ではあるが、一般的な仕立てのスーツである全斗煥大統領との差は歴然としている。これが、この写真の異様な雰囲気の原因である。これが昭和天皇がみせた全斗煥大統領に対する誠意だった。

 

全斗煥大統領は、朝鮮植民地統治の責任者であった昭和天皇が生きている間に、対等会談を果たした。世界史上、植民地の被統治経験者と、宗主国国家元首本人が直接和解するという事例は皆無に近い。現存する写真をみると、昭和天皇がいかにこの会談に対し、虚栄を張ることなく、誠実に、緊張し、全身全霊で臨んでいたかがわかる。現在、『日本はアジアの平和を望む平和国家である』と当たり前のように言い、世界もそれを認めているが、それが詭弁と非難されないのは、植民地統治当事者本人の昭和天皇がこのような形で全斗煥大統領と直接話をつけ、責任をとったからである。昭和天皇は、人生最大の懸案を果たすことができて本当によかったと言ってはばからなかった。


【功績】

1.ソウルオリンピックの誘致

2.高度経済成長(日本に次ぐ東アジアの経済大国となる)

イタリアより国民総生産の多い世界第10位の経済大国となる。
なお、韓国はIMF8条国となること(先進国入り)は拒否したため、世界初の「自称開発途上国」となった。
中国も韓国に続いて「自称開発途上国」となったため、それまであった先進国、発展途上国の区分は形骸化してしまった。

ローマ帝国のメンツから、無理してIMF8条国を批准して、先進国を名乗っていたイタリアは、韓国のこのやり方に激怒し、現在も、韓国の国連安全保障理事国入りや、G7メンバー入り(韓国を含めたG8化)など、韓国の国際社会での活躍をことごとく反対、妨害している。
これは、北朝鮮のミサイル発射よりも深刻な問題で、バチカン市国ローマ教皇が頻繁に韓国を訪問するのも、韓国に多数存在するカトリック教徒がバチカンに対して反感を持ち、プロテスタント化する(プロテスト=抗議する)ことを憂慮してのことである。

韓国の左派政治運動家が主張するような、韓国の国際社会での活躍を日本が妨害したという事実はない。

意外なことであるが、韓国の国際社会で活躍を、日本は一貫して支援してきた、というのも、そうしないと、アメリカから、きついお灸を据えられる恐れがあったためである。

3.娯楽産業の解禁

大衆には娯楽が必要だとの方針で、外国映画輸入(特に日本)やポルノ映画制作の解禁、観光業やサービス業、特にいかがわしいサービス業、賭博やポルノ産業の許容を重点的に行った。

そのため、街の日本化が一気に進むこととなり、各方面で物議を醸した。

賭博やポルノ産業の解禁については、街がパチンコ屋と風俗店で溢れかえる結果となり、日本からは、品のないオヤジが「キーセン観光」と称して売春目的に大挙して押し寄せるなど、各方面に著しい支障をきたした。
当然、やりすぎとの批判が起こり、現在、ほとんどが再び禁止となっている。

そういったことがあったせいか、大規模な虐殺事件を引き起こした割には、虐殺の対象となった全羅道以外の韓国国民の評判はそれほど悪くはなかった。
引退後逮捕された時も、殺人罪ではなく、収賄罪で逮捕されている。

【政治スタイル】

1.性格は比較的大雑把で大胆不敵。ただ単に雑という噂も

2.悪運が強いことでも有名

ミャンマーのラングーン爆弾テロ事件の時、いつもの雑な時間管理がもとで、遅刻をやらかしたため、北朝鮮工作員が設置したクレモア地雷を使って製作した爆弾が大統領到着の前に爆発して命拾いした。
閣僚を含む韓国関係者14名死亡、ミャンマー側の死傷者は54名以上にも達した。
ミャンマー政府は北朝鮮と即座に断交、国家承認の取り消しを行い、北朝鮮工作員3名のうち、1名を現場で射殺、2名を逮捕、死刑とした(1名は捜査に協力的だったため終身刑減刑)。

