大韓民国観察記Neo

韓国の、どうでもいい、重箱の隅をつつくブログ。

釜山随一の観光地 光復路

釜山随一の観光地といえば光復路

ただし、釜山最大の繁華街というわけではない

観光地が分散しているソウルと違い、釜山の観光地は、おおむね1箇所に集中しています。

ロッテデパートを起点に国際市場やBIFF広場、龍頭山(ヨンドサン)公園など釜山の観光名所が集中する南浦洞。
その中心を貫くのが光復路です。

ここは、その狭隘な立地条件から、釜山最大の繁華街というわけではないのですが、多くの観光客を集める観光地となっています。

 

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光復路 反日的名前とは裏腹に、ダイソーも、ラーメン屋も、トンカツ屋もある繁華街である。近くには東横イン(日本語可)もある。

 

福岡の天神商店街と瓜二つの町並み

光復路は、街並みが韓国らしくないという点において特徴的な街です。
福岡の天神商店街と瓜二つの街並み。

それもそのはず。
もともとは、日本人が大陸侵攻の拠点として、朝鮮半島の南端の集落『東莱』南方3kmの原野に建設した『釜山』という町の目抜き通りでした。

 

『釜山』の名付け親は日本人。もともとの地名は『東莱(とんね)』

現在は『釜山広域市』を名乗っておりますが、そもそも、『釜山』とは日本人が付けた名前で、戦前までは、日本人の街『釜山』と朝鮮人の街『東莱』に別れておりました。
1945年(昭和20年)、日本人引き揚げ後、『釜山』にも韓国人が居住するようになったのですが、この頃の『釜山』の人口は少なく、『東莱』と別れていました。

 

朝鮮戦争がきっかけで『釜山』の街と『東莱』の街が合体

この2つの街が本格的に合体したのは朝鮮戦争のとき。
朝鮮半島全域からの避難民で溢れかえり、避難民の建てたバラックによって、2つの街が完全に合体してひとつの街になりました。

現在も釜山駅裏手の急斜面の上のほうまで家がありますが、これは、朝鮮半島全域からの避難民で溢れかえったあげく、落ち着く場所のなかった避難民が、山の上まで家を建てていった結果です。

 

合体した街の名前に、日本人のつけた『釜山』の方を選んだのは、今もって謎

なんで、日本人のつけた『釜山』という地名を採用し、朝鮮古来の地名『東莱』を採用して東莱広域市にしなかったのかは謎です。
現在の韓国の反日感情を持ち出さないまでも、ソウルの人間の感覚なら、迷わず『東莱広域市』にしたはずです。

ただし、昔から有名だった『釜山』という地名に対し、『東莱』という地名は、どこにある地名か、韓国人の間でもあまり知名度が高くありません。
朝鮮戦争の避難民で溢れかえった時期、『東莱』という地名など知らない他所者が闊歩していた状況では、皆が知っている『釜山』という地名のほうが馴染みがあったということではないでしょうか。

 

釜山名物だった釜山市電は、光復路の歩行者の激増により、運行が危険になったので廃止

『釜山』の中心にある竜頭山公園には、かつて神社があり、そのまわりを巡るように釜山市電が走っておりました。
現在、神社は取り壊され、釜山タワーが建っています。

 

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光復路のモニュメントと竜頭山タワー(のてっぺん)

現在、釜山市電がなくなった理由は非常に簡単で、道が狭かったから。
自動車がすれ違えないぐらい狭い道を市電が走っていたんです。

釜山の人口が少かったときはそれでもよかったのですが、朝鮮戦争後、朝鮮半島全域からの避難民が釜山に住み着いてしまい、人口が爆発的に増加すると、当然、買い物客は、繁華街、光復路に押し寄せると。

東莱にも在来市場はあったのですが、規模、賑わい共に、鉄道駅(旧釜山駅)に近い釜山の方が大きかったようです。

現在も、光復路は、終日ラッシュアワー並みの人混みで非常に混雑しています。
そんなところを市電が通れるわけがない。

戦前の弁天町から富平町までの電車通りが、現在の光復路となっています。
途中、西町には東本願寺西本願寺があったのですが、現在は国際市場に飲み込まれて痕跡は一切残っていません。
現在、カバン屋街と金物屋街のあるあたりです。

 

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国際市場は、この先。「日本家定食」なる店の看板が写っているが、光復路に日本式食堂があっても全然問題がない、これが釜山の懐の深さなのである。