3.反共、反北、用日

4.軍事独裁開発独裁

軍事面、思想統制面では北朝鮮金日成にも劣らない独裁政治を展開するものの、経済、理工学分野では自由の保証を展開する(朴正煕政権のスタイルの継承)。

【目指す国家像】

1.針鼠のように武装した強小国

2.日本を利用して経済発展を成し遂げ、二度と日本に蹂躙されない強大な軍事力を有する経済大国を達成する

軍事独裁政権であったが、大日本帝国陸軍士官学校卒の朴正煕は、大統領になっても帝国軍人らしく、札束より銃を強力に指向したが、全斗煥銃より札束を指向し、政権の政策は対照的であった。
李承晩時代、あれほど手のつけられなかった政治運動や、朴正煕時代、手のつけられなかった韓国の学生運動民主化運動も、大量の金をバラ撒き、国民の所得が向上すると、嘘のように沈静化していった。
日本、アメリカとの融和、協調策が強力に推進し、多額の経済援助を引き出すことに成功している。

 

孫と。韓国現代史では、 全斗煥時代を、暗黒時代と定義しているし、現在も全斗煥を悪魔と言う人は多い。韓国大統領経験者で唯一国葬を拒否され、国立墓地への埋葬も唯一拒否されている。しかし、人生を通じて、人間性を失わなかったということだけは事実である。
全斗煥は、全斗煥大統領時代を『悪運が強いだけの馬鹿には韓国大統領は務まらぬ』と評した。これは、後に大統領となった朴槿恵に直言してブチ切れられた言葉でもあり、韓国軍一の切れ者と評される盧 泰愚にあっさり政権を譲った理由でもあった。
たいした汚点もないのに62歳で自殺した盧武鉉元大統領と比較すれば、大量殺人、汚職、政府転覆、死刑判決、終身刑、その他いろいろ、汚点だらけの人生であったにも関わらず、90歳の天寿を全うした謙虚な生き様は、あっぱれとしか言いようがない。


【政治的汚点】

1.大量虐殺

特に光州事件での大量虐殺により、全羅道民に回復不能なまでの反政府感情をもたらした。崔圭夏大統領が政権を握っていた時期で、全斗煥は韓国軍のトップであったが、朴正煕の札束より銃を強力に引きずっていた時期の性急過ぎる失態である。後々、この失敗が全斗煥を苦しめることになる。この失敗以降、全斗煥は強力に銃より札束を指向するようになり、筋悪な仕事には札束で決着をつけるという田中角栄のような政治スタイルをとるようになる。

2.収賄疑惑(約900億円)

銃より札束を指向した政治を行い、収賄ズブズブになる危険があったにもかかわらず、お金の管理は雑で、失脚する原因になった。比較的、金の管理にはうるさかった田中角栄とは対照的である。

3.民主化学生運動に関連した学生を強制的に軍隊に懲罰入隊させた「緑化事業」問題

朴正煕の札束より銃を強力に引きずっていた時期の性急過ぎる失態である。国政の面倒事だった民主化運動の始末を自分の権力基盤である軍隊に押し付けたところ、軍は民主化運動学生を逮捕した後、訓練と称して暴行し、日頃の鬱憤晴らしを行った。軍が、政治問題の解決には、いかにあてにならない組織か思い知らされることになった。

4.失業者やホームレス等社会的弱者を約4万人を一斉逮捕し、軍隊に懲罰入隊させた「三清教育隊」問題

朴正煕の札束より銃を強力に引きずっていた時期の性急過ぎる失態である。国政の面倒事だった失業者やホームレス等社会的弱者を自分の権力基盤である軍隊に押し付けたところ、軍は民主化運動学生を逮捕した後、訓練と称して暴行し、日頃の鬱憤晴らしを行った。軍が、政治問題の解決には、いかにあてにならない組織か思い知らされることになった。

(いずれも入営者は教育訓練という名目で上官から連日苛酷な集団暴行を受け、死亡したり、身体障害者精神障害者となったりして除隊となる例が目立ち、あまりの酷さに人々から「一旦入ったら生きて出られぬ」と恐れられた)

 





光州事件を伝えるニュース(TBS